悲劇の女王

 敗けたわけではないが、勝ったわけでもない。妥協の末に訪れた終結に勝敗を求めることほど滑稽なものはない。それでも逃げたという事実は本人がよく知っている。誰よりも深く承知していて、だからこそ心が晴れることはない。

 もしも眼前に二つの扉があったとして、片方の扉には《このまま進む》と言葉が刻まれ、もう片方には《やり直す》と刻まれている。誰もがやり直す方を選ぶだろう。そして、引き戻した道が自分達にとって都合よくあるように望むだろう。魔女が徹底的に悪であってくれて、自分達が揺るぎない善であることを欲するだろう。だが、現実として魔族は純然たる悪では決してなかった。少なくとも世界にとって義を孕んでおり、それは揺るぎようのない事実だ。

 背後には会談の間へと通じる扉が聳え、正面には延々と石畳が広がっている。薫の手中には因果の胤がある。それは途方もなく小さな代物で、世界を欺くだけの力が秘められているとは信じられない。また、彼の前には扉があった。人間界へと通じる門扉だ。

《因果の胤が使えるのは煉獄でのみだ。扉を抜けた先では使えないから気を付けろ》

 使うならばここで使えということを、会談の間で別れたマリアは言っていた。

 彼の胸中では二種類の感情が渦巻いている。緋奈との再会を果たせることへの喜びと、彼女を直視して告げられるだけの結末を迎えなかったことへの自責の念。

 幸音の様子を窺い、晴香の様子を窺い、日和を瞥見する。彼女はちっとも嬉しそうではなかった。感情を読み取ることはできず、彼女こそが真っ先に願いを叶えるだろうと思っていたばかりに拍子抜けして、そしてやはりおかしいと感じる。

「どうした?」

 薫の言葉に、日和は唇を結ぶ。瞳は変わらず伏せられたままで、意識して殺しているのかは分からないが呼吸も浅い。躊躇いがちに唇が離されたが言葉は漏れず、彼女の頭が下げられるだけだった。流れ落ちた髪が彼女の貌をさらに見せなくさせ、薫にはますます彼女が掴めなくなる。戸惑う彼の前で、その言葉は綴られた。ごめんなさいと、とても短い謝罪が。

「どうして謝る?」

「私が意図したの」

「何を?」

「この結末を。ちいちゃんも、薫さんも、幸音さんも望んでいないと分かっていたのに、私が意図して作り上げたの」

 ようやく理解が及ぶ。日和がマリアに同調していた理由、マリアが和平を持ち出した理由に。

 出来事には必ず背景が存在する。その背景を作り出しているものは自然の摂理や因果であることも珍しくはないが、最も大きな要因になり得るのは人間だ。此度は日和が原因として機能していた。日和がマリアに同調したのではなく、マリアが日和に同調していたのだ。

 さらに別の要因にも至る。幸音、晴香、薫。魔族の姫君と騎士。煉獄に運命を縛られた者の中で、一度たりとも他者の命を奪ったことのない存在、それが日和だった。ベルフェゴールとの戦いに於いても、日和は彼を追い込みはしたが、決定的な死をもたらしたのは晴香だった。

「そうか、君は死を好まなかったんだね」

 幸音は言葉を区切り、静かに呼吸を繰り返すと力強い眼差しで日和を見つめた。

「数え切れないほど奪ってきた僕がこんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど、奪われず、奪わずに終われるとしたら、それは何よりもの救いだった。君が一足早く辿り着いたけれど、いつかは僕等だって辿り着いていただろう。君の演出した決着点へと――」

 幸音の姿をじっと見つめ、彼の言葉に耳を澄ませ、それでも日和は罪の意識を捨てられない。彼女には初めてのことだったのだ。幼少から心と体の在り方に違和感を抱いてきた彼女は、決して自分というものを通そうとしてこなかった。いつだって変えられるのは彼女であり、他人から干渉されて抑え込められるのが遠里小野日和という人間だった。そのような彼女が初めて他者の在り方に干渉した。それも、そのヒトが辿ってきた道を貶めてしまう形で。

「私、無駄にした。みんなの生き方を無駄にしちゃったの……」

 悔いる思いは募るばかりで、ふと気を抜けば仲間のため息が耳を突く。過去に思いを馳せたところで時間は巻き戻せないというのに、日和は己を赦すことができない。

 顎下に指を添えられ、彼女は無理やり上を向かせられる。薫が自分を見つめていた。

「俺は生きているか?」

「それは、どういう……」

「耳を澄ませ。感覚を尖らせろ。俺は生きている。アンタも生きている」

 薫は日和の手を取ると自分の胸に被せた。血潮を巡らす拍動は、確かにそこにある。

「生き延びた。それでいいじゃないか」

 薫の表情ははち切れそうで、その言葉は日和に聞かせているというよりも自分を宥めているようだった。彼はたどたどしい手付きで因果の胤を掴むと、ただ一言、妹の名を呼んだ。因果の胤はウィスタリアの閃光を迸らせ、その形状は瓦解した。刹那、彼の腕は呑み込まれた。ウィスタリアに鮮烈な朱が滲む。痛みは伴わず、傷みだけが与えられる。肩甲骨を掠めるようにして彼の左腕は捥ぎ取られた。腕を取り戻そうとすることはせず、僅かながらに繋がっていた肉を自分から引きちぎって距離を取る。

「捨てろ!」

 咄嗟の勧告は遅すぎた。幸音は嫉妬に奪われた分を合わせて両腕を、晴香は反射的に投げ捨てたものの左足を絡め取られ、彼等はそれを失った。ただ一人、日和だけは無傷だった。だが、彼女が傷を負うことはなかったが、その異常はありありと見て取れる。美しく澄んでいた瞳は濁り切り、夜空の黒は井戸底の黒へと変質する。

「何だ、思っていたよりも微損ではないか」

 冷ややかに幼声が響き渡る。別れたはずのマリアが現れ、自律神経が朽ち果てたかのように微動だにしない日和の頬を撫でながら、晴香達を睥睨していた。

「どこが、和平だ」

「悪魔が虚言を好むと言ったのはそなたではないか。どうだ、妾はその通りだっただろう?」

 吐血を交えて吐かれた言葉を、マリアは光栄だと言わんばかりに受け止める。マリアは薫を高みから見下ろし、歓喜に咽び泣くかのように嗜虐心を露わにした。

「どうだ、素敵な狂言だっただろう?」

「最高だよ!」

 咆哮とともに薫は傷口から手を離す。押さえられていた断面から流血が起こるが構いはしない。ライフルを顕現させると、銃口をマリアに突き付ける。彼女は変わらず微笑んでいた。

 引き鉄が引かれる。撃鉄が薬莢を叩きつけたのと同時に銃身が殴り付けられ、狙いを外される。そして彼は、縋り付くような眼差しで現実の光景を否定しようとする。マリアを庇った人物が苦難を分かち合い、言葉を交わしてきた仲間であることを認めたくなかった。

「よく護ってくれた、日和」

 マリアは後頭部に手を回し、右目を隠している革帯を解く。曝け出された瞳にはウロボロスの印が刻まれており、気付けば、薫は大広間の中空に放り出されていた。マリアと日和の姿は遠ざかり、腹部が惨めなまでにひしゃげている。体勢を立て直そうとして、また視界が飛ぶ。重力に引きずられて落下して、何かによって天蓋へと放り投げられる。マリアの瞳は変わらず薫へと向けられていた。あれに見つめられてはならないと理解して、銃口を向ける。マリアを捉えた途端に跳ね上げられ、敵を見失う。

 薫を見つめるためにマリアは天蓋を仰ぎ続けていたが、鋭敏な五感で敵対者の挙動の全てを感じ取っていた。故にネプトゥーヌスの鞭に腕を絡め取られても、彼女は驚愕など浮かべない。冷めた目で晴香を見つめる。晴香はネプトゥーヌスを寄り集めることで欠けた足を補い、辛うじて立ち上がっている。

「日和に何をしたの⁉」

「……妾が渡したあれは因果の胤などではない。あれは《判別機》だ。それを握ったものが神々の側にいるのか、魔族の側にいるのか見極め、神々の側にいるならば肉を喰らい――」

 マリアは表情を失くした日和の唇に指を滑らせ、そっとその指先を舐めた。

「魔族の側にいるならば、生きた屍とする」

 遠里小野日和はるかずは神々の末裔に見初められ、遠里小野日和ひよりとして契約を結んだ。

「そなたらも見ただろう? この娘の心象世界を、苛烈なまでのあの蠢きを」

 だがしかし、神々の側に肉体を置いていようが、

「この娘の本質は憎悪だ」

 彼女の心は魔族の側に傾いていた。日和の濁った眼差しは晴香には注がれておらず、彼女の瞳の中に映されているのは魔族の姫君だけだった。

「嘘よ……そんなの嘘……」

「目を背けるのは勝手だが、ならばなぜ日和はそのようなことをしておるのだ?」

 マリアが示した先を見遣る。晴香の隣には日和が佇んでいて、その左手が、つぷりと晴香の脇腹から引き抜かれる。いつ刺されたのかは分からない。ただ日和の手を濡らしているものが自分の血液であることだけが分かり、晴香は途方もなく震撼する。

「姫様に触れないで」

 耳朶の傍で囁かれる。下腹部に鈍痛が植え付けられ、晴香は蹴り飛ばされた。驚愕と失意、あり余るほどの痛みがネプトゥーヌスを瓦解させる。晴香は立ち上がることができない。額を石畳に擦り付け、蹲り、壊れたレコードのように「嘘だ」と繰り返す。

 晴香と日和の間で交わされた約束が消えてしまう。彼女は生きながらにして魔族に隷従する身となってしまった。晴香には日和を取り戻す術が掴めない。這い蹲ったままで見上げる日和の姿は遠く、かつて注いでくれた微笑みが蔑視に挿げ変わっていることに堪え切れない恐怖を抱き、彼女がもう神々の側にいないことを自覚させられる。

「さぁ、日和。妾のために戦っておくれ」

 晴香の体に細く落ちていた影が、徐々に濃さを増していく。もたげた瞳は日和を映し出す。シアンのワンピースを身に纏い、彼女は軽やかに動く。絹よりもしなやかな素材で作られたワンピースは日和の挙動にピタリと追随して動き、体のラインを艶めかしく浮き彫りにする。

 日和の足は晴香のこめかみを穿つように横薙ぎに振るわれた。避けなければと思うが、意に反して体を動かすことができない。ただ茫然と、自失して、迫り来る下腿を凝視する。

 瞑目して痛みが植え付けられることを待ったがその時は訪れず、代わりに苦渋の呻きが聞こえた。開かれた目に映されたのは、日和の下腿で脇腹を蹴り付けられる幸音の姿だった。

「邪魔」

 左の下腿は幸音の脇腹に触れさせたままで、日和は体を浮かせるようにして右の下腿でも脇腹を蹴る。悲しいかな、それを防ぐ腕は幸音から欠如していた。両足で幸音を挟み込み、両手を石畳に突いて日和は体を捩らせる。幸音は抗えず、真横へと打ち投げられた。

 反動で立ち上がり、がら空きになった日和の腹へと銃弾が飛んでくる。起こした体を再び倒して、銃弾が通り過ぎる動きに合わせて足を持ち上げて、日和は後方に回転する。それを二度三度と繰り返し、彼女はマリアの傍へと後退った。

 マリアと日和の様子を窺いながら薫は晴香へと駆け寄る。彼女の首根っこを掴んで上体を起こさせると「奪われたなら取り返すぞ」と決意を突き付ける。晴香は唇を噛み締めるとネプトゥーヌスを手繰り寄せ、義足を作り直して立ち上がる。

「取り返す」

 眺めているだけなのは、もう終わりにしよう。

「よく言った。が、まだ気が緩んでる」

 前触れもなく薫に突き飛ばされる。よろめいた体は一歩二歩と横へずれ、そうして開けられた薫との間隙に平べったい影が割り込む。紅簾石に亀裂が生じ、散らされた石片を浴びながら晴香は日和の姿を認める。石畳を陥没させるほどの威力で打ち付けられた手のひらは原型を留めておらず、指は本来の可動範囲から大きく外れた方向へと捻じ曲がり、指関節の隙間からは骨が覗いていた。しかして彼女に焦りや恐慌といった感情を認めることはできない。平然と負傷した手を軸として体を支えながら薫の足を絡め取ろうとして、顔を上げると、先程まで軸としていた手を斜め上空に振り上げた。

「……たいしたものだ」

 幸音は嘆息する。彼の全身は氷塊の鎧で覆い尽くされ、その周囲には氷剣が鈴なりとなって浮かび、その眼差しは日和の手に注がれていた。血は流れず、肉は継ぎ目もなくなめらかさを取り戻す。投擲された氷剣を掴み取った手に傷は残されておらず、神々の庇護と恩恵さえも及ばないほどの治癒力が、彼女の傷みをなかったことにしていた。

 日和の瞳は幸音に向けられたままで、彼女の腕だけが顔の横に立てられる。直後、薫の上段回し蹴りが彼女の頭部を襲ったが、あえなく防がれる。

「このヤロ――覚醒しすぎだ」

 体幹ごと足を捩らせることで掴んできた日和の手を弾き、薫は逃走する。晴香もそれに続く。だが、日和が追いかけてくることはない。どうしたのかと訝しみ、彼等はすぐに気付く。

 彼女の武器が、弓であることを。

「人間の感情の中で、最も強大なものって何だか分かる?」

 日和は唐突に訊ねる。その声音は晴香達に親しみを感じているようでもあったが、その言葉はマリアの心を代弁しているに過ぎないことを彼等は知っている。だが、それでも、その言葉が日和の真意であると受け取ってしまうことも確かだった。

「さて、愛かしら」

「ロマンチストなのね。でも外れ、人間はそんなに美しくない」

 晴香達が知る日和はもっと無垢な存在であったはずなのに、その姿、その言葉、その微笑みのどこにも彼女を認めることはできない。これが悪魔を友にするということだ。

「憎悪だよ。誰かと一緒になろうとか、受け入れようとか、そんな想いよりも、何よりも自分のことを博愛するのが人間という生き物で、それが人間らしさというものなの」

「つまりアンタか」

「えぇ。だから、私は人間よ」

 日和の手中で一抹の光が渦を巻く。それは徐々に光子を増やしていき、遂には上長下短の光箭となる。光の弓矢。それは確かに日和の名残であったが、雲海を貫く空の色ではなく、妖しげな紫光に染められた外見からは、彼女の面影を探ることはできなかった。

 弦が引き絞られる。実体がないはずの弓は力強くしなり、一流れの矢を放った。その威力を目にしたことがあるのは幸音と晴香だけだったが、真っ先に逃げの手を講じたのは薫だった。もしも彼までもが光箭の威力を認識していたならば、逃げることはなかっただろう。

 あにはからんや、その臆病さが功を奏する。光箭は晴香達の背後へと流れ去り、石畳に突き刺さる。そこで止まることはない。同心円状に半径五十センチを光の中に呑み込みながら矢は石畳に没し続け、遂には紅簾石になめらかな孔を開ける。その現象は融解でも蒸発でもなく、物質の理から外れた出来事。彼女の光に触れたものは、その空間から消滅した。

 触れることが許されないという意味では、日和の光箭と薫のプロメテウスに大差はない。差異を認めるとすれば毒牙からの逃れ方だ。プロメテウスの火は全てを焼き尽くす劫火であるとはいえ、侵食は穏やかであり、暴食が行ったように蝕まれた部位を切り離してしまえば怖れるには足らない。だが、日和の光箭は違う。触れられた瞬間に消えてしまうのだから。消されることで負った傷を繕うというならば、それこそ、神々に願うしかないだろう。

 新たな脅威となった日和の光箭が魔法であるかどうかは分からない。神々の末裔と契約者が魔法を発動するとき、その装束は変化する。その意味合いからすれば、シアンのワンピースに肢体を包んだ彼女は魔法を発動していると見做せる。だが、それは彼女が光箭を具現化する前から纏っていたものだ。もしかすれば、むしろ多分にして、魔法ではないのかもしれない。けれど、それが魔法であるかどうかの答えがどちらであったにせよ、彼等はそれを発現する。魔法に対抗するためには魔法に頼る他にないことなど、分かり切っていることだった。

 絢爛華麗な出で立ちだった。

 ネプトゥーヌスとポリアフ、プロメテウスが名も知らぬ神を宿した少女へと対峙する。

「戻って来い、日和」

「私の居場所は姫様だよ」

 光箭が放たれる。それは彼我の間隙を半分も詰めることなく、ネプトゥーヌスの鞭に叩き落される。魔力は魔力に干渉できるという原理は変わらずはたらいた。もっとも、魔力によって寄り集められていた水そのものは刹那の内に消滅したが。

「物質は消えるか。それなら現象はどうだ」

 ライフルを構え、薫は引き鉄を引いた。撃鉄が叩き出したものはちっぽけな炎弾ではなく、プロメテウスの濁流だった。視界を覆い尽くして迫り来る大火を前にしてなお平然と、日和は熟達した動作で矢を放つ。矢は直線状の軌道を描いて大火へと飛翔し、紅海に彼女が逃げ込めるだけの道を開いた。たとえ炎が穿たれた孔を埋めるようになだれ込んだとしても、追撃の矢に掻き消されるに過ぎない。大火の濁流が通り過ぎた後、日和は手中に光を燈す。それは、一流れの矢を形成するためにしては、あまりにも過剰だった。

「雨よ!」

 晴香の叫びとともに矢は放たれる。蜷局を巻いた光は数え切れぬ矢の嵐となって弾ける。ベルフェゴールのときと異なるのは、それらの矢が全て晴香達に向けられていることだった。

 量には量――幾百とも幾千とも知れぬ武器を有するのは幸音も同じだ。彼の目線に合わせて鈴なりの氷剣が一斉に動き出す。魔力は魔力に干渉できる。光箭に触れることさえできれば、軌道は逸らせるだろう。だが、戦いがこれで終結するわけではないことを考慮すれば、武器を使い捨てるべきではない。だから彼は光箭の矢尻を狙う。日和が矢を掴んで放っている以上、そこに周囲を消し去る異能は宿っていないのだから。

 矢は一斉に弾かれた。日和に落胆の様子はなく、歪んだ微笑が張り付いていた。

「ねぇ、この世界で最も速いものって何だか分かる?」

 日和の足に光が絡み付き、

「光だよ」

 彼女の姿は掻き消えた。瞬間、頬に衝撃を感じて幸音は横転する。殴られたときに一瞬だけ彼女の姿を目視することができたが、それはすぐに残影と成り果てる。咄嗟に投擲された氷剣は何も掠めず、幸音のものであるはずのそれは、彼の腹に突き立てられていた。刺されたという意識すら持てない状況下で、血潮だけが腹から滲んでいる。

「返すね」

 また目視できなくなる。次に狙われるのは自分であるという予感に突き動かされ、晴香は高圧高密度のネプトゥーヌスを張り巡らせ、自分をすっぽりと包み込む楯を形成する。その内側に日和はいた。頭部を掴まれ、晴香は自らが築いたネプトゥーヌスの楯に頭を打ち付けられそうになり、寸でのところで魔法を解除した。ただの水塊となったネプトゥーヌスは晴香の髪を濡らすだけだったが、代わりに紅簾石が彼女の脳を揺さぶった。飛びそうになる意識に指先だけでしがみつき、晴香は足を振り上げる。日和は体を引いて悠々と躱す。

「みんな、遅い――――」

「――の――」

「――――ね」

 声だけが置いて行かれる。晴香から離れて薫の元へと移動する。そして、振り下ろした拳は、薫の掌に難なく受け止められた。

「え?」

 偶然ではない。彼は確かに日和の瞳を直視している。

「確かに速いが、分割すればなんてことない」

 特別なことをしたわけではない。時間を引き延ばしたわけでもなければ、彼が加速したわけでもない。ただ、切り刻んだだけだ。時間という概念は一定で、一秒が二秒に引き延ばされることはなくとも、一秒という時間の中にも時間は存在する。それは有限であり、構成単位に目を向ければ無限にも成り代わる。その《無限》に干渉できるほどの膂力を、鋭敏な感覚を彼は有している。一年に及ぶ闘争の日々が、彼をそのように仕立て上げた。

 薫の手に力が込められる。

 握り締められた拳は日和が逃げ出すことを許さず、日和の表情に焦りが生じた。

「離して!」

 空いている手を振り上げて光箭を生じさせる。弓に番えるのではなく直接握り締めて、その切っ先を薫の腕に突き刺そうとする。

「アンタ、やっぱり経験が足りないよ」

 ネプトゥーヌスの鞭が日和の手を絡め取る。

「弓兵の強みは遠距離からの攻撃だろう?」

 狙撃銃を扱うにもかかわらず近接戦に持ち込もうとする彼がよく言えたものだが、矢を射るのではなく握り締めるなど愚行の他にない。足を払われて日和は横転する。彼女の周囲に冷気が沸き立ち、その体は氷塊に侵食される。指先さえも動かすことはできず、彼女は磔となった。

 体を取り戻すことは適った。だが、日和の心は依然としてマリアに傅いている。向けられる瞳は嫌悪を孕み、敵対心は色褪せることなく滲み出る。日和の唇が僅かに動き、くぐもった声が漏れた。歯が噛み合わされる音がどこか滑稽に響く。

「なに? なんて言ったの?」

 晴香の声音は優しかったが、それさえも日和には屈辱であるようだった。

「そんな――で――」

 日和はきつく瞑目して、激情とともに見開く。

「そんな目で私を見下ろすな! アンタも、アンタも、アンタも! アイツらと一緒だ! 私を否定して、見下して、嘲笑って!」

 薫は思う。自分はどのような目をしているのか。憐憫か、同情か、それとも卑下か。

「違うわ、そうじゃないの、ひよちゃん。私はただあなたに戻ってきて欲しいだけなの」

「何に戻れっていうのよ⁉ 他のなんでもない、これが私なのに!」

 だんだんと崩れていく。少しずつ現れてくる。日和の心、マリアに陶酔した心が乱れていく。

 マリアは玉座で膝を組みながら、手中のものを見つめる。それは日和の心を捕らえている因果の胤だった。日和は中途半端な存在だ。神々の側に半身を置き、同時に魔族の側に半身を置いている。今は魔族の側にあろうとも、神々に揺さぶられれば天秤は乱されかねない。

「望ましくないな」

 そう唱えながらも、彼女の声音には日和への興味など微塵も含まれていない。彼女は虚言を愛する。日和へ向けた言葉など虚構でしかない。しかし、それを日和は知らない。

「愛してくれるって――……姫様は、私を愛してくれるって言ったのよ」

 男の子でありながら女の子になりたいと願う私。虐げられる私。抗えない私。争えない私。憎悪を滾らせる私。否定される私。病気な私。失敗作な私。

「一部の私じゃない――たくさんある私の全部を、私自身を愛してくれるって言ったの!」

 それが、日和がマリアに依存する理由だった。彼女の心の均衡が魔族の側に傾いたのは、ひとえに彼女の心がマリアに依存したからだった。

「アンタは、ただ愛情を欲していたんだな」

 涙腺が狂い出す。苦しみの嗚咽とともに涙が溢れ、日和の瞳は少しずつ澄みやかさを取り戻していく。それでも井戸底の黒が夜空に変わることはない。一時だけ夜空を映したとしても井戸底の黒が忍び寄る。彼女はまだマリアへの傾倒を捨て切れていなかった。

 沈黙と哀憐を綯い交ぜにしながら晴香は言葉を探す。その場しのぎの言葉やでまかせではなく、日和が心から真実だと思えるような言葉を。けれど、日和が慰めを得られる言葉を探そうとすればするほどそれは遠ざかっていく。言葉は虚ろになっていく。傷付けさせず、安らぎだけを与えるなどという都合のいい言葉を彼女は持ち合わせていなかった。

 とつおいつする晴香はふと瞳を横に逸らし、そして、支えを失って倒れ込む薫の姿を見た。それは唐突に、抗いようもなく訪れた。痛覚こそ失われていたものの、視覚、触覚、聴覚、およそ人が人として生を全うするために必要な感覚は全て残されていたというのに、瞬きの直後、訪れるはずの外界の光が現れることは二度となかった。溶接でもされたかのように関節が強張り、世界は静寂に包まれる。晴香が必死に体を揺する感覚も、倒れ込んだ先に日和の体があるということも、幸音に呼ばれる名前も、何もかもが涅に呑み込まれた。そのような暗闇の中で、思考だけは恐ろしいまでに冴えていた。

 その時が訪れたことを冷静に認識する。世界は停滞した。死が訪れたわけではないが、渡良瀬薫という人間はこの世界から切り離された。何もないこの世界、涅だけに蔽われたこの終末。そこに届く声も言葉も、心もないはずだった。しかし、伽藍堂の鐘のように、その声は凛然と鳴り響く。

「薫さん」

 目が晴れる。遠ざかり、近付き、揺れる視界の中央には遠里小野日和がいた。

「薫くん!」

 安堵の声に瞳を動かす。すぐ傍に日和の光箭がある。今にも消え入りそうな紫光が細々と薫の貌を照らしている。妖光の向こう側には晴香と幸音の姿があった。

 もたげた瞳を下ろし、薫は目の前に横たわる日和をそっと見つめた。彼女の瞳は未だに澱んでいたが、晦冥を晴らした声はまさしく彼女のものだった。薫は腕を動かして、日和の頬に手のひらを被せる。凝り固まった肉体に、彼女の温もりがそっと溶け込んでいく。

 つと、視界に靄が混じった。向こう側が僅かに遮られる程度だった靄は次第に濃密になっていき、薫が外界を知覚することを妨げようとする。瘴気による侵食が消えたわけではないことを聡明な彼は自覚して、奇跡として与えられたこの時間をどう使えばいいのかと思いあぐねる。だがそれを考える必要はなかった。彼ができることといえば思考を廻らせ、焼き付いた喉を震わせることだけであり、それを最も必要としているのは日和だった。

 甘言を探したが見つけられず、ぎこちない唇が唱えたのは諫言だった。

「全てを愛してもらえるなんて……そんなのは嘘だ。神様でも、悪魔でも、人間だって何かを愛して、何かを憎んでいる。愛するというのは、自分にとって都合のいい部分を搔い摘むことだ。だから、俺はアンタを愛し切れない」

 肺を引き絞るような吐息が、日和の前髪を揺らす。その宣告は一見すれば酷なものでしかなかった。愛情を欲する日和にとって、愛されないという宣告は、澄み始めた瞳を再び濁らせるには充分なものだった。けれど誰も薫を責めない。彼の言葉が真実だと知っているから。

「よいも悪いも綯い交ぜにして愛し切るというなら、それは愛情じゃなくて依存だ。アンタはマリアを愛しているわけではなく、マリアもアンタを愛してなんかいない。それはただ、依存して、利用し合っているだけだ。そこに、心はない」

 薫は懸命に唇を動かす。彼の指は日和の髪の中に沈み、消え入りそうな柔らかさが、もうすっかり明瞭を失った世界の中に満ちてくる。

「だから……」

 声が掠れる。最後まで言い切ることができるだろうかと不安がよぎったが、薫は平静を崩さないままで、ゆったりと時間をかけながら喉に音を通した。

「俺はアンタを愛してやる。愛し切れずとも、愛してやる」

 その言葉を皮切りに、薫は再び沈黙に落ちた。

「――……薫さん?」

 上げられた声は、もう二度と薫を包み込む晦冥を晴らすことはなかった。紫光の弓は輝きを失い、夜空の拙い輝きを取り戻した瞳が、白濁した薫の瞳を必死に覗き込もうとする。彼女が薫に縋り付くことはなかった。涙は流さず、呼気は乱れさせず穏やかなままにして、あたかも母親が眠る赤子を見守るような眼差しで彼を見つめていた。

「やれやれ、戻ってしまったか。つまらないことだ」

 マリアは呆れ果てたように呟く。その声量は僅かながらであったのに、静まり返った大広間にはよく響き渡る。幸音と晴香、日和。瘴気に蝕まれた薫を除いた三者は一様にして無言のまま、玉座のマリアへと眼差しを向けた。

 マリアは彼等を睥睨して、指先で遊ばせていたものを日和へと示す。

「あなたの胤よ、日和」

 老人を思わせる取り繕った口調ではなく、見目相応の若々しさでマリアは言う。ウィスタリアに染まっていた因果の胤の球体部は、何物にも染まらない無色へと帰していた。

「私の……胤……」

「えぇ。私と日和を結んでいた絆――けれど、もういらないわ」

 マリアの指に力が込められる。因果の胤は粘性の高い液体を散らしながら、ペキョリと潰された。刹那、日和の右腕と両足が付け根の部分からぐるりと捻じれ、末端に至るまで圧し潰され、ウィスタリアの閃光とともに消滅した。あまりの痛みに眼球が飛び出るようだった。叫び声さえも上げることができず、日和は痙攣する体を仰け反らせる。意識が途切れていないことを、即死には至らなかったことをただただ恨めしく思う。

 晴香に呼ばれている声も遠い。どうして発狂していないのかは分からない。

「多少順序が狂ったけれど、あなたの天秤は神の側に傾いてしまったものね」

 マリアは砕け散った欠片を石畳に投げ捨てて、その瞳にウロボロスの刻印を浮かび上がらせる。日和の意識を痛みから逸らすできごとが、彼女の眼前で生じる。

 噴き出る血を少しでも抑えようと傷口に手をあてがい、自分の名を呼び続けていた晴香の体に、左肩から右胸にかけて紅い線が走った。晴香の瞳孔が拡散する。声は聞こえなくなり、ずるりと、晴香の体がずれる。二つに切り離された、晴香だった肉塊が日和の胸に落ちる。

「ダメじゃない、戦場で目を逸らしたら」

 炯々と輝くウロボロスの向こう側で、マリアは微笑んでいた。クスクスと、クスクスと。足を毟られた蟻がもがきながら前に進もうとする様子を見ているかのように。その心に、その姿に、命を奪うことへの念慮など微塵も感じられない。彼女はまさに、魔族の姫君だ。

「クッ――――ソガアアア!」

 咆哮を轟かせ、幸音は氷剣をマリアへと飛ばす。それがマリアの肌に触れることはない。

 弾けた。風船が破裂するかのように呆気なく、幸音の頭は弾けた。血みどろの肉と骨、脳漿、もはや判別できないほどにちりぢりとなった肉の雨が日和に降り注ぐ。

 自らの傷みは忘れ、痛みは遠ざかり、日和は喪失に喘ぐ。薫は消えてしまった。晴香は消えてしまった。幸音は消えてしまった。ただ一人、残された。

「薫さん……ちいちゃん……幸音さん」

 名前を呼ぼうとも、顔にこびりついた肉塊を搔き集めようと、そこには誰もいない。

 喪失は決して覆らない。

 血飛沫と肉塊を避けるように飛び跳ねながらマリアは日和へと近付く。日和に近付くほど死肉の臭いは増していく。新鮮な肉に腐臭はなく、血潮から立ち込める匂いは甘美ですらあった。とうとうマリアは避けることをやめ、その素足で肉と臓物を踏み付ける。圧力に堪え切れない臓物が足裏で破裂して、除けられた足にねちゃりと絡み付く。背筋を狂おしいほどにくすぐってくるその感触は、マリアにとって至高の快楽に他ならなかった。

「あぁ、日和。可愛い日和」

 マリアは身を屈め、日和の瞳を覗き込む。眼窩の奥まで見透かされるようで、日和の貌はビリビリと震撼する。頬にマリアの指が触れ、幸音の血肉が押し広げられる。

「あなたはどうして日和なの?」

 マリアは吐息をゆったりと日和の肌に吹きかけながら、耳朶の傍で囁く。

「この悲劇の女王はだれ?」

 左手で日和の髪を梳きながら、マリアは右手を日和の傷口に伸ばす。さらりと表面が撫でられ、次いでマリアの指がつぷりと傷口に押し込まれた。日和は大きく痙攣し、身悶えながら奥歯を打ち合わせる。悲鳴を必死に呑み込もうとして、適わずに撒き散らす。

「だれが、悲劇の女王?」

 喉は上下して、唇は動くというのに日和は言葉を発することができない。出てくるものといえば意味をなさない叫びだけだった。前髪を乱暴に掴まれ、日和は貌を持ち上げられる。

「あなたよ。この悲劇の女王は、あなた」

 マリアは引き攣った笑いを浮かべ、前髪を掴む指から力を抜いた。支えを失った頭部は石畳に打ち付けられる。

「悲劇の女王の結末は、何だか分かるかしら?」

 今度は手のひらいっぱいを使い、マリアは傷を鷲掴みにする。日和の叫びははち切れんばかりに燃え上がる。喉をあらん限りに震わせ、悲鳴に痛みが溶け込むことを願う。

「死よ。甘美な死が、女王には相応しい」

 これから私は魔族の姫君に殺されるのだと、悲劇の女王は役者がみんないなくなってから終わりを迎えるのだと理解して、そうして日和は恐怖した。契約者を祀る墓の上で、晴香と空を飛んでいたときに胸を焦がしていた希望は全て色褪せて、怖ればかりが先に立つ。

「嫌あああああ!」

 日和は左手を力の限りに振るう。彼女の高ぶりに影響されたのか空色の光箭が手中に現れ、マリアのこめかみに浅い傷を作った。マリアは眼窩に血が流れ込むことも厭わずに瞳を曝け出し、ウロボロスで日和を睨み付ける。途端に日和の視界からマリアは消えた。マリアがいなくなったのではなく、日和がマリアの前からいなくなったのだ。右腕も両足も欠けた体で空に打ち投げられ、受け身を取ることなど適わずに日和は転がり落ちた。追撃が来ると、動かなくてはいけないと日和は焦るが、マリアが日和に追撃することはなかった。

「本当に、運のない子ね」

 代わりに声だけが響く。日和は訝しみ、胸の痛みに目を向ける。そこには、紫光の弓が、心臓を貫くようにして突き立っていた。何かを考える時間はなかった。その右腕、体、魂に至るまでも妖艶な輝きの中に呑み込まれ、遠里小野日和という少女は、世界から失われた。

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