晴れの日と願い

晴れの日

 温かく、重く、明るい。水中をぐらぐらと彷徨っているような感覚。

 そうだ。ここは夢の中だ。起きないと……今日も魔獣を斃すんだ。

 視界が開け、眩しさに目を細めた。窓の外はあまりにも明るく、寝ぼけまなこに優しくない。懐かしいような、そうでもないような、それでも随分と聞いていなかった音が響いている。水の流れ、木々のさえずり、風のうめき。煉獄では決して耳にしない音。

 現実世界に帰ってきたのだろうか。それとも煉獄そのものが夢だったのだろうか。

 意識が覚める。指先でシーツを手繰り寄せ、上下する胸に手をあてがう。ふくらみはそこにあった。私はまだ女の子だ。戻ってなどいない。それなら、世界は何故どうしてこんなにも喧しいのだろう。疑惑を胸に窓辺へと駆け寄り、窓を開け放つとカーテンが暴れた。

 それは唐突にやって来た。予兆もなく、兆候など見せず、気紛れに訪れた。私が煉獄に迷い込んでから迎えた四度目の朝、その日、世界は晴れを迎えた。

 空に厚く立ち込めていた雲海は取り払われ、ただひとつの太陽が燦々と輝く。そこに廃墟はなく、どこまで続くともしれない草原が広がっている。丘の起伏に沿って小川が流れ、色とりどりの花々が咲き誇る。魔獣はどこにも見えず、あらゆる生命が調和を保つ。どこか心を逆撫でにされるような、それほどまでに秩序と安寧で満たされた世界。

 これが、晴れの日。



 土塊を砕きながら歩く。鬱蒼と茂った木々の向こうに、うっすらと空が見える。木漏れ日が髪を焼き、頬を一筋の汗が伝う。終わりの見えない樹海というものは、想像以上に気分を滅入らせる。

「ちいちゃん、まだ着かないの?」

「あと少しよ」

「そのセリフ、三十分前にも聞いた」

「晴香は適当だからね。大丈夫、今度こそ本当にあと少しだ。見えるかい? あの丘だ。あそこの頂上に目指す入り口があるんだ」

 高千穂さんは苦々しく笑い、対して幸音さんは快活な笑声を上げた。

 促されて見上げた先では、赤茶けた大地がボッコリと盛り上がっていた。

 前方の《へそ》に割いていた意識を背後に向ける。黙々と足を動かす薫さんの表情はどこか冴えず、高千穂さんに言わせれば、それは仕方のないことらしい。

「これから行く場所は、彼にとって決して快いものではないの」

 そのように嘯いた彼女にも影は射しかかっていて、私だけが彼等と感情を共有できていないことを悟る。どこに向かっているのか訊ねることはできたのにそうせず、俯いて歩を進める。影が途絶えたことで樹海を抜けたと理解する。ある一線を境目にして森は終わり、道草さえもそこまでしか生えていない。ここから先にあるものは赤茶けた大地だけ。たらいに土を詰めてひっくり返したように大地は隆起して、ほぼ垂直な《へそ》を作り上げている。足場となるとっかかりはなく、鑢で磨いたようだ。首を限界まで傾けることでようやく頂上が望める。

「どうやって上まで行くの?」

「僕と晴香が運ぶんだ。何せ、僕等には翼があるからね」

 失礼するわ、の声とともに高千穂さんは私の背中と膝裏に手をあてがい、抱え上げた。

「…………すごく恥ずかしいんだけど」

「気にしない、気にしない。女の子の憧れでしょう?」

「重くない?」

「軽いものよ。ひよちゃんはもう少し太ってもいいくらいかな」

「女の子に軽々しく太れなんて言わないでよ」

 むくれた私に微笑み、彼女は目を閉じた。彼女の呼吸に呼応するように、その背中に翼が出現する。陽光を遮った翼へと手を伸ばし、初めは恐る恐る指先だけ、次いで手のひらいっぱいで包み込むように触れる。しっとりとした繊細な感触が肌に沁み込む。

「あたたかい。それに、とても綺麗」

「そう言ってくれたのは、ひよちゃんで二人目よ」

「もう一人は?」

「ひよちゃんによく似た子だったわ。とても心優しくて、笑顔のよく似合う子」

 彼女の横顔は哀愁を帯びていた。

「しっかり掴まっていてね」

 翼が大きく持ち上げられ、大地に向けて力強く振り下ろされる。高千穂さんの首に腕を回して抱き着き、思わず目を閉じた。体が持ち上がる。聞こえるのは、翼のはためく音と風を切り裂く音だけ。気圧の急激な変化に耳鳴りがする。体ひとつで空へ昇っていく感覚は恐ろしく、心は不安で引き裂かれそうだった。

「ひよちゃん。目を開けてみて」

 翼の音が静まり、優しい声音が届く。私は恐々と目を開き、

「…………すごい」

 その光景に、感嘆の声を漏らした。

 縮められた箱庭を俯瞰しているかのように、世界の全てが真下に広がっている。視界を遮るものはなく、最果ての地平線が緩やかに弧を描いている様子までも見渡せる。

「私ね、この景色を契約者となった子とずっと見てきたの。ちょっとした思い出づくりって感じかな。……明日になれば、ひよちゃんと会えなくなっちゃうかもしれないから」

 胸が痛む。高千穂さんは数多の人と契約を結び、ほんの僅かばかりの思い出を共有して、別れを迎えてきたんだ。それも、彼女の望まない形で。失われた契約者と、これから出会い、いつか失われるのだろう契約者との繋がりを途絶えさせないために、彼女達を決して忘れないように思い出として刻むのだ。ここに、私がいたことを。

 高千穂さんの手を取り、絡ませた指に力を込める。手のひらを通して、彼女の熱い血潮が流れ込んでくるようだった。彼女の手のひらは熱く、私の手のひらは冷たい。お互いの熱が溶け合い、混ざり合い、やがて等しい熱に染まる。

「大丈夫、私は死んだりしない。ちいちゃんの前から、幸音さんの前から、薫さんの前からいなくなったりしない。だって、私は欲張りなんだから」

 私達は手を繋いだまま、ゆったりと時間をかけて、瞳を交わしながら降りていく。

「ちいちゃんの目を奪ったんだよ? そんなに強い願いを抱いていて、それが叶うかもしれない。悲願の成就はすぐそこにある。それなのに、死んでなんかいられないよ」

「……うん、そうね。ひよちゃんは自分勝手だもんね」

「それは、傷付くなぁ」

 頬が緩む。手を引かれ、私は高千穂さんに抱き寄せられた。私はここで、彼女はすぐそこで生きている。鼓動をけたたましく鳴らしながら、熱く、苛烈に生きている。

「約束する。私は死なない。生きて、生きて、生き抜いて、願いを成就させる」

「怖くないの?」

「不安も、恐怖も、畏れだってあるよ」

 心の中は真っ暗で、厚い闇が蠢いている。私はそんなに強くない。

「だけど、それ以上に希望が胸を焦がすの」

 針の先ほどの僅かな希望は輝ける太陽となり、晦冥を和らげる。

「ひよちゃんは、強いね」

 掠れ、消え入るような言葉。添えられた笑顔は今にも崩れ落ちてしまいそう。

《違うよ、ちいちゃん。私は強くない。弱いから、強くあろうとしているだけなの》

 喉まで出かかった言葉は飲み込み、代わりに告げる。

「ちいちゃんが出会う契約者は私が最後。もう、次はないの」

 精一杯の見栄を張って。保障なんてどこにもない。未だに魔法を発現できない私がどこまで魔女に太刀打ちできるのかは分からない。それでも、心の強さが《強さ》に直結するこの世界ならば、私の自分勝手な欲望は強さに変わる。誰かを守るわけではなく、世界も救わない。ただ、私が私であるために、私が幸せになるためだけに、私は強くなる。

 高千穂さんの瞳から煌めきがこぼれたように見えた。けれど、それはきっと気のせいで、彼女は毅然と頷いた。

 大地に降り立つ。私達は《へそ》の頂に立っている。不自然なほどに均された赤褐色の岩の中央には、水晶の宮が建てられていた。あまり大きくはなく、宮というよりは祠に近い。

「あれが入り口? それにしては小さすぎる気がするけど」

「心配いらないわ。あれもヒトの世の理とは乖離しているから」

 宮の戸を開く。中には、それもまた水晶でできている鏡が納められていた。触れてみてと言われた通りに指を伸ばす。指先が触れた途端に鏡は何倍にも膨れ上がり、私の全身を収めた。鏡面に目を注ぎ、投影された影と見つめ合ううちに眩暈のようなぐらつきに襲われる。気付けば、私は鏡の中にいた。背後を振り返れば、水晶の洞穴がぽっかりと口を開けている。鏡の内側は、あの小さな入り口からは想像もできないほどの広さを有していた。

「驚いた?」

 素直に首肯すると幸音さんは破顔した。

「それはよかった。薫くんには全然驚いてもらえなくてね。やっぱり、そういう初々しい反応の方が嬉しいね。薫くんもこういうところを見習わないと」

「ちょっと、あまり茶化さないの」

「悪かったよ」

 幸音さんは肩を竦め、先に続く洞穴へと足を進める。私達もそれに続く。水晶の洞穴は踏み込んですぐに下り坂となり、大地の底へと落ち込んでいく。足下は窮屈な階段で、それこそ鏡面のように磨かれていて足が滑りそうになる。それに比して両側の壁はエントロピーが大きく、出っ張ったりへこんだりと忙しない。不思議なことにどれほど降っても洞穴は暗くならない。照明があるわけでもないのに、洞穴そのものが燐光を灯しているのだ。

 三百メートルは降ったところで階段が途絶えた。その先は切り立った断崖になっている。落ちないように気を付けながら顔を覗かせる。上方では崖が少しずつ弧を描き、地表すれすれで天蓋を成している。下方には円柱形の縦穴が続く。さすがに光が届かないためか、穴底は濃密な闇に覆われていた。

「ここから先はまた私達が運ぶわ。その前に……」

 高千穂さんは翼を広げたままで洞穴から身を乗り出し、断崖に刻まれた溝に指をあてがうと何かしらの詠唱を口遊んだ。微かな燃焼音とともに青白い炎があがり、炎は溝に沿いながら縦穴を螺旋状に駆け下りて暗闇を薄らげる。

「さぁ、行きましょう」

 差し出された手を握り返し、私は高千穂さんに抱き着いた。

 穴底が近付くにつれて細部の様子が見えてくる。上から見た限りでは何もなかった穴底には正方形の石板が置かれていた。一辺が十メートルとなかなかに大きく、表面には文字のようなものが右から左へ所狭しと刻まれている。

「あれは?」

「お墓」

 彼女の声は乾いていた。

「契約者のお墓」

 繰り返された言葉が脳裏で反響する。

「お墓といっても、肉も骨も、魂までも魔女に囚われているからここには何もないけど。それでも、ほんの僅かであったとしても時間を共有して、心を交わした彼等を忘れたくなくて、未練がましくも名前を刻んだの」

 穴底に降り立つ。いつの間にか、高千穂さんは花束を手にしていた。その内の一輪を渡される。ダイヤモンドリリー。ほのかに桜色の花弁が広がる様子は、まさに金剛石の輝きのような美しさを秘めている。それでいて淑やかかつ繊細で、箱入り娘のように儚げな花。

「供えてあげて」

 両手で受け取り、胸の前で握り締める。石板を見上げれば文字の波に圧し潰されてしまいそうだった。いくつあるのか数えることもできず、たくさんとしか言いようがない。男も女も、国も人種も様々な物言わぬ名前の群れ。無味乾燥な文字列。それだけのものが、異様なまでの重圧感を伴って胸を絞め上げる。それは恐怖なのか、虚しさなのか、悲しみなのかは分からない。ただ、腸が煮えくり返るような落ち着きのなさだけがぐるぐると蜷局を巻いている。

 花を石板に預け、両手を合わせて瞑目した。顔の知らないヒトへの、会ったこともないヒトへの祈りはなんだか偽善のように思えて心はさざめき立つ。ふと、泳いだ瞳が薫さんを捉えた。彼は石板の端に手のひらを添えて、じっとそこを見下ろしていた。その瞳は柔和であり、慈愛に満たされており、奥底に悔やみきれない葛藤を宿していた。

 高千穂さんからもう一輪の花を受け取り、足早に彼の元へと駆け寄る。

 言葉はうまく出てこず、彼の肩を叩くと、リリーを差し出す。

「お花……その、供えて」

 彼は納得したように頷き、優雅な手付きで受け取った。

「ネリネか」

「ネリネ? ダイヤモンドリリーじゃないの?」

「その花の公称だ。ギリシャ神話に登場する水の妖精ネーレーイスが由来で、ダイヤモンドリリーは言うなればあだ名のようなものだ」

「博識なのね」

「そうじゃない。ただ、自分が無知であることを知っているだけだ」

 彼がネリネを供えた場所には、渡良瀬緋奈と名前が刻まれていた。私の無言の訊ねを感じ取ったのか、彼は妹だと呟いた。亡くなった日の順番で名前が刻まれているのだとすれば、彼女は最も間近に死んだことになる。私のひとつ前、私が契約者になる前に薫さんと共に戦っていたのだろう。きっと、彼と同じように強い心を秘めて。

「ネリネの花言葉を知っているか?」

 薫さんは静かに訊ねた。私は首を振る。

「また、会う日を楽しみに」

 彼の指先が名前に添えられ、無機質な文字列が返事をするように淡く輝いた。

「明日、迎えに来る」

 薫さんの唇が動く。彼の瞳は堅牢な意志を宿していた。それだけで決意が固められたのか、踵を返して歩き出す。その背中に続こうとして、誰かに引き留められた気がして振り返る。けれどそこには誰もおらず、石板が静かに輝いているだけだった。

 頭を下げる。今の気持ちを言葉にすることはできなかった。それでも、恐らく私はたいそうなことを宣っていたのだろう。もうここに名前は刻まれないとか、身の程知らずなことを。私だって、そう遠くない未来に刻まれるかもしれないのに。

 冷ややかな空気が頬を掠め、顔を上げる。私は一人の女性を目にした気がした。その人の相貌は、どこか薫さんに似通っていた。

「明日、お会いしましょう」

 石板に背を向ける。手のひらに掴んだ誓いを胸に押し込め、私は空を仰いだ。決してここからは見ることのできない碧空が、確かに私の瞳には映されていた。

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