神様と契約
私を包み込んだ怪奇
繁華街の喧騒が胸に落ち込む。今日の愉快な出来事を思い起こしながら、人混みをすり抜けるように歩いていく。目的地を探すために視線を巡らす。揃えなければいけないものは多いけれど、さしあたって、下着を買うためにランジェリーショップを探す。いつまでもトランクスにノーブラではいられないから。
通りを挟んで駅の方にあったことを思い出し、そうかといって大通りを進むのでは遠回りになってしまう。私は裏路地へと踏み込む。この時、私はすっかり失念していた。今の私は女の子の姿をしていること、その姿で人気のない場所に踏み入ることがどれだけ危険なのか。
「かのじょ!」
「ねえねえねえ、ひま? 俺等と楽しいことしようよ」
三人の男に囲まれていた。染めたり刈り上げたり、メッシュだったりラインを入れたりとアバンギャルドな髪形をした、明らかについていってはいけない雰囲気を漂わせる男達に。
逃げ道はない。正面と左右を塞がれ、背後にはビルの壁が立ちはだかっていた。
「…………結構です」
「そんなつれないこと言わないでよ。絶対楽しいから」
「だから……」
「それ北中のせーふくだろ? もっとかわいいの買ってやるよ?」
「美味い店知ってるんだぁ。中学生ならそんなにお金ないでしょ、奢ってあげるよ」
男は矢継ぎ早に言葉を並べ立て、私に反論する隙を与えようとしない。不毛なやり取りを続けるうちに痺れを切らしたのか、正面の男が私の手首を掴んだ。
「離して!」
腕を振った。けれど、男の手はピクリとも動かない。鉄二に組み敷かれていた感覚がよみがえる。抵抗してもどうにもならない。こちらの気力だけを弄ぶような、圧倒的な暴力がここにも存在した。腕を無理やり引っ張られたことでよろめく。
「嫌!」
悲鳴を上げた私の真横で、「ちょっと」と澄んだテナーが響いた。依然として腕を掴まれながら、声の方向に目を向ける。そこには、190はあろうかという長身痩躯の青年が立っていた。
銀色に見えるほど透き通った白髪と
「えーっと」
青年は気怠そうに声を漏らし、ゆったりと瞳を巡らせてから私を指差した。
「僕の連れなんだ。悪いけど、その手、離してくれないかな」
「あぁ⁉」
腕を掴む男が声を荒げた。どこか唖然とした様子を見せ、けれど、戸惑いは私の方が大きい。なぜなら、私は白髪の彼のことを全く知らないのだから。
「お前、この女の彼氏か?」
「彼氏とは違うけど『知り合い』だよ」
「どっちでもいいや。悪いが今日はレンタル済みだ。明日には返すから、さっさと消えろ」
男が顎先で白髪の青年を示すと、残りの二人が肩で風を切りながら青年に近付く。
「ほら、今日はこっちが遊ぶ約束してんだ。男と女の遊びだけどな」
「彼女寝取られるとか、結婚したらいい想い出になるって。むしろ仲が深まるかもよぉ」
「ヤベーッ、そしたら俺等、恋のキューピッドじゃねえか」
下卑た笑い声が響く。女の子になった以上、そういう目で見られることもあるだろうと思っていた。けれど、ここまであからさまに捌け口にされると、誰が想像できるというの。
彼には巻き込まれて欲しくなかった。別に、私は大丈夫だと強がっているわけではない。怖くて、不安で、助けて欲しい。けれど、所詮これは延長線。虐げられていた『僕』が『私』になったところで頚木からは逃れられない。これは、それだけの話なんだ。
そこに、無関係の彼は巻き込まれるべきではない。逃げてと叫ぼうとした。放っておいてと強がろうとした。その時には、男の一人が彼に殴りかかっていた。迫り来る拳を捉え、それでも彼に避けようとする動きは見られない。変わらず、気怠そうに立ち尽くしている。
「――……避けて!」
私が叫び、彼はようやく動き出す。触れるか触れないかの瀬戸際で彼の手掌が男の拳を掴み、次の瞬間、男の体が円を描くようにひっくり返された。いつの間にか天を仰いでいることに呆けていた男の貌は青年によって踏み付けられ、鼻骨が砕けたような音が響く。続け様に彼は半身を捻り、もう一人の男のみぞおちへと拳を沈めた。
「……一人になったみたいだけど、どうする?」
冷ややかな声がアスファルトを舐める。凄絶な暴力、明瞭な敵意が私達に向けられ、私には希望を、男には絶望をもたらす。怖れたはずの暴力が、嫌悪したはずの暴力がひどく心地よい。それが、私のために使われているだけのことで。
「来るんじゃねえ!」
上擦った声が響く。男の腕が首に回され、背後から絞め上げられる。次いで、冷たくて硬い何かが頬に押し付けられた。
「大切な女の貌、傷付けられたくねえだろ」
それはナイフだった。視界の隅で、透き通った刃が陽光を跳ね返す。それでも彼は止まらない。軽やかに足音を鳴らしながら、躊躇のない足取りで私達に歩み寄る。
「おい! これ見えないのかよ!」
「刺せばいい。それで気が晴れるならな」
男の叫びは虚しいばかりで、僅かにも青年の足取りを鈍らせることがない。やがて、青年の影と私の影が重なり合う。陽光はほぼ垂直に降り注ぎ、私の髪をじりじりと焼いている。そんな状況下で、近距離で、彼は私達を見下ろしていた。感情のこもらない、蛇のような目で。
「来るなって言ってるんだよ!」
激昂した男はナイフを私の頬から外し、それをどこに向けようとしたのかは分からない。理解する前に、ナイフは宙に舞っていたから。
「あ?」
ナイフは消え、男は呆けている。私を拘束する腕は緩まった。膝を曲げて体を落とし、勢いを付けて後方に飛び跳ねる。私の頭と男の顎が打ち合わされ、男は呻吟した。腕を振り払い、一歩前に踏み出し、振り返り、男の股座にめがけて右足を蹴り上げた。その痛みを知っているだけに、背筋に悪寒が伝う。男は白目を剥いて倒れ込み、荒んだ息を吐き出す私へと、
「凄いね」
賞賛の声が浴びせられた。乾いた拍手がそれに伴う。
上気した頬が冷めやらぬまま、私は低頭する。
「ありがとうございました」
だが、彼からの返事はない。感情の見えない拍手だけが続けられる。私は頭を上げることができなかった。言葉にできない彼の異様さに打ちのめされていたのだ。
「
唐突な訊ねに答えることはできない。どうしてか、頭を上げてはいけないような気がした。手のひらが無意識のうちに握られ、指の間にスカートが挟まっていく。
「君の体のどこかに刻印があるはずなんだけど」
「……そんなの、知らないです」
「本当に?」
「本当です」
首筋に鋭い痛みを感じる。赤い瞳が向けられていることが分かり、生唾を飲み下す。
「知らないのか。悪い、人違いだったみたいだ」
拍子抜けした声が聞こえ、次いで、耳朶に唇を寄せて彼は囁いた。
また、今度と。
刹那、彼の足が視界から消えた。二人分の濃さを映していた影が薄らぐ。目を瞠り、顔を上げる。先程まで確かに彼がいた場所には、もう誰もいなかった。
茫然とする私の視界の端で、ただ、真っ赤な陽炎が揺らめいていた。
「
そんなはずはない。何が起こったのか分からなく、分からないことが恐ろしく、私は逃げるようにその場を去った。人のいない路地裏を抜け出して、大通りに急ぐ。そこに行けば、そこで誰かに会えば、この奇怪な現象がふっと流れ去るような気がしたから。
けれど、私を包み込んだ怪奇は決してなくならず、確かな足取りでこの世界を蝕んでいた。
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