終結は殲滅だけか
嫉妬に連れていかれる貪欲を追うことはせず、薫は幸音と合流する。
「ボロボロだな」
幸音の右腕は損なわれていた。「薫くんこそ」と返され、初めて自分の傷を認識する。
「やっぱり痛覚は失われていたんだね」
「悪かったよ、黙っていて」
およそ八百メートル先では貪欲が臥せ、嫉妬が幸音の腕をおもちゃのように弄んでいる。
「まだ戦えるか? アイツ、ほとんど無傷だぞ」
「彼女は《傷を負う》という概念そのものを無かったことにしてしまう。魔法どころか、心意の武器さえも掻き消されたよ。規格外にも程がある」
薫は呆れ返ったように嫉妬を眺め、血痰を吐き捨てる。痛覚は肉体の警報とはよく言ったものだ。機能していれば厄介なくせに、無いとなると、想像以上に気を滅入らせる。
「どれだけヤバいんだろうな、俺の体は」
血を吐き出すのに、体は硬直しているのに、視界は揺らぐのに、如何程にも痛みがない。
「まぁ、それはそれで便利か」
薫の言葉に顔を俯かせ、幸音は何かを決意したように前を睨む。
「もう少しだけ力を貸してくれ。魔女は目前まで迫っている」
「ここまで辿り着いたんだ。最後まで足掻いてやるさ」
一キロ先に聳え立つ扉の向こうに、魔女はいるのだろうか。それを確かめるためにも女傑を排さなければならない。薫はライフルの引き鉄に指をかけ、そんな二人の背中を追いかけるように、背後で紅簾石の扉が開いた。飛び込んできたのは、欠け落ちた翼の影だった。
貪欲の肉が掻き混ぜられる音がする。嫉妬は耳を塞ぎたい気分に駆られる。
「一人で……戦うつもりか」
「わたくしは騎士ですから」
そう返すと、貪欲は眦を細めた。心配されているのだろうか。彼の心を汲み取ることはできず、翡翠色の髪が、彼等が瞳を交わすことを邪魔立てする。髪をたくし上げようと持ち上げた手を嫉妬は止めた。貪欲の唇が「忠義を尽くせ」と動いたことを認めたために。
感情を露わにしてしまったことを後悔して、つと、髪が揺れたことで彼女は貌を上げる。もたげさせた瞳が捉えたのは、見目にして十二歳ほどの少女だった。右目を革帯で隠し、裾が柔らかく広がったタンクワンピに身を包んだ、黄金の髪の少女。そこに佇み、貪欲へと慈愛に満ちた眼差しを注ぎ、嫉妬の髪に指を絡ませるのは、魔族の姫君だった。
「子等よ、よく尽くしてくれた」
その姿を見たことで安堵したのか、消え入るように瞑目した貪欲から顔を背け、マリアは彼方の扉を見遣る。先程まで二人でしかなかった闖入者は、三人へと数を増やしていた。
「どうやら役者は揃ったようだな」
踏み出そうとしたマリアを、嫉妬が呼び止める。
「お待ちください、マリア様。主君に土を踏ませるわけには参りません」
「無茶を言うな。そなたの魔法は秀逸ではあるが、それまでだ。攻撃に事欠くそなたが三人を相手取ることは不可能だろう。それよりもマモンを看てやってくれ」
それでもなお反意を示そうとした嫉妬の口を指で塞ぎ、マリアは言う。
「聞き分けてくれ。それに、妾には、奴等と剣を交えるつもりはない」
それはどういうことかと訊ねようとしたが、唇を解放されても言葉を発することはできなかった。マリアは嫉妬を一瞥すると前を向き、両手を打ち合わせる。ただそれだけのことで、闖入者と姫君を隔てていた大広間は消滅して、互いの顔立ちを仔細に認識できるほどに距離が詰められる。マリアを除いて全員が驚愕を露わにし、めいめいに武器を手にした。
「武器を収められよ、神々の末裔。妾に戦う意思はない」
凛然とマリアは言い放つが、少なくとも、それを信じようとする気配は誰にも訪れない。
「あなたが、魔女なのかしら」
慎重に探るように、晴香が口火を切る。ネプトゥーヌスは抜刀されたままだ。
「いかにも、妾が魔女だ」
「……戦う意思がないとは?」
「言葉通りの意味だ。それ以上でも、それ以下でもない。そうさな、人間の常套句を借りるのであれば、仲直りをしよう、和平を結ぼうということだ」
「信じられないな。虚言は悪魔の好物だろうし、事実、俺等は幾度となく殺されかけている。アンタは、ついさっきまで銃口を向けていた人間の言葉が信じられるのか?」
「うむ、信じられる」
マリアは思案する様子もなく応えた。それは揺るぎない決意を匂わせるとともに、彼女がやはり虚言を用いて、虚構を演じているという印象を強めさせる。
「そなたらにも信じてもらわねばならぬ。そもそも、妾に降りかかる火の粉を払うことが騎士達の忠節の道であった。妾が殺せと明言したことなど、ただの一度もない。辿り着かないのであればそれでも構わないと告げただけであり、以降は、騎士達の解釈でしかないのだ」
言葉を重ねてもなお、マリアが信頼を得ることは適わない。肩を竦め、彼女は踵を返した。
「信じられぬというなら、武器を携えたままでもよい。付いて来い」
「どこに行こうというの?」
「和平は言葉で結ぶのだぞ。会談の場に決まっているであろう」
ちぐはぐな姫君は背を向け、自らの居室へと続く扉に手を翳した。
「その前に聞かせて。日和はどうしたの」
「心配は無用だ。あの娘にもすぐに会える」
マリアが告げた通り、扉を開いてすぐに、晴香の瞳にはシアンのキャミワンピースが映し出された。扉の向こうは四辺が十メートルほどの部屋であり、中央には五人掛けの円卓が置かれている。椅子は五芒星を成すように配され、扉側を底辺とするならば頂点にあたる椅子に、日和は座っていた。彼女の無事に安堵の息を漏らすよりも先に、晴香はどこかしらに漂う違和感に気を尖らせた。なぜ、神々との契約者であるはずの彼女がそこに座しているのか。
それは、まるで日和が魔族の側に与してしまったようだった。
マリアは躊躇いもなく日和の隣に腰かけ、残りの椅子を手のひらで示す。
「掛けてくれ。客人を棒立ちにさせたままでは、会談など始められない」
闖入者から客人にまで待遇を変えられたことにいっそうの不信感を募らせ、それでも日和が座していることに後押しされ、彼等は椅子を引いた。意匠を凝らして誂えられた豪奢な椅子に対して、血と煤にまみれた彼等の姿は、どうしても不似合いだった。
マリアは神妙な面持ちで一同の様子を窺い、差し当たって真鍮の呼び鈴を鳴らした。彼女の背後の扉が開き、燕尾服に赤銅色の髪の男が現れる。睥睨を飛ばしてくる晴香をにべもなく見つめ返すと、彼は馬鹿々々しいほどに腰を折り曲げて会釈する。
「先程は失礼いたしました」
晴香は無意識のうちに首を押さえていた。紳士的な態度の裏に潜んでいるのであろう凶悪性を思うと胸が苦しくなる。誰一人として、正常な思考を維持できている者はいなかった。誰もが戸惑い、揺れ動く。自分達を殺そうとしていた残忍な一面と、それがまるで幻であったかのように寄り添おうとする相反した言動に、帳尻を合わせることなどできない。
だが、日和だけはこの状況下で平然としていた。彼女だけが慄然していなかった。
彼等の前にティーカップが置かれていく。厳かに響く陶磁器の音の狭間で、彼等は疑心暗鬼を捨て切れない。注がれた紅茶に手をつける気には到底なれない。
「まぁ、紅茶を楽しむ会でもないしな。本題に入るとしよう」
ルシファーが退室したことで、会談の間に残されたのは魔族の姫君と、それに仇なす者だけとなる。今ならば討ち取れるのではないかと淡い期待が胸をよぎったが、実際に暴挙に訴えることはなかった。代わりに訊ねを繰り出す。
「重ねて問うけれど、和平の意思があるというのは虚偽ではないのね?」
「紛うことなく本意だ。証明としては、そなたらが未だに死んでいないことだろうか。そなたらの心臓が未だ鳴き止んでおらず、こうして妾と対談を成し得ていることが何よりの証拠だ」
「私達が生きていることが証だというなら、殺そうと思えば殺せるということでしょう。そこまで優勢にありながら、なぜ和解の道を探ろうとするの?」
「そなたらは不毛であると考えたことはないか? 殺し尽くし、妾の頚を刎ねるためだけに英気を費やし、その渦中で骸となっていく人間の子を前にして嘆いたことはないか? その感情は妾とて同じだ。屠られ、絶えるのは神々と人間だけではない。妾の子等も同じだ。愛しい者を失ったのはそなたらだけではない。魔族も同様に苦しみ、堪え難き酸鼻を受けてきた」
言葉はそこで区切られ、マリアは厳かに息を吐くと、続く胸の内を吐露する。
「もうたくさんだ。悪魔というだけで蔑まれることも、忌避されることも、魔族の姫であるというだけで命を狙われることも――――いい加減うんざりだ!」
反響する幼声の中に、魔族のマリアはいた。同じ名前でも、同じ性でも、彼女は決して神の子の母であるマリアにはなれない。彼女が魔族である限り、その姫君として生きている限り、ヴァルハラより続く神々との抗争が終結しない限り、彼女に安寧は訪れない。
「終結は殲滅だけか?」
マリアは問う。
「ヴァルハラより現在に至るまで、一方が他方を淘汰することでしか平穏は訪れないと、我等が相容れることなどありはせぬと誰もが考えてきた。神々も、魔族の帝王も、妾でさえも。だがな、それは誤りだ。そんな終焉しか許さぬほどに、世界は残酷ではない」
「けれど、和平を結んだところで、魔族が魔族としての特性を捨てられるわけじゃない。神々の存在が人間に善行をはたらかせるのと同じように、魔族は存在するだけで災厄をもたらす! 罪から目を背けろというのか⁉ それは和平じゃない、義務を放棄するだけだ!」
「それがどうしたの?」
幸音の目が瞠られる。マリアを捉えていた瞳が右にずれ、その言葉を発したのが魔族の姫君ではなく、神々との契約者である日和だったことを遅ればせながら認識する。
「人間が罪を犯すことって、そんなに悪いことなのかな」
心から理解できないといった様子で、彼女は首を傾げる。
「正気なのか? アンタは、確かに俺が知っている遠里小野日和なのか?」
「心配されなくても正気だよ。というより、今までの私の方が異常だったのよ」
己を異常と断じた言葉の裏には何があるのか、薫には推し量ることができなかった。ほんの数時間前に言葉を交わしたときに感じた、彼女の在り様を見いだすことができない。
マリアは神々の様子を慎重に見据えると、指を弾いた。途端に会談の間は変貌して、見渡す限りに広がっていく空と草原が現れる。
「ここは?」
「その娘の心象世界だ」
晴香が開いた白妙の世界と同じだ。空と草原で織り成される爽快な世界こそ、人間の
「私ね、気付いたんだ」
日和は抑揚のない声で切り出す。左手が動かされ、晴香へと向けられる。空は青いままだ。
「これが私の世界。私の本質。女の子になりたいと願い、現実との摩擦に喘ぎ、涙して、クラスメイトからいじめられても、お父さんから否定されても、お母さんから見限られても、誰も理解者がいなかったとしても澄んだままの世界――それが、私の心の在り様」
それは赦しの心だと、神々に近しい心だと晴香は思う。そのような感情を懐いた彼女だからこそ、日和の右手がマリアに向けられ、途端に空が燃え上がったことに驚愕を募らせた。
左は青く澄み渡り、右は深紅のモザイクに侵される。ヂリヂリと、空は醜悪に蠢く。
「だけど、これも私なの」
その光景に対して、晴香には覚えがあった。全身の汗腺が干乾びて、肌が強引に引っ張られるような痛みがそこにある。それは魔獣に対峙するときに感じる痛みと同様のものであり、彼女達が《憎悪》と呼ぶ感情に他ならなかった。
「悪は誹られなければならないのか? 善だけが受け入れられるべきなのか? どちらがあってもよいはずだし、どちらかが無くなってはならないはずだ。光あるところに晦冥は生じ、光が強まれば晦冥も濃密となろう。光あれど晦冥が生じないというならば、そこには何も存在しない。光を受けるものがないのだからな。神々と魔族とて、それと何ら変わらぬ。善とは悪の対極であり、悪を為さず、隣人に尽くそうとするときに善が生じる。決して分かたれることのない裏合わせ、共存すべきものでしかないのだ。もしも悪が滅びるというならば、そこにはもはや人間は存在せず、ひいては善さえも衰退の一途を迎える他にないだろう」
「善行を積み、時に悪行に手を染め、幸せを掴んで、時に後悔の涙を流して生きていく。それが人間だと思うの。もしも全ての悪が失われて善だけが存在する世界が訪れたとして、そこは優しい世界だと思うけど、善しか行えないなんてのはおかしいよ」
日和の訴えに、幸音は苦々しく貌を歪める。確かに、善だけが存在する世界とはなんと綺麗なことだろう。優しい世界であることだろう。けれど人々は選択の自由を剥奪され、善行のみを選択することを強いられるようになり、彼等の生涯は定型へと貶められることだろう。
「付け加えれば、悪が如何なるときも悪であるとは限らない。理不尽を憎む心は改革への後押しをするであろうし、隣人を守るために他者を殺めねばならぬこともあるかもしれん」
進むべき道を埋められていく。
「人間が人間であるために、悪は必要なのだ。それに、知っておるか? 魔族の帝王が神々と袂を別った原因は、人間に善行だけを強いようとしたからなのだぞ」
戦いの理由を失くされていく。
「あぁ、気にするな。瘴気による侵食が気がかりならば、すぐにでも人間界へ帰してやろう。煉獄は妾の庭だ。門扉など、如何様な障害にもならぬ」
薫の眼差しに気付いたのかマリアは話を転じ、つられて彼等を包み込む光景は元通りの絢爛な部屋へと戻った。薫は憮然とした面持ちでマリアを見据え、ゆっくりと開口する。
「俺が求めているのは魔族の淘汰でも延命でもない。緋奈が生き返らないなら、そんな未来しか望めないのなら和平なんて受け入れられない。人間が人間でなくなるだと? 知るかよ。そんなのは些細なことだ。俺にとっては七十億の人類よりも、アイツ一人の方が大切だ」
「小気味よいまでに素直な人間だな」
クツクツと肩を小刻みに上下させ、マリアは何かを掬う仕草をした。
「そもそも妾を殺せば願いが叶うというのは、この《因果の胤》が手に入るということだ」
小指から親指へと、焦らすように指が開かれていく。最後まで曝け出された手掌の上では、地球儀の上端と下端に槍が付けられた形のオブジェクトが浮かんでいた。マリアは何の躊躇いもなく、薫に放り渡す。そこには一片の価値もないと断じるばかりに。
「くれてやろう。あさましく、誇りを捨て去り、願いを成就させるがよい」
因果の胤は幸音と晴香、日和にも渡される。それを反射的にせよ受け取ってしまった時点で神々と魔族の抗争は終結を迎えてしまった。
終結はひとつではないとマリアは告げ、その通りだった。敵将の首は討ち取られず、神々の側に死人は現れず、至って平和的に抗争は終結した。同時に台無しにされた。晴香と幸音が辿ってきた数百年が、薫が懊悩とともに駆け抜けた一年が、すべて無駄なものへと貶められた。
誰でも、満たされたならば戦えない。その理由をなくされ、欲求を満たされた人間は戦うことができない。それは神々の末裔も同じだ。理性を頼りに行動する限り、理性がそれでよいと判断してしまったらそれ以上前に進むことはできず、それでも抗おうとした結果として、手に入れた終着点を手放してしまうことを怖れる。
彼等は言い様のない居心地の悪さを覚えていた。咽頭に指を捺しつけ、込み上げる生理的嘔吐を必死に押し戻そうとしているような虚しさを懐いていた。
これでいいのかと悩み、これでいいのだと囁く自分がいる。これではいけないと抗う心もあったが、されど提示された終着点は理に適っており、そして蠱惑的だった。
「私は――……」
晴香が口火を切る。幸音は沈黙を続けることで、晴香の言葉を支持する。
「私達は、この申し出を――」
そして彼女は言い切った。日和がどのような表情をしていたか、知る者はいない。誰もが瞳を伏せさせて、自分の爪先を見ることで精一杯だった。
「承諾しよう」
マリアの声が響き渡る。戦いは妥協で終結した。
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