マリアの野心
部屋の中央には、天蓋付きのベッドが置かれていた。恐ろしく広く、一方の壁際に立てば向かい側が霞んで見える部屋だった。窓があるわけでもないのにゆったりとした風が流れ、眠りに就くには心地よい環境の中で、変に間延びした声が響く。漂白剤にいくら浸け込んだところでここまでは白くならないだろう、無色ともいえるシーツに影が落ちる。ベッドから起き上がった人物が、降り注ぐ照明を遮ったためだ。その人物は眩しそうに目を細めた。
「お目覚めにございますか、姫君」
厳めしい軍服に身を包み、右目に眼帯を付けた赤銅色の髪の男が声をかける。外見は初老に達しているというのに肌艶はよく、ギャラントという言葉がよく似合う。
「何だ、ルシファー。お前は淑女の寝室に、
姫君と呼ばれた人物もまた、若々しい外見とは裏腹に年を食った口調だった。
「お許しください、我が主よ。この傲慢たる性分故の非礼に咎めを降されるというならば、その高貴な御手を卑しい血で汚すことになりましょう」
「相変わらず、堅苦しいな。胡散臭いことこの上ない」
「それもまた、性分でありますから」
ルシファーは大仰な所作で首を垂れる。姫は呆れた風にため息を吐く。
「お主を傍仕えに命じたのは妾だ。目覚めの茶で手打ちとしよう」
「なんと御礼を申し上げればよいか」
「それとな、姫といったか、その堅苦しい呼称はやめろ。よそよそしさに嫌気がさす。妾とお主の仲だ。昔のように、マリーと呼ぶがよい」
「お戯れもほどほどになさってください。主君と従者の線引きは明確にしなければなりません。さもなくば、姫の御威光を貶めかねません」
堅物な彼らしい考え方で、それだけに姫には面白味がない。
「ならば、妾も言葉を崩そう。それでも頑として拒むのか?」
試すようにルシファーを睨め付け、姫はいたずら好きの稚児のように笑う。
「ねぇ、ルシファー。いつまで私に寂しい思いをさせるつもりなの? 幼少期のあなたはもっと愛らしく、親切だったというのに、時の流れがあなたを変えてしまったというの?」
縋るような眼差しを振り払うことができず、ルシファーは目を逸らす。その貌は苦渋で満たされ、彼の胸中では葛藤の渦がおどろおどろしく蠢いている。
「ルシファー」
業を煮やしたのか、姫は口を開く。
「妾はお主に頼みごとをしているのではない。命じているのだ。分からぬか?」
その声音はルシファーの背筋を凍り付かせる。溢れ出る姫の本質は、あまりに堪え難い。
「マリー……様」
「マリー」
マリーは鼻先をルシファーに突き付け、上目遣いで彼の瞳の奥底を覗き込む。仕草に合わせてベビードールの開き目から素肌が見え隠れして、ルシファーは咄嗟に目を背けた。
「お召替えを、マリー」
白魚のような指がティーカップのハンドルに添えられ、控えめに注がれたお茶がさざめく。マリーは立ち昇る香りを吸い込み、心地よさそうに口遊んだ。
「苺ね。それに藍苺を少しだけ混ぜているのね」
「はい。菜園にてよく実っておりましたので」
「それなら、わざわざお茶にしないで果実のまま持ってくればよかったじゃない」
「恐れながら、マリーの眠りは長いため、お目覚めの前に腐ってしまいました」
「残念ね。次に目覚めたときには、頃合いよく旬を迎えていればいいのだけど」
彼女の眠りは、人間に比べて非常に長い。二週間で目覚めれば短い方で、平均して二ヶ月、ルシファーが知る限りでは三年間眠り続けていたことさえある。
お茶で唇を湿らせたマリーの頬が、僅かに緩む。
「ところで、私が目覚めたということは今夜も神々の末裔が攻め込んでくるのかしら」
「恐らくは。奴等にとっては待ちわびた夜でしょうから」
「無粋なことね。どうせ徒労に終わるというのに」
にべもなくマリーは一蹴する。事実、神々の末裔がマリーの前に現れたことなど一度もない。彼女を守護する騎士によって、高貴なる者への無礼は妨げられてきた。これからもそうであろうと考えるのは、至極当然なことだった。
「
彼女の心情に呼応するように、ティーカップの中に波紋が広がる。
「サタン様のことですね」
「えぇ。憤怒のサタン。私が生涯を共にすると、心に誓った人よ。
ルシファーの瞳が翳る。彼の胸中はサタンへの恩義と、マリーへの罪の意識ではち切れそうだった。眼帯の下で、そこにはないはずの眼球が強く疼く。
「あまり自分を責めないで。あなたを助けるためにあのお方は命を落とされた。魔族の親である、あのお方らしい最期だわ。あなたがそれを悔やみ続ける限り、あのお方は報われない。あなたがすべきことは、あのお方から賜った命を魔族の繁栄のために捧ぐこと。違うかしら?」
「いいえ、その通りでございます。この身命は魔族の殷盛のために。サタン様と交わした契りは、私の内で確かに生きております」
ルシファーは深々と低頭する。厳かに閉じられた唇は、悔やみの吐息を必死に噛み殺していた。今は亡き主君とその伴侶、それに仕える騎士。神々から疎まれ、蔑まれ、人間からは嫌悪と畏怖の対象とされる魔族の生き様は、彼等の理に於いてはあまりに美しい。しかし、そこに神々や人間から賛同を得られるはずもなく、彼等は虚しい存在だった。世の善悪が逆転すれば、彼等こそが神として崇められていただろうに。
「この世界はもっと怨嗟に覆われるべきだわ。そう、我々が神となるために」
それがマリー、魔族の姫であるマリアの野心であった。
「神の子を孕んだ乙女と同じ名を冠する者として、妾は必ずや魔族を神とする。貶められる日々はもううんざりじゃ。ルシファー、そなたの力を貸してくれ」
差し出された手を取り、ルシファーはそっとくちづけする。
「
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