第2話
脱いだばかりの短パンを履かれるのは、気分が悪い。
リビングへと向かった哀斗を待っていたのは、『下を履け』との忠告を明後日の方向にひん曲げた考えの基、実行に移した実の姉の姿だった。
残念なことに『よくあること』なので、『呆れる』だけでメンタルの振れ幅を最小限に留めると、哀果に負けないくらいの真顔で朝ごはんに取り掛かる。
今日は、姉の大嫌いな物をたっぷり詰めこんだ献立にしよう。
風呂場とは違った考えを誓った哀斗にもう怖いものなんてなく、調理中に含みのある表情でジッと見つめてくるブラコン真っ盛りの哀果のことは歯牙にもかけなかったのであった。
……そんなこんなで、箸の進みが遅い(笑)な哀果よりも早く朝食を摂り終えると、始業10分前に着けるほど良い時間だ。
一年半も変わらない通学路を行き来していれば肌感覚で覚えてしまう。
通学路の風景は変わらないし、空から美少女が降ってくることもなければ、曲がり角でパンを咥えた美少女とぶつかることもない。そして、毎日繰り返される似たような授業。
入学前は『高校生』というワードに僅かばかりの期待はあったが、通ってみればこんなものだ。それどころか、昔よりも状況は悪化している。
原因は背中の傷にあった。
人目に晒すことのないように注意は払っているものの、体育の時だけは集団で着替えることを余儀なくされる。そのため、噂が広がるのは当然だった。
気づいた時には、やれヤクザの子だとか、人を3人殺しているだとか、逆らえば小指を詰められるとか、根も葉もない話が独り歩きだ。
中学の頃はまだよかった。顔つきは幾分か幼かったし、逆に心配をされたくらいだ。
だというのに……。
「ヒッ……零細だ」
「おい馬鹿、道あけろってっ……殴られるぞ」
「この間、隣街の高校のヤンキー病院送りにしたらしいぞ……」
「もしかして、3日前の殺人事件って……」
廊下を歩くだけでこの始末。
念のために言っておくが、殴りあいになるような友人は居ないし、ヤンキーとの抗争に参加もしていない。というか、最後の。最後のだけはマジでやめてくれ。洒落にならんだろっ! いや、もうほんと、勘弁してください……。
哀斗裁判官もびっくりの冤罪にメンタルはいつも通り疲弊。友人が居ないので、被告人も承認も全部同じなのがしんどくもあり、救いなのだろうか。ふむ、わからん。
しかし、今の時代は学歴を持っていないと生きにくい世の中だ。先行きの見えない将来への僅かばかりの投資のために、無遅刻無欠席の皆勤賞を掲げる哀斗は今日も一日の授業を終える。――今日も一日がんばったぞい! と。
帰ってやりかけのギャルゲでもしようかなと通学鞄を手にとったところで、妥協に妥協を重ねた日常に特殊イベントが発生した。
「零細くん、ちょっといい?」
黒で統一されたジャケットとタイトスカートが似合う担任に声を掛けられる。皺一つ無い装いと、細い楕円の黒メガネ。下の名前は女の子らしかった気がする、苗字は田中――田中先生だ。
「はい。なんですか?」
「少し長くなるから職員室まで来てもらえる? 時間大丈夫よね?」
「……分かりました」
クラスを受け持たれていることもあり、帰宅部ということは把握されているわけで……。
連れられた職員室。入り口に近い机に田中先生は足を組んで座る。
短いスカートから覗くしなやかな足に、教師陣の中でも若手というだけはあるなと不躾な事を考えていると、田中先生は引き出しから学校に持ってくるには相応しくない物を取り出した。
「これ田中先生の私物ですか?」
無視を決め込むわけにもいかないので、哀斗は感情を押し殺して話を振る。
「いいえ、学校の備品よ」
「ガッコウノビヒン……」
表面が綺麗に加工されているそれは、よく空港なんかで見かける箱型のお土産くらいな大きさだ。
しかし、中身はお菓子では無く、ディスクが数枚に薄い冊子が入っている。見ずともわかるのは、哀斗も日常的に目にする美少女ゲームのパッケージだからだ。
表面には『インセスト・トゥルー』と大きく表記されており、このゲームのタイトルであることは一目瞭然。
長く美しい金髪に、碧眼。抜群のプロポーションを備えた美少女のイラストが描かれている。
「だいぶ人気らしいわね」
職員室でキツ目の女教師が美少女ゲームをまじまじと見つめている光景。不釣り合いな組み合わせに、
「俺はやったことないですけどね」
と聞かれてもいないことをつい口走ってしまう。
この後に続くフレーズが手に取るようにわかるからだ。
「去年卒業したOB……零細くんのお姉さんの……零細哀果さんが創った作品なのよね?」
「ハイ、ソウデスネ」
田中先生が指差すパッケージの隅には『伊吹トアラ』とシナリオ担当の名前。
哀果がこのペンネームで活動していることは、彼女が学生時代に秀でた才能を持っていたこともあって、ここの教員なら周知の事実だ。そして、哀斗が実の弟であることも……。
べつに、実の姉が美少女ゲームのシナリオを書いていることを恥ずかしがっているのではない。ゲーム自体も18禁では無いし、あらすじを見ても高校生がプレイして問題無いレベルのもの。
しかし、ガチのロボット系だろうと、グロ系だろうと、伝奇ものだろうと抵抗の無い哀斗だが、一つだけ避けているジャンルがある。
実の姉が攻略対象な美少女ゲームだ。
『インセスト・トゥルー』に載っている煽り文句はこうだ。
『実の姉と実の弟の禁断の恋。二人に幸せな道はあるのか――』
苦手どころド直球なテーマの作品であることは明らかで、それどころか、血の繋がりのある姉がシナリオライターである事実。
哀斗がプレイしない理由としては充分だった。
「零細くんには、お姉さんにこれを創ろうと思ったキッカケをインタビューしてきてほしいの」
「いやです(教育委員会に訴えるぞ糞アマ)」
年上が相手だろうと、自分の意見を真っ直ぐに言える人間になりたい。
イマドキの高校生らしい、嫌に抽象的な将来の夢が決まった。直に来るであろう進路希望調査書にはそう書いて、田中先生を困らせてやろうと思う。
「だめです」
細い指先で眼鏡の位置を整えてから放たれた一言は、教育者とは思えない一言。
人権――精神活動の自由。日本国憲法第十九条。
教員採用試験って公民の知識も必要だったはずですよね先生?
「……」
「あっ、ごめんなさい。私、つい強い言葉を……。びっくりしちゃった」
薄い化粧のせいか、顔の染まり具合はしっかりと、はっきりと哀斗からは見てとれた。
何それ、誰だよ、頬赤らめるなよ。
「……インタビューして、何に使うんですか」
可愛さに負けた。
俺の担任の先生がこんなに可愛いわけがない。
次にやる美少女ゲームは教師モノにしよう。そうしよう。
「学校の宣伝よ。来年度の入学希望者へのパンフレットに載せるの。ゲーム、アニメ、漫画。そういった趣味の子って最近増えてきているんでしょ?」
「そうですね」と相槌を打つと、先生は『比鹿島(ひかしま)高校入学志望者へ向けたパンフレット作成のおねがい』と書かれた紙を渡してきた。
哀果に向けた、正式な仕事の依頼書らしい。
そして、もう一枚。こっちはインタビューの原稿だ。
「どうして先生方がやらないんですか?」
無遠慮に、純粋に思ったことを口にするも田中先生は余裕な表情で、
「親しい間柄の人に聞かせた方が素の表情が出るんじゃないかと思ってね。学生時代のお姉さんは雰囲気が変わった人だったから……。周りに壁を作っていないようで、作っている、そんな不思議な人だったし」
哀斗が入学する以前から勤めている田中先生は、その時のことを懐かしんでそう言う。内容とは相まって穏やかな口調からは、気まずさは感じなかった。
発言とチグハグなニュアンスから感じられる哀果の器用さに感心していると、おかしなタイミングで校内に聞き馴染みのある音が鳴り響く。
「これ、なんのチャイムですか?」
「部活動終了のチャイムよ」
「早すぎませんか?」
壁掛け時計を見るに、校則で決まっている定刻よりも一時間は早い。
「この街で、3日前に殺人事件が起きたのは知ってるでしょ」
「あーそういえば……」
廊下ですれ違った生徒がそんなことを言ってた気がする。
「それの影響で早帰りを促すことにしたのよ。まだ犯人も捕まっていないみたいだし……」
比鹿島高校の校名にもなっている、哀斗の住む比鹿島市は都会すぎず田舎すぎずの街だ。全国ニュースで地名が出ると、主婦の世間話のネタになるくらいには滅多に事件が起こらないような。
だから、田中先生の言葉に翳りが見えた。
「物騒ですね。珍しいことですし、先生方だけでなく、保護者からも不安な声は多そうです」
明後日の方向を向きながら想像を膨らませる哀斗が目にすることは無かったが、生徒の真摯な物言いに田中先生は目を丸くする。
「ええ。それと、これはまだニュースで言われていないんだけどね……」
哀斗の耳元に唇を近づけ、小声で続けた。
「鹿跳(しかばね)神社前の道路で殺されていたらしいの」
一瞬とはいえ、年上の女性に吐息が掛かる距離で囁かれ心臓が跳ねるも、哀斗はなんとか心を静める。場所の方が気に留まったからだ。
「……めちゃくちゃ近所じゃないですか」
高校から歩いて5分も掛からないし、それどころか通学中に目の前を通る。
今朝も通りがかったが、気に留まらなかったということは、警察の現場検証も済んで元通りになった後だからだろうか。いずれにせよ、公表される日も近そうだ。
「くれぐれも寄り道なんてしないようにね」
職員室の大窓で、校舎から正門までが見通せる。多くの生徒が歩いているのが見えた。
「わかりました。先生も、お気をつけて」
頭を下げてから、職員室を後にしようとすると、肩を掴まれた。
田中先生はそれとは反対の手で紙をひらひら。
……聞かなかったことにはできないらしい。
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