002:足が速くなりたい


 足が速くなりたい。


 それは僕、だから飛石とびいしかけるが抱く唯一の願いだった。


 どうして足が速くなりたいのかと言えば、その理由は至って単純なことであり、つまり、陸上部である僕にとって中学生活最後の大会が一週間後に控えているからに他ならない。


 恥ずかしいからあまり声を大にしては言えないけれど、はっきり言って僕は鈍足だ。


 50メートル走の記録は陸上部唯一の10秒台──ちなみに周りの平均は7秒を切っている。


 大会の成績はいつもドンケツ。


 ひょっとするとクラスの帰宅部より遅いかもしれない──いや、ひょっとしなくても間違いなく遅い。


 そしてこの事実は、短距離走の選手である僕にとっては言うまでもなく致命的だった。


 むしろそれが全てと言ってもいい。


 じゃあなんで陸上部なんかに入ったんだよ──そう言われかもしれない。


 しかし断っておくけれど、決して僕自ら志願して陸上部に入部したわけではなく、ただ入学したての頃に仲が良かった友達に誘われて、それでなんとなく入部しただけだ。


 日頃の運動不足にはちょうどいいかもしれないな、なんて思いながら。


 だが当然、僕のその考えはグラブジャムンよりも甘かった。


 陸上部の練習はそれくらいにハードだったのだ。


 僕を誘った友達は中一の冬に辞めた。


 なんの相談もなしにいきなり辞めた。


 まさに裏切られたという感じだ。


 しかし、そいつに続いて辞めてやろうとは一ミリも思わなかったのが、この中学生活において僕が犯した最大の失敗であり──そして、最も誇れることでもある。


 なぜならその頃、すでに僕は陸上という競技に魅せられていたからだ。


 全力で走る楽しみ。


 力いっぱいに地を蹴る快感。


 限界まで走りきった後にやってくる達成感──それら全ての虜になっていた。


 だから辞めなかった。


 もちろん途中で幾度となく辞めようかと悩んだりはしたけれど、それでも結局、今日に至るまでの3年間、僕は陸上部であり続けた。


 まさに完走と言ってもいい。


 しかし現実というのは甘くなく、それでいて残酷なものだ。


 誰よりも真面目な陸上部員として僕は練習に励んでいたはずなのだけれど、記録の数字がそれに応じて縮むということはなかった。


 そりゃ多少は変化はあったものの、他の連中からしたら誤差の範疇にすぎない。


 そう、誤差。


 僕の3年間は、その二文字の言葉で終わろうとしている。


 まあスポーツというのは、結局のところ才能によるものが大きいらしいし、陸上なんてのはその最たる例ではないのだろうか。


 しかもどうやら才能がないだけでなく、ごく普通の父と母の間に生まれ、遺伝子的にも全く期待できない僕なんかが陸上の舞台で活躍したいという望みを抱くのは、あまりにも身の程知らずで、そもそもの間違いだったのだろう──そう思う。


「だから諦めるのか?」


 メテオちゃんは言う。


 これまでの経緯を語った僕に向かって。


「才能がないから──だから諦めるのかよ。今度の大会もドベでいいやって」


「……いや」


 僕たちは今、空き地にいる。


 文字どおり何もない、まっさらな空き地。


 ちなみにここがどこの空き地かは知らない。


 先ほどの山から案外離れていない距離のところかもしれないし、もしかすると他県かもしれない。


 それくらい皆目見当もつかない。


 なぜならここまではメテオちゃんに運ばれて、ほんの一瞬で来たからだ。


 まさに一瞬だった。


 彼女に抱かれたと思えば、次の瞬間には夜空を飛んでいて、瞬きをし終える頃にはこの空き地にいた。


 右も左も、それどころか上も下もわからぬ間に。


 嘘だと思われるかもしれないが、本当なのだからどうしようもない。


「ドベでいいなんて思ってないよ」


 正直に僕は答える。


 本当だ、僕は諦めが悪い。


 せめてもの悪あがきとして、最近では足腰を少しでも鍛えるために自転車通学から徒歩通学に変えたくらいなのだ。


 無駄なことだとは百も承知だけれど。


「なら質問を変えるぜ、カケル。お前、結果よりも過程の方が大事だとか綺麗事言って、たとえドベになっても仕方がないと納得しようとしてないか?」


「────!」


「ドベになることに嫌悪感はあっても、抵抗感はあまりないんじゃねーか?」


「そんなこと……、ないよ」


 嘘だ。


 大嘘だ。


 嘘つきは泥棒の始まりと言うけれど、もしそれが本当なら僕は、ルパン三世にも引けを取らない大泥棒に違いなかった。


 辛い練習をよく耐えた。


 よく挫けずに頑張った。


 よく3年間も陸上部であり続けた──それだけで十分じゃないか。


 そう思う僕がいる。


 自分を騙そうとする僕がいる。


 それは紛うことなき事実であり、メテオちゃんの言ったことは痛いくらいに的を射ていた。


 だからこそ彼女の言葉が胸に突き刺さる。


「嘘は良くないぜ、カケル。自分を偽ると、いつか本当の自分を見失っちまう。あたしはそういう奴を星の数ほど見て来たんだ」


 隕石少女なだけにな。


 そう言ってメテオちゃんは続ける。


「お前は足が速くなりたいんだろ? そして一位とは言わなくとも、人に誇れるくらいの結果を残したいんじゃねーのかよ?」


「え、なんで……」


 なんで知ってるんだよ!?


 部員や顧問はもちろんのこと、恥ずかしくて家族にだって言ってないのに!


「ははっ! なんで知ってんだって顔だな。知りたいか? あたしがカケルの本音を知ってる理由を」


 僕は首を縦に振る。


 知りたい、超知りたい。


 そしていい加減、メテオちゃんの正体を僕の知ってる言葉で説明して欲しい。


 隕石少女とかメテオガールとか言っていたけれど、僕はそんな単語を知らない。


「いいぜ、教えてやる」


「本当に?」


「ああ、嘘は言わねえよ。なんだって教えるさ。ただし──」


 メテオちゃんは不敵に笑う。


「あたしとのゲームに勝ったらな」


「ゲーム?」


「そうは言っても鬼ごっこだけどな。カケルが鬼で、あたしが逃げる役。それであたしをタッチできたらお前の勝ちだ。どうだ、簡単だろ?」


「そんな……鬼ごっこなんて」


 やるわけないじゃないか、馬鹿馬鹿しい。


 僕がそう言いかけたところでメテオちゃんは「めてお⭐︎ぱんち!」と可愛く言いながら、おもむろに拳で地面を殴りつけクレーターを作ってみせた。


 クレーターと言っても深さ10センチほどの小さなものだが、それだけで「めてお⭐︎ぱんち!」とやらの威力がどれだけ凄まじいかは想像に難くない。


 うわぁ……。


 ウボォーギンかよ……。


 そうして言葉を失う僕に、メテオちゃんは無邪気な満面の笑みで訊いてきた。


「やるよな? あたしと鬼ごっこ」


「もちろんです」


 どうやら拒否権はないらしく、果たして鬼ごっこが始まった。


 取り決め通り僕が鬼で、メテオちゃんが逃げる役。


 始まるや否や、僕はメテオちゃんに素早く手を伸ばす(我ながらせこい)──が、彼女はそれをひらりと躱し、鮮やかなステップを刻みながら軽やかに駆け出した。


 僕も負けじと追いかけるけれど、一向にその距離は縮まる様子を見せない。


 それには僕の鈍足やフィールドである空き地の広さも原因だったが、何より一番の理由はメテオちゃんの単純な足の速さにあった。


「残像が見えるってどんだけだよ……」


 彼女は俊足だったのだ。


 じみている程に。


 しかし僕には考え、もとい作戦があった。


 なぜなら僕は一応短距離走選手だけれど、体力だけならちょっとした長距離選手くらいにはある──じゃあなんでそっちに転向しなかったんだよと言われるだろうが、まぁ、それはただ顧問に言い出すタイミングを失っただけだ。


 なので、ずっと追いかけていればいつかメテオちゃんがスタミナ切れを起こし、ジリ貧の末に勝てる可能性があった。


 だから勝算はあった。


 いや、あったと勘違いしていた。


「お、おぇぇ……」


 鬼ごっこが始まってしばらく。


 咽びながら地面に倒れ込んだのは僕の方だった。


 部活ではいつも同じ方向に走っていたから気づかなかったけれど、鬼ごっこのように全力ターンを何回も繰り返すのは思った以上に体力消費が激しかったのだ。


 本当にどこまでも自分が情けない。


「大丈夫か? 心配だから見にきてやったぜ」


 メテオちゃんが駆け寄ってきてくれた。


 これじゃあ鬼が介護されてる──どんな鬼ごっこだ。


「くっ!」


 僕はその隙を逃すまいと近づいたメテオちゃんに手を伸ばす(もはや外道)──しかし彼女は素早くて、やはりあえなく躱されてしまう。


「おせーおせー! そんなんじゃ日が暮れちまうぜ!」


「いや、とっくに日は暮れてるんだけど……って、あ!」


 言って僕はハッとする。


 慌てて腕時計を確認すると、時刻は20時20分を回ろうとしていた。


「やばっ!」


 飛石家の夕飯までは残り10分弱。


 どこにあるのかも定かでないこの空き地から家まで帰るのに、たったそれだけの時間では間に合わないことは計算するまでもなく明白だ。


「終わった……」


「どうしたんだ?」


「殺されるんだよ、僕」


「誰にだよ!?」


「母さんに決まってるだろ! 夕飯の時間が門限だから、それを守らないとあんなことやそんなことがされるんだ」


「い、一体何をされるんだ……?」


 ゴクリと息を飲みつつ訊いてきたメテオちゃんに、僕はビクビクと恐怖に震えながら耳打ちする。


 母さんから今まで受けた数々の所業を、包み隠さず有り体のまま伝えた。


「実の息子に釘バットでそんなことすんのかよ……」


「母さんは鬼だからね」


「ははっ! まあ今はカケルも鬼だけどな!」


「笑えないよ……」


 僕は再び地面にヘタリ込む。


 終わりだ。


 一週間後の大会を心配する以前に、僕の明日がもう危うい。


 そんな落ち込む僕を見かねたのか、メテオちゃんがある提案を持ちかけてきた。


「じゃあ一旦鬼ごっこは休戦ってことにして、あたしがカケルを家まで送ってやろうか? 今なら余裕で間に合うぜ」


「どうやって?」


「こうやってに決まってんだろ!」


 言いながらメテオちゃんは、さっき同様に僕を抱き上げる──瞬間、理解した。


 残り僅かな時間で、夕飯までに帰ってみせる手段とやらを。


 そしてそれにはとんでもない恐怖を伴うので、すぐさま断ろうとしたのだけれど、


「っしゃー、時速35万キロでトばすぜー!」


 時すでに遅し。


 やはり口を開こうとした頃には僕は夜空を飛んでいて、瞬きし終える頃には飛石家の前にいた。


 まさに一瞬。


 あまりの早さに走馬灯も途中までしか見れなかった──そもそも走馬灯に途中もクソもない気もするが。


「な? 間に合ったろ?」


「…………」


 移動時間は1秒もなかった。


 そりゃ間に合うに決まってる、むしろお釣りがくるくらいだ。


 僕は時計を確認しながらいろんな意味で激動する胸をホッと撫で下ろしていると、


「あら翔、おかえり。もうすぐ夕飯が出来るわよ。っていうか──」


 偶然、玄関先に出ていた母さんに見つかった。


 まずい、なんとかして隣にいるメテオちゃんのことを誤魔化そうないと。


 さもなければ紅い髪の不良少女と遊んでいたと思われる。


 せっかく門限に間に合ったのに別の理由で怒られては元も子もない。


 僕は慌ててこの場を取り繕おうとしたけれど、果たしてそれは空振りに終わった。


 なぜなら母さんが、


「こんな時間まで何してたのよ? 


 と言ったからだ。

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