第一章 グリザイユの男子高校生

第1話

「ふがっ」


 ジリジリと蝉の鳴き声が窓越しに伝わる室内にて、零細哀斗(れいさいあいと)は起こされた。気道を封じられるといった実に物理的な方法によって……。

 またかよ……と、愚痴りたいものの、柔らかい双丘によって塞がれているためできず、更に苛立ちは増す。これが時間のある休日ならば幾分は心穏やかだったろうが今日は平日のド真ん中。

 乱暴に柔らかい手の平サイズのそれを両手でワシッと掴み、そのまま横に放る。といっても、ベッドからは落ちないように加減はしてだが。

 胸だけでなく、体全体が柔らか成分で出来ているのか、数ミリバウンドした拍子。


「きゃっ」


 哀斗の姉である、零細哀果(れいさいあいか)は声を挙げた。

 そして、「ぎゃふっ」とも。

 嬌声がなおのこと哀斗の神経を逆撫でした結果、ベッドから降りざまに哀果の身体を踏んだことが原因だった。


「……お姉ちゃんを踏み台にするとは、何事。哀斗の子が産めない身体になったらどうするのよ」


 ベッドに横たわりながら、恨めしそうな眼で気だるげにのっぺりとした文句を言う哀果。


「実の姉を孕ませる弟がどこにいる」


 そんな常識に反発するように、上体を起こした哀果のTシャツには『弟は姉で童貞を捨てるもの』という文字。


「やかましいわ」

「ごめんなさい。お姉ちゃんの下の口が勝手に喋って……」

「姉ちゃんのTシャツの話をしてるんだよ!」


 もみあげだけが長めの癖ついた髪を揺らして、ジッと見つめてくる。


「……」

「なんだよ」

「いえ、今『そうなんだね』って言ったのだけど……下の口で」

「器用だなあオイ! 聞こえなかったよコンチクショウ!」


 寝ている時に落ちたらしい床に転がっているタオルケットを、真顔のままに下ネタを連発する哀果に投げつけて廊下へ。

 抱き着かれたまま寝ていたせいか汗をかいていたらしく、風呂場への道すがらTシャツがひんやりと冷たさを帯びてくる。

 夏休みまで数週間はある初夏ということもあってか、明け方の気温はまだ低い。

 服を脱ぎ、皺がつかないように軽く畳んでから浴室へ。

 眠気覚ましも兼ねたシャワーを浴びながら鏡に映るのは見慣れた顔。

 自分で言うのもなんだが、中の上くらいには整っていると思う。趣味はインドア中心なものの、基礎体力は付けておこうと最低限の運動を心掛けているので身体付きも貧相ではない。懸念事項が一点だけあるが……。

 シャワーを止め、鏡に背を映そうと振り返ると、目が合った。

 ちなみに、この家は哀斗と哀果の姉弟二人暮らし。つまり、必然的に――。


「……姉ちゃん」

「はあい。お姉ちゃんですよー」


 呆れた反応をも物ともしない間延びした声。完全に舐められている。


「あのなあ、この間も言ったよな。風呂に入ってくるなって。その時に約束したはずだよね?」

「えぇ、覚えているわ。あたしは哀斗が入っているお風呂に侵入しないと約束したわ」

「思いっきり破ってるじゃないか……」


 頭を抱える哀斗に、しかし哀果は努めて冷静に、


「何を言っているの。あたしは『哀斗が入っているお風呂に侵入しない』と約束したのであって、後から哀斗が入ってくるぶんには文句を言われる筋合いはないのよ?」


 そう言って、浴槽を指さした。どうやら、そこに隠れ潜んでいたらしい。

扉を開ける音もしないし、気づかないわけだよ……。


「流石だよ、姉ちゃん。……ん? 俺の方が早く部屋を出たはずなんだけど……」

「馬鹿ね。哀斗の部屋の窓から出て、玄関から入り直し、浴槽ダイブを決めるくらい、元陸上部のお姉ちゃんからすれば造作もないことよ」


 才能の無駄遣いだ……。この話を当時の顧問が聞けば悲しむんじゃなかろうか。

というか、その恥ずかしいTシャツで外に出たってこと……? ご近所さんに見られてないですよね……?

 ご近所づきあいへの危機感からくる哀果の衣服への注視だったが、当の本人は見当違いな考えを巡らせたらしく――。


「もう我慢できないのね。気づかなくってごめんなさい。すぐに脱ぐわ……」

「こらこらこらこら!」


 すかさず、裾に手を掛ける哀果を制す。こういう時、きょとんとした目を素でするのが、この変態姉の凄まじいところである。

 どうやって追い出そうかと考えを巡らせているところで、


「姉ちゃん。下はどうした?」


 違和感を口にする。

 有害ワードを連ねた糞Tとは別に、セットで履いているはずのズボンが見受けられない。

 裾が長いおかげで下半身の全容が見えるには至っていないのは、はたして救いなのか。


「哀斗と寝るの2週間ぶりだったから、ちょっと汚しちゃって……」

「そっかー。汗かいたのかあ」

「それもあるけど、それだけじゃ――」

「……いいから早く風呂から出ていってくれ」


 血縁関係のある実の姉の性事情を一ミリ足りとも意識したくは無かった。


「ぶぅ。いけず」


 哀果は不満を露わにしてから、意外にもあっさりと浴室から出て行ってくれた。

 ほっと一息つき、シャワーを再開。

 温かさを感じながら、今日の朝ご飯は哀果の好きなものでも作ってやるかなという気持ちになっていた。


 平常運転ならば――風呂場での哀果のアタックは全裸若しくは、露出の多い過激な水着のどちらかなのだ。うん。甚だ遺憾ではあるが……それは追って教育していきたい……。

 

 しかし、今回は珍しく色気もへったくれもない糞T一枚。哀斗が鏡で背中を見ようとしたところで哀果が咄嗟に出てきたということが、実の弟である哀斗にはわかった。

 理由は、背中いっぱいに広がるおびただしい傷にあった。

後ろ手に触れると、未だに馴れない生々しさに頭が冷える。

 哀果に聞いたところ、子供時代に両親の虐待によって受けた傷らしい。

 『らしい』のは、俺にその時の記憶が無いからだ。

 10年前までの記憶がすっぽりと抜けている。きっと、虐待を受けていた日々を思い出さないようにと心がプロテクトを掛けているのだろう、と勝手な予想をしている。

 もう終わったこと。

 虐待をしていたらしい両親は今はもう居ないし、実の姉は変態ではあるにしろ、二人での生活は気楽で居心地がいい。

 なので、哀斗自身も特に思い出そうとは思わない。

 世の中、なんでも知っていれば幸せということもないだろう。

 そうして。考えを再確認しながら、できるだけ鏡を見ないように哀斗は汗を流し終えた。

 気遣いを反故にするのは、気分が悪い……。

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