皮肉

 ボルトアクションライフルは狙撃銃に属するため、薫には遠距離攻撃が最も適していると言える。しかし、それが適うことは滅多にない。戦場は戦いづらさを提供することはあれど、自分にとっての有利性、戦いやすさを用意してくれることは稀だ。ここもそうだ。そもそも狙撃とは、撃たれる側が撃つ側を認識していないから威力を発揮するのであり、認識され、警戒されたなら成功率は大幅に落ちる。反撃も受けかねない。それなのにこの大広間はどこまでも平坦で、隠れられる場所などなく、敵対者は彼を認識している。故に、彼は魔法に頼る。

 暴食の体が宙で捻られる。鎧という枷を力づくで隷従させ、少年はそれを吐き出した。毒々しい紫紺の、粘土と石鹸を混ぜ込んだような質感の物体が、暴食の矮躯から吐き出される。その大きさは彼の数倍にも及び、極太の蛇のような形をした物体の先には口が付いている。黄土色の歯の隙間からは粘性の高い唾液が撒き散らされ、それはまさに《暴食》の体現であった。

 口が開く。すえた口臭が周囲に広がり、それは薫に襲いかかった。噛み付かれる。ちょうど腰の辺りだ。しかして上半身は持っていかれず、血も流れず、中切歯は薫の体を通り過ぎた。せいぜい陽炎のように揺らめく程度の薫の姿を前にして、暴食は首を捻る。

 直後、引き鉄が引かれる。毎秒五百メートルの炎弾が暴食の血肉を抉るよりも速く、《口》が弾丸を呑み込む。その程度のことで消えることのないプロメテウスの炎が《口》を蝕むが、暴食は迷うことなく口を切り離すことで、炎が本体に害をなすことを防いだ。

「忘れるとこだった。アスモデウスはそれでやられちゃったんだよね」

 暴食は飄々と笑い、嫉妬と貪欲を相手に奮戦する幸音を一瞥した。

「あの二人を相手にしながらこちらにも介入するなんて器用な真似は褒めるしかないけど、蜃気楼なら、要はお兄ちゃんが見えていないところを狙えばいいんでしょう?」

 暴食は再び《物体》を吐き出す。今度のそれは数多の蛇の形状をしていた。その全てにお粗末ながらも口が付いており、歯を咬み合わせる音が連なって不気味な音色を奏でる。

 薫は諦観する。幸音の蜃気楼を隠れ蓑にするのはここまでのようだと。

 薫が立て続けに二発の弾丸を撃ったのと、数多の蛇が動き出したのは同時だった。縦横無尽に隙間なく、蛇は薫の姿がないところに喰らい付く。魔力殺しの術式に保護されていないのか床は砕け割れ、砂礫の煙幕を作り出す。軌道を狂わせたのか、実際に結ばれている薫の像へと蛇が触れ、直後、彼の右頬の肉が齧り取られた。

「あれ、今度はほんもの?」

 血潮を流しながら薫は駆け出す。蛇と蛇の間をすり抜け、迫ってくる蛇を銃身バレルで薙ぎ払う。距離を詰め、跳躍し、着地する。両足は暴食の肩に、銃口マズルは暴食の口内に突き入れる。

「同じ手を二度も使うわけがないだろ」

 真っ白な歯がライフルを噛む振動を感じながら、彼は撃った。右手のライフルを暴食の口から抜き、左手のライフルを入れ替わりに突き入れて撃つ。衝撃に堪え切れず、暴食の頚椎はガクリと反れる。薫はそっと暴食の肩を踏み蹴った。暴食の体が黒炎を纏う。行き場を求めた炎は彼の口からも放出され、去り行こうとする薫の爪先を掠めた。

「ナイスタイミング」

 幸音と背中合わせに着地する。無言で意思疎通を成し遂げ、彼等は騎士から距離を取った。嫉妬と貪欲に追いかけてくる様子は見られず、代わりに、嫉妬はまるで聖母がそうするかのように、身を焼かれることも厭わずに傷付いた暴食を抱き締めた。

「これは、いけないなぁ。喰い切るのに……時間がかかる……」

 暴食は呻き、縋り付くように嫉妬の体に腕を回した。

「驕りを捨てきれなかったからですよ」

 嫉妬は静かに暴食を宥め、治せそうですかと訊く。

「喰い切る前に……こっちが果てそうだ。さすがは神と、いったところか」

 血反吐の代わりに黒炎を吐き出し、暴食は衰弱した目で貪欲を見つめた。

「だから――食べてくれ」

 暴食の真意を図りかね、薫は俄かに目を瞠る。それは幸音も同じようで、しかして、彼等はすぐに理解した。嫉妬の隣で立ち尽くしていた貪欲が身を屈め、燃え盛る暴食の頭部と肩を掴んで彼の首を曝け出し、そこに嚙り付いたことで。貪欲の表情にさしたる変化は認められない。ヒトが豚を喰らうように、魔獣がヒトを喰らうように、然も当たり前といった風情で悪魔が悪魔を喰らう。貪欲は手を暴食の胸へとずらし、その心臓を抉り出した。暴食の瞳から色が消える。瑞々しく鼓動する心臓だけを残して、彼の体は灰燼に帰す。

「それほどまでに不思議か、人間」

 訊ねられるほどには、薫の瞳は怪訝を示していた。

「それなりには、な。哀悼というわけではないんだろう?」

「手にかけた本人がよく言ったものだ」

 貪欲の言葉は薫を非難しているようにも、貪欲の直接の生死に関わった自分を諫めているようにも聞こえた。

「だが、殺したのはアンタだ」

 貪欲は顔を俯かせる。彼の喉の奥からは、ウウウと唸りが聞こえる。

「違う」

 そして彼は否定する。静かで、それでいて誇張しながら彼は否定する。

「小生は暴食を殺したのではない。引き継ぐのだ、彼を」

 心臓が一息に口に含まれる。噛み潰された心嚢は破裂して、肉袋に詰められた血潮を撒き散らす。そして彼は喉を上下させ、心臓を嚥下する。

 変化はすぐに訪れた。ゴボリ、ゴボリと嗚咽を鳴らしながら、貪欲は粘土と石鹸を混ぜ合わせたような物体を吐き出す。極太の蛇を思わせる形状のそれは、暴食の《口》であった。

「魔法の強奪と隷従、それが小生の魔法だ」

 口の底から濁った声が昇ってくる。カキキキキと牙の群れが鳴らされる。

「付け加えるならば――その能力は本来の持ち主を凌ぐ」

 口が揺らめき、直後、それは薫の眼前にあった。新鮮な血の臭いに噎せ返る。

「薫くん!」

 呼ばれたことで意識は目覚め、咄嗟に銃身を滑り込ませることで噛み付かれることを回避した。だが、対抗できたわけではない。足はほとんど着かず、地面を舐めるように、直線距離にして三百メートルを押し飛ばされた。薫を追いかけようとした幸音は嫉妬に阻まれる。

「貴方の相手は、わたくしが致しますわ」

 悪魔のくせに淑女的なセリフを言う嫉妬を睥睨して、薫は貪欲へと意識を研ぎ澄ます。銃身を握る手を伸ばし、地面を強引に踏み蹴って銃口側に体重を乗せる。前転をするのと同じ要領で体が回り、薫は《口》の胴部に足を着いた。丸太よりも太い胴体の上を駆けて、貪欲へと向かう。貪欲は口を噛み千切り、続いて唇を窄めた。何かが来ると直感が叫び、薫は迷うことなく逃げの一手を取った。真上に跳躍すると同時に、眼下を炎の濁流が流れる。

「この、曲芸野郎が!」

 着地、すかさず後方に跳ぶ。幸音と合流することは適いそうにない。

「――……プロメテウスの火か」

 相対する薫を見据え、騎士は懐かしさを噛み潰すように呟く。

「知っているのか?」

「古の大戦に於いて、奴とまみえた。奴は強かったぞ。なにせ、小生の躰をこんなにしおった」

 貪欲は鎧の胸当てを外し、それを晒す。彼の胸には、肉を削り取って作られた孔が空いていた。四秒半ほど薫に孔を見せつけてから、貪欲は胸当てを着け直す。

「やめておこう。老いぼれの武勇伝ほどつまらないものはない。それよりも――」

 貪欲は左腕を横に伸ばし、あるものを顕現させた。

「貴様にとってはこちらの方が興をそそることだろう」

 それは樹の根だった。実際の樹がそうであるように根端からは新たな根が延びていく。根は寄り集まって幹となり、裂き別れた幹は枝となり、葉を茂らせて大樹となる。

 樹の神、句句廼馳くくのち。それは、緋奈が契約を交わした神だった。

「なぜ――……どうしてお前がそれを持っている」

「二度も同じことを繰り返させるな。小生の魔法は強奪と隷従だと言っただろう」

 まさか、まさかと否定する。しかして現実は変えようがなく、懐疑に対して甘い答えを用意してくれることはほとんどない。世界は、理想に対しては厳しすぎる。

「緋奈を喰ったのか⁉」

 今回に於いても、運命の女神フォルトゥーナは他所を向くだけだった。

「あの少女の名は、緋奈というのか」

 七週間と五日前がフラッシュバックする。幸音と晴香、緋奈と共に魔女の巣に足を踏み入れた。彼は緋奈の手を握っていた。この命を擲ってでも守りたい妹を、奪われてなるものかと。

 だが、彼は手を離してしまった。騎士の一人を殺めるために両手で武器を握り、無我夢中で戦った。騎士が身を引いたことで終結を迎えたとき、彼の隣に緋奈はいなかった。そこに悪魔の死骸があるわけでもなく、何の戦果もなく、ただ、最愛の人物だけが消えていた。

 緋奈はどのような最期を迎えたのか。それを想像することはできない。近付くことはできても痛みを共有することはできない。たとえ兄妹でも、どれほど親密であったとしても。けれどこれだけは断言できる。彼は、緋奈と、彼女の名残とこんな形で再会したくはなかった。

「……訊いてもいいか?」

 怒りを噛み殺す。なぜ引き鉄を引いていないのかは分からない。

「今までに何人の契約者を喰ってきた」

「凡人なら飽きるほど喰ってきたが、非凡はあの娘が初めてだ」

「その少女を憶えているか」

「異なことを訊く。人間とて生き物を喰らうだろう。貴様はそれを糧とするときに思慮を及ぼすのか? それが辿ってきた生涯を、喰われることへの想いを汲み取ろうとしたことがあるのか? 姿形とて同じことだ。喰らった事実は事実として憶えていようが、その他のことは憶えようとしないだろう。貴様を含めた人間がそうであるように、小生もそれに違わない」

 あぁ、だがな、と貪欲は喉を鳴らす。

「契約者というのは非凡なだけして、美味であったことは憶えている」

「……そうか」

 薫は茫然と呟く。頭の右側は納得していた。左側は否定していた。忘れることへの覚えはあり余るほどある。それが当然であることは理解している。生きることは喰らうことで、喰らうことは失くすことだ。しかし、その当然が許せないのは、それが緋奈のことだからだろう。

「潰えしたいか? 小生の中から、あの娘の魂を」

 物欲しそうな顔でもしていたのだろうかと疑問に思う。石畳の床は鏡のようには映してくれず、影が落ちるくらいだ。だが、見る必要はきっとなかったのだろう。

 薫は失った温もりを忘れようとはしない。忘れず、縋り付き、取り戻そうとする。そんな彼だからこそ、彼が喉の奥から欲しているものを忘れようとする輩には、その名残さえも預けておけない。そんなことは赦さない。

「待ってろ。すぐに取り返す」

 彼の言葉はきっと届かなかっただろう。句句廼馳の大樹は落ち葉を散らし、刃と化す。

《兄貴の武器は少ないね。両手に持ち切れるだけなんて》

 緋奈の言葉を思い返す。両手に持ち切れるだけの武器しか扱えないものが人間のはずなのに、緋奈は両手に余る武器を操ることができた。大樹に茂る葉というものはいくつあるのだろう。数えることはばからしい。緋奈さえも《いっぱい》としか表現しなかった。

 そんな、いっぱいな武器を空に浮かばせながら緋奈は言うのだ。

《兄貴は兄貴の両手でかばい切れるものだけを守って。兄貴の両手で足りないものは、届かないものは、緋奈が守るから》

 もしかしたら守っていてくれたのだろうか。緋奈が消えてしまったあの回廊で、緋奈は彼の手が届かない背中をかばってくれたのだろうか。自分が口にした言葉の通り、薫が掴み切れなかったものを緋奈は掬い上げたのだろうか。その結果が隷従であったにもかかわらず。

 ならば、なおさら彼は句句廼馳を取り返さなければいけない。緋奈の魂だけでは足りない。彼女の魂と、彼女の魔法を取り戻す。それが緋奈を生き返らせるということなのだ。

 兄というものは見栄っ張りで、格好つけたがりの生き物だ。妹に守られていることに甘んじることなどできない。守り返したいと願う。もしも手が届きそうにないのなら、それを覆そうとする。それが、緋奈が兄貴と呼んで慕っていた、薫という青年の在り方だった。


 ライフルの銃床を天蓋に向け、薫は銃身から手を離した。銃口が床に触れると、ライフルは水面に沈むようななめらかな動きで瓦解する。銃床の終わりまで欠片となり、ライフルは姿を消す。一瞬きのうちに薫の武器は消滅し、もう一瞬きを挟むと、そこにはライフルの草原が広がっていた。草原と喩えるのは誇張が過ぎるかもしれない。それでも、千人の兵士が現れたとしても兵站が不要であるほどのライフルが姿を現した。それは、彼の両手にはあり余る。

「どうだ、緋奈。俺は少しでも成長できたか?」

 手近のライフルを掴む。射出された炎弾は句句廼馳の葉に阻まれて貪欲には届かない。落胆に意味などない。すかさずライフルを投げ捨て、手近なものに手を伸ばす。撃ち、捨て、掴み、また撃ち、また捨てる。装填時間を失くしてひたすら撃ち続け、その全ては阻まれる。

 緋奈を褒めてやりたくて、誹りたくもあった。所詮は緋奈の言葉通りなのだ。いくら数を増やそうとも、薫が扱えるのは両手で賄い切れるだけ。一度に三発は撃てず、四発も撃てない。単射しかできないこの銃では、二発が絶対的な限界だった。

「素晴らしい使い心地だ」

 悦に入るように貪欲は言う。彼の手が樹皮を撫でる。ざわざわと葉が啼き、枝のひとつが貪欲の腕に巻き付く。それは見たことのある光景だ。緋奈はそうやって句句廼馳と言葉を交わしていた。懐かしさに似た情動が込み上げるが、その姿が緋奈でないことに怒りを抱く。

 引き鉄に指をかけたままで薫は走り出す。遠距離からの射撃は句句廼馳に全て防がれてしまう。神の防御を突破できるはずもなく、それならば、零距離に迫る他にない。

 頭を下げると、髪が数本持っていかれた。ほぼ腹這いに近い前傾姿勢で前に進む。ガツリガツリと背後で石畳が砕ける音がする。薫の進んだ軌跡を辿るように、句句廼馳の葉は紅簾石に散りばめられていく。その様子を見て、薫は「やはり違う」と感じる。確かにあれは緋奈の名残だが、緋奈のものではない。貪欲は句句廼馳を御することなどできていない。

 貪欲の元まであと数メートルというところで薫の視界はひっくり返った。左右に揺られながら視界が高くなる。彼の足は句句廼馳の根に絡め取られていた。考える暇もなく振り回され、床に叩き付けられる。衝撃で肋骨が折れたが、薫が痛みを感じることはなかった。

「なるほど、このような使い方もできるのか」

 貪欲は確かめるように手を握り締め、腕を横に振るった。再度放り投げられようとして、体が完全に浮く前に、句廼馳の根を撃つ。射出済みのライフルを放り捨て、空いた手で断裁した句句廼馳を掴む。本体へ戻ろうとしていた根は動きを変え、薫を上空へと持ち上げようとした。すかさず彼は手を離し、広げられた距離を詰めるために再度駆け出す。

 そんな彼にめがけて葉の刃は投擲され、根は鞭となって振るわれ、枝の剣戟が繰り出される。銃身で薙ぎ払い、銃床で叩き落し、炎弾で焼き落とし、そうやって必死に躱しながら薫は思う。句句廼馳を御し切れていなかったのは、ともすれば、緋奈の方ではなかったのかと。

 枝、葉、根、根、枝、葉、枝、根、葉、葉、根、枝。目まぐるしい。されど立ち止まることは許されない。迷いは臆することであり、臆した先にあるのは終わりだけだ。

 下腹部が打たれ、臓物の一部が潰れた。痛みはなかったが、唾液に血の味が混ざる。

 根と葉と枝の隙間から貪欲の姿が見える。彼は離れたところから、薫の姿を悠々と眺めていた。自らは身命を削らず、安全が保障されたところから他者を使役する。その意思を蔑ろにして魂を蹂躙する。その姿は《作られた悪魔》である貪欲を実によく表していた。だからこそ奴に句句廼馳を預けてはおけないと薫は奮い立つ。それは、やはり緋奈と共にあるべきだ。

 薫の足は次第に貪欲から離れていく。句句廼馳がいない方へと逃れていくうちに、ライフルの草原は密度を薄めていく。薫が駆け抜けた後には、取り損ねたか、或いは使われることのなかったライフルが残されていた。そして、遂にライフルの草原は途絶えた。紅簾石の床だけが延々と広がり、その静けさは背後の俗事を嘲笑しているようだった。

 薫は唐突に足を止め、貪欲へと振り返る。貪欲は腑に落ちないと言わんばかりに表情を曇らせる。それもそのはず、薫は両手の武器を投げ捨てたのだ。それが意味するものは諦観か。

 否、彼に諦めるなどという選択肢は存在しない。

 薫は銃床を握り締めているときと同じように右手を形作り、引き鉄を引く仕草をした。

「爆ぜろ、プロメテウス」

 そして、句句廼馳はプロメテウスに襲われた。その全てが炎に呑み込まれ、灰燼に帰す。

 貪欲は本当におかしな貌をしていた。彼の脳裏を過ぎっているであろう言葉は容易に想像できる。けれど薫は答えを示さない。或いは幸音なら嬉々として明かしただろうが、薫は手の内を晒すことを嫌悪し、恐怖さえ抱く。彼は誰よりも臆病であり、だからこそ生き延びてきた。

 引き鉄を引く仕草を繰り返す。耳を傷めつける轟音とともに黒炎は湧き上がり、傍らにあった句句廼馳を巻き込む。吹き飛ばされた破片が火の雨を降らし、その中には砕けたライフルの残骸が混ざっている。そこでようやく、貪欲は句句廼馳を焼き払う炎の正体に気付いた。

 それは特別なものではなく、先端に蓋をした状態で引き金を引けば危険というだけの話だ。それもプロメテウスの火が引き起こすのだから、暴発を通り越して爆発に等しい。

 その意味で言えば、ここは《ライフルの草原》ではなく《地雷原》だった。それも、薫の意思に従って爆発する、有能な地雷原。

 貪欲は横を一瞥して、振り返り、前へ視線を戻す。彼が佇む場所は、地雷原の中でも最多のライフルが密集する場所だった。或いは句句廼馳の根で周囲のライフルを薙ぎ払えば爆発を回避できたかもしれないが、悪足掻きは恥であると言わんばかりに、彼は微動だにしなかった。

 撃鉄の下りる音が連鎖する。黒炎は数珠つなぎとなって広がり、貪欲を呑み込んだ。

 まず初めに爆音が轟く。鼓膜が破裂してもおかしくないほどの轟音が大広間に伝播する。次に訪れたのは衝撃波だ。紅簾石の床は粘土細工を壊すようにあっさりと剥がれ、爆心地を中心にして同心円状に周囲を吹き飛ばした。薫は対爆スーツ以上の防御力を備えたローブで身を守りながら、膂力の限りを尽くして地に這い蹲る。そうでもしなければプロメテウスに抗うことはできない。

 あらゆる物質、大気までも吹き飛ばして真空状態になった爆心地へと大気が戻り始める。それを感じ取り、薫は這い蹲ることをやめた。引きずり込まれるままに、体を任せる。



 彼は人間に作られた悪魔だった。中世ヨーロッパでは、神々に仕える人間が世界を統治していた。彼等は聖職者であったものの純真に神を阿る者は少なく、その多くは心に悪魔を飼っていた。偽善の肥溜めが氾濫する世の中に於いて生まれ落ちたのが《彼》という悪魔だ。

 それは、ちょうどヴァルハラが終結を迎える間際のことだった。

 彼は姫殿下マリアを母とせず、帝王サタンを父としない。敢えて起源を探るならば、それは人間となる。魔族でありながら根源を魔族としない。魔族の中にいて魔族になり切れない。

 劣等感と自己嫌悪は渦を巻き、彼をある種の使命感に突き動かした。奇しくも彼の魔法は略奪と隷従だった。神から、人間から、同族から奪う。奪った数に比例して自分は魔族に近付けると、彼は信じて疑わなかった。

 だが、同胞殺しは重罪だ。ヴァルハラが過去となった煉獄には姫殿下を王とした規律社会が築かれ、罪と、それを犯した者への裁きが厳格に定められていた。

 奪うことは罪だった。奪えないことは《地獄》だった。罪を犯して魔族となるか、保身を選び半端者で居続けるか。選択することはできず、半端者は半端者らしく第三の道を選ぶ。


 掘り返されたばかりの土は、柔らかい。彼は土気色の外套で姿を隠して、無心で眼前の土を掘り返していく。シャベルを使えばもっと楽に掘れただろうに、彼の頭は、そのようなことも考えられないほどに切迫していた。大粒の汗が頬を伝うが、気にならず、拭うことはしない。呼応するようにプロメテウスに空けられた孔が疼く。誕生して間もない彼に対して、プロメテウスに容赦などなかった。それは彼が魔族である以上に、人間を親とするためであったからだろう。神々に疎まれ、されど魔族にもなり切れない己を象徴するものがその孔だった。

 非力であった戦場の記憶を捨て去り、真の魔族となるために彼は奪いたいと欲する。

 ほどなくしてそれは現れた。二メートルにも及ぶ箱の中に納められているものは、死に化粧を施された妙齢の女性だった。その骸の名前さえも、彼は知らない。

 土で汚れた手を外套で拭い、女性の手を取る。持ち上げた腕は冷たい。

 迷いがなかったと言えば嘘になる。しかし、後戻りできなかったことも確かだ。

 肺から息を絞り出し、苦しみとともに彼は嚙り付いた。硬直した肉を噛み切ることは難しく、死者の肉、同胞の肉は、腐った目玉を煮溶かした汁のように酷い味がした。吐き気と嗚咽に苛まされ、えずきそうになる喉を必死で抑え付け、ボロボロと滂沱の涙を流しながら嚥下する。食事は作業であり、強奪は苦痛でしかなかった。それでも彼は作業を続け、心臓を呑み込む。

 戦慄く唇の隙間から、苦悶の声が零れる。それは罪悪感のためか、歓喜のためか。非力であった彼はヴァルハラに於いては奪われるだけで、奪うことはなかった。しかし、今、彼は奪った。隷従を成し得た。彼の中に魔族の血が入る。彼は、僅かでも魔族に近付いた。


 彼の奇態は魔族の知るところとなった。《悪食》、《骸喰らい》、《舌狂い》。彼を揶揄する言葉は幾多も生まれたが、彼が奇態を繰り返す理由を知る者はいなかった。

 喰らった骸は百を超えたが、隷従を成し得たものは五指で余りある。それもこれも、彼が依然として半端者であるからだろう。百五体目の骸を喰らうために墓場を訪れた夜のこと、そこには麗しい乙女がいた。彼女がマリアであることを、彼は一目で理解した。

「随分と変わったことをしているようね。死肉はそんなに美味しいのかしら」

 彼女の言葉は、端々までが棘を孕んでいるようで、伏せた貌を上げることはできない。裁きの時は思ったよりも早く訪れ、それ以上に、遅すぎるものでもあった。

「目を瞑り、その口を開けなさい」

 彼は素直に従う。これで終わるのかと思えば寂しい気もしたが、半端者であることにも疲れていた。何よりも魔族の姫が手を下してくれるのだ。それは、誉れ以外の何物でもない。

 柔らかな物体が歯に当てられた。これは何かと訝しむが、確かめる勇気はなかった。

「噛みなさい」

 従う。堪らず、彼は目を見開いた。彼の卑しい口に押し込まれていたものが、姫殿下の御手であったことに気付いて。死肉を食み続けてきた歯が姫の肉に刺さり、骨から肉をこそげ取る。甘美な血の香りは葡萄酒よりも鮮烈に、酩酊を覚えさせる。腕が引き抜かれ、彼の口内には姫殿下の指が残された。吐き出そうとして、肉を纏わない指で口を塞がれる。

「呑みなさい」

 その囁きに抗うことはできず、肉が喉を滑り落ちる。

「魔族でありながら人間を根源とする子。魔族と人間の狭間で溺れ、それでもなお魔族であり続けようとするあなたにこそ、この名は相応しい」

 貪欲――人間を根源とする彼は、その呼び名を拝命した。人間に作られ、魔族であろうとした暁に《貪欲》を拝命し、七大罪の末席に加えられた彼の終焉はどのように訪れるのだろうか。



 灼熱が立ち昇る。金属音が連鎖して、視界からライフルが瞬くうちに姿を消していき、代わりに爆炎と爆風を散らす。大地に絡められたままの腕に意識を凝らす。この神の名は句句廼馳といい、彼が六番目に隷従を成し得た娘の力だった。

 ただ一言、守れと命じる。娘の魂はそのようなことをしたくないだろうが、拒むことは許されない。それが奪われ、隷属させられるということだ。

 腕を覆っていた句句廼馳は被覆範囲を広げ、鎧の上にもう一層の楯を形成した。視界までも奪われ、暗闇の中で、貪欲は衝撃に襲われた。それは永遠に続くように思われて、あまりにも刹那的な出来事だった。煤の塊となった句句廼馳が崩れ落ちていくにつれて視界が開ける。貪欲は無傷だった。薫の最愛の人は、紛れもなく隷従を強いられていた。

「皮肉なものだな」

 独言は立ち込める粉塵の幕に吸い込まれていく。彼の右腕には、句句廼馳の根が二本ばかり残されていた。大樹を作り直そうと右腕に意識を凝らしたとき、粉塵の幕を掻い潜って敵は現れた。紅眼を炯々と輝かせ、白髪を煤で染め上げた人間の子は貪欲に対峙する。その手に握られたライフルが向けられ、彼は咄嗟に、僅かばかりの句句廼馳を振るう。

 そして――、貪欲は貫かれた。

 誰がこの結末を予期できただろうか。薫は虚に突かれたのか表情を凍らせ、何よりも貪欲自身が理解できず、事後でさえ、下腹部の痛みが幻覚ではないかと疑ってやまない。目を下ろし、近付いたり遠ざかったりする視界の中で、貪欲は腹に突き刺さった句句廼馳の姿を捉えた。呼吸はままならず、心臓は破裂してしまいそうだった。

「緋奈は、アンタを認めないようだ」

(あぁ、そうか、なんという皮肉だ)

 貪欲は冷笑を浮かべる。人間に作られ、人間から遠ざかろうとした彼は、人間によって終わるのだ。眉間に銃口が押し付けられ、瞑目する時間もなく撃鉄が下ろされる。

 だが、少なくとも、彼はそこでは終わらなかった。銃口は天蓋へと跳ね上がり、プロメテウスの火は的外れな場所へ射出される。何が起こったのか、誰に助けられたのかと疑問を募らせた彼の頬に、翡翠色の髪が触れた。

「レ……ヴィア」

「惨めね姿ですね、マモン」

 嫉妬は貪欲を抱え、後方に跳躍する。句句廼馳はもはや彼の手中にはなかった。

「神々の末裔はどうした」

「斃すことはできませんでしたが、お土産があります」

 そう嘯き、嫉妬は幸音の腕を取り出した。

「……ホルマリンがいるな」

「あら、わたくしは蒐集だけに興味を懐いているわけではありませんことよ」

 逃走の果てに、彼等は姫殿下の寝室の前まで来ていた。朦朧とする目では八百メートルの彼方を窺うことはできない。嫉妬は貪欲を床に臥せると、幸音達へと眼差しを送った。

「一人で……戦うつもりか」

「わたくしは騎士ですから」

 彼女を引き留める手立ても、理由も彼にはなかった。従えたはずの魂は叛逆の意志を示し、句句廼馳はこれまでの雪辱を払わんとするばかりに彼の体を蝕む。句句廼馳は貪欲を貫くだけに留まらず、彼の体内に根の先端を残していった。内側から臓物を喰い破られる感覚とは、なんと恐ろしいことだろう。手は届かず、視えず、終焉への門扉が開かれていく。

 嫉妬は立ち上がった。死ぬなとは告げられず、代わりに忠義を尽くせと告げる。嫉妬がどこか傷付いた表情で首肯したことで、自分は彼女に「死ね」と告げたことを理解する。

 なぜだろうか、痛みが薄らいでいく。苦しみも、生涯に於ける葛藤も、全てが無意味であったように思える。つと、貪欲は自分を見下ろす瞳の存在に気付く。

「子等よ、よく尽くしてくれた」

 たとえ形式的な常套句であったとしても、その言葉は讃美に他ならない。

《貴女様に重用して頂き、小生は幸福でした》

 青褪めた唇はきちんと発声できていただろうか。少なくともそこで貪欲の意識は途切れた。

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