アスモデウス

 日和は凝固した大地に足を下ろした。灰黒の岩々にはまだ熱が残っている。柔らかそうに波打った見た目に反して、岩々は無類の硬さを有していた。続いて幸音と薫が降り立つ。彼等がいるところは塔の入り口からは僅かに離れていた。時間がないにもかかわらず距離を取ったのは用心のためだった。これまで門番がいた例はなかったが、今夜ばかりは幸音が異議を唱えた。明確な理由はなく、上から見ても人影は認められなかった。それでも、彼は頑として譲らなかった。結論を先に述べてしまえば、彼の判断は正しかった。塔の外側は安全であるという認識が、今夜ばかりは覆されたのだ。

「どうしたの?」

 歩き出すことはせず、幸音は塔へと続く扉を凝視している。

「分からない。けれど、あそこは嫌な感じがする」

 幸音の耳は警戒の色を滲ませていた。彼は酔狂や嗜好でヒトと獣が入り混じった姿をしているわけではない。人間が失った野生本能ともいえる鋭敏な感覚を宿すためだ。それが、あそこは危ないと告げている。幸音はダガーナイフを具象化させ、扉脇に設えられた石像へと投擲した。ダガーが何事もなく跳ね返され、虚しく響くだけということは、果たして起こらなかった。

 ダガーが到達する瀬戸際で、無機質な石像は有機質な生命体へと変貌する。石の肌を打ち砕いて顕現したのは、美しくも煽情的な乙女だった。褐色の肌に燃えるような赤毛。豊満な肉体を包んだ衣装は極端に布地が少なく、恥部を辛うじて隠しているだけの有様だった。

「あら、バレちゃった」

 ダガーを難なく指先で受け止め、乙女は無邪気に微笑んだ。

「どうして分かったの? そこの、狐みたいな子」

「狐だからじゃないかな」

「へぇ、狐って凄いのね」

 乙女の陽気さに反比例して、幸音達には戸惑いを発端とする静けさが広がる。

「キミは門番、僕達の敵であると認識していいのかな」

「いいわよ?」

 そのように返してから、快活な乙女は幸音にダガーを投げて返した。敵だと名乗りながら、これから殺し合うと認めながら武器を返す。その言動に一貫性を見いだすことはできない。

「一応聞いておきたいんだけれど、僕達を通してくれる気はないかな」

「ごめんなさい。今日は姫様が上機嫌で、あなた達を殺してもいいって言ってくれたの。だから、おとなしく殺されてくれない? 最高の快楽をプレゼントするわよ?」

 呆れ返って言葉を失くした幸音の背後で、それまで沈黙を保っていた薫が開口する。

「決まりだ。殺そう」

「たかだか人間が、七大罪の一人である色欲アスモデウスを殺そうというの?」

「あんたら魔族にとっちゃ、人間は都合のいい餌場でしかないだろうが、捕食者が被食者に回らないとは限らないだろう」

「いいわ。あなたから肉塊に作り変えてあげる。動かないなんてつまらないけど、それはそれで煽情的よ」

 アスモデウスの皮肉に、

「やってみろよ、痴女」

 薫も挑発で返す。前に立つ幸音を押しのけ、好戦の色を生々しく浮かべる。

「殺してごらんなさい、青二才。その肢体に悦びを刻み込んであげる」

 気合十分に駆け出した薫の足を、すれ違いざまに幸音が引っかける。勢いを殺すことができずに薫は倒れ込み、ライフルは溶岩の上を滑っていった。

「はい、ストップ。熱くなりすぎだ、薫くん。君らしくもないね。プロメテウスは盛大に使ったばかりだ。まだ本調子じゃないだろう?」

 薫から目を逸らし、幸音はアスモデウスと対峙する。

「彼女とは僕がやろう。一対一だ、いいかな?」

「白髪の子も可愛かったけど、あなたの耳と尻尾も素敵ね」

 熱を込めた眼差しで、アスモデウスはそっと幸音を見つめ返す。壊れ物を扱うような、抱擁的な眼差しだった。悪魔には、よほど似つかわしくない。

「殺してあげる。あなたも、あの子も」

「させやしない。そのために僕がいる」

 幸音はダガーを構え、アスモデウスは髪紐をほどいた。くるりと指先で回され、髪紐は放り投げられた。身構えた晴香の眼前に光の幕が落ちる。四方に果てなく続き、幕は幸音と晴香達を断絶した。

「勝手に介入されたら嫌だからね。遊びプレイは二人じゃないと」

「意外だね。てっきり総がかりでも構わないと豪語するとばかり思っていたよ」

傲慢ルシファーならそうしたかもね。でも、私は神々の末裔を見縊るほど愚かではないつもりよ」

 ケタケタと笑い、アスモデウスは腰を落とす。

「お先にどうぞ。レディーファーストよ」

「淑女はそっちだろう?」

「色欲からすれば誰もが淑女レディーよ。イチモツの有無なんて些細なことでしかないわ」

「なるほど。嫌な判断基準だ」

 鞭のように腕を振るい、幸音はダガーを投擲した。軌道はアスモデウスの眉間を捉える。速力は充分だったが、アスモデウスは首を傾げるだけで悠々と避けてみせる。

「速いわね。私でなければ、今ので仕留められたんじゃない?」

 重ねるようにゆとりを見せつけるアスモデウスに、幸音は舌打ちで応える。

「あぁ、惜しかった」

「惜しくないわ。当たってなどいないじゃない」

 あしらうように手を振ったアスモデウスの視界に濁った赤が這入り込む。ぬるい刺激に目を瞠り、微弱な熱を発するこめかみに手をあてがう。液体の感触があった。それもどろりとして、熱を含み、生臭い。血が流れていることを、彼女はしばらく理解できなかった。そして、理解したとき、彼女の内には乙女の貌を傷付けるなんて無礼な男だという怒りと、私を傷付けられるとはなんと魅力的な男だろうという相反する興奮が芽吹いた。

 舌なめずりをして手を翳す。その手中に一本の槍が現れた。槍は赤紫に塗られ、けら首の真下には軍旗が結び付けられている。彼女の装束も変わる。紐と大差のない、服とも呼べない装束は消え、柔らかな橙に染められた絹織のチュニックが肢体を包む。アンダースカートとしてカスチュラを履き、華美なサンダルが小さな足を大切そうに収めている。胸元と腰に巻かれた紐が体をやわく絞め付け、その豊満な肉体が裸体でいるとき以上に強調される。廉恥のステラは、色欲アスモデウスが着ることを許されないだけに美しく調和していた。

 そして、その背中に広がった青藍の翼へと瞳が釘付けになる。光の幕を通すことでその姿はさらに輝き、日和の心へと崩れることのない印象を抱かせる。

「まるで、天使みたい」

「その通りよ、可愛い子。智天使アスモデウス。神界では第二位に位置付けられたけれど、それも昔の話……堕ちた今となっては、魔族の一人でしかないわ」

 元は同じ世界に住まわっていたというのに、どうして剣を交えなければいけないのか。日和が抱いた疑問は純粋であり、なおかつどうしようもないものだった。

「楽しくておかしいお喋りはもう終わり。ここからは、破壊の時間よ」

 槍の穂先が下げられる。アスモデウスは左手をけら首に、右手を柄の中程にあてがう。槍の特性であるはずのリーチの長さを殺いでしまう、おかしな構えだった。

「行くよ、サラ」

 彼女はサラにくちづけをした。刹那、幸音の眼前に穂先が現れる。油断していたわけではない。気は途切れさせなかった。それなのに見失い、強化された視力を以ってしても視認することができなかった。ここにサラがあるはずはない。アスモデウスは一歩も動いていないのだ。しかし、事実としてサラはここにあり、幸音の命を奪おうとしている。それだけは確かだった。

「クソッ!」

 サラとの間隙にダガーを滑り込ませる。火花が散り、幸音は折られると確信した。ダガーの位置は変えずに頭だけを左方に動かすと同時に、飴細工のようにダガーは砕けた。避け切れず、サラの刃が幸音のこめかみを切り裂く。血飛沫がダガーの破片を濡らす。

「これでお相子ね」

「そうだね」

 吐息は荒く、それでも幸音は気丈に言い返す。アスモデウスに比べて彼の傷は深く、出血の量も比べ物にならない。彼の顔の左半分は、血潮で塗りたくられていた。

「まだまだ終わりじゃないわ。これからが楽しい舞踏ダンスの時間」

 またも幸音の間近にサラが現れる。アスモデウスは依然として一歩も動いておらず、サラを構えているだけだったが、その穂先には不自然な靄がかかっていた。

 サラの刃はうねり、無秩序な軌道を描いて幸音に襲いかかる。決して致命傷を与えることはなく肉をじわじわと削ぎ取っていく。頬が裂かれ、腕が裂かれ、髪が舞う。サラに人間的な動きの制約などない。腕を突き出し、突き出した腕を引いて第二撃を繰り出す。それが彼の戦い方で、ヒトを模しているからこその限界でもあった。緋色で彩られた装束は、どこまでが本来の色で、どこからが血の色であるのか判別できない。全身は血液で塗装されていく。

「粘るわね」

 緊張感の欠けた声音で呟き、アスモデウスはサラの石突で大地を打った。

独奏ソロはおしまい。お願いだから、簡単に死なないでね?」

 アスモデウスを中心として石突が大地を削り、円を描く。その中で彼女は足を動かし、心臓が脈打つほどのリズムで大地を二回踏み付けた。

二重奏デュオ

 サラが二つに分かたれる。半分に割れたのではなく、寸分違わず同じものがもうひとつ現れたのだ。奇しくも、七大罪の真価を垣間見るのは、この時が初めてだった。これまでは真価を発揮されるまでもなく、単純な力勝負で敗北を喫してきた。それほどまでに上位の相手が包み隠すことなく本領を発揮してくる。狼狽の声を上げることを誰が責められただろうか。

 彼等は、今度こそ本気で殺しにかかってきている。

 即座にダガーをもう一ヒ具象化させ、血潮で滑る手で掴み、左右から迫り来るサラを弾き飛ばす。彼の息は荒い。疲労は確実に動きを鈍らせていく。

 アスモデウスが手を緩めることはない。彼女は三度大地を踏み付ける。三重奏トリオ。さらに四度、四重奏カルテット。サラは四つへと分かたれる。

「まだまだ行くわよ。五重奏クインテット六重奏セクステット七重奏セプテット!」

 幸音の周囲を七つのサラが飛び交う。すでに認識は追い付かず、血を流しすぎたためか意識が朦朧とする。アスモデウスはそこで終わらせることができた。七つのサラで幸音は確実に殺せたはずなのだ。されど、彼女は跳躍する。殺すならば全身全霊をかけて。それは、傲りはないと語った彼女の言葉そのものの体現であり、神々の末裔に対する最低限の礼節でもあった。

「終演、八重奏オクテット

 サラの柄が消滅し、八つ目の穂が顕現する。幸音を中心にしてサラは円筒形の軌道を目まぐるしく駆け巡る。肌すれすれを行き交われるために幸音は動くことができない。腕の一本でも持ち上げれば、即座に貫かれ、捥がれていくことだろう。

「痛みは快楽に、快楽は痛みに。その終焉である死に焼かれなさい。神々の末裔――あなたは私達に挑むには未熟すぎた」

 宣告とともにアスモデウスの指が振り下ろされる。鈴の音に似た破砕音を響かせ、サラが砕け散った。サラの残滓は風に吹かれ、幸音の元へと流れていく。アスモデウスの目には幸音の様子が仔細に映し出されていた。震える唇に蒼白な肌、滴り落ちる鮮やかな血潮、死を目前にした魂の翳り、それでもなお揺るがない強靭な瞳。そこでたえだえと息をしている命は、アスモデウスが最たる美しさであると認める姿をしていた。

「さようなら、美しいヒト」

 サラの欠片が幸音に触れる。須臾、炎の竜巻が幸音を呑み込んだ。火柱が空を焼き、余りある熱波と衝撃が周囲の岩盤を捲り上げる。渦中に幸音の姿を見いだすことはできない。

 名前が叫ばれる。日和だった。彼女は貌をぐしゃぐしゃに歪ませて、幸音の名を叫び、彼を呑み込んだ炎へと手を伸ばす。光の幕がそれを阻む。手のひらは焼き爛れ、血潮が不規則に撒き散らされる。それでも日和はやめようとしない。まるで、名前を呼ぶことをやめてしまったなら、幸音が死んでしまうと思っているように。

「無駄よ。彼は死んだ。叫んでも帰ってこない」

 突き付けられた事実に日和の表情が怯む。薫は無言で唇を噛み締め、晴香は瞳を伏せる。日和にとっては初めての、薫にとっては二度目、晴香にとっては幾度となく迎えてきた仲間との死別は彼等の心に重く圧しかかり、心を壊死させ、絶望の沼に引きずり込もうとする。底はなく、体を支えるものは何もなく、抗うほど苛烈に沈んでいく。

「そうだ。呼ぶ必要はない。僕はまだ……死んでいない」

 だが、仲間の死を意識したその時、彼の声は届く。

「どうして。そんな、生きているはずがないのに」

 優勢に立ち続けてきたアスモデウスに、初めて揺らぎの色が見える。

「そうだね、生きているはずがないなら、僕はもう死んでいるのかもしれない」

 幸音が立つ場所は真っ赤に染まり、彼は今にも崩れ落ちてしまいそうなのに、毅然とアスモデウスを見据えていた。

「魂が肉を模しているだけの形骸、それが《救済》の在り方だ。死んでいる、それが正しいのかもしれない。それでも、生きたいと思ったんだ!」

 幸音の叫びが大地を舐める。彼は初めて本心を吐露する。気取らず、演じず、慟哭に突き動かされるままに。両腕を体の前に突き出し、彼はダガーを握り締めるような動作をした。僅かに俯いているために、アスモデウスが彼の表情を見ることは適わない。

「アスモデウス、ひとつだけいいことを教えてあげよう。僕が宿したポリアフは鈍感でね、危機を突き付けてやらないと目を覚ましてくれないんだ」

「それが、どうしたというの」

「分からないかな。準備は整ったと、そう言っているんだ」

 突き出された手掌から真っ白な冷気が溢れる。冷気は対流に逆らって幸音の全身を這いずるように動き、彼の流した血は凍り付き、氷塊が傷口を覆う。

「魔法……でも、あれは」

 晴香が戸惑いの声を漏らす。詠唱破棄。それを成し得た者は彼女が知る限り一人もいない。詠唱とは神への祈り、高位の存在である神から威光を借り受けるために阿ること。それを省くということは、自分を神と対等、或いはそれ以上の存在へ押し上げることを意味する。人間は当然ながら、神々の末裔である救済でもそのような傲慢が許されるはずはない。

「時は満ちた。殺し合おう、アスモデウス!」

 冷気が渦を巻いて霧散する。彼の手中には透き通った氷のダガーが現れ、全身は氷塊に覆われている。それは、美しい鎧を纏ったかのように。

 アスモデウスは砕けたサラを凝集させて槍を形成し、その穂先を幸音に向けた。

「魔法を発動したところで私のサラは八つ。対してあなたの武器はひとつのみ。手数の差は埋められない。それとも、その鎧で防ぐつもりかしら」

 アスモデウスの言葉を無視して、幸音は指先を空に向けた。つられてアスモデウスは瞳を持ち上げる。彼の指先と彼女の瞳が交錯する一点で雲海が呑み込まれていく。空を厚く覆っていた雲海には穴が穿たれ、射し込んできた陽光が幸音の体を赤橙色に輝かせる。晴れ上がった空には、幾百とも幾千とも数え切れないほどの氷剣が浮かんでいた。

「怒れ、ポリアフ」

 幸音が手掌を振るう。鈴なりに浮かぶ氷剣の一部がアスモデウスに切先を向ける。一部とはいえ、その数はサラの数十倍に及ぶ。

「どうかな。勝てはしないんだ。降伏してくれないかな」

 注がれた憐憫に、アスモデウスの神経は逆撫でにされる。彼女の自尊心は悲鳴を上げる。

「私に恥辱を味わえというの?」

 神界から追放されたときの屈辱を忘れたことはない。自分を蔑んだ神々へと報復するためだけに牙を研ぎ、殺意を磨き、彼女は七大罪の末席に辿り着いた。彼女は信じている。魔族こそが煉獄と神界、人間界を統べる至高の存在であると。それなのにどうして追い詰められているのか。神々でも人間でもなく、たかが模造品如きに。

「残念だよ、アスモデウス」

 幸音はそっと瞑目した。おおよそ戦闘の常識からかけ離れた行為にアスモデウスは虚を突かれ、彼の美しさもあいまって、彼女は幸音に見惚れる。

 スッと睫毛が分かたれる。幸音の瞳からは生気が抜け落ち、虚ろな星が瞬いていた。背筋に悪寒を抱き、アスモデウスは振り返る。けれどそこには誰もいない。強いて存在していたと言えるものは殺意だけだ。脊椎を凍り付かせ、脳髄を腐らせる死の息吹。かつての戦場に於いて常にアスモデウスの傍らにあり、首筋にあてがわれていたギロチンの刃だけだ。

「――……サラ、今まで私といてくれてありがとう。武器となってくれて、守ってくれて、友人でいてくれてありがとう」

 アスモデウスの呼びかけに応じて、サラの刃にポツリポツリと淡い光が宿る。それは、そんなことを言わないでと訴えているようだった。

「私の命、あなたに預けるわ」

 サラの光が消え、アスモデウスは穏やかな眼差しでその様子を見送った。

 氷剣の群れが韋駄天の如く動き出す。アスモデウスの視界は幾百の剣に埋め尽くされた。逃げ場はなく、避けられようはずもない。待ち受けるものは無残な最期だけだった。

 あぁ、美しいと彼女はため息を溢す。自分に暴力を振るい、自分を殺そうとする存在に対して、彼女は賛辞を贈る。長年にわたって愛してきたサラへの心とは、また違う想いを抱く。

 胸が痛む。それは、愛した存在に終わりを告げられたくないという思いと、愛した存在をこの手で破壊しなければならないことへの悔やみが入り混じったためだった。

 炎が芽吹く。サラの業火はアスモデウスを包む鎧となり、氷剣を水へと還す。暫時も挟まずに、悲痛な叫びが響き渡った。幸音に視えたものは、荒れ狂う炎に次々と呑み込まれていく氷剣の群れと、悶え狂うアスモデウスの姿だった。肉の焼ける臭いが鼻を麻痺させ、空気中に散らされた脂が唇をべたつかせる。魔族の生命力によって回復した矢先からサラの炎に焼かれる。永遠に続くとも思える苦痛を、アスモデウスは一身に背負っていた。彼女の翼は焼け落ち、美貌には見る影もない。色欲はただただ惨めな姿をしていた。

「屈辱よ、サルターレ!」

 アスモデウスは落涙する。浴びせられた屈辱に、体を蝕む痛みに、何よりもサラに自分を傷付けさせていることに。

 氷剣を全て焼き払うと、サラは一本の槍に戻り、アスモデウスの手中に収まる。落とすことのないように両手で握り締め、彼女は大地を踏み蹴った。焼け爛れた足は衝撃に堪え切れずにぐにゃりと折れたが、そんなことは厭わない。全ての意識は敵に注ぐ。足が縺れ、焼けた喉では呼吸などできない。美しくない。けれど、辿り着けたなら、それで充分だ。

 サラの穂先が、幸音の胸に沈められた。あっさりと、何の感触も伴わずに。

 吐血するわけでも、痛みに貌を歪めるわけでもなく、幸音は平然とアスモデウスを見つめていた。そして、彼の姿は陽炎となって消え失せた。

(どうして、あなたはそこにいるの)

 真横に現れた幸音へと、瞳だけで問いかける。その答えが返されることはなく、静かにダガーが突き出される。氷でも何でもない、魔法すら宿さない凡庸なダガーが。

「さようなら、アスモデウス。君は強かった」

(慰めなんて――……)

 腹部に鈍い衝撃が走る。体は熱く、それなのに冷たい。サラを見失う。アスモデウスは一人だった。薄れゆく意識の中で彼女は思い出す。女神ポリアフの名と、彼女の呪いのことを。

 ポリアフは雪の女神。アイウォヒクプアに求婚された彼女は、それを受け入れる。しかしアイウォヒクプアには婚約の契りを交わした女性がいた。謀られたことに気付き、寄せられた愛情に失望したポリアフは、アイウォヒクプアの妻であるヒナイカマラに呪いをかける。骨まで凍り付かす寒さと、それに転じるかのように、骨まで溶かし尽くす暑さを与えた。

 アスモデウスが視た幻影は、急激な寒暖差から生じる光の屈折、蜃気楼であった。

「何が神よ……この悪魔……」

 神話の終結は、ポリアフがアイウォヒクプアを殺すことで訪れた。

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