戦いはまだ荷が重い

 幸音さんと薫さんの会話を盗み聞きした次の朝、私は何だか悪い夢でも視ていたような目覚めの悪さを感じていた。瞼が重く、体のあちこちが軋む。頭を振ることで睡魔を追い出してベッドを出る。魔力を自在に操れるようになれば衣服さえも自由に変えることができると言われたけれど、私にそんなことができるはずもない。制服を着込み、リボンを結ぼうかどうか迷い、結局は結ぶ。身だしなみに気を使いたいと思うのは、私が《僕》だったからだろうか。

 薫さんと連れ立って外に向かう途中、今日は二手に分かれることを伝えられた。私と幸音さん、高千穂さんと薫さんのペアだ。どうしてかと訊ねると、

「幸音の方が、教えるのはうまいからな」

 曖昧に返答された。その意味を理解したのは、魔獣の討伐に出向いた高千穂さん達と別れた後のことだった。私は、幸音さんから戦いの手ほどきを受けていた。

「行くよ! よく狙ってね!」

 張り上げられた声に怯む。幸音さんは倒れてしまうのではないかと不安になるほど上体を傾け、彼我の五百メートルを駆けてくる。彼が握るものはダガーではなくゴム製のナイフだった。あれも魔法で具現化させたものらしい。対して私が構えるものは、威力は弱くとも充分な殺傷能力を保有する弓矢だ。幸音さんを傷付けたらと思うと手が震え、狙いは定まらない。

「迷ってどうするんだ!」

 こちらの気持ちも知らないくせにと言い返したくなるのを堪え、矢を番える。弓がぐっと撓り、弦は今にも切れてしまいそうだった。ふと幸音さんの正中線を捉える。一瞬の気の緩みが、私の指から矢を解き放った。痛いほどの金切り声を上げ、幸音さんの胸に吸い込まれるように矢は飛翔する。我に返り、避けてと叫ぼうとした刹那、彼の体が宙に舞う。真上に跳躍した彼の落下線上を、一足早く矢は通り過ぎる。

「呆けないで!」

 叱責に突き動かされ、今度は引き切ると同時に手を離した。狙いの甘さがそのまま反映され、矢は幸音さんから大きく逸れる。

「やみくもじゃ当たらないよ!」

 思考が飽和する。彼との距離はすでに半分以下に詰められている。理性という名のストッパーはあえなく外され、躍起になって次の矢を番えた。当てても構わない、当てなければならないと、脅迫めいた思考で満たされる。

 放つ。当たりそうで、それでも当たらない。幸音さんは両足でアスファルトに踏ん張って急停止して、矢は三十センチ手前に落ちる。距離は百メートルを切った。彼の膂力を考えればこれで最後となる矢を取る。番え、引き絞り、鏃を向ける。まだ離さない。まだ引き付ける。残り四十メートル、放とうとして開きかけた指を強引に閉じる。摩擦で指の皮が剥ける。

 彼の姿が忽然と消えた。どこに行ったのかと瞬時に目を巡らせ、上空を仰ぐ。彼はそこにいた。咄嗟に弓を持ち上げ、彼の放物線を見据える。彼が私の直上に達するか否かというところで今度こそ指を離す。弦が矢を押し上げる。風を追い越し、風に追いかけられ、矢は一直線に幸音さんへと向かう。彼の背中に翼はなく、空に足場はない。矢を避ける手立てはないと思い込み、私は闘志を緩めさせた。一方で彼に切羽詰まった感情は認められず、哄笑がべったりと張り付いていた。彼の体が捻られる。背中は空に、胸は矢へと正対させ、彼はナイフを投擲する。ナイフと矢が空中で交わり、軌道を乱された矢は見当違いの方向へと逸れる。

「チェックメイト」

 彼の声が短く響く。頸動脈にナイフが沈められた。

「これが実戦だったら、日和くんは死んでいるところだったね」

 緊張を吐き出して座り込む。《戦い》はまだ荷が重い。

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