劣勢
「アイツら大丈夫かな」
「珍しいね。薫くんが誰かの心配をするなんて」
幸音は愉快そうに肩を揺らす。対して薫は僅かな苛立ちを見せた。
「突き放すぞ」
「ごめんなさい、勘弁してください」
一転して遜った軽薄さに胸をすかし、幸音を支える腕に力を込めた。
「大丈夫だよ、あの子がいるからね」と幸音は物静かな口調で付け足した。
「幸音こそ珍しいな。感情論を否定したのはアンタだろう」
「感情論じゃないよ。あの子は、僕等にはないものを持っている。あぁ、けれど、薫くんほどではないとはいえ買いかぶっているのかもしれないね」
そして、幸音は薫の手を握った。それがただ握られただけなのか、或いは強く握り締められたのか、薫が判別することはできなかった。けれど、幸音の腕が筋張っている様子を見て、薫は「痛い」と言い放つ。それでも幸音は吐き気のするほど真面目な顔をして、
「体は大丈夫かい?」
薫を不安にさせる。
「怪我人に心配されるとはな」
幸音の鼻先に拳を突き付け、大仰に手を開いては閉じてを繰り返す。
「大丈夫、まだ動く。俺はまだ操られている」
内実、その感覚は消えているけれど。
幸音の瞳に揺らぎが生じる。アンタが俺に憐憫を注ぐなんてのは、不条理というものだ。そう思うからこそ、薫は何も言うなと釘を刺す。幸音は開きかけていた唇を結び直し、前を睨み、上空を仰ぐ。見渡せる限りでは、螺旋階段が際限なく広がっている。塔は筒のような構造をしていた。石柱と彫像が並べられた一階の端まで辿り着くと階段があり、そこからはただひたすら階段が続いている。途中に階層はない。二階の高さを過ぎても階段は途切れず、外壁をなぞるように延びている。左側には外壁が、右側には何もない。手すりもなく、足を踏み外しでもすれば、抗いようもなく一階に叩き付けられることだろう。
「なかなか治らないみたいだな」
「あぁ、うん。魔人の攻撃は、魔獣とは性質が異なるみたいだ」
薫の何気ない言葉に対して、幸音はばつの悪そうに表情を曇らせる。とはいえ、彼は回復の兆しをそれなりに見せている。流血は止み、傷跡も紛れてうっすらと肌に残る程度だ。神様の加護というものは何とも常識外れなもので、それでも幸音は戦えない。肉体は癒えても、神様と繋がるための魂が癒えていない。故に魔法は使えず、彼の背中に翼はない。
「ねぇ、薫くん。僕の回復を待たないか?」
それは、申し訳なさそうに幸音は切り出す。
「怒らないで聞いて欲しいんだ。薫くんに時間がないということは僕も分かっている。急がなければいけないということも。それなのに、僕はこのざまだ」
自虐するように、彼は体を揺らす。
「アスモデウスは七大罪と言った。
「俺一人には任せられないか?」
幸音は首肯した。包み隠すことのない、力強い頷き。同時に、幸音の貌には緊張が混じっていた。それを、憎たらしいと薫は思う。
「俺は死にたがりというわけじゃない」
(……幸音は、俺をこんな地獄に誘い込んだ憎たらしいアイツは……)
「ありがとう、薫くん」
(そんなありふれた言葉を、俺の願いを叶える手立てを示してくれたアイツは言った)
結果として、幸音の治癒が終わるまでに三十分を要した。それを長いだの短いだの論じることに意味はないが、少なくともそれは短かったのだろう。そして有益だったのだろう。
壁面が下へ、下へと急速に落ちていく。実際には違うのだとしても、薫の体感はそのようなものだった。幸音の翼は美しく、あたかも粉雪のようで、それでいて吹雪のように力強い。
警戒の糸を張る。暗闇の先に誰かが潜んでいないか、視覚だけでなく五感に頼って探る。しかし、依然として風切り音の向こう側はひっそりとしていた。
「妙だと思わないか?」
「妙だというならこの塔自体が妙だけど、そうだね、敵がいない」
体感としてすでに塔の三分の二は眼下に過ぎ去った。残りも間もなく終わるだろう。いくら長大といえど所詮は人工物。歩いて踏破するのならまだしも、神の翼という加速器を使えば天蓋などすぐに辿り着ける。最上階にいる魔女を守護する騎士として、七大罪はその途中にいるはずで、そうでなくてはならない。けれどその姿は見えず、殺意さえも向けられない。
塔の構造などその都度変わる。前回、薫が緋奈を失ったときは執拗な段階構造をしていた。その前も、その前も変化する構造に振り回されたが、一貫していたのは階層構造を持ち、中途に騎士がいることであった。それ故にこの状況は不安で仕方がない。まるで、魔女がその大口の中に彼等を誘い込んでいるようで。
遂に螺旋階段は終わりを迎えた。平たい天蓋が頭上を覆い、縮尺からすれば百分の一にも満たない隙間が外縁の一端に空いている。そこを潜ると正面には扉があり、背後には石畳が広がっていた。石畳の中央には二メートル四方の正方形の穴が開いている。
「僕等はドーナツの外側にいたってことか」
「この向こうが魔女の寝室なのか?」
問うておきながら、この扉は王の寝室を飾るにはあまりにも粗末だと感じていた。素材こそ紅簾石であるものの色映えはせず、装飾など僅かにも施されていない。どこぞの山から持ってきた大岩を力任せに叩き割り、そのまま扉として誂えたような造りをしている。
「開けてみれば分かるよ」
幸音の無粋な物言いはその通りで、薫が扉に手を伸ばした途端、自動的に開いていく。重力の存在を感じさせないなめらかな動きに、いっそのこと気持ち悪ささえも抱く。
そこは大広間だった。大広間という言葉がちっぽけに感じられるほど広大な一部屋だった。直径一キロという構造物の定義を根幹から覆す塔の、その直径部分をほとんど費やしている。広間には等間隔で松明が焚かれ、視界には事欠かない。そこには何もなく、
「ほら、やっぱり来た」
「人数が少ないように感じますけど」
「……元は何人だ?」
「嫌ですよ、自分で調べてください」
されど、ヒトがいた。白銀と、鈍色と、灰黒。そこでは鎧の騎士が円卓を囲み、優雅な風情でティータイムを楽しんでいた。白銀の騎士は闖入者を一瞥し、何事もなかったかのようにティーカップに目を戻すと角砂糖を放り込んでいく。
「またそんなにお砂糖を入れて。暴食にも程がありますよ」
「だって、それが僕なんだもん」
少年のような相貌をした白銀の騎士はティースプーンをぐるぐると回し、貪りつくようにカップに口を付けた。その目が閉じられる。それは美味の余韻に浸っているようにも、あまりの甘さに悶絶しているようにも見えた。
「訊いていいかな。四人いるはずだよね。どうしたの? 死んだ?」
その瞳があまりにも楽しそうに輝くので、薫はここが敵地であることを一瞬だけ忘れた。
お茶を飲み、菓子を食べ、バカみたいなことをバカみたいに、楽しそうに味わう。それは、薫と緋奈が悲劇を迎える前に交わした幸せな時間にそっくりだった。腹の底から込み上げる懐かしさと羨ましさを呑み下し、彼は律義に答える。
「落ちたよ。クソッたれな罠に」
騎士達は笑った。三者一様に。
「あれに引っかかる奴がいるんだぁ」
「おやおや、それはそれは」
「……マヌケ」
彼等は止みそうにない。そのまま笑い死ねばいいと薫は呪う。
「それじゃあ、怠惰のおっちゃんは悔しがっているだろうね」
七大罪がどのように配されているのか、理解する。門番として色欲、地下に怠惰、魔女の側近に二人、この大広間に三人。銀髪にあどけない笑顔がよく似合う、少年のような相貌の騎士が暴食。翡翠色の髪を腰まで伸ばし、いかにもナルシズムに溺れていそうな雰囲気を纏わせた女性が嫉妬。ごわついた栗毛に、厳めしそうな面構えの男が貪欲。彼には怒気や傲慢さを見いだすことはできない。答え合わせをすることもなく、薫はライフルを出現させた。
「お楽しみの最中に申し訳ないが、そこを通してもらいたい」
「そんなに気を遣わなくてもよくてよ。所詮は
「そうかよ」
引き鉄を引く。魔法のライフルというのは便利だ。通常のボルトアクションライフルであれば装填数は五発から十発程度であるのに対し、これは装填数を気にかける必要がない。武器の強度も、姿形も、能力さえも心意に頼っているこの世界では、装填数という限界値も、心の持ちようなどという曖昧なものでなかったことにできてしまう。
ボルトハンドルを後方に引いて開放と排莢を行い、前方に戻して装填と閉鎖を行う。撃つ。火煙が舞う。引き鉄から指は離れない。開放からの排莢、装填と閉鎖。直動式は回転式に比べて動作時間は短いとしても、ライフルには次弾を撃つまでにタイムラグが存在する。けれど、一年もの間を終始戦場で生きてきた彼は、古参兵に劣らぬほどの動きでタイムラグをほぼなかったことにしてしまう。戦場に於ける実力が生還した回数だとするならば、彼の三百六十四回という記録は
それも違うのかと心の片隅が呟く。薫は一度だって日常に帰れたことはない。いつだって彼は戦場を駆けていて、安全な場所で眠っているときでもそれは変わらない。たとえ何かを得たとしても、失ったとしても、クソッたれなバトルロワイアルを踏破しない限り、彼は戦場で生きている。望みもしないそんな生き方を押し付けられている。
偏頭痛がした。ボルトハンドルから手を離す。莢室に装填されていた一発を叩き出すとライフルは沈黙した。足下に散らばった空薬莢が目に入る。二十発ほど。機械がプログラム通りに動くように何も考えず、彼は弾幕を広げた。それが無駄であったことを、暴食に告げられる。金属が噛み千切られる音がして、暴食は口を開くと二十発分の弾頭を吐き出した。
「火薬の味は刺激的だけど、所詮は暴力の味なんだ。それよりも、真っ白なお兄ちゃんはどんな味がするのかな。気になるんだ、食べさせてよ」
「遠慮する」
味気なくあしらうと、白銀の騎士はつまらないと吐き捨て、目に見えてむくれてみせた。
「つまらないのは上等だ。戦局がどう動こうと、ここには心躍るものなんてない」
あるのは命のやり取りくらいだ。それも、えらく趣味の悪い。
薫の背後で、冷気が渦を巻く。空気までも凍らせる冷感に飛び退きたくなるのを堪え、唇を動かす。幾度となく唱えた言葉は意味を喪失し、音の羅列に劣化する。敬愛の念など如何程にも含めず、ただただ彼は唱える。同時に謝罪する。神様の力を借りていて、それに守られているというのにプロメテウスを道具としか考えていない。生意気だとプロメテウスは激怒するだろうか。だが、人間はエゴイストであることを、彼は痛いほど承知している。
幸音と瞳を交錯させる。まがりなりにも騎士道精神を期待したが、彼等に手を抜こうとする意思は見られない。二対三の劣勢は覆りそうにない。
「まったく、面倒だ」
悪態を吐き、ローブの袖を振るう。もったいぶるのはなしにしよう。
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