第34話

「うっわ、男くっさい部屋ね」

「うっさいよ」


 勝手に入らないでよ、という哀斗の言葉を無視して強引に零細家の敷居を跨いだリミリーは、哀斗の部屋のカーテンを開けて、まき散らされた衣類を坦々と畳みんだり、散乱したゴミをゴミ袋へと纏めたりしていた。

 自身の汚部屋がみるみる姿を変えていく様を哀斗は呆然と見つめる。


「昼飯、買いに行くとこだったんだよ」

「どうせまたインスタントラーメンでしょ?」

「……好きなんだよ」


 あっそ、とリミリーは往なした。


「……掃除しなくていいからさ、帰ってよ」

「そんな冷たいこと言わないでよね。今日、お姉さんは?」

「仕事」

「よかった、また口喧嘩になったら面倒だったし」


 マイペースに作業を進めるリミリーに、哀斗は苛立つ。


「話逸らしてないでさ、いいから帰ってよ」

「いやよ」


 背中を向けたまま、リミリーは是非も無く一喝。しかし、哀斗も負けてはいなかった。


「いいから、帰れ」


 一週間前の旅行での出来事、哀斗がヒロインの脆弱性を理解したがためだった。

 仲がこじれたところで、もうどうでもいい、投げやりな感情が支配していた。


「もう俺に構わないでよ」


 吐き捨てるような哀斗に、リミリーは振り向く。


「そんな、ひっどい顔してる人。放って帰れるわけないじゃない」


 その目には、いっぱいに涙が溜まっていた。つい息を呑んでしまった哀斗だったが、気を引き締める。


「いや、これも嘘っぱちだ」


 全部、願いの影響だ。『主人公になりたい』そんな滑稽な願いが産んだ創りものの関係。そんなものに懐柔されるのは、自慰と同じだ。


「嘘……ね。憧子や花火が哀斗のことを忘れちゃったから、なんとなくそう言いたいのはわかる気がするわ」

「え……? わかるわけないじゃん」


 言って、いつかの頭が芯から冷えるような感覚がした。分かっていた、これは逆ギレだ。自分の失敗を棚に上げて、他人でストレスを解消するための、この世で一番くだらない吐露。

頭がどうにかなってしまいそうだった。そして、言い出した以上は、止まらなかった。


「ああ、そうだよ……。リミリーに何がわかるってんだっ? 友達の居ない俺にも、友達ができた、やっとだやっと。今まで生きてきて、一番居心地の良い場所だったんだ! 明るい性格のリミリーにはわからないだろ、背中の傷のせいでずっと避けられて陰口を叩かれつ奴のことなんか……。憧子も、花火もそんなことはひとっつも気にしなかった。それが、すげえ嬉しかったんだ。初めてだった、学校に行くのが楽しみになったのは。休み時間に行く場所があることも、昼飯を一人で食べなくてもよくなったことも……なのに……っ!」


 背中の傷を気にしなかったのは、アスモウラの感情操作のおかげ。

 仲良くなるようなイベントが起こっていたのも、アスモウラの感情操作のおかげ。

 ぜんぶ、一人遊びをしていたに過ぎなかった。


「でもそれ、全部自分で壊したのよね?」

「……っ!」


 何も……言い返せなかった。

その通り、だったから。


「詳しいことはわからないけどね、もし本当に事故で記憶喪失になってしまった、とかだったら哀斗はあの日、勝手に帰ることは無かったはずよね。哀斗が自分に責任を感じて、だけど、どうしょうもならない。そう思ったから全部無かったことにしようと何もかも置き去りにしたまま帰ったのよね?」


どう、図星? とリミリーは嗤う。涙はいつのまにか、乾いていた。その代わり、目が吊り上がっていた。


「はは、そうだよ、俺が自分でやったんだよ。関係を作ったのも、自分なんだから、壊すのも俺の好きでいいじゃないか」

「自分勝手ね……」


 あたし、信じてたのに……、と俯いて呟くリミリーの姿を見ると、胸が苦しくて苦しくて堪らなく痛かった。それでも、引き返せやしなかった。


「よくわかってる……そう、自分勝手なんだよ。だから、リミリーも俺のことは気にしないでよ……もう、疲れたよ」


 自分でも断言した、自分勝手と。自覚はあったので、声に出すのは案外簡単だった。リミリーはもう完全に失望しただろう、哀斗はそう思った。なのに――


「それは、いや」


 リミリーは、哀斗の拒絶を更にねじ伏せた、拒絶に拒絶で返してきたのだ。

 顔を挙げたリミリーはどこまでも、勝気な顔だった。折れることを知らない、折れるところが全く想像できない凛々しさが刻み込まれた顔つきだった。


「なんで……そこまで……」

「だって、幼馴染じゃない」


 それだけ……? そんなことで……と哀斗には意味がわからなかった。何も……。


「意味、不明だよ……」


 リミリーは余裕な表情で哀斗に問い掛ける。

「えー、だってアンタの言い分的には、自分が作った関係は、自分に所有権があるってことを言いたいんでしょ?」


 気圧されるように、哀斗は控えめに頷いてしまう。


「じゃあ、哀斗との関係の所有権はアタシにあるってことでいいわね」

「根拠は……?」


 哀斗は自分でも分かっていた、理屈を言え、と言った理由が――ふわふわした答えで絆されるのが怖かったからということが。


「3歳」


 リミリーは右手の指を三本立てる。


「アタシは、哀斗のことを物心ついた時から知ってるわ。哀斗は、10年前、つまり8歳までの記憶が無い」


 親から虐待を受けたことで、辛い過去の記憶を自発的に封じた、それは確かだ。


「……だからなんだっていうの?」

「アタシの方が、哀斗と過ごしてきた事を、哀斗よりもたくさん憶えてる。これは、間違いないわ。つまり、記憶量的に見て関係をどうするかってのは哀斗じゃなくてアタシに決める立場があるってこと」

「んな、無茶苦茶な――」

「ね、無茶苦茶でしょ?」


 と、リミリーは嘲笑う「哀斗が言ってるのは、そう言うことよ」

 自分の言葉が矛盾いていることに、哀斗は自分の程度の低さを感じた。

 しかし、それでも哀斗の心にはまるで響いていなかった。その幼馴染というのも、所詮アスモウラが創った設定でしかないからだ。

 どうせ、哀斗のことをどう思っているか、どういった好意の深いところを聞けば全て飛んで終わりだ。

 哀斗は嫌気を感じて、終わりの言葉を口にしようと決める。


「そんな無茶苦茶理論で過ごしてたら、アンタに誰もよりつかなくなるわよ。それは、背中の傷なんて関係なくて、全部アンタ自身の性格に難ありってことにね」

「……うるさい、もういい。放っといてくれ」


 駄目押しとばかりに続く、リミリーの叱咤。もう限界だった。


『じゃあ、信じさせてよ。リミリーは俺のどんなところが好きで一緒に笑ってくれたの?』


 言葉はこれでいこう。これなら、きっとリミリーは優しいから答えようとしてくれる。そして、そのまま記憶を失うだろう。


「じゃ――」

「ま、それでもシスコンのお姉さんなら見捨てないかもだけどね。だって、両想いみたいだし?」

「………………え?」

「ん? 何驚いた顔してるのよ?」


 おかしい、どうして――。


「……ぃや。両想いって?」


 哀斗はなんとか声を絞り出した。


「は? アンタことあるごとに、お姉さんのこと言ってるじゃないの。バニーのコスプレした時だって上の空、アタシがこっ……告った時だって上の空だったじゃないの! アタシ、あれに関しては許すつもりないんだからね! さいっていよっ!」


 ふんす、と息遣いが聞こえる程に一気に捲し立てたリミリー。


「どうして、憶えてるの……?」

「はあ? あんな突拍子もなく、インパクトあるシスコン発言されて忘れる方がオカシイじゃない」


 自分の感情とは関係なく、ヒロイン達との交流中に強制的に発言させられる実の姉、哀果への好意的発言。

その現象については、原因は未だ不明のまま。『主人公になりたい』という願いの邪魔にならないように、アスモウラがその発言時には、ヒロインへ特別に魔力を施した。対象に聞き流させる方法、感情をそうさする方法、人が多いときは後処理で記憶を弄るといった方法……様々な手を尽くしていたはずだった。

 それなのに、ヒロインであるリミリーはそれを認識しているのだ。

茶化すような態度のリミリーに、哀斗は震える声で訊く。


「俺のこと、どう思ってる?」


 憧子、花火と関係を解消するための言葉。さっきまで、リミリーとの関係も終わらせてしまうために、使う予定だった言葉。今は、どんな気持ちで言ったのか、脊髄反射で声に出した哀斗にはまだ整理が追いついていなかった。


「……とっ、突然なによ。急に……」


 そう文句を言って、しばらくの間リミリーは沈黙する。長いような、短いような長いような、時間間隔がおかしくなってきていた。


「ふん、そんな待ち遠しそうに見つめられたら。観念するわよ。それが、今の哀斗には必要なんでしょ?」

「……必要、なんかじゃ。俺はただ……」


 確かめたかった。……確かめて、どうする気なのか。

 頭を掻く、ヒロインらしからぬガサツな一面。哀斗はそれを、頼もしいと感じていた。


「えーと、まあ、あれよ。頭固いけど、なんだかんだ優しいところ、みたいな? 友達じゃなかったら淡泊だけど、仲良い人のためなら頑張るところとかいいかなーって思ったり……。 なんていうか、お姫様扱いされてる気分がして、こう――。って、なに言わせんのよっ!」

「いって!」 


 思いきり、殴られた。ごちん、と音も鳴った気がする。痛いけど……。


「はは……っ」


 笑ってしまう。

 リミリーは俺のことを思ってくれていた、しっかりと意思を思った上で。気持ちに応えてくれたことが、何よりも哀斗は嬉しかったのだ。心の底から――。


「い、いきなり笑うんじゃないわよっ! ……たくっ……。ぐふ……っ」


 哀斗の無邪気な笑顔に当てられ、なんだか馬鹿らしくなってきた、とリミリーも釣られて笑い始めた。

 おかしな空間だ、さっきまでの重い空気は晴れていた。そういえば、さっき外に出た時も空には雲一つ無かった。

 気づけば、まるで運動した後のように僅かにだが両者共に肩が上下していた。

 お互いの息遣いだけが響く部屋の中、沈黙を破ったのは哀斗だった。


「ありがとう、リミリー。それと、ごめん。俺、どうかしてたよ」

「え? 何? もう解決した感じなの?」

「ん? そうだけど」

「なんなのよ、まったく」


 毒づいて詳しいことは聞かないでいいや、とりあえず今は……、リミリーはそう思った。哀斗が笑ってくれた、その笑顔を今は見ていたかったから、もう辛い顔は見たくないと、心の底からそう感じたからだった。

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