水上機の競争

 水上機――。

 前項でも述べましたが、フロートで離着水するのが水上機、胴体部分で船のように離着水するのが飛行艇という分類です。


 飛行機は、スピードを上げて飛ぶので空気の抵抗を受けます。この抵抗が少なければスピードやロスが少なくてすみます。

 なので、フロートが付いた水上機は空力上の不利があるわけですが一九三〇年代くらいまでは、その不利よりもエンジンパワーに物を言わせることで上回ることができたのです。

 航空力学もまだそれほど発展しておらず、空気抵抗や流体力学についても大きな差異になるほどではなかったのです。


 この時代、航空機のフラップもまだ開発されていません。

 フラップというのは、飛行機の翼の形状を変えて揚力を得るための装置です。揚力というのは、簡単に言うと機体を押し上げる力です。

 フラップがまだない場合、どうやって飛ぶかと言うと、飛行機をなるべく速く走らせて、飛び立とうという発想になりました。速く走らせると、主翼の周辺の空気が渦を巻いて上向きに上がる力が生まれるのです。簡単な説明ですが。

 そうなると、機体の形を無視してでも強力なエンジンを積んで、速く走らせる。

 すると滑走距離が伸びるので、滑走路もより長くなる。そして、さらに速い機体にしようとするとまたエンジンの力がいる、エンジンの力がいるから大きくなる、エンジンが大きく重くなるから機体も大きくなり、より滑走路も長くなっていく、という繰り返しになってしまいます。

 こうした経緯から、水上機のほうが速度性能が上がり、次の時代の戦争では、飛行機、プロペラ戦闘機も水上機が主役になるはずだという風潮がありました。

 結果としてこの予想は外れるわけですが、未来は誰も見通せないのでしかたのないことです。


 そして、フランスの富豪ジャック・シュナイダーが名乗りを上げます。

 もともと、祖父の代から事業を起こしており、銀行業から、鉄鋼、フランス初の戦車や砲、鉄道、造船などの軍需産業の御曹司です。血縁には、フランスの大臣を務めたものもいます。彼は、気球を操っての冒険を趣味としており、飛行機にも高い関心を持っていました。一時期、高度記録も持っていたようです。

 しかし、事故を起こしてしまい、飛行機に乗ることを禁じられてしまいます。

 それで飛行機の情熱が失われることはなく、航空技術の発展を祈ってシュナイダートロフィーレースという国別の水上機によるスピードレースを開催しました。シュナイダー杯とかシュナイダーカップとも呼ばれます。

 最初の開催は一九一三年ですが、本格化したのは第一次世界大戦終了後からです。

 優勝すると賞金が出ますが、栄誉と栄光、そして新兵器となったプロペラ戦闘機に関する技術力を持つ先進国であることを誇示できるのです。

 それに競技での勝は、第一次世界大戦という戦勝国にも大した旨味もなく、被害がでかいだけの戦争で沈んだ国民の気持ちをふっとばしてくれるのです。


 シュナイダー杯は、国別対抗レースです。

 ルールは、どれだけスピードを出せるかで、このレースの最高速度は即飛行機スピード世界一となります。

 決められたコースを何週かして平均速度と最高速度を記録します。

 開催国は、前年度優勝国。五年のうちに三回優勝するとその国が永久にトロフィーを所有し、終了するというものでした。


 開催当初は、イタリアが三回連続優勝しましたが、トロフィーの永久所持を放棄します。せっかく始まった大会なので終わらせずに面白くしないとってことですね。

 サボイアS.13、四枚羽プロペラのサボイアS.12bis、マッキM.7bisが活躍し、この頃の最高速は189キロでした。


 一九二二年、前回優勝国イタリアのナポリで開催された大会では、イギリスのスーパーマリンシーライオンⅡが234キロをマークして優勝します。

 このシーライオンⅡはレジナルド・ミッチェルという技術者が共同開発に参加しており、彼は後にイギリスを救うプロペラ戦闘機スピットファイアを設計します。この辺は、また後に語りましょう。


 ここでイギリスが一矢報いましたが、一九二三年度の大会では、アメリカ軍がカーチスCR-3で参戦し、285キロを達成。優勝します。この頃から、レースに国の威信がかってきます。

 一九二四年は、アメリカに対抗できず、イタリアも機体のクラッシュ等あったので開催国であるアメリカは延期を提案します。


 続く一九二五年、カーチスR3C-2が374キロを出して優勝します。パイロットは、ジェームス・ドゥーリットル。第二次大戦のドゥーリットル爆撃隊を指揮する軍人です。初のアメリカ横断飛行も達成しており、かなりの飛行機野郎です。優勝の翌日、同じ機体で三九五キロの速度記録も達成します。

 映画『紅の豚』でもアメリカのカーチスに言及するシーンがあります。

 アメリカの二連勝で永久所持に王手がかかるわけですが、これに待ったをかけるべく挑んてきたのはイタリアでした。

 アメリカ軍は手を引きますが、俄然有利な状況で、独裁者ムッソリーニの鶴の一声で国家プロジェクトになります。


 そこで登場したのが、真っ赤な機体のマッキM.39。シュナイダー杯専用レーサーです。一九二六年には、この機体に搭載されたフィアット水冷八〇〇馬力エンジンによって396キロを叩き出して優勝します。


 翌一九七年、アメリカの参加予定機は世界記録を出していましたが、シュナイダー杯には間に合いませんでした。

 イギリスとイタリアの一騎打ちです。レジナルド・ミッチェル設計のスーパーマリンS.5が453キロを出し、イギリスに優勝をもたらします。エンジン出力は九〇〇馬力、速度はどんどん向上し、この年から技術開発のため隔年開催になります。

 この間、開催者だったジャック・シュナイダーは、倒産に追い込まれ、貧困のうちに亡くなります。


 一九二九年大会の優勝者はイギリスです。スーパーマリンS.6は水冷一九〇〇馬力という強力なものです。

 イタリアもイギリスに三連覇をさせまいと、マッキM.C.72を開発します。この機体もシュナイダー杯専用レーサーですが、二重反転プロペラとV12気筒エンジンを結合したV24気筒エンジンにターボチャージャーを搭載した怪物機です。最大三〇〇〇馬力出ます。

 二重反転プロペラというのは右回転するプロペラと左回転する二組のプロペラのことです。

 エンジン出力が馬鹿でかくなりすぎて、プロペラ一枚ではエネルギーをロスするうえ、回転軸側に大きなトルクが発生するようになりました。右回転すると右回転のエネルギーが生まれ、機体もそっち側によってしまうのです。逆回転のプロペラを組み合わせることで、このトルクを相殺するのが目的です。

 ターボチャージャーは過給器ともいいます。排気を利用して空気を圧縮し、エンジンに送り込んで燃焼効率を上げる仕組みです。


 一方のイギリスでは世界的不況によってイギリス政府からの開発資金が出なくなります。このままだとイタリアの怪物機に負けることは必定です。そこでヒューストン夫人という愛国者が名乗り出てぽんと開発資金を援助します。

 これによってロールスロイスR二六〇〇馬力エンジンを搭載したスーパーマリンS.6Bが完成します。ここでロールスロイスエンジンを扱ったことがスピットファイア誕生の伏線となっていきます。


 一九三一年、スーパーマリンS.6Bが547キロを出して優勝します。イタリアのマッキM.C.72はエンジンの不調で参加できませんでした。そりゃまあ、V24気筒とか整備が大変だと思います。

 マッキM.C.72は、その後プロペラ水上機としては最速の七〇九キロを叩き出します。現在も水上機最速の記録は破られておらず、今後の水上機が開発されそうもないのでずっと破られないでしょう。

 この最後の大会は注目度も高く、五〇万人が集まったといいます。


 こうしてシュナイダー杯はイギリスが永久所持することになりました。現在でも、イギスでこの名を関した競技が行われています。

 この競技期間中、エンジンや機体の開発も盛んに行われました。より早くなるため、空力についても考慮されるようになっていきます。スーパーマリンS.6Bとか、風防も無駄をこそげ落としたため、独特のものになっています。

 これだけのパワーとスピードを持ち、無駄がないというのは結果として操縦が難しいことも意味します。猛スピードで水上を滑走する水上機はパイロットの負担も半端ではありません。F1カーを水面で走らせて飛ぶとか、そういう負荷を想像するといいでしょう。

 このレースのおかげで水上機は注目されましたし、開発も進められましたが、次の時代は水上機の時代とはなりませんでした。

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