躍らされていた
厚さ二ミリの鋼に、体重の全てを乗せる。引き絞った腕を真っ直ぐに伸ばす。肩から先、太刀の切先に至るまでがひとつの線となるように。直後、火花が散る。
「どうして⁉」
振動する刃は騎士の左胸で止まっていた。血の一滴も流れず、その肌は撓みもしない。
「ちいちゃん、避けて!」
叫び声に身を翻す。弧を描くように跳躍した晴香の背面を、光の矢が疾走する。矢は騎士の眉間に触れるや否や、塵芥の残滓と化した。ただひたすらに硬い。騎士は立ち上がることもせず、ただ頬杖をついて座っているだけのことで彼女達を凌駕していた。
「早く魔法を使わないか。儂をこれ以上退屈させるでない」
「言われなくても使うわよ!」
そうして晴香は魔法を使わせられる。騎士が襲いかかってくるとは思えなかったが、詠唱を終えるまでは無防備となる。挙げ得る魔法の欠点と言えば、この他にない。膝を突いて詠唱を始めた晴香の前に立ちはだかり、彼女を守ろうと、日和は楯となる。
光の矢が唸りを上げる。放たれるときは細く鋭く、遠くで騎士に当たるときは鈍い音を上げる。魔法の矢は途絶えることなく、放たれては彼女の手中に現れる。彼女は必死の形相で矢を射かけ続ける。つと、乾いた音がして、晴香の頬に生ぬるい血潮が飛んできた。日和の指先が裂けたのだ。焦りが晴香の胸を焼くが、彼女は一言一句を間違えないように、阿りの言葉が失われた神々へと届くように心を込めて、詠唱を続ける。
「氾濫せよ、ネプトゥーヌス」
それを皮切りとして、透明な水に色が宿る。それは荒れ狂う海の色をしていた。獰猛な嵐の色。引きずられるように近傍の水がさざめき、太刀を頭上に振り上げて火の構えを取れば、芯が通ったように水が螺旋状に持ち上がり、太刀に絡み付いた。
「ありがとう、ひよちゃん」
呼びかけに、日和は背後を振り返った。美しかった指先は罅割れ、彼女は痛ましさを滲ませていた。
「お待たせ」
「いいよ」
汗を弾けさせ、日和は笑って応えた。
「あなたも待たせたわね、ベルフェゴール」
「構わぬよ。道化師の演武に拵えが付き物であることは、儂も承知しておる」
「あなた、本当に怠惰なの? 傲慢の間違いではなくて?」
「敬意を払うのも面倒なだけだよ」
なるほどと呟き、駆け出す。太刀が水面をなぞるにつれて刃に絡む水は増していく。けれど魔法で浮かぶ水に重さなどなく、鞭状の水が長大な刃を形成する。高圧、高密度。金剛石さえも切り裂く水の刃が振るわれる。闘技場の短径をゆうに凌いだ刃は大理石の壁を切り崩しながら騎士へと向かう。それでもなお、怠惰に避けようとする気色は認められず、代わりに彼は頬杖を崩した。刃と彼の首の間に挟まれていた赤銀の鎧は除けられ、彼の首は何にも守られていない。防ぐどころではなく、彼は進んでギロチンの下に首を差し出したのだ。
それでも騎士は悠然と座していた。その瞳は、欠け落ちた翼で羽ばたこうとする鳥を哀れだと見つめるものに似ていた。どうせ無駄なのにと見限る瞳、なぜ抗うのかと問われる。
刹那、太刀は騎士の首に沈み込んだように見えた。しかしながら、騎士の首は如何程にも傷付けられておらず、ただ、崩れた刃が通り過ぎただけだった。
「そんな、どうして……」
彼には魔法が通じない。その事実だけが晴香を打ち震えさせる。
「あぁ、面倒だ」
騎士は悲しそうに喉を震わせた。
「貴様を慰める術を、儂は知らない。儂には見いだせない。如何様の言葉も貴様を哀しめ、辱め、その心を谷底へと突き落とすのかと思うと、儂は悲しくなる」
そこで、騎士は初めて立ち上がった。
「何故に戦うのかと問うたが、儂は到底戦いたくなどない。命のやり取りも、勝利の悦も、敵わぬと悟ったときの失意も、全てが面倒なだけだ。故に、儂は最強の楯を身に纏った。戦いを戦いとせぬために、不毛な努力へと押し下げたのだ。――だがな、神々の末裔よ。姫殿下に仕える我が身は闘争の輪廻から脱け出すことはできず、こうして、貴様を殺めねばならぬ」
騎士は晴香の胸を指差す。逞しい指先で光が螺旋を描き、紅蓮の炎が生じる。それはレイピアに似た武器となった。装飾の施された柄と、手の甲を覆う彎曲した板。騎士の赤銀の見目も相まって、気高き英霊の姿を、
「行くぞ、躱してみせよ」
正面で構えていたレイピアを旋回させ、騎士はそれを投擲した。太刀で薙ぎ払おうとして実体がないことに気付き、晴香は地べたに這い蹲ることで辛うじて避ける。
「そら、次だ」
二投目のレイピアが晴香の目前まで迫る。立ち上がったとしても、さらに身を這い蹲らせても避けることはできないと、煮え滾った彼女の脳は、冷静に把握する。横に転がる。先程まで心臓があった場所にレイピアは突き刺さり、大理石の床を瞬時にして蒸発させた。
熱波に肌を焼かれながら、膂力を振り絞る。しかし、続けざまにレイピアが襲ってくることはなく、代わりに空色の閃光が駆け抜けた。光の弓矢、彼女だ。煌めく矢は騎士に触れるまでもなく四散し、なめらかな円筒をなぞるように後方へと流れる。
「……貧弱な弓だ。辛うじて魔力を通わせてはいるようだが魔法ではない。儂を斃したければ魔法を使えと勧告したつもりだったが、貴様の耳は飾り物か?」
「使えないのよ、悪い?」
日和の責め立てるような口調にぽかりとしてから、騎士は剛毅に肩を震わせた。たっぷりと笑い、そして、興が覚めたようにピタリとやむ。
「それは勇敢ではない、身の程知らずというのだ、人間の小娘よ」
「そうかもね。それでも、少なくとも私には智慧があるわ」
それでもなお、臆することなく笑みを浮かべ、日和は闘技場を見渡した。
「うまく避けてね、ちいちゃん」
弓が絞られる。弦に番えられた矢は、拳ほどもある極大な断面を有していた。放たれた矢は騎士との距離を半分ほど詰めるとその場でとぐろを巻き、刹那、四方へと噴き出して光の雨となる。それは天蓋に、大地に、闘技場を舐め尽くすように広がり、騎士に襲いかかる。
そこで、晴香は目を疑う。騎士の貌に見たことのない焦りが生じ、彼は脆弱だと嘲笑った光箭を一矢残らず、防ぐ必要のないものまでレイピアで叩き落したのだ。どのような攻撃にも防衛を行わなかった騎士が、初めて身を守る。それも、魔法を使えない人間の一撃に対して。
「どうやら、防げない攻撃もあるようね」
その言葉を、日和は騎士ではなく、誰もいない天蓋へと放つ。騎士の瞳が重い色を宿す。彼はレイピアを顕現させると、日和に投擲した。晴香は駆け出し、日和の前に体を滑り込ませると彼女の体を左手で押しのけ、右手で足元の水を撫でる。水塊が厚い壁を成し、レイピアを呑み込んだ。相殺できはしないかと淡い望みを懐いたものの、せいぜい速度を緩める程度だった。だが、そうなれば避けることは容易い。
「小賢しい!」
騎士は平静をかなぐり捨てて咆哮を上げる。夥しい数のレイピアが視界を埋め尽くす。
「ちいちゃん!」
手を引かれ、日和に引っ張られるままにコロセウムの外縁へと駆け抜け、通ってきた小通路へと飛び込む。レイピアの群れはすぐ後ろにまで迫っていた。
「水! ありったけの!」
太刀を振るう。コロセウムを浸す水を搔き集め、水塊の壁を築く。一層、二層、さらに。四層目を形成する半ばでレイピアが到達した。壁が撓む。レイピアの速力は目に見えて衰えたものの依然として壁を貫こうとする。じりじりと侵食され、水蒸気で視界が埋め尽くされると同時に均衡は破られた。だが、二人は難なく躱し、通り過ぎたレイピアは小通路の壁に触れると呆気なく霧散する。熱くも何ともない、ただ闇を照らすだけの紅蓮が彼女達の髪を揺らす。
「よく気付いたわね」
「魔力殺しの術がかけられていて私達の攻撃が無力化されてしまうのだとすれば、彼等も同じでしょう? 魔族も神々も、同じ魔力に頼っているんだから」
「でも、いつまでも籠っているわけにもいかないわ。今は投げてくるだけだったから防げたけれど、こんなところに斬り込まれたら防ぎようがない」
晴香の訴えに、日和は放胆して答える。
「大丈夫だよ。彼は、
「行くわよ」
一瞬の目配せを交わし、ネプトゥーヌスを握り締めると突進する。目を巡らす。騎士は変わらず立ち尽くしていた。日和の言葉を脳裏で繰り返しながら、晴香は天蓋を仰ぐ。
《まずはベルフェゴールを炙り出す》
《炙り出すって、彼はそこにいるじゃない》
《違う、よく思い出して。ちいちゃんの刃は通らず、
《それなら、どうして攻撃は通じなかったの?》
《落ち着いて思い出して。あの時、私の攻撃には何の違いがあったのか》
それは攻撃の対象、攻撃の乱雑さ。晴香の剣戟も日和の初撃も、視認できるベルフェゴールの姿を狙った。そこに彼がいないのなら、彼女達の攻撃はいくら繰り返したところで徒労に帰するだけだ。だから炙り出す。その方法は至って単純なものだった。広範囲にわたり、避けようがなく、空間を均一に満たすことのできる探査法。晴香はそれを有している。
水を変態させる。白妙の水蒸気が湧き上がり、天蓋へと駆け上がる。水蒸気は瞬くうちに闘技場を充たし、騎士の居場所を示した。姿は見えずとも、そこだけ、蒸気が払われている。
光箭が飛翔する。それが到達するよりも先に蒸気の
紅蓮が降り注ぐ。レイピアの軌道に割って入り、避けるのではなく、ネプトゥーヌスの刃で晴香は紅蓮を薙ぎ払った。固定されていないものを操っているのは彼女も同じ。要は魔力を芯にして水を寄り集めているわけだ。水と水が合わされば流れが変わるのと同じように、魔力は魔力に干渉できる。その切っ先をずらしてやるだけで、レイピアは道を開けてくれる。
光箭はいっそう勢いを増す。けれど当たらず、それでよかった。
《多分、私の矢は当たらない。だから、私の役目は追い込むこと》
騎士の足取りがぶれる。体が右に傾いたときには、そこから半歩でも踏み出せば頭蓋が砕かれる位置を光箭が貫く。横に逸れるのを諦めたのか、騎士はなおいっそう加速した。遂に天蓋の端まで行きつき、騎士は地面に降り立つ。そこには十メートル四方にわたって水が敷き詰められており、騎士の着地と同時に灰黒の炎が湧き上がった。
《水蒸気が作り出せるのなら、疑似的にでも水蒸気爆発を引き起こせない?》
《できるけど、それでベルフェゴールを斃せるかしら。元来、熱は彼の属性よ》
答えは否だ。その程度では彼を斃せない。
「下郎が!」
怠惰は咆哮する。灰黒が霧散して、騎士は視認できる姿としてそこにいた。映える赤銀の鎧はなく、擦り切れた衣を纏い、彼はいっそのことみすぼらしい姿をしていた。それでも眼光だけは炯々と輝く。その瞳から光を奪うことに、ほんの僅かに、晴香は罪悪感を懐いた。
《でも、足が止まれば私の矢は当たる》
騎士の心臓を穿つ位置に、矢が突き刺さる。衝撃で彼の体は後ろへと追いやられ、研ぎ上げられた鏃が肉を散らす。騎士は力任せに矢を掴み、引き抜いた。
「ぁえるあ!」
口内を満たした血に溺れ、騎士の叫びは言葉を成していなかった。そこで彼は気付いたのだろう。正面にいたはずの晴香の姿がなくなっていることに。騎士は必死に瞳を動かす。されどそこに晴香は映らない。彼女は騎士の背後にいて、手にはネプトゥーヌスが握り締められ、騎士の首に向けて薙ぎ払われる。鋼のような感触も、ネプトゥーヌスが崩れる気配もなく、その薄い刃はあっさりと肉に沈み、騎士の首を体幹から切り離した。血がぼこりと噴き出す。電気を流された蛙のようにビクビクと痙攣し、中枢神経から分断された体は動かなくなった。
「こんなものに、躍らされていたのね」
赤銀の騎士が座していた場所には、魔力殺しの石柱が建てられていた。それ自体は何の意思も持たず、施された術式を媒介するだけのものとして。
「行こう、ひよちゃん」
騎士に看取りの眼差しを送ることもなく、晴香は闘技場を後にする。小通路と対面の壁にある扉を開けると、そこは小部屋だった。正面の壁には篝火が焚かれ、天蓋はなく、吹き抜けの縦穴となっている。小部屋の中央には、直径一メートルほどの円盤が浮かべられていた。
「エレベーターみたいなものかな」
「ここにあるということは、そういうことなんでしょうね」
円盤に乗り込むと、中央に手のひら大の円柱がせり上がった。手をかざすと円柱に光の回廊が浮かび上がり、細々と晴香の体内から魔力を吸い取っていく。回廊が円盤の全土へ広がるのと同時に、それはなめらかに上昇を始めた。疲れのためか、二人はその場で腰を下ろす。
「姫殿下って言ってたよね。そのヒトが魔女なのかな」
日和が呟く。
「それに、殿下ってことは、閣下が別にいるのかな」
「かつてはいたようだけど、神々に討ち取られて以来、魔族に帝王は誕生していないはずよ」
「……どんな人なのかな。そのお姫様は」
日和の訊ねに対して晴香が沈黙したとき、不意に、聞き慣れない声が響いた。
「お優しい方ですよ」
晴香と日和の他には誰もいなかったはずの円盤上に、突如として赤銅色の髪の男が現れる。男の存在を認識して、男が敵であることに気付き、ネプトゥーヌスを抜刀するまでの僅かな間で男は日和の首を手刀で打って気絶させ、彼女を抱え上げ、空いた手で晴香の首を掴んだ。
「色欲のみならず怠惰までも降すとは称賛に値する。だが、幸運も所詮ここまでだ」
晴香は持ち上げられる。爪先は届かず、気道を塞がれているために呼吸がままならない。視界が酩酊する。ネプトゥーヌスを握る手に力が入らない。男はアタックレンジの内側にいるというのに、晴香は反撃に動き出すことができなかった。そんな彼女の様子をゆったりと睨め付け、男は円盤の縁まで歩を進めると、虚空に晴香の体を晒した。
「ご機嫌よう、お嬢さん」
男が手を離す。慣性と重力の狭間で一瞬だけ静止して、すぐに落ちていく。伸ばした手のひらは円盤を掠めるだけだった。男はすでに晴香を見ていない。
広げた翼は欠け落ちていて、せいぜい落下速度を緩めるだけだった。
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