ベルフェゴールの慰み

 色欲の亡骸を後にして、彼等は扉に向かう。塔に入ってすらいないというのに足取りは重く、胸中には暗雲が立ち込めていた。幸音は支えられることでようやく歩けている有り様だ。救済の治癒能力が並大抵の人間を凌駕しているといえど、しばらくは戦闘など望めない。

 今夜で終わってしまうのではないか。浮かび上がった疑念を払い除け、弱気になってどうするのかと晴香は自分を叱責する。けれど言葉は頼りなく、悶々とするうちに扉に辿り着いた。

「寒い……」

 日和が全身を縮ませる。塔の内側は氷点下の冷気で充たされ、氷室のようだった。夏服では寒さを凌げるはずもなく、そして、寒さに喘いでいるのは彼女だけではなかった。極端な寒冷は生命の危機に直結して、分かりやすいほどに視野を狭めさせる。故に、彼等は気付けなかった。進んでいく先の床が、音もなく二つに分かたれたことに。

「え?」

 それが誰の言葉であったかは分からない。けれど、視界から日和の姿が掻き消えた事実に危機感を叩き起こされ、晴香は反射的に駆け出した。僅かな迷いも見せず、日和を呑み込んだ穴へと身を投じる。

「晴香!」

「大丈夫! 先に行って!」

 短い言葉を交わし、幸音から視線を逸らす。闇の先を睨み付け、晴香は翼を広げて下降速度を加速させた。背後で天井が閉じる音がしたが構いはしない。

 何も見えない。詠唱の後に青白い炎が立ち上る。闇は濃密で、魔法の炎を以ってしても三メートルほど先を照らすことで限界だった。随分と降ったはずなのに日和の姿も穴底も見えない。だが、人工物である以上は終着点が存在する。晴香が追い付かなければ、日和はいずれ穴底に体を叩き付け、命の烽火を散らしてしまうだろう。

 翼を振るう。巨大な白翼は壁にぶつかり、羽根を散らす。そんなことは厭わない。無残に手折れようとも、追い付くためだけに加速を繰り返す。追い付いてと心が叫ぶ。いなくなったりしないと、あなたは死なないと言ったじゃないと心は叫び上げる。

 風圧に堪え切れなくなり、炎は掻き消された。暗闇がまた視界を奪う。詠唱の時間も惜しく、晴香は縋るように手を差し出して、指先で何かを捕まえた。

「ひよちゃん!」

「ちいちゃん⁉」

 声が返ってきた。彼女はここにいる。晴香は日和の腕を掴むと彼女を引き寄せ、胸の中に抱え込む。そして、翼を広げて減速を試みる。バリバリと翼は傷み、今にも捥ぎ取れてしまいそうだった。それでもいいから止まれ、底に着いてしまう前に。意識を凝らして翼を張り詰めさせた瞬間、体を包んでいた下降感覚が薄らぎ、彼女達は静止した。止まったのだ。体勢を立て直そうと足を下に向けようとして、そこには岩盤があった。安心しきったのか、それとも瀬戸際の恐怖に身が竦んだのか翼は掻き消え、彼女達は十五センチを自由落下した。

 背中の痛みと、岩盤がずれ動く仰々しい音を耳にしながら、晴香は腕の中の温もりに意識を凝らす。彼女よりも少しだけ小さな体が、分かりやすく震えている。

「…………よかった」

 安堵のため息は闇の中でも見えた。

「ごめんなさい」

「誰のせいでもないわ。あんなのは仕方ないんだから」

 日和の頭をコツリと小突き、晴香は少しだけ笑った。

「それより、そろそろ退いてくれる?」

「ごめんなさい!」

 弾けるように去ってしまった重みは、もう少しだけ感じていたいものだった。


 馴染みの詠唱で灯りを燈すと、晴香は真っ先に天井を仰いだ。そこに降ってきたはずの穴はなく、扁平な岩が継ぎ目もなく乗っかっている。掲げていた灯りを前後左右に向ける。背後に細い通路が開けていた。

「どうするの?」

「少なくとも途絶えてはいないわ。進みましょう」

 まだ道は続いている。立ち止まらない理由としては充分だった。通路はどこもかしこも研磨され、彼女達の姿をくっきりと投影する。上下左右の合わせ鏡は空間把握を鈍らせ、片腕も伸ばし切れないほどの狭さだというのに、途方もなく広いように感じられる。

「ちいちゃん」

 不安そうな声が背後で響く。日和は言葉にすることを躊躇うように口ごもり、

「ちゃんと出口はあるよね?」

 晴香の懸念を代弁した。あるわよと笑い飛ばしてやりたいのに彼女にはできない。魔女に挑み続けること数百年、巣にこのような罠が設けられていたのは初めてだった。出口など存在せず、迷い込んだ者を腐らせるためだけのものだったとしても、それを知るすべはない。それでも晴香は毅然として、無稽の笑顔を日和に向けた。

「大丈夫よ」

「そう……」

 安堵の表情を浮かべた日和を前に、後ろめたさに襲われる。黙々と足を動かし続け、時間感覚がすっかり失われた頃になり、ようやく景色に変化が認められた。細く狭い通路は途切れ、長径百五十、短径百メートルの楕円形の部屋が現れる。床と壁面、天井を構成するものは全て大理石であり、それはほのかに輝きを纏っていた。

「闘技場?」

 日和の言葉が表した通り、そこはコロセウムに似た闘技場であった。内壁の外側には階段状の座席があり、外縁にはエンタシスの柱が並べられている。どこからか水音が聞こえてくるので、地下、或いは外縁のさらに外に水路があるのかもしれない。闘技場の床や壁には無数の傷痕が刻まれており、この部屋が魔力殺しの術式に守られていないことを暗示していた。

「もしもここが闘技場なら、剣闘士グラディエーターがいるはずよね」

 日和の言葉を待ち構えていたように、エンタシスの柱から青紫の炎が立ち昇った。影の濃淡でしかなかった世界に鮮明な色が付き、長径のもう一端で、赤銀の鎧に包まれた人物が座していることを認め、晴香は身構えた。兜は脇の台座に置かれており、男の貌を窺うことができる。厳めしい三白眼と縮れた白髪。かなりの老齢を思わせるが、鍛え上げられた体躯が印象を一蹴する。峻厳な風格は、騎士というよりは覇王と呼ぶに相応しいものがあった。

「吉を引いたと思っていたが、まさか二匹も迷い込んでくるとはな」

 豊かな顎髭を弄りながら男は呟く。その声は晴香の元まで鮮明に届き、彼の言葉に内包された確かな重圧が彼女を委縮させる。

 臆病な大腿筋を蜂起させる。赤銀の騎士が生理的に瞬きをしようとして、瞼が彼の瞳に下ろされた刹那、晴香は駆け出した。それは駆けるというより飛翔すると言い表した方が適していると思えるほどに、彼女の足が大地を捉える感覚は刹那的だった。長径百五十メートル、広大な間隙は、騎士が瞼を上げたときには零と化していた。

 勢いを殺すことも躊躇うこともなく、抜刀した太刀を男の首筋へ斬り付ける。確かな感触とともに火花が散る。それは鋼と鋼が打ち合わされたときの感覚に似ていた。

「せっかちな娘だ」

 三白眼が晴香を睨む。数多の魔獣を斬り捨ててきた刃は、彼の肌に一寸たりとも沈むことが許されなかった。反射的に晴香は飛び退く。男が追いかけてくることはない。

 沸き上がった畏怖に胸を逸らせる晴香へと追い付き、日和はその肩に触れた。

「先走りすぎよ。敵は一人で、私達は二人いる。分かるでしょう?」

 日和の貌を正面から見つめながら、晴香は胸を掻き混ぜられるような思いを懐いていた。彼女にとって日和は守らなければならない存在で、彼女よりも弱く、彼女よりも優しいヒトなのに、そんな日和に諫められる。それは、とてつもなく胸に刺さる。

 幸音の辛勝が思い出される。見栄も、誇りも美しさも必要ない。彼我の力量の差は歴然なのに彼女達は勝たなければならない。故に全てを捨てなければいけない。見苦しく足掻き、詰られるほどの狡猾さで以って敵を打倒たおさなければならない。

 答えは明白だった。晴香は半身だけ右にずれ、日和と肩を並べた。

「共闘しましょう」

 晴香は大太刀を構え、日和の手中には空色の弓矢が現れた。

「話は終わったか?」

 かけられた声に瞳を向ける。騎士は頬杖をつき、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。

「待ってくれなんて、頼んだ憶えはないよ?」

 なかなかどうして、日和も豪胆な性根をしている。

「無礼、無礼、よいぞ闖入者。阿りと敬愛には飽きていたところだ」

 騎士は豪儀に肩を上下させ、見せつけるような演技臭い動きで晴香へと指を突き付けた。

「問おう。貴様は何故に戦うのか。魔族であれ、神々の末裔であれ、ヒトの子であれ、その命は灯火のようなものだ。秉燭に注がれた油をせせこましく燃やし、油が切れれば輝きを失う他にない。種族によって、境遇によって、その魂の貴賤によって多少の差異はあれど、この世界の営みからすれば一夜の夢に過ぎない。それなのに、なぜ秉燭を傾けようとする?」

「生きるため」

 僅かな諮詢も挟まず、日和が答える。騎士は興味深そうに眦を細めた。

「そこに義はあるか?」

「私の正義があります。けれど、それはあなた達にとっての悪です」

 どちらも自分が正義だと信じて疑わなかったと、晴香は日和に告げた。それは自虐的な意味までも包括し、神々の愚かしさを嘆く言葉だった。その愚かしさは晴香にも当てはまる。魂に刻まれた運命に猜疑心を抱くこともなく、魔族を斃すために数多の命を屠り、人間を救済するためだと行動理念を帰属させた。彼女も神々と変わることなく、自分が正義だと定めた。

「重ねて問おう。悪行を犯していると自覚しながら、貴様はなぜ身を引こうとしない?」

 正義は我にありと旗印を掲げたところで、それでも、誰かの命を奪っているという事実は覆らない。晴香は奪ってきた。数多の魔獣を屠り、契約者となった人間を死なせてきた。命を奪うことを罪とするならば、晴香そのものが悪だ。正義の胸当てを付けた悪が、悪を行う。直視してこなかっただけでそんなことは随分と前から自覚していた。気付いていたのにどうして歩みを止めようとしなかったのか。その理由は至って単純だ。愚かしいほどに質朴だ。

「私が、私であるために。辿って来た道が無駄ではなかったと、間違いではなかったと証明するために、私は剣を握っている」

「貴様が正義であるとどのようにして証明する?」

「勝てば正義、敗ければ悪よ」

 それが摂理だと晴香は見做す。正義とは強者であり、強者は己が正義だと偽れる。

 騎士はじっくりと時間をかけて言葉の意味を咀嚼して、晴香へと相対する。

「よかろう、末裔よ。然らばこの怠惰ベルフェゴールを斃して、己が正義を証明してみせよ」

 騎士の右手が持ち上げられる。身構えた晴香の足元で居心地の悪い振動が走り、古めかしい発条の音とともに四方の壁に縦横一メートルはあろうかという大口が開き、水路に流れる水を闘技場へと排出した。さらに、太陽が降ってきたと錯覚するばかりの光が照り付け、地上の光など一抹さえも届かない地下に濃厚な影を落とした。

「これは、どういうことかしら」

「貴様らの魔法の特徴は聞いている。貴様は水を、もう一人は光を媒介するとな」

「だから私は聞いているの」

 魔法を行使するにあたり、その属性となる元素は使い手によって異なる。晴香と幸音は水、薫は炎、日和は光であるように。そして、元素なしでは魔法は発動しない。魔法を使う場に該当の元素が潤沢であればそれを利用し、欠乏していれば魔力を別回路で消費して作り出す。どちらが都合のよいかなど明白であり、騎士の行為は晴香達にとってメリットとしかならない。

「老婆心ながらに諫言しておくが、好意は素直に受け取っておくべきだ。貴様がそうして指摘したことで儂が過ちに気付き、それを払拭すべくこれらを消したとしよう。そのとき、貴様は後悔などしないと断言できるか? 惜しいことをしたと嘆きはせぬか?」

「それは――」

「そうだ、貴様は惜しむ。貴様は悔やむ。敗れたときの言い訳にするかもしれん。ここには元素がなかった。そうでなければ勝てていたと。故に、儂はこの場を満たそう。対等であり、むしろ優遇されていたとしても適うことはなかったと知らしめるために」

 騎士は両手を広げ、依然として座したままで唇を動かす。

「さあ、無聊の慰みとなってくれ」

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