君の願い

 遠里小野日和に素引きを言いつける。構え、引き、放つ。矢を番えるわけでもなく繰り返す。退屈な反復行動を彼女は淡々とこなす。それは師範の指示に従順に従う門下生のようにも見えるけれど、僕には何となく分かっていた。彼女の行動には心が伴っていない。それは熱意や向上心だけでなく、退屈だとか辛いとか、そういった不満きもちさえも。彼女は課されたからこそ行っているに過ぎず、与えられたことだから取り組むが心は籠めない。そんな態度で、そんな雰囲気。そうかといって彼女がそれを自覚しているかといえば判断に困る。彼女の表情は真剣で、気迫にも鬼気迫るものがある。つまり、彼女は無自覚で心を籠めることができないのだ。

 晴香から彼女の願いは聞いている。女の子になりたいと願い続け、そのために彼女の心は抗いようのない現実に蝕まれ、衰弱したのだろう。相談者はいなかったのか、理解者はいなかったのか。体は男の子で、心は女の子。彼女は性同一性障害そのものだ。ちぐはぐな彼女の心を理解することは容易くない。そもそも僕は晴香ほど人間に興味を抱いているわけでも、好いているわけでもない。歯に衣着せぬ物言いをするならば、僕は人間が嫌いだ。憎んでいると言ってもいい。だって、僕は人間の身勝手のために理不尽な運命に巻き込まれたのだから。

 僕は人間を理解できないし、そのつもりもない。本能を隠した獣になんて近寄りたくない。遠里小野日和の心に何が秘められているのか探るなんて気が狂いそうだ。

 一方で、この輪廻からいい加減に脱け出したいというのも事実だ。死んでしまえばあっさりと脱け出せるかもしれないけれど、それではつまらない。できることならば魔女を斃してハッピーエンドを迎えたい。そのために彼女を理解することが必要だというなら、僕は労力を惜しまない。生きたパズルを攻略するためには何が必要なのだろうか。何をするべきなのだろうか。それは、人間を拒絶し続けてきた僕にとって、途方もない難題だった。


 肩を小突く。彼女は素引きをやめた。息は小さく乱れ、うっすらと額に汗が滲んでいる。今日は肌寒いとはいえ、二十分も素引きをしたのだ。もっと疲れが見えてもおかしくないのに彼女にはそれがない。身体能力は確かに向上しているようで、それならば現状にそぐわない。

「一本だけ放ってくれないかな」

 僅かにもたついた挙動で遠里小野日和は矢を番える。素人臭さもいいところの不格好な構えだが、放つ分にしてはさほど問題がない。構え、引き絞り、放つ。昨日から幾度となく見てきた姿だ。目新しいものは特にないが、強いて言うなら力の入れ方に柔軟さが出てきた。力任せだった昨日と比べれば、大した成長だ。

 放たれた矢を目で追う。空を一直線に切り裂き、その先のビルの外壁に突き刺さり、それだけだった。突き刺さった矢を引き抜いて観察する。黒木の矢に損傷はない。矢筈から矢尻に至るまでどこも欠けることはなく、その形状を保っている。だからこそおかしい。契約者となり、人間離れするほどに強化された肉体で放ったのだ。威力に関しては常人をゆうに凌ぐ。コンクリートに突き刺さるなど序の口、通例であればビルを崩落させても不思議ではない。

 それでも矢は突き刺さるのみに留まる。威力に堪え切れずに折れるならばまだ納得はいくが、矢は折れていない。外見からは想像もできないほどに強固だ。

 弓矢は心意の具象化。まるで遠里小野日和の心そのものが破壊とは無縁であるようだ。本来の用途とは違うのか、それならば彼女の心の中には何があるのか。守る意志も、傷付ける覚悟も、救済の理想もない。それなのにどうして彼女の矢は強いのか。なぜ強いのにもかかわらず破壊を成し得ないのか。何も分からず、考えるだけ深みにはまっていく。

「あの、どうかしましたか?」

 ふと我に返る。彼女が僕の顔を覗き込んでおり、見つめ返すと瞳を逸らされた。

「何でもないよ。疲れただろう、少し休もう」

 君はいったい何を願っている? 訊ねたところで「女の子でありたい」としか返ってこないだろうと思い、嘆息とともに言葉を流す。事を急いてもどうにもならないだろう。

 彼女の隣に腰を下ろし、様子を窺う。彼女は能天気に空を仰いでいる。

「これで空が晴れていたら素敵だったのに」

「こんな世界だからね、仕方ないよ」

「空が晴れることは、この世界にはないんですか?」

「あるにはあるかな。もっとも、それを楽しむ余裕なんてないと思うけど。それは――魔女が現れる予兆だからね」

 彼女の表情が若干強張る。

「魔女が現れる前日はね、晴れるだけじゃないんだ。草木が茂り、花が咲き、風が鳴き、まるで楽園エデンへと生まれ変わったように煉獄ゲヘナは様変わりする」

「それって、神様が祝福してくれているみたいですね」

「そうかもしれない。だけど、僕には魔女が『最後の日を楽しめ』と囁いているようにしか思えない。不気味だよ、あの光景は」

 彼女も《晴れ》を迎えれば僕と同じ心境になるのだろうか。それとも、僕や晴香、薫くんとは異なる心を持つ彼女なら、笑ってその日を過ごすのだろうか。

「でも、その《晴れの日》は、魔女を斃して日常に戻れるかもしれないという希望の兆しでもあるんですよね?」

 そういう見方もあるのかと素直に驚く。言葉では勇猛果敢に魔女を斃すと息巻いておきながら、心の底ではそんなことはできないと諦めていたのだろうか。

 曇り空を仰ぐ。空が少しだけ淡いだように感じられ、心が軽くなるとともに、僕の内には遠里小野日和に対する新たな疑念が浮かび上がる。

《魔女を斃す》

 彼女はその言葉を唱えた。昨夜のこと、僕は薫くんに言った。遠里小野日和には誰かを守りたいとか、世界を救済したいという意志が存在しないどころか、誰かを傷付ける覚悟すらないと。けれど、そうでないとしたら。傷付ける覚悟がないのではなく、傷付けてはいけない理由があるのだとしたら。魔女を斃して平穏を手に入れる以上に、彼女が失いたくないものがあるとすれば。そこまでを考えたところで、僕の目は彼女の体に捕らえられた。

 そうだ、失念していた。遠里小野日和は生粋の契約者ではなく、男が女へと転換した産物としての契約者であることを。そして、彼女は女の子になることを心の底から望んでいて、彼女にとって今の姿は押し付けられたものではなく、願い続けてきた理想なのだ。それが魔女を斃すことで失われるものだと考えたなら、彼女は魔女を斃すことを躊躇するだろう。倒したくない、このままでいたいと願うだろうし、事実、彼女はそのように願ったのではないか。

 けれど、そんなことは悩むべくもない。魔女を斃した後のもうひとつの《恩恵》を知っているのなら、とっくに解決しているはずのことなのに――。

 そこで晴香の姿が意識の上にもたげてきて、僕は思考をやめた。

「晴香の馬鹿野郎!」

 激昂した僕に向け、遠里小野日和がびくりと震えた。

「……ちいちゃんは女の子だから《野郎》じゃないと思います」

「そうじゃない。というか野郎じゃなかったら何だというのさ」

「野郎は男の子だから、野子?」

「うわ、馬鹿っぽい」

 野郎の対義語は女郎だ。

「日和くんさ、昨日の夜、僕等の話を聞いていたでしょ。……そんなに不安そうな顔をしなくてもいいよ。別に糾弾しようという腹積もりじゃないんだ」

「それなら、どうしてそのことを?」

「君には守りたい人がいる」

 僕には彼女の心を理解することはできないけれど、推し量ることはできる。その上で辿り着いた。彼女の内側に潜む、守りたい人の存在に。

「人と呼ぶのはおかしいかもしれない。なぜなら、君が守りたいのは自分自身なのだから」

「そんなの、当たり前じゃないですか」

「そうだね。それは別におかしいことじゃない。誰でも死ぬのは怖いし、終わることは恐ろしい。虚ろは恐怖だ。だけど、君の場合は少し違う」

 腕を持ち上げ、人差し指を伸ばし、彼女の胸を指す。

「君が守りたいものは遠里小野日和という人間じゃない。晴香によってもたらされた女の子の体、理想の自分でいられるその体を、君は守りたいんだ」

 肯定したくないのか、それとも肯定してしまいたいのか、彼女はどっちつかずの方向へ首を振った。自分を守るという至極当然な行為が、彼女にとっては後ろめたいことなのだろう。それがなぜかは分からない。人間の複雑な感情なんて理解しきれるものではない。けれど、彼女の気持ちがどうであれ告げるべきことは変わらない。善意ではなく義務として、彼女に希望をもたらすためではなく魔女を斃す要素を増やすために、僕はそれを告げる。

 言葉は軽く、心は刹那的だ。だが、希望は晦冥を晴らし、ヒトを突き動かす。

「遠里小野日和。君の願い、女の子でいたいという願いは叶う」

「…………それは、どういう意味ですか」

「魔女を斃せばこの世界から脱け出すことができる。これがひとつめの恩恵だ。けれどそれだけじゃない。二つ目があるんだ。心に抱き続けてきた理想が叶うという恩恵が」

 瞳に希望の灯が宿るのを、これほどまでに鮮烈な赫灼を、僕は初めて目にする。

「叶う? 私の願いが叶うの?」

「あぁ、叶う」

 感慨に満たされたためか、彼女は空を仰いだ。細く閉じられた眦は、涙を流すまいと必死に堪えているようだった。

「誰かを守るとか、世界の救済とか、そんなことは考えなくていい。それは僕等の拠り所だ。遠里小野日和を守るために、遠里小野日和であるために、君は強くなれ」

「私を守るためだけに――……」

 そう呟くと、彼女は立ち上がった。その瞳は強靭な意志を宿し、その眼差しは決意に満たされている。灰色モノクロの世界に於いて、陽光の薄明かりを受けて彼女は浮かび上がる。その姿は神々しく、妖しくもあり、彼女が纏った空気を言葉にするならば《魔性》と呼ばれるのだろう。悪魔のようにヒトを惑わして、篭絡させる性質。そのような形容が彼女には相応しい。

《私はここにいる》

 彼女は静かに詠唱を始めた。風が吹いているわけでもないのに彼女の髪が持ち上がり、服が躍る。たなびく黒髪は艶やかで、神への言葉を紡ぐ唇は妖美だ。

 彼女の右手に光が生じる。小指の先程の小さな煌めきは瞬くうちに膨れ上がり、上長下短の弓が形成される。末弭から本弭へと一筋の光が渡されて弦となる。藤頭に指が添えられ、弦に向けて引かれると、それもまた光で作られた矢が出現した。

 空色の弓矢。実体を伴わない光の弓矢。これが彼女、遠里小野日和の武器。

 指が離された。光の矢は風よりも速く、雷よりも猛然と、それこそ光さえも追い越すのではないかと錯覚するほどの速度で空を駆け抜け、ビルの外壁に到達した。外壁に触れた途端に矢は四方へと分かたれ、蜘蛛が巣を張るようにコンクリートを侵食して、遂には崩落させた。

 悪寒にも似た戦慄が走る。遠里小野日和はまだ魔法を発動していない。彼女の装束は変わっていない。それにもかかわらず、これほどの破壊を為し得るほどに彼女の願いは強いのか。

 笑いが込み上げる。

 予想以上だった。そして、彼女はそれで終わりではないのだろう。

 もっと、もっと。さらなる高みへと。僕や晴香、薫くん。幾千、幾万とも数え切れない神様でさえ辿り着くことのできなかった未踏の地に、君ならば辿り着ける。魔女の屍を踏み躙り、その先にある平穏を掴め。それは、君の願いだ。

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