004:音速を超えて
光陰矢の如しとはなるほどよく言ったものだ。
時間の流れはあっという間で、いっという間に陸上部として中学最後の大会当日がやってきた。
「いよいよだな、カケル」
「う、うん」
まだ時間が早いからか、会場にいる人はまばらだ。
僕とメテオちゃんが座るベンチの周りには誰もいない──彼女は僕以外には見えないので、はたからしたら僕一人に見えているのだろう。
「どうした、カケル。緊張してるのか?」
「泣いても笑っても今日が最後の大会なんだ、当たり前だろ。陸上に打ち込んだ僕の三年間が無駄だったのかどうか、それが決まるんだから」
「うーん、ちょっと大げさな気もするけれど、まあそうだな。緊張するなっていう方が無理な話か」
ゴクリ。
だだっ広いグラウンドを前に、思わず息を飲む。
「でも少しは自信を持てよ、カケル。お前はあたしとこの一週間、血の滲むような特訓をしたじゃねーか」
確かに。
この一週間は僕のこれまでの人生において、最も激動波乱の七日間だったと言っても過言ではない。
月曜日は富士山を登り、火曜日は九州を一周した。
水曜日はエベレストを登り、木曜日はアマゾン川を泳いだ。
金曜日は地球を一周し、土曜日は月まで走った。
嘘じゃない、本当さ──もちろんメテオちゃんの尋常ならざるモノノ怪の力あっての賜物だけれど。
「だからよ、あとはお前自身の持ってる力を100パーセントぶつけるだけだぜ。緊張感を持つのは大事なことだが、ガチガチすぎてもいけねー。程よいリラックスこそ成功の秘訣だ!」
「ははっ。僕が生まれる何十年、何百年も前から生きているメテオちゃんが言うとすごい説得力だよ」
リラックス、リラックスねぇ……。
その言葉を口の中で反芻しながら僕はおもむろに体を伸ばして深呼吸してみるけれど、やはり全身の強張りはとれない。
だって今日の大会はこの三年間の意味以外に、僕の命もかかっているのだから。
願いが叶わなければ死ぬ。
それが僕と隕石少女であるメテオちゃんとの間に交わされた契約の内容だ。
指切りげんまんに「嘘ついたら針千本のます」という残酷なフレーズがあるけれど、誰もそれを恐れたりはしない。
なぜなら約束を破ったからといって、本当にその相手に針を千本飲ませようとするサイコパスはいないからだ──つまりどれだけ恐ろしい脅し文句でも、それにリアリティがなければ意味をなさない。
ところがどっこい、メテオちゃんの殺すは重みが違う。
ちょっとの殴っただけで硬い地面に穴を開けられる彼女ならば、僕のようなただの中学生を殺すなんてわけないのだ。
それこそ朝飯前かもしれない。
「いや、朝ごはんとして今カツサンドを食べてるあたしにそれはおかしーぜ。訂正するなら昼飯前、だな」
「ちょっと! それは母さんが作ってくれた僕のお弁当じゃないか!」
「ひとつくらい良いじゃねーか、ケチケチすんなよ。腹が減っては戦もできぬと言うだろ? ほら、カケルも食えよ」
「む、むがっ!?」
メテオちゃんに無理やりカツサンドを口に押し込まれた。
カツサンド、カツ、勝つ。
このお弁当も、最後の大会に臨む僕へ向けた母さんなりの粋な計らいだろう。
「……もぐ、もぐもぐ」
現実主義でリアルスティックな僕にとってそれは何の気休めにもならなかったけれど──ゴクン。
「うまい」
この前食べたカツ丼より何倍も美味しく感じたのは何でだろうか、気のせいだろうか──よくわからないけれど、もっとちゃんとした理由があるような気がする。
カツサンドを何度も咀嚼するうちに、徐々に気持ちが楽になっていくのに気づいた。
今さら出来ることは何もない。
あとはメテオちゃんの言う通り、これまでに得た僕の力を余すことなく発揮するだけだ。
そんなこんなで母さんの愛情こもったカツサンドをゆっくり味わっていると、いつの間にか会場内の人が増えてきた。
見渡せば同じ部の仲間や、コーチもいる。
「カケル、そろそろ時間なんじゃねーか?」
「そうだね。みんな集まりだしたようだし、僕も行かないと」
ベンチから立ち上がったところで、メテオちゃんに背中を押された。
「あたしがしてやれることはここまでだ。あとはカケル、お前自身の力で頑張れよ」
「……ありがとう、メテオちゃん。僕、頑張ってくるよ」
おう!
ニカッと眩しい笑顔でそう言ってくれたメテオちゃんを後に、僕はみんなの元へと駆け出した。
それまで僕を
結果論になってしまうけれど、あの日、流れ星にお願いしてメテオちゃんに出会えたことに心から感謝した──いったい僕は誰に感謝したのだろうか。
メテオちゃんと巡り合わせてくれた神様だろうか。
いや、やっぱり神様なんて科学的根拠に欠ける存在は認めない。
そう、僕は現実主義でリアルスティック。
僕が彼女に出会えたのは、誰が何と言ったって僕によるものだ!
開会式を終え、コーチからの短い話をされてから程なくして僕の走る順番が回ってきた。
大げさに拍動する心臓を抑えながらスタート地点に立つ。
隣にいるライバルたちがとても速そうに見えた──いや、実際に速いのだろう。
しかしそれも人間というカテゴリの中での話だ。
時速35万キロの速度で走れるメテオちゃんとの猛練習をこなしてきた僕にとって、彼らの足の速さは驚くに値しない。
「大丈夫、あとは全てを出し切るだけ……」
笛が鳴った。
クラウチングポーズをとる。
世界に僕一人しかいないような静寂が訪れ、やがて──パン。
スターターピストルが乾いた音を鳴らし、最高のスタートを切れた僕は全力疾走無我夢中にコースを駆け抜けた。
周りの奴らに抜かれたくない、置いてかれたくない。
そう思って無我夢中に腕を振り、やがてすでに切られたゴールテープの上を通過した。
これだけ気構えて臨んだ中学最後の大会は、こうしてあっけなく終わった。
短距離走の選手としてしか登録しておらず、バスケや剣道といったトーナメント戦の存在しない陸上部の僕は、一度そのレーンを走ってしまえば終わりだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
結果は6人中5位だった。
このような公式大会でドベでなかったのは初めてのこと──まぁ幸いにも隣のレーンを走っていた奴がこけたおかげで、何とか最悪の結果を回避できただけなのだけれど。
ともかく、これで晴れて僕は100メートルのトラックを──そして陸上生活を完走できたことになる。
どこからか湧き出る達成感や充足感、そして心地よい疲労感とともにベンチへ戻った僕を迎えてくれたのは、やはりメテオちゃんだった。
「とりあえずお疲れ様だな。見事な走りだったぜ」
「うん、ありがとう」
彼女から渡されたタオルを受け取り、頬から流れる汗を拭う。
もしこれが熱血スポ根物語だったならここで大団円と終わるのだが、あいにくそうは問屋が卸さない。
残念ながら僕とメテオちゃんを紡ぐこの物語には、まだもう少しだけ語らなくてはならないパートがあるからだ。
「さて。頑張ったカケルを労って少し休憩の時間を設けてやりたいのは山々だが、悪いけどそういうわけにもいかねーんだ」
「いいよ、僕に遠慮なんてせずに進めておくれ」
「じゃあお言葉に甘えて」
そう言ったメテオちゃんの顔つきは、今までになく真剣なものだった。
「百も承知だろうが、短距離走ってのは個人競技だ。すなわち選手の価値の測り方は相対評価でなく、絶対評価にある」
当たり前だ。
個人競技の敵は他でもない自分なのだから、いかに自身の記録を上回るかに重きを置かれる。
「つまりこの場合、カケルの順位なんて関係ねえ。結局、一番重要なのはお前のタイムだからな」
「わかってるよ、それくらい」
「さっきのレースにおけるカケルのタイムは14秒後半。中学生男子陸上部の平均より2秒以上も遅れをとる結果だ」
ひたいを手で押さえながら、やれやれと言わんばかりに立ち上がるメテオちゃん。
もう片方の手には力強い握りこぶしが作られている。
燃え尽き症候群で思考が少々鈍っていた僕だったが、岩をも砕く「めてお⭐︎ぱんち!」の発射準備がされているのに気づき、ようやく恐怖心というものが体の底から湧いてきた。
メテオちゃんに願った願いを叶えられなかった代償として、僕はこの数秒後、彼女に殺される。
「カケル、それはつまりだな──」
約束は約束だ。
やるべきことをやった僕にとって、結果がどうあれ悔いはない。
現実主義でリアルスティックな僕は、このどうしようもなく冷酷な現実を受け入れるしかなかった──が、
「お前の願いが見事叶ったってことだぜ!」
「……へ?」
その力強く握られた拳を天高く掲げ、ガッツポーズをするメテオちゃんを見て呆然としてしまう。
「だってお前はあたしに足が速くなりたいって願ったろ? そして一週間前と比べてお前は実際に早くなったじゃねーか!」
確かにメテオちゃんの猛特訓のおかげでタイムは縮まった。
けれどもそれはコンマ数秒の話で、やっぱり誤差の範疇だ。
「うるせーな、縮まったタイムの大きさは関係ねーんだよ。大事なのは縮まったか否かだ!」
「き、詭弁だ……」
「つーか、陸上部のくせに短距離走のタイムを少しでも縮める大変さを知らねーのかよ? この短期間の努力で結果を残すことの難しさと偉大さは、今まで人間を星の数ほど空から見てきたあたしが一番よく知ってるんだぜ。いや、ほんとに凄いぜカケル!」
まるで自分の事のように喜んでくれるメテオちゃんを見て、なんだか照れてしまう。
彼女の言い分はもっともだ。
それがどれだけ小さな差であれ成長には変わりないし、僕の足が速くなったという何よりもの証明になる。
「じゃあ、僕はメテオちゃんに殺されずに済むってこと?」
「あったりまえだろ! なんで願い事が成就したお前を殺さなきゃなんねーんだよ!」
よかった、これからも生きられる。
メテオちゃんのその言葉を聞いて、僕は心の底から安堵した。
「よし! カケルとの約束も果たしたことだし、あたしは消えるとするか」
「え、もうどっか行っちゃうの!?」
「まだまだあたしを必要としてる奴らが沢山いるからな。いつまでもここに止まってるわけにもいかねーだろ?」
そう言い終えたメテオちゃんの体は眩い光に覆われた。
思わず僕は反射的に目をつむり、これまでの経験から次の瞬間のことを予想した。
きっと次に僕が目を開けた頃には彼女の姿はどこにもなく、またこの世界のどこかへと時速35万キロで飛んで行ってしまうのだろう。
「ありがとう、メテオちゃん!」
とっさにその言葉が口を飛び出した時には、もうすでに彼女の姿はなかった。
しかし彼女の移動速度は音速よりも遥かに早かったらしく、
「これからも頑張れよ、カケル。私はいつでも空から見ているからな」
そんな温かいメテオちゃんの声が、僕のもとに残されたのだった。
彼女は流れ星となってやって来た だるぉ @daruO
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