あなたが願いを抱いていたから

 路地裏を抜けると廃墟だった。昼間だというのに太陽は隠され、灰色の曇り空が広がり、ほのかに赤みがかった大気が街を満たしている。一目で異常だと分かる世界。人はおらず、私以外に生命を感じられず、それは『死の町』と形容するに足る光景だった。

(なんなの、これ)

 戸惑いながら、一歩、踏み出す。アスファルトが乾いた音とともに砂のように崩れ、踏みとどまることができず尻もちを搗く。手のひらと臀部に痺れるような痛みを感じながら、私は気の抜けた表情で空を仰いでいた。夏の群青は消え失せ、灰色の雲が地平線の彼方まで続く。どこまでも、どこまでも果てなく、それだけだった。

 嗄れた笑声を上げ、瞑目する。手の甲で眉間を抑え付け、込み上げてくる感情を殺す。

(目覚めたら女の子になっていて、それで今度は、世界の終わり?)

 もしもこの世界が私の望みを何でも叶えてくれる夢なのだしたら、私は何という願いを抱いていたのだろう。女の子になりたい、男の子の呪縛から解放されたい。その背後うらで世界を終わらせたいと願っていたなら、私はとんだ道化だ。せっかくの神様の施しが台無しじゃないか。

 それともこれが神様なりの意趣返しなのだろうか。受けた恩寵に対する報い、或いは対価、それが世界の終わりだったのだろうか。上目遣いで歩いてきた道の向こうに元の世界を探す。けれど、期待を裏切るように空と同じ色をした街並みが続いているだけだった。


 時間にして五時間余り、誰かとの遭遇を求めて街を徘徊した。焼け融けた窓をサッシごと蹴破って不法侵入を果たし、声が枯れるまで呼びかけ続け、けれど誰もいなかった。どこにもいなかった。時間が過ぎれば過ぎるほど、それに比例して絶望が膨らんでいく。

 遂に足が止まる。しかしてそれは諦めからではない。希望からだ。

 それは子供の声だった。年齢にして七つほどの、僅かに舌足らずで透明な声が「あそぼう、あそぼうよ」と呼びかけている。耳を澄まして懸命に声の在り処を探り、あてもなく彷徨っていたときとは打って変わって力強い歩調で廃墟を駆け抜けていく。高く積み上げられた瓦礫の山を這うように越え、入り組んだビル群の間を通り過ぎる。

「あそぼうよ!」

 大きく轟いた声に肩を震わせ、走る勢いを殺さないまま大通りへと飛び出す。面貌を期待と安堵で塗り固め、されど、否応なしに飛び込んできた光景が私の脳内を真っ赤に染め上げた。

 そこにいたのはバケモノだった。水脹れした蛇を想起させる生物が、人間らしき肉塊を貪り食っていた。頭蓋骨を模した仮面が頭部に被せられ、胴体は大樹の幹ほどもあり、時折、尾が大地に叩き付けられる。その衝撃はこちらまで伝わり、私を揺さぶる。逃げろと全身は叫ぶのに体は動かない。糸が絡まった人形のように、経験したことのない恐怖を前に硬直していた。

 つと、バケモノと瞳が交錯する。仮面に空いた洞の奥で、ぎらついた瞳が細められる。

「アソボウヨ、オネエチャン。ネヱ、アソボウ」

 気付けば、バケモノは目の前にいた。仮面が上下に開き、私の頭ほどもある牙が剥き出されている。バケモノの息は饐えた死肉の臭いがした。深緋色の唾液がぼたぼたと落とされる。

「アソンデヨ、オネエヂャン」

 空気が切り裂かれた音に振り向けば、バケモノの尾が私の体を鞭打った。悲鳴も上げられずに飛ばされる。背中に鈍い衝撃が走り、立ち上がれない。不思議と痛みは湧かなかった。体の感覚そのものが消えてしまったようだった。視点がぐっと高くなったことでバケモノに持ち上げられたのだと分かる。掠れる視界の中でバケモノの姿が近くなり、また遠ざかる。

「ツカマエタ! オネエチャンツガマエタ!」

 ケギャギャギャ、ギャギャ!

 バケモノの笑声が鼓膜を打つ。食べられてしまうのだろうと、そんなことしか考えられず、悲観的な予想を肯定するようにバケモノが私を握る力が強まった。骨が、内臓が、肉が悲鳴を上げる。抗ったところでどうにもならず、悶えさせた足が何もないところを蹴り付けるだけ。

 意識が遠くなり、感情が薄れていく。ふと、脳裏に家族の姿が浮かぶ。それは絶念からの言葉だった。死を覚悟して、避けられないと悟った故に許しを請う言葉。

(ごめん……なさい……)

 望まれる子供ではなく、失敗作として終わってしまうことへの贖罪。

 瞑目する。生を諦め、意識が途絶える刹那、轟音とともに浮遊感が訪れた。目を開く。切り落とされたバケモノの腕、劈く悲鳴、私を抱きとめた誰かの影。何が起こったのか、どうして私の心臓は鳴り止んでいないのか、誰に助けられたのか――。

「危ないなぁ、ひよちゃんは。私と契約する前に死んじゃうところじゃない」

 何も分からなかったけれど、答えはそこにいた。

 高千穂晴香。

 これまで生きてきた十二年間で、一度も見たことのない笑顔を彼女は向けている。

「どうして……高千穂さんがいるの?」

「言ったでしょう? 私はひよちゃんをいつでも見ているって」

 どうしてだろう、怖い。体が悴む。あれだけ探し求めて、誰かと遭遇したかったのに、私は彼女に会いたくなかった。バケモノに震えていたときとは違う種類の恐怖に襲われる。

 そんな私の意識を揺り起こしたのは、皮肉なことにバケモノの叫びだった。

「イタイ! イタイイタヰイタイ! イダイヨ、オネエチャン!」

 その声音は無垢な幼子と変わらなかった。私はバケモノを怖れればいいのか、それとも慰めてあげればよいのか分からなくなっていた。

「うるさいね、あれ。話の邪魔だから片付けちゃうね」

 けれど、高千穂さんは素っ気なく言い放った。如何なる感情も滲ませず、恐れなど微塵も抱いていない様子で歩き始め、バケモノと対峙する。そして私を振り返った。

「ちゃんと見ててね。あなたがこれから、どう戦うのか。何と戦うのか」

『戦う』という言葉はあまりにも非現実的で、彼女の真意を解することはできない。

 高千穂さんが服の袖を揺らすと、黒塗りの鞘に収められた一振りの太刀が出現した。空中に浮かぶ太刀を悠然とした動きで掴み、彼女は抜刀した。鞘と同じ黒塗りの刃がバケモノに向けられる。短い叫びとともに上段で構えられた太刀が振り下ろされ、刹那、激しい閃光とともに大地が爆ぜた。刀の切先からバケモノへと延びる道筋をなぞるようにアスファルトが捲れ上がり、バケモノの左半身が縦に裂ける。湧き上がる大音声の悲鳴、衝撃の余波が全身に広がり、仮面に罅が入った。罅はゆっくりと広がっていき、最後には仮面を粉々に砕き割った。

「イタイヨ……オネエチャン」

 仮面の下では少女が磔にされていた。四肢はバケモノの躰へと沈められ、癒着しているかのように継ぎ目はない。剥き出しの頭部と胴体だけが視認できる。私はその異様さを前に怯み、反して高千穂さんはどこまでも動じることなく、バケモノに近付く。

「死になさい」

 彼女の宣告が耳朶を貫き、

「タス……ケテ。オネエチャン」

 少女の懇願が脳を揺さぶった。

 自分が何をしているのかは分からなかった。気付けば私は少女へと駆け寄っていた。

「お願い、この子を殺さないで。この子は、私達と同じ人間よ」

「それは魔獣よ。人間の感情を喰らい、人間をかどわかすバケモノ。決して人間じゃない。あなたもそれに殺されかけたじゃない。魔獣はね、滅ぼさなければいけない存在よ」

 人間が滅ぼされてしまう前に、と彼女は続けた。

「でも、この子は……」

「その少女はとっくに喰われている。魔獣に植え付けられ、囚われ続けているだけの『すでに終わった魂』よ。人間だった頃の躰はとうに朽ち果て、魂だけが延々と縛られている」

 何も知らない私では、脳みそを必死に回したところで反駁の言葉は見つけられない。

「オネエチャン」

 背後から呼ばれる。振り返り、最初に認めたのは少女の涙だった。大きな瞳がぶるぶると震え、頬を大粒の涙が伝う。少女はひび割れた唇を引き剥がし「コロシテ」と懇願した。

「クルシイノ……コワイノ……ネエ、オネエチャン」

 頭を殴られたような衝撃に眩暈を覚え、それから私は気付く。少女の瞳が注がれているのは私ではなく、高千穂さんであることに。ひいては彼女が握っている太刀であることに。

「それがその子の願いよ。魔獣に囚われた魂は、魔獣が死なない限り解放されない。ひよちゃん、あなたはこの子に苦しみを抱えながら、形だけでも生き永らえろと言うの?」

 それでもこの子を殺してはだめだと、どうして言えなかったのだろう。私はこの子を助けたい。殺すことが救いだと高千穂さんは言い、少女もそれを望んでいる。

「助けるために、苦しみから解放するために人間を殺すことは許されるの?」

「少なくとも私はそう信じているから、この刀を握っているのよ」

 私の裡でどろどろと渦巻くものは悔しさだった。不甲斐なさだった。無力感だった。

 高千穂さんの手が肩に添えられ、横に押しやられる。

「どうかあなたに、死後のやすらぎを」

 哀悼するように彼女は告げ、少女の胸に太刀を突き立てた。少女は安堵したのか安らかな笑みを浮かべる。そこにあるのは終われることへの喜びだった。

「ありがとう、おねえちゃん」

 私は少女を救いたくて、それは高千穂さんによって叶えられた。決して望んでいない形で。喜べばいいのか泣けばいいのか、祝福すればいいのか哀しめばいいのか、私には分からない。分からないことだらけだ。この世界のこと、魔獣のこと、私自身についてさえも。

 私は何も、知らない。

「おねえちゃん、あそぼう」

 弾かれるように顔を上げる。少女は痩せ細った四肢を懸命に動かし、奮闘の末、左腕がずるりと肉から抜けた。骨と皮だけの腕を持ち上げ、少女は私に小指を差し出す。

「また、あそんでくれる?」

「今度は、痛いのはなしだよ」

 小指をそっと握り返す。泣いているのか笑っているのか判別のできない、そんな曖昧で、綯い交ぜな表情を少女に注ぐ。少女の表情が僅かに和らいだとき、絡ませていた小指が崩れ落ちた。感傷的だとかロマンチックだとか、そのような美しさは介在せず、後味の悪さだけが残る。

 私は神様なんて信じていない。この世界の外に、或いは内に、天国や地獄が存在すると思ったこともない。死んだ先には何もなく、あらゆる物質的なこと、精神的なこと、霊的なことが存在しない『無』だけが広がっているのだと思っている。だから、私が少女に向けた言葉は嘘なのだ。それでも少女のためについたのであれば優しい嘘だったけれど、それは保身のため。私は恐れたのだ。少女を拒絶して、少女の、ひいては魔獣の激昂を引き起こすことを。

 今でも肋骨が疼き、全身は燃えるように熱い。顔を顰めることを堪えて無理に笑おうとする私の姿は、どれほど滑稽に見えていたことだろう。どれほど卑怯者だっただろう。

「さよなら」

 それは私の言葉だったか。それとも少女の言葉だったか。魔獣の体が爆ぜる。真っ赤な鮮血が飛散して私と高千穂さんを濡らす。そこに少女はいなかった。少女の残滓だろうか、琥珀色の煌めきが空に昇っていく。その行く末を見届けることはなく、私は目を閉じた。

「高千穂さん」

「何、ひよちゃん」

 ちいちゃんと呼んでと、彼女が茶化すことはなかった。

「知ってるんでしょう、この世界のこと。あの子のこと。それから『僕』がどうして女になったのか。教えて。知らないことで苦しむのはもう嫌なの。悩むのも、戸惑うのも嫌なの」

 あんな感情を二度と味わいたくない。魔獣に恐れを抱いたことも、少女にあらぬ同情を注いだことも、高千穂さんに反論できなかった悔しさも。この世界に迷い込んでから抱いてきた感情の全てを繰り返したくない。この世界を知ることで、私は自分の心を殺してみせる。

「ひよちゃんには最初から教えるつもりだったから問題ないけど、知ったからって、ひよちゃんが抱いた感情が消えるわけじゃないよ」

 それは無碍な希望を抱くなと忠告したのか、或いは逃げられないよと諫言したのか。けれどそれは些細なことだ。結果がどうなるに関わらず、無知である限り私は前に進めない。

「どこから話せばいいのかな」

 高千穂さんはどこか気の引けるような表情で開口した。



「私は人間ではない」

 それが彼女,高千穂晴香の第一声だった。

「この体は人間と接触するための義骸、本物の姿じゃない」

 誇示するように反らされた肢体を見つめる。血潮を強く映す赤らんだ肌に、やわらかな亜麻色の髪。凝視すればするだけ、彼女が人間であるという認識が構築されていく。

「何のために?」

 出てきた訊ねはそんなもので、

「魔女をたおすために」

 その答えもまた、理解の範疇を越えるものだった。

「魔女と、魔に堕ちた魂を滅するために作られた疑似霊魂。それが私」

 陳腐な言葉を、彼女は至って真面目な表情で続ける。彼女は瘋癲ふうてんなのかと疑い、けれど、魔獣と呼ばれたバケモノ、それに囚われていた少女のことを思うと一笑に付すことができない。

「でも、魔女って、そんなの……」

「信じられない?」

「信じたくないよ。魔女とか魔獣とか、そんなの、童話の中の存在でしょう?」

「否定するなら順序が逆よ。あなたが抱いた恐怖、鼓動の高鳴り、痛みは幻覚だった? あれはただの夢だった? ほら、息を吸い込んで。胸に手を当てて、鼓動を感じて。あなたが生きている現在いまは夢なんかじゃない。偽りようのない現実だって、噛み締めて」

 彼女に手を取られる。

「覚悟を決めなさい、遠里小野日和。これから私が語る全てを、受け入れる覚悟を」

 厳格な語気に身が竦む。知りたいと願ったのは私じゃないかと、怯みそうになった自分を叱咤する。「分かった」と唇から言葉が落ちた。それは意図しない決意だった。

「分かっていないのに分かったなんて、迂闊に言わない方が得策だよ」

 見破られたことに息を呑むよりも先に目を疑う。高千穂さんは静かに微笑み、自分の胸に私の手を突き立てたのだ。そこに存在するはずの彼女は実体を伴わず、宵闇に揺れる陽炎のように触れることはできず、それが何であるか考える余裕もなく、彼女の内に引きずり込まれる。

 目を開けば白妙に包まれていた。陰影はなく、終わりは見えず、どこまでも真っ白な空間。足元には地面があるのか、それとも浮いているのか、その感覚さえも喪失する。『五感の認識』から隔絶された空間に私はいた。

「いらっしゃい」

 声に振り返ると、高千穂さんが上空から降り立つところだった。制服の襞スカートが軽やかにはためき、危うく下着が見えそうになるところまで太腿が剥き出しにされる。

「ここはどこなの?」と既視感のある台詞を吐く。

「私の中。高千穂晴香という名前と存在を授けられた魂の、内側の世界よ」

「何のために私を連れてきたの?」

「知りたいと望んだのはひよちゃんでしょう?」

 そして、彼女は手を差し出した。握手を求めるかのような仕草に、私は思わず怯む。

「迷子にならないように、手を繋ぎましょう? 他人ひとの心の中に来るのは初めてでしょう?」

「そんな台詞を聞くのも初めてよ……」

 どこか、諦めたのかもしれない。それか、彼女の微笑に絆されたのか。

 握り締めた手は小さく、けれど強張っていて、ふと武器を握っていた姿を思い出す。

 手を引かれ、歩き出す。足元には相変わらず触感がなく、進んでいるのか、同じところで足踏みしているだけなのかも区別できない。けれど、白ばかりが続いていく景色の果てには赤茶けた切れ目があり、それが次第に大きくなっていく様子から歩いているのだと分かる。

「あれは何?」

「私の記憶。正確には、私の魂に刻まれていた情報。創世の時から、私が生まれる直前まで続けられていた神々と魔族の抗争。私が辿り、あなたが辿る運命の元凶ともいえる光景よ」

 切れ目の端まで辿り着く。眼下に広がる光景は戦場だった。夥しいほどの死者の体が積み上げられ、激しい隆起を伴う山脈を形成している。大地の色は見えず、死体と死体の間を縫うように流れる川の水は変色し、世界は赤褐色の血潮に覆われていた。

「かの地はヴァルハラ。数多の神々と魔族が剣を交え、血を流し、互いに身命を削り合った因縁の大地。この抗争が何から始まったのか、真に理解する者は少なかった。それが創世より定められた摂理であるかのように、彼等は生を受けた瞬間から剣を握った。神々は世界の安寧を、魔族は世界の崩落を願った。相反する理想ユメを抱いた彼等に手をこまねいている余裕はなく、妥協も許されない。神々にとって魔族は悪であり、敵であった。魔族にとっての神々も同じ。どちらも我こそが正義であると疑わず、刈り取った首の数で正義を証明しようとした……」

「でも、神様が勝ったのでしょう?」

 それが摂理だと断言してもいい。悪魔が神様に勝つことはない。そんな結果は許されていない。――はずなのに、高千穂さんは沈鬱な面持ちで首を振る。

「神々は敗れたわ。皮肉にも彼等が守り、救おうとした人間によって」

 眼下の光景が一変する。戦場は焼け落ち、その後に現れたのは渦巻く闇だった。全身を震わせるような重低音の咆哮が轟き、肌がさっと粟立つ。

「どうして敗れたの? だって神様なんでしょう、全知全能なんじゃないの?」

「神々も魔族も、拠り所とするのは人間の心よ。信じられること、畏れられること、祀られること、願われること。人間の感情と、それに伴う行為が彼等の威光を左右する。結果として神々は力を失ったわ。殺人、姦淫、強奪、偽証――人間はあらゆる不品行を貪り、魔族の喜ぶ行為へと身を窶した。当然よ、人間は善行を積むよりも悪事を犯す方が容易い生き物だったから。神々は力を失い、滅びの危機に直面したわ。個々の力では対抗できなくなったの」

「それなら、神様はどうやって生き延びたの?」

「簡単なことよ。個々が貧弱なのであれば、纏めてしまえばいい」

 景色が一転して白に染まる。そこには何も映っていないように思え、よくよく目を凝らせば太陽の光よりも眩い衣に包まれた人々が夥しい数で犇めき合っていた。彼等の足取りに迷いはなく、中央に設けられた祭壇に向かっていく。祭壇の前で頭を垂れるや彼等の体は崩れ落ち、小さな光の礫となり、寄り集まると新たな形を成していく。

「神々は天へと還り、二つの霊魂に作り変えられた。魔族を討ち払い、乱れた世界に安息をもたらすための救済サルターレ、それが私という形骸に与えられた使命よ」

 淡々とした表情にそぐわず、彼女の声は僅かに震えていた。

「……あなたの出自は分かったけど、そこに私がどうして関係するの? 神様と魔族の戦いに人間なんて……ましてや私なんて全く関係しないじゃない」

「拠り所は人間の心だと言ったでしょう? それは神々をベースとして作られた私達も同じ。けれど、私達には致命的な欠陥があった。私達は、決して神様じゃない」

「神様じゃないということは……人間の信仰の対象にはならない?」

「そう、その通り」

 彼女は私を指差し、微笑を浮かべた。

「神々は滅びたから、人間は存在しない神様を勝手に祀り上げてるってことになるわね」

 どうして彼女が嬉しそうなのか、楽しそうなのか、私には理解できた気がした。

 彼女にとって人間は愚かしいんだ。自分達の不品行で神様を滅ぼしておきながら、それでも祀り続けている。そこに誰もいないとも知らずに、神様のことなんてちっとも考えずに。

「私達に拠り所などなく、このままでは消えてしまう。魔族と戦う以前の問題で、けれど、その解決策も人間にあった。それが契約――私達は人間に接触して、彼等をこちらに引きずり込むことにした。人間の誰もが私達を知らないなら、私達から知ってもらえばいい――ってね」

「巻き込まれたヒトの気持ちは? みんなが納得していたの?」

 柄にもなく声が尖る。そんな私を悲しそうに見つめ、彼女は口を開いた。

「仕方ないでしょう? だって人柱よ? 私達と同じ時を生きて、共に戦い、痛みを分かち合い、運命を共有する。これ以上に強い信仰があると思う?」

 彼女の声ははち切れそうで、苦しそうで、彼女の本心が別のところにあることを如実に表していた。だから、私が糾弾すべき人は彼女ではなかった。高千穂晴香という、人間のせいで理不尽な宿業を背負わされた女の子ではなかった。けれど、彼女の他にはいなかった。胸中の怒りをぶつけられる相手が、この世界には彼女だけだった。

「勝手だよ! 私はそんな運命に巻き込まれたくなかった!」

 男の子である自分が嫌いだった。男の子に生まれた運命を呪い、消えてしまいたいと願ったこともある。男の子から解放されるならばどんな世界でも受け入れると、そんなことを心から思っていた。自分の脆弱さなど、全く知らなかったくせに。

「恨まれようと、憎まれようと、私にはそうするしかなかった! 七十億の人類と、たった一人の人間。どちらを犠牲にするのかと問われれば、私は迷うことなく一人に手をかけるわ。それが世界の安寧に繋がるのなら、私はどんな罪でも背負ってみせる」

 高千穂さんの叫びが遠くに聞こえる。

「どうか、私と契約して! そして、魔女を斃しましょう!」

 すべての光景は崩れ去り、視界は涅に満たされていく。



 知らない天井だった。

 うだるような暑さに眩暈がする。体を起こすと、額からタオルがずれ堕ちた。元は濡れタオルだったのだろうけれど、今は乾き切り、いたずらによれた布でしかない。視線を巡らす。装飾品や調度品の類は一切なく、青みがかった壁が広がるだけ。学校の教室の五倍はありそうな室内で、ベッドの上に一人。巨大なプラスチックケースに閉じ込められているような感覚に目が眩む。壁の一角がなめらかに動き、誰かが入って来た。遠近感の狂いと、視界に靄のようなものがかかっているせいで誰なのかは識別できない。

「高千穂さん?」

「やっぱりアンタだったのか」

 訊ねへの答えはなく、どこか聞き覚えのある、澄んだテナーが響く。重複していた視界が収束して、晴れた瞳が捉えたのは白髪に赤い瞳の青年。私を助けてくれて、忽然と姿を消した彼だった。彼を見つめてから目を閉じる。そうすれば私は、彼がどのような表情をしていたのか思い出せなくなる。そのような特徴を欠いた表情で、彼は私を見下ろしていた。

「どこまで知った?」

 表情を崩さないまま、彼は私に近付いてくる。不思議な威圧感に胃が締め付けられる。

「……神様が滅んで、救済サルターレが生まれて、魔女を殺すというところまで」

「あの女狐、役目くらいこなせよ」

 忌々しそうに舌打ちをすると、彼は「契約は済ませたのか」と私に問うた。返事をしなくてはいけないと気持ちは逸るが、凍り付いた喉を震わすことはできなかった。

 呆れたように息を吐き、彼はベッドの縁に腰を下ろす。表情は見えなくなった。

「選べ」

 突き放すような声音に息を呑む。

「救済と契約して魔女を殺すか、契約しないで俺に殺されるか。選べ」

 彼の真意を推し量る時間は与えられず、私は押し倒された。背中にはアルミパイプの感触、首筋にあてがわれたものは硬い冷感。私はこれを知っている。初めて出会ったとき、彼に助けられたときも同じものを押し付けられていた。そう、これはナイフだ。

「俺には時間がない。アンタが契約しないというなら、別の契約者を探すまでだ」

「……待って……」

 息をするだけでナイフが肌に沈み込み、言葉を発するだけで微かな熱が生まれる。

「私が知っていることは、まだ少ない。まだ足りない。だから、教えて」

 今日だけで何度目になるのだろう言葉を口にする。本心を晒せば、私は契約なんてしたくない。魔女を斃すために立ち向かうのも、魔獣を殺すことも、そのために先の少女のような人間に武器を向けるのも嫌で、全ての恐怖から逃れていたい。男の子のままでもいい。いじめられていてもいい。理不尽な世界は大歓迎だ。この異常から、解き放たれさえするのなら。

 それでも死にたくはない。私はまだ未練を残している。生きることに愛着を抱えている。だからこれは欺くための行為。契約をせず、彼に殺されずに済むためのでまかせ。

 私の浅はかな思惑など見抜いているのか薄い笑みを浮かべ、彼はナイフを引いた。

「体のどこかに刻印があるはずだと訊ねたのは憶えているか?」

 忘れるはずもない。この異変は、ある意味であそこから始まったのだから。

 肯定を認めると、彼は上着の袖を捲った。彼の前腕には、奇妙な紋様が刻まれていた。

「これが魔女と戦うための力の源であり、同時に契約者の命をこの世界に留めている」

「……どういうこと?」

 僅かな沈黙とともに私の足を指差し、彼は問うた。

「今、立ち上がることができるか?」

 疑問を隠せないまま立ち上がろうとして目を瞠る。私の足は動かなかった。脳内では自由に動かすことができ、立ち上がるところまですんなりと行える。それに反して足は凍り付いたように動かず、それどころか何の感覚もなく、拳を打ち付けてみたところで痛みもない。

「私に……何が起こっているの?」

 唇がどうしようもなく戦慄く。それは問いかけというより懇願だった。

「この世界には人間の悪意が蔓延っている。悪意の掃き溜めこそが、この世界の本質だ。度を越した悪意は瘴気へと姿を変え、人間の肺を腐らせ、脳髄を侵す。アンタがこちらに来てからすでに一日が過ぎた。あと二日もすれば、アンタは瞬きさえもできなくなるだろう。生身の体で堪えられるはずがないんだ。瘴気がもたらす害悪には――」

 背筋が震えた。彼は私が死ぬと明言したわけではない。けれど、瞬きさえもできない体になるということは、死ぬことと同義だ。魔獣に体を掴み上げられ、絞め付けられたときにも味わった【終わりの感覚】を再び突き付けられる。

「そんなの脅迫じゃない。……そんなのを、選ぶなんて言わない」

 少なくとも終わりを望まない限りは。

「どうしようもなく理不尽で、救いようもなく不条理なんだよ」

 諦観したような物言いで、事実そうなのだろう。彼がいつからこの世界に囚われているのかは分からない。私が僅か一日で終焉の瀬戸際に立たされているのと同じように、彼もまた、契約と終焉の狭間を彷徨っているのだろう。私にはない、一欠片の光を握り締めながら。

「この世界から脱け出す方法があるとすれば、それが魔女を斃すことだ」

 それが彼の光。彼の希望。そして、私には真似できようのない生き方。

「……どうして、私なんかが選ばれたのかな」

 こんなことを彼に訊ねるべきでないことは分かっている。

 けれど、私には訊ねることしかできない。

「弱くて、ちっぽけで、意気地なし。傷付けられることに慣れ切って、抗うことなんてできない。それが私なのに……私より優れている人なんてたくさんいるのに……どうして失敗作が」

 じわじわと首が下がる。床しか見えなくなる。世界は真っ暗。

「あなたが願いを抱いていたから」

 沈みゆく意識の中に、凛とした言葉が割り込んだ。

「絶対に叶えられない願いを。そう、それこそ神様にでも頼らなければ叶えられない願いを胸に抱いていたから」

 顔を上げる。目を開く。意識に光が混ざる。

 瞳を辛そうに震えさせながら、高千穂さんが私の前に立っていた。

「私の……願い」

 女の子になりたいと、それだけのことを願っていた。

「お願い、ひよちゃん」

 高千穂さんに手を握られる。作られた魂、紛い物であるはずの彼女には確かな熱が宿っていた。触れた手のひらから互いの熱が伝わり、混じり合う。

「勝手なことを言ってるなんて分かってる。そんな資格がないことも。だけど、それでも私はあなたを失いたくない。あなたに死んで欲しくない。だから、私と契約して――……」

「それは救済としての気持ち?」

「違う。使命とか、そんなのは関係ない。私は私、遠里小野日和の友達として」

 その先を彼女が言うことはなかった。

 この世界は理不尽で、不条理で、妙なところで優しい。迷いが消えたわけではない。覚悟なんて欠片ほどもない。使命感なんてどこにもない。だけど、終わりがほんの少しだけ遠ざかる。言葉は伴わず、彼女の手を握り返すだけの行為、それだけで充分だった。

「ありがとう」

 感謝の言葉がフラッシュバックする。訳の分からない熱が、頬を流れた。

 そして私は契約を交わす。名前を互いに告げるだけの簡素な儀式を通して、首の下、鎖骨の辺りに契約者の証である刻印が刻まれた。骨髄から神経のひと房に至るまで、全身が作り変えられていく感覚とともに足の違和感も消え失せた。

「ようこそ、煉獄ゲヘナへ」

 白髪の青年は、吐き捨てるように告げた。

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