晴香が求めていた渇き

「ご覧、晴香。見事な月だよ」

 紅紫と紺青の二つの月が交わる空を仰ぎながら、真っ白な狐、幸音は語りかけた。

 風が凪ぎ、押し上げられていた雲海が降ってきて空を覆い隠すが双子の月だけは隠されることがなく、妖美な輝きを大地へと振り撒く。

「またその姿なの?」

「こっちの方がいろいろと便利なんだよ。身軽だし、愛くるしいし、獣として磨き上げられた五感は魔獣相手にだって有効に働く。何より、人間に似ていない」

「…………」

 黙した晴香から目を逸らし、幸音は横に詰めた。

「訊いてもいいかい?」

 晴香は静かに頷き、唇を柔く噛み締めると「どうぞ」と付け加えた。

「晴香はどうして遠里小野日和を見初めたんだ? 彼を彼女に作り変えるために膨大な魔力を消費して、それに見合うだけの可能性が彼女には秘められていたのか?」

「分からないわ」

 晴香の答えに、幸音は呆れたように表情を崩した。

「分からないって、晴香は随分と無責任だね。いくら契約者を抱えているとはいえ、僕達の力は常に不足している。無碍に消費していいものじゃない」

「そのくらい分かっているわよ」

「いいや、晴香は何も分かっちゃいないね。とんでもなく無知で短慮だ」

 なおも食い下がる幸音を一瞥して、晴香は諦めたように嘆息した。そして、幸音を抱え上げて寝転がったかと思うと、幸音の小さくて柔らかな体に頭を沈めた。

「僕は晴香の枕じゃないんだけど」

「いいじゃない。持っている素材は活用しないと」

「複雑な気分だ」

 幸音が話すたびに視界がわさわさと上下する。晴香はふっと笑みを漏らす。

「白状するわ。どうして私がひよちゃんを選んだのか」

 その口調は柔らかで、日和との邂逅を話せることに喜びを抱いているようでもあった。

「私ね、ひよちゃんの心に恋しちゃったの」



 晴香が新しい契約者を求めて人間の世界を訪れたのは三日前のことだった。前任者である契約者を失ったことへの悲しみ、手をこまねいていれば薫までも失ってしまうことへの危惧が、彼女の心を限界まで引き絞る。そんな落ち着かない心境で、人間界へと通じる扉を潜る。

 契約者が失われ、七週間を挟んでから新たな契約者を探すときにだけ開かれる扉を、彼女は果たして何度潜ってきたことだろう。彼女が『救済』として生まれ落ち、光明の見えない宿命に身を窶し始めた頃には数えていた。何人の契約者を失ったのか。だが、今では数えることをやめた。無駄なのだ。そんなことをしても失った人は帰って来ない。次は誰を死なせるのだろうか。そんなことを胸中で反芻させながら扉を潜り抜け、彼女は目を瞠った。

『嫌だ』

 声が聞こえた。大気をビリビリと震撼させて、晴香の元に声が届く。

『こんなの嫌だ』

 それは悲鳴だった。痛々しいまでの叫びが晴香を貫く。

『こんな世界嫌いだ。こんな体なんていらない。気持ち悪い。僕だ、僕が気持ち悪い。あいつが、僕が、この体が憎い。どうして僕は僕なんだ。どうして僕は、私じゃないんだ』

 荒れ狂う嵐のようにとめどなく、誰かの叫びが晴香の裡に入り込んでくる。耳を塞いでも聞こえなくなることはなく、次第に叫びは大きくなっていく。悲鳴の主を求め、彼女は駆け出していた。背中に純白の翼が現れ、彼女は駆けた勢いのままに空へと舞い上がる。突風に煽られた体を立て直し、悲鳴がどこから聞こえてくるのか探るため、耳を澄ます。

 彼女にとって、こんなことは本来ならばする必要がなかった。始まりの人間が男女一人ずつであったように、契約者も男女一人ずつでなければならない。幸音は男と、晴香は女と契約する。それが晴香と幸音の魂に刻まれた無意識の掟だった。

 それなのに、叫び声の主は男の子。放っておいてもよかった。そうすべきだった。人間の心が悩みに溢れていることなんて分かり切っているし、苦しみに溺れていることは珍しくもない。無視して、本来の目的に専念していればよかった。

 けれど、この叫びは放り難い。その理由は分からずとも、目を逸らすことはできない。

 辿り着いたのはどこにでもあるような一軒家で、そこに遠里小野日和がいた。

 彼は女の子の恰好をして、父親と思しき人間に胸倉を掴まれ、責め立てられている。その貌は懊悩で歪み、その心は世界に向けて怨嗟を吐き散らかしていた。

『ねぇ、どうして? 女の子が男の子の恰好をすることは誰もいけないことなんて言わないのに、どうして男の子は、女の子の恰好をしたらいけないの?』

 彼の心がだくだくと晴香に流れ込んでくる。彼の叫びでいっぱいになる。

『女の子になりたい。私が私らしく生きられる姿になりたい』

 なるほどちっぽけな願いだ。そして愚かな願いだ。生まれ持った姿を捨てられるはずもない。それは神様にでも頼らなければ叶えられない荒唐無稽な願いで、人間の力では決して叶うことのない望みで、それ故に、晴香が求めていた渇きだった。

 晴香の手のひらが握られる。翼はとうに消えていた。手を伸ばし、窓の向こうで繰り広げられる、叶わぬ願いと避けられぬ現実とのせめぎ合いに瞳を注ぐ。

 あぁ――、息が零れた。

「あの子、泣いてる」

 名前も知らない人間なのに、晴香は彼の心に涙を流し、咽び泣く。

 彼は願っている。自分が自分らしく生きられる世界を。けれど、それは決して叶うことなどなく、残酷な現実が彼を引き裂く。失敗作にして、病気にしてしまう。

 綺麗な心ではない。彼は途方もなく親不孝者で、自分を嫌い、世界を憎んでいる。

 それでも、彼の心は晴香の心でもあった。覆しようのない運命に、必死に抗おうとする心。誰かの心に惹かれることを『恋』と呼ぶならば、この時、彼女は名も知らぬ男の子に恋をした。

「名前を聞かせて、知らないヒト。あなたの願いを叶えてあげる」

 それは押し付けの善意。晴香の身勝手で、利己的な優しさ。ただ、彼女は欲したのだ。自分と同じ心の持ち主が、傍にいてくれることを。

「だから、私と契約して」

 その瞬間に運命は捩じ切れた。



「勝手な心だね。少なくとも彼が女への転生を望んでいたことは確かだとしても、こんな運命に巻き込まれたくはなかっただろう。君は彼女に優しさを施したつもりだろうけれど、それは偽善だ。君はただ単に巻き込まれるはずでなかった人間を巻き込んだだけなんだから」

「えぇ、それが私の罪ね」

「まぁ、遠里小野日和を契約者にしなかったところで別の誰かがそうなっていただけだからね。結局は誰かの人生を捻じ曲げるんだ。彼だけが罪なのではない。これまで僕と晴香が交わしてきた契約によって失われた数多の命、それこそが罪と呼ぶべきものだ」

 だから気にするなと、幸音は言う。

「願わくば、今回の罪が功に転じて欲しいね。僕はそろそろ飽きたよ、この戦いに」

「私もよ」

 終わらせたい。彼女の胸中はそれだけに満たされていた。

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