魔女

私があなたを愛してあげる

 意識が叩かれる。肌に触れる感覚があまりにも繊細だったため、初め、私はベッドに横たわっていることに気付かなかった。耳の奥ではちいちゃんが私を呼ぶ声が響いている。一挙一動に合わせて浮き沈みするベッドの上を、這いずるように移動する。足を下ろした床はおそろしく冷えていて、このまま素足でいたならば骨髄まで凍ってしまうのではないかと不安になる。

 気付けば服装が変わっていた。チュニック丈のキャミワンピースの色はシアンで、絹のなめらかさが直に伝わってくるから、私は肌着をつけていないのだろう。

(誰が……)

 ひたひたと素足を動かす。等間隔に灯されている燭台を追いかけると、一枚の扉に行き当たった。淡いクリーム色の、アルミ製の横引き扉。それは、学校の教室の扉だった。

 なぜこのような場所にあるのかという疑問を振り払い、扉を開く。その先に広がっている光景も教室に違いなかった。黒板にはチョークの消し跡。整然と並べられた机には体操着がぶら下がり、そして、私が手を置いた机には《女々しい日和》と落書きがされていた。

 胸が喘ぐ。ここは《僕》が通っていた教室だ。

 戻ってきたのかと訝しみ、けれど、私は私のままで、僕には戻っていない。

 机が蹴散らされる音に肩を震わせる。誰もいなかったはずの教室に突如として人が現れる。その一人は唐谷で、一人は鉄二で、最後の一人は《僕》だった。

《なあ、遠里小野ちゃん》

 ぞっとする声が響く。唐谷の声が恐怖の対象となっていることを自覚する。女の子になって全てが解決したつもりでいた。全てから解放されたつもりになっていた。それでも根っこは何も変わっていない。私は臆病な《僕》でしかなかった。

 目を逸らすことができない。私は彼等を凝視していて、彼等は私を一瞥しようともしない。

「無駄よ。あの子達には私が見えていないから」

 声がした。目が眩むほどのなめらかな動きで視界が流転し、意識が澄まされると、そこには私がいた。椅子の上で器用に膝を抱え、私と同じ姿をした人物が私を見つめていた。

「酷いよね」

 私と寸分違わない少女が指さす方に、目を向ける。そこには組み伏せられた《僕》がいる。

「酷いよね」

 少女は繰り返す。私にそっくりな貌で。

「抗わないの?」

 私は訊ねられ、そして試される。不条理を享受するのか、打開するために動くのか。

 教室の景色が遠くなる。崩壊した景色は泡沫となり、霞みゆく眩さへと手を伸ばす。何も掴めなかった手のひらが下ろされたとき、私達は草原にいた。唐谷と鉄二の姿は消え去り、私と、僕と、私に似た少女だけが残される。少女は人差し指で唇を拭い、その指で僕を示した。

「僕はこのままでいいの? 私は安寧を願わないの?」

 少女は訊ねてばかりだ。私を試すばかりだ。それをあしらうことのできない私はとんだ不器用で、意気地なしで、それでいて言葉をうまく操ることができない。

「そんなの、分からないよ」

 また、同じ言葉だった。分からないなんて無責任な言葉で、思考も、意志も、勇気までも捨ててしまうのか。なぜ私は断言することができないのか。とつおいつする私の横を通り過ぎ、少女は揺れるような足取りで僕へと向かう。

「僕が敵うはずはない。僕にできるのは、ただ何もしないで、時が過ぎるのを待つだけだ」

 少女は僕の心を語る。

「私はあなただから、あなたを誰よりも理解している。それはあなたが知らない心さえも」

「私の――知らない心?」

「えぇ。そして、自覚していようがいまいが、それは確かにあなたの心よ」

 少女は僕の頬に手のひらをあてがうと、伏せられた貌を持ち上げた。僕の貌には、紅いモザイクがかかっていた。モザイクは不規則に蠢き、僕の貌を見せたり見せなかったりする。

「見えないわ」

「だったら、触れてごらんなさい」

 恐る恐ると指先を伸ばし、僕の貌に触れる。モザイクは後退して、彼の貌を曝け出す。その表情を形容する言葉を私は知らない。けれど、敢えて表現しようというなら、

「抗わないのと、憎まないのは別よ」

 それは憎しみとなるのだろう。

 モザイクは一気呵成に沸き立つと私の指先を喰い破って体内へと這入り込み、血潮に乗って全身へと広がっていく。それにつられて誰かの笑い声が、乱暴で、哀しい声が聞こえる。

 私だ。そこで笑い、泣いているのは私だった。

「私は――……こんな化け物を飼っていたというの?」

 胸を握り締める。吐き捨てた言葉は虚しさだけを宿していて、裡に秘められた醜さは静かに燃えていて、それでいて私は安堵する。私が憎しみというマイナスを感じられていたことに。

「化け物なんて呼ばないで。それも僕であり、あなたであり、私なんだから。受け入れてくれないというのなら、私は迷子になってしまう」

「……どうすれば、いいの」

 縋るように訊ねる。それは自分の心のはずなのに、私には扱い方が分からない。

 少女が微笑む。それは私の言葉を待ちかねていたようだった。

「かわいそうな日和」

 耳朶の傍で囁かれる。甘言で誑かし、優しい嘘を並べ立て、その巣穴に迷い込んだ人間を喰らうようなイキモノが存在するのだとすれば、それこそが悪魔と呼ばれるのだろう。

「私があなたを愛してあげる」

 それが女性だったなら、そのヒトはきっと《魔女》と呼ばれるのだろう。

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