二人の帰路で

moga

二人の帰路で

 静かな夜だ。聞こえるのは、わたしとあなたの規則正しい足音と息遣いだけ。ふたりぼっちの帰り道で、わたしはあなたの少し先をゆっくりと歩いていく。会話はないけど、それでもいい。あなたがいれば、それで十分。


 この時間は、わたしにとって最も幸せな時間だ。彼と家路につくために、生きているといってもいいぐらい。本当は学校なんて行きたくない。行っても辛いだけだもの。


 街灯と家々からもれ出す明かり。ある種の均衡が保たれた仄暗い夜の空気に、鋭い刺激がさしこんだ。わたしは思わず、目を細める。不躾に輝く無機質な電灯――幸福の終わりを告げる自動販売機。口に入れた砂糖菓子がすぐに溶けていくように、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。それはとっても悲しいことだ。


 バイバイ、また明日ね。カバンから家の鍵を取り出して、扉を開く。暗い。まだ誰も帰っていないみたいだ、なんて、いつものことだけど。家の中は外なんかよりよっぽど寒く感じられる。こんな所逃げ出して、彼と暮らせたらいいのに。おかえりって彼を迎えて、ただいまって笑いあって。そんな日々を夢想するのはもう何度目か。


「ただいま」


 わたしの声は、結局虚空に沈むばかりだ。


  * * *


 今朝は随分と冷える。わたしはくたびれたマフラーに顔を埋めて、学校へ向かって歩いていた。彼はいない。今のところわたしが彼と会えるのは夕方、下校中だけだ。


 俯き気味で正門を過ぎ、上靴に履き替えて階段を上る。教室に入ると、こちらにいくつか視線が飛んだ。かといって、話しかけられることもない。物理、英語、古典、数学エトセトラ。時間が過ぎて、ノートを汚して、わたしはまたひとつ、賢くなった。


 お昼休みは、菓子パン片手に校舎をさまよう。屋上へ続く階段の踊り場が最近のお気に入りだ。屋上は封鎖されているから、滅多に人は寄り付かない。現に今も誰もいない。ここにしよう。少し埃っぽいのは……まあ仕方ない。そこで甘味を啄んで、夢の世界にもたれかかった。チャイムの音が聞こえるまでの三十分、特に誰と話すでもなく。


 五限目、午後の最初の授業。真面目に聞いているのなんて、せいぜい数人いるかどうかで、退屈そうに頬杖をついたり、欠伸を噛み殺したり、机に突っ伏して堂々と眠ったりしている奴らが大勢を占めている。かくいう私もその一人。窓の外に目を向けると、風に揺られた木の葉がひとつ、ゆっくりと舞い落ちていた。チョークが黒板を叩く軽い音。黒板消しを使っても、後には僅かな白みが残る。


 わたしたちは生きるために、何かを汚さなくてはならない。だけど、ただ汚れを吐き出すことでしか存在できないその有様が、わたしにはどうにも呑み込みがたいから、なんとか正当化したがっている。それは例えば、ぬかるみに置き去りにした足跡、なんて詩的で素敵な表現で。ほんとに嫌になるような、いつものことだ。


 そんな素敵に閉じこもり、わたしは少し振り返る。足跡で真っ直ぐ線が伸びていて、ずっと昔はもう見えない。すぐ後ろにはつい先ほどの、数学教師の言葉があった。


 曰く微分とは、任意のグラフの接線の傾きを求めるためのものらしい。あの人の輪郭の曲線を微分したら、宵のわたしの右の手のひらと重なるんだよ。大発見だ。これを彼に伝えたら、どうなるだろう。わからないけど、たぶん喜んでくれると思う。


 あいたいな。逸る心と裏腹に、時計の針はゆるりと進む。意識と世界が切り離されたかのようなこの感覚が、わたしはどうにも好きになれない。苦しく思えて仕方がない。でも我慢。もうすぐ彼にあえるから。気がつけば、わたしはいつもそういって我慢している。彼のことでも考えようか。そうすればすぐに時間が過ぎるのだ。例えばそう、初めて会った時のこと。


 半月くらい前だったっけ。いつもの道で、彼はわたしの少し先を歩いていた。何か探していたようで、カバンの中をまさぐっていた。その拍子に、パスケースを落としたのだ。彼はそれに気付かずに行ってしまいそうだったから、わたしは急いでそれを拾って彼に渡した。彼は大袈裟すぎるくらい礼を言って立ち去った。


 たぶんその時、わたしが言うのもなんだけど、彼はわたしに一目惚れしたんだと思う。それからだ。わたしの幸せが始まったのは。帰り道の、たった二十分の孤独が消えた。わたしにとって、それがどれだけ救いになったことか。彼は何にも知らないだろうし、こればっかりは知ってほしくない。あくまでわたしが彼に、勝手に救われているだけなんだから。


 改めて、今日はいろいろなことを考えた。わたしの右手が彼の輪郭に触れることを証明し、彼への想いをより深くまで積み上げた。なんてことのない出会いを運命なんて呼びたくなった。なんだか、心がすっきりと整理された気がした。


 終業のチャイムが響く。立ち上がって、荷物をまとめた。それと同時に心を決める。思慕、感謝、その他諸々。ずっと言えなかったそんな想いを、今日こそ彼に伝えよう。


  * * *


 陽は落ちて暗くなっているけれど、端の方にはまだ僅かに赤みを残している。身を切るような風に息が詰まった。カサつかないようにマフラーに埋めた唇を引き結ぶ。彼はいつものように、わたしの少し後ろにいる。


 言いたいことはわかっているのに、どうしてか言葉にできない。最初はやっぱりありがとうかな。いや、もっとストレートに行くべきか。


 自動販売機が見えた。白く明るく、場違いなまでに輝くそれに目が眩む。やにわに妙案が浮かんだ。硬貨を入れて、ボタンを押す。幸せの時間延長、ココア味。かじかんだ手にその熱は沁みいるようで、なんだかすこし泣きたくなった。


 わたしはココアを握りしめ、もと来た道を引き返す。電柱の陰、真っ直ぐ彼の所へと。心做しか慌てた様子の彼に、わたしはココアを差し出した。



「こんばんは、ストーカーさん。わたしはあなたが、大好きです」

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