私の願い

 周囲の様子を探ってくると言い置いて高千穂さんと幸音さんはいなくなり、私は薫さんと二人きりで草原を歩いていた。散歩というほど穏やかな雰囲気ではなく、当然ながら会話もない。薫さんが先導して、金魚のふんのように私がついていく。

「あの……」

「何だ」

「その……何というか」

 また、この繰り返しだ。彼の三白眼に睨まれると私はうまく喋れなくなり、思考さえも停滞してしまう。彼の粗暴とも呼べる威圧感は生来のものだろうし、悪気どころか自覚さえもないのだろう。そこに被害意識を抱いてしまうことは、あまりにも身勝手すぎる。

 深いため息が溢された。彼の足が止まり、その貌に諦念を張り付けながら、彼は振り返る。

「アンタ、今はそんな姿でも元は男なんだろ? それならもう少し男らしく振舞ったらどうなんだ。女々しいったらありゃしない」

 私を難詰した彼は、その言葉尻が掠れもしないうちに顔色を曇らせた。訝しんだ私の視線など他所にして、瞳をあちこちに彷徨わせてから言いよどむ。

「悪かった。そんな、傷付けるつもりはなかったんだ」

「……私、そんなにひどい顔してた?」

「あぁ。ひどく青褪めていた」

「そっか。正直だな、私の貌」

 頬をぐにぐにと弄る私を横目に、薫さんは草原に腰を下ろした。私もその隣に座る。

 朝方にはこの世で最も穏やかな天候だと表しても過言ではなかった空が、今では荒み、冷たい風が僅かに混じっている。花々も心なしか精彩を欠いているようだった。これはこれで肌に合うものがあり、儚げな風景を満喫する。

「勝てるのかな」

「勝つんだよ」

 彼の意志はどこまでも揺るぎない。その姿は眩しく、羨ましくもあった。けれど、不意に握り締めた彼の手のひらは微かな震えを刻んでいた。

「やっぱり。薫さんも怖いのね」

「仕方ないだろ」

「それは、明日には死んでしまうから?」

 言葉を続けると、彼は僅かに目を瞠り、唇を戦慄かせた。初めて目にした彼の人間らしい生々しさは、あまり嬉しいものではなかった。

「誰から聞いた?」

「誰にも。私だって人間なんだから、考えて、悩んで、模索だってするよ」

「それなら、どうして気付いた」

「あなたの時間がないという言葉と、契約が私達の命を繋ぎ止めているという事実との矛盾性かな。時間がないといっても、それが偶発的な死に見舞われることを怖れている風には聞こえなかった。むしろ、確定された死が訪れることを危惧しているように聞こえたの」

 言葉を区切り、足を撫でる。

 意に反して体が動かなくなった恐怖は、今でもまざまざと思い起こすことができる。

「そこで思い至ったのが、瘴気による侵食。最初は分からなかった。私達は契約で守られているはずなのにって。でも、契約が私達をいつまでも守ってくれるわけではないとしたら。私達の命には定められた刻限があって、守護は有限でしかないとしたら。そう思ったの」

「……なるほど。手がかりは揃っていたのか」

「ひとつだけ分からないのは、どうして誰も教えてくれなかったのかってこと」

「……幸音も晴香も教えようとはしていたが、俺が刻限を迎えるまでは黙っていてくれと頼んだ。魔女と戦って死ぬどころの話ではなく、死ぬこと自体が避けようのない未来であるなんて事実は恐怖と焦燥にしか繋がらない」

「不都合だったわけね」

「不必要だったわけだ」

 僅かばかりの沈黙を挟み、彼は刻限を告げる。

「一年だ。俺にとっては明日、その時を迎えれば契約は破棄され、積もり重なった瘴気が全身を蝕み、瞬きひとつさえも許されずに俺は終わるだろう」

「……大丈夫なの? そんな体で戦えるの?」

「今はまだ契約が成立している。糸が切れない限り人形は動き続けるさ。それに、俺には死んでも叶えたい願いがある。それを叶えるまでは、死に切れない」

 両腕を頭の横で伸ばし、彼は草原に寝転がった。白髪が風に揺れ、彼の赤い瞳を曝け出す。彼の目は何を視ているのだろうか。何を視続けてきたのだろうか。

「ねぇ、薫さんの願いについて聞かせて」

「いいぞ。……その意外そうな顔は何だ?」

「薫さんはあまり語りたがらない印象があったから、断られると思ってた」

「言霊は信じる方だからな。それに、対価はちゃんともらう」

 愉快そうに微笑み、彼は上体を起こした。

「薄々と察してはいるだろうが、俺の願いは緋奈を生き返らせることだ」

「緋奈さんは、あのお墓の?」

「あぁ。兄妹して《救済》に見初められるなんてひどい冗談だし、そいつを兄妹して躊躇いもなく受け入れたのはなおさら馬鹿な話だ」

「叶えたい願いがあったのね」

「俺にも、緋奈にもな。俺は緋奈の幸福を、緋奈は俺の幸福を願っていた」

「素敵な兄妹愛ね」

「兄妹愛か……そんなに美しいものじゃない。それは、俺や緋奈にとって贖罪と違わない。あれを事故だったと見做すことは簡単だが、俺は緋奈から光を奪い、緋奈は俺から音を奪った。奪った事柄には償いをしなければいけない。それは義務であり、責務だ」

 淡々と告げられた言葉の意味は半分も理解できなかった。情報が断片的すぎる。ただ分かったことは、彼等は互いに過ちを犯し、その償いをひたすら願ってきたということだけ。たとえそれが人間の力では太刀打ちできないことだとしても。

「それがいつの間にか緋奈を生き返らせることに変わっていたのは、笑えない話だ」

 そして彼は口を閉ざす。ここから先は有料だとでも言うかのような相好だった。

「さて、俺は語った。今度はアンタの番だ。聞き逃げするなんて言わないよな? 他人の暗部を暴いたんだ、アンタにも語ってもらわないと割に合わない」

 彼が口にしていた対価とはこのことか。筋は通っていて、それだけにずる賢い。

「私のこと……。鬱々とした、暗い話だよ?」

「構わない。願いは得てして暗闇から生じるものだからな」

 彼は逃してくれそうになかった。静かに退路が埋められていく。数え切れないほど胸中で繰り返してきた言葉なのに、こうして口にするのは初めてな気がする。それだけに恐ろしい。また失敗作と見做されるのではないか。気持ち悪いと吐き捨てられるのではないか。けれど、理解者を欲していたのも確かだった。高千穂さんとも幸音さんとも違う、人間の理解者を。

「私の願い。私が望んできた感動は、この体。私が《私》でいられる、誰からもおかしいなんて言われることのない女の子の体を、私は欲していた」

 体を縮める。そうしないと、泡が弾けるようにこの体が消えてしまう気がした。

「叶ったみたいだな」

「まだ不完全だけどね。私の願いもいつの間にか変わっちゃった。女の子のままでいること、それが今の私の願い」

「救済は少しばかり強引なところがあるからな。人間の欠損部位など勝手に修復して、魔女と戦える体に作り変える。俺も、そのために、一時的にではあるが音を取り戻したからな。だが、過程はどうにしろ、そこにどんな謀を孕んでいたとしても、音を取り戻したとき、世界は馬鹿みたいにうるさくて、耳を覆いたくなって、けれどそれはもったいなく、いつまでも喧騒を耳にしていたかった。嬉しかった。それだけは嘘じゃない。アンタもそうだったんじゃないか?」

「幸せなんて言葉じゃ、足りなかったかな。世界の全てから祝福されているみたいで、何もかもが優しくて、愛情に溺れてしまいそうだった」

 それだけは何も取り繕うことなく断言できる。

「だからこそ、この幸せを失いたくないと思った」

「知れば、愛着が湧くからな」

「全く、その通りね」

 困った風に肩を竦め、私ははにかむ。

「女の子になりたい、か」

「やっぱり、変だよね」

 そう訊ねておきながら、卑屈なことに、私が欲している言葉は受容だけだった。それ以外の言葉はいらない。私を失敗作に貶める価値観なんて、言葉なんて、私はいらない。

 それは、どれほど身勝手なことなのだろう。

「俺はアンタが男だった頃のことなんて何も知らないが、その姿、女の子である姿はアンタに似合っていると思う。それは……きっと、アンタの心が女の子だからこそなんだろう」

 だから、と彼は私の瞳を覗き込んだ。

「アンタは女の子でいてもいいと思う。それが一番、アンタらしいなら」

 震える唇を、どうして止めることができただろう。初めて出会った理解者を前に、どうやって咽び泣かずにいられただろうか。彼は静かに戸惑いながらも、私の頭に手をのせて、そっと撫でてくれた。どこかぎこちなく、どこか慣れた手付きであやしてくれる。無言の優しさに触発されて、私の世界はますます滲んでいった。

「ホントはね、分かってたの。私の願いがどれだけ現実味のないもので、何をしても叶わないって。女の子の服を着ても、口調を真似ても、振る舞いをお淑やかにしてもダメで、私を惨めにするだけなんだって。私を失敗作にしてしまうだけなんだって、痛いくらいに分かってた」

「失敗作と、誰かに言われたのか?」

「お父さんに。お母さんには病気だって言われちゃった」

 薫さんは露骨に嫌悪感を露わにして、

「家族に否定されたら、子供はどうすればいいんだよ」

 そう吐き捨てた。薫さんは私のために怒ってくれている。それだけのことで慰めを得た気がした。けれど、やはりそれは私の問題であって、誰にも本当の意味では理解することができない。共有しても無駄だという思いが、私をなおさらのこと惨めにする。

「お父さんにそう言われたとき、私は自分が失敗作なんだって自覚したの。そうしたら虚しくなって、でも心は捨て切れなくて、どうしようもなくなっちゃった」

 膝を引き寄せて抱える。背中を丸め、膝の間に顔を隠す。

「そのとき思ったんだ。男の子としては生きたくない。だけど女の子にはどう足掻いてもなれない。それなら、戻りたいって。ずっとずっと昔、私がまだ生まれる前まで遡って、僕が形成される中で《私の心》を捨ててしまえたらいいのにって」

 それは自分を殺す行為と変わりなく、それほどまでに私は追い詰められていた。もしも高千穂さんに見初められていなければ、遅かれ早かれ、私は命を絶っていたかもしれない。輪廻に導かれて女の子として生まれ変わることを蒙昧しながら。

「叶えるよ、絶対に」

 もう、あの地獄には戻りたくないから。

 膝を押して立ち上がる。太陽がはるか遠くに見えた。

 肩に手を置かれたことで振り返る。何かを言うでもなく地平線の彼方を見つめていた彼は、唐突に「来る」と呟いた。刹那、大地が唸り上がる。

 そして、魔女との邂逅は訪れた。

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