何もかもが私に親切で、優しい世界
目を覚ます。冷房の付いていない部屋はうだるような熱に包まれ、スンとした汗の臭いが漂っている。私の嫌いな臭いだ。冷たいシャワーを浴びたいと思う。
(私、どうしたんだっけ)
額に浮かんだ汗を拭うこともせず、考える。あの後。お父さんに女の子の姿を見られた後、どのように事態は進み、終わりを迎えたのだろう。追求を逃げ遂せたとは思えない。私はそこまで器用ではなく、そうかといってこっ酷く叱られたなら、その記憶がないのはおかしい。
(何があったの?)
自問しながら、目を閉じる。瞼の裏に、凍て付くような光が走る。
悩む心を振り払い、目を開いて扉を見つめる。もしかして、お父さんが扉の向こうで待ち構えていたりするのだろうか。お父さんの性格なら、それもあり得るかもしれない。
閉じこもっていてもしょうがないから、嘆息をひとつ、部屋を出る決意を固める。薄手のブランケットを払い除け、両足をベッドの横に回して立ち上がる。そして、違和感に目を回して倒れ込んだ。天井を仰いでいることに驚きながら、何が起こったのだろうと首を捻る。
(……疲れてるのかな)
今度は倒れることのないように、両足で体を支えて少しずつ立ち上がる。段々と視点が高くなり、いつもの高さに辿り着き、そこからさらに、くっと持ち上がる。
(え……?)
いつもならば見上げていた本棚の四段目が、真正面にある。
(なにこれ、なにこれ、なにこれ)
頭の中では疑問符が溢れ返る。目算にして十五センチ近く、私の身長は伸びていた。
違和感はそれだけに留まらない。体の各部が重くなったり軽くなったりしている。特にそれが顕著な胸部へと手が動き、そして、指先がやわらかな膨らみに沈んだ。
(……⁉)
跳ね返される弾力に目を白黒させながらおそるおそる下を見て、弾かれるように天井を仰ぐ。胸が高鳴り、真っ白に染まった頭では何も考えられない。思考はぐちゃぐちゃに乱され、体感温度がスーッと下がっていく。胸にあてがっている手のひらだけが痺れるほどに熱い。
硬直すること数十秒、私は思考を始めた。鼓動もほんの少しだけど和らぎ、体も動かせる。何をするよりも先にクローゼットを開き、扉の裏に据え付けられた鏡へと体を滑り込ませた。
口内にぬるい空気が這入り込み、喉を撫でる。指先だけの感覚が視覚にまで広がった途端、戸惑いは一気に膨れ上がって心を絞め付ける。呼吸さえも忘れて自分を凝視する。拡散した瞳は小刻みに震え、眼前の光景が本当に現実のことなのだろうかと疑っている。
されど、これは紛うことなく、現実なのだ。
やわらかな体の輪郭に、膨らんだ胸。胴体から腰にかけてはくびれがあり、なめらかな手足が服から覗いている。体毛は元から薄かった方だけれど、今にはさらに磨きがかかり、よほど近付かなければ見えない。大きな目とふっくらとした唇が幼さを醸し出しており、それでいて160センチに届こうかという背丈がどこか大人っぽさを感じさせる。眦の流れ方や髪など、名残が感じられるところもあるけれど、そこにいたのは知らない女の子だった。
首を傾げると、鏡の中の女の子も同じように動く。半信半疑で頬を抓れば、じわりとした痛みが、これは夢なんかじゃないと伝えてくるだけだった。
シフォンの襟を引っ張り、ついでにキュロットスカートも捲って中を覗き込む。いつまで見つめていようとも体は変わる気配を見せない。触れてみても新しい感触と失われた感触を味わうだけで、私の体は確かに女の子のものへと変わっていた。
逃げ出すように、鏡を背にして部屋を飛び出す。縺れる足をもどかしく動かして階段を駆け下りる。自分が何をしているのか、何をしたいのかは分からない。変わってしまった体を誰かに見せたいのか、それとも誰かに見られる前に姿を眩ませたいのか。
残り数段を飛び降り、一階に着く。足の痺れを噛み締めながら背後を振り向き、息が詰まる。お父さんがいた。朝陽を反射させる眼鏡の向こうで、お父さんの眉が顰められる。
昨夜殴られた頬が痛む。それにつられるように、耳の奥底でお父さんの言葉がよみがえる。また殴られるのかと全身が委縮して、けれど、そもそもお父さんは私のことが分かるのだろうか。女の子の恰好に留まらず、女の子の体にまでなった『僕』が分かるのだろうか。そんな恐怖から逃げ出そうとして、反してお父さんの反応は拍子抜けするものだった。
「今日は早いな。学校で何かあるのか?」
唖然として目を瞬かせる。お父さんは訝し気に首を捻った。
「学校だ。母さんから聞いてるぞ、いつもは遅刻ギリギリなんだろう」
「…………う、ううん、いつもどおり」
喉の奥から
「そうか、いつも通りか」
「うん、そう」
入れ替わりで階段を上っていくお父さんの背中に向け、訊ねる。
「ねぇ! 私、どこか変じゃない」
お父さんは振り返り、頭のてっぺんからつま先まで私を眺め、
「別に、昨日と何も変わらないぞ。それより、お前はまた着替えずに寝たのか。母さんから言われているのだろう? 女の子なのだから、きちんとしなさい」
私を『女の子』と断じた。お父さんはそれ以上言葉を重ねず、視界から姿を消す。
「……お父さん、私、こんなに変わってるよ」
そっと吐き出した言葉は誰にも届くことなく、朝陽に吸い込まれて消えていく。何だか悪い夢でも視ているかのように頭がふらつき、足元が覚束ない。
「女の子になったの。昨日までは男の子だったのに、今日は違うの。どうして気付かないの? どうして、気付いてくれないの? ねぇ、お父さん……!」
憧れていた体は、今ではただ、不安の塊でしかない。夢か、それとも魔法か。
夢なら醒めないで欲しい、魔法なら解けないで欲しいと願う一方で、私の内では男の子の体への懐かしさ、戻りたいという願いがちらちらと芽吹いていた。
お母さんの反応も、お父さんと変わらなかった。変わったのは私なのか、それとも私を包み込んだ世界なのか。もしかしたら私が『僕』だった昨日までが夢の世界であり、私はそこに迷い込んでいて、お父さんに殴られたか、その世界の何かに絶望したために『私』である現実に帰ってきただけなのかもしれない。昨日までの、記憶だけを携えて。
そんなはずない。昨日までの日々は現実だったと否定する一方で、それではこの変化は何なのだろう。女の子になった、もしくは戻った。それは確かに嬉しいことなのに、不自然さばかりが際立ってしまい、手放しでは喜べない。
私は女の子? それとも男の子?
どちらが夢で、どちらが現実なの?
疑問は膨れ上がるばかりで、解決への糸口は少しも掴めない。
とはいえ、私という人間は意外とかなりのタフだったようだ。心を翻弄されていたのは初めのうちだけで、女の子になったからにはどう生きていこうかと、早々に考え始めていた。
それほどまでに、女の子としての世界は私にとって魅力的だったのだ。十二年にもわたって憧れてきた生活をどのように謳歌しようと、想像するだけで胸が躍る。
お姉ちゃんの部屋に行き、随分と開けられていなかったクローゼットを開く。虫除け剤の匂いが鼻腔を刺激する。クローゼットの奥には、お姉ちゃんが三年前に着ることをやめた制服がひっそりと吊るされていた。トリミングが施されたブレザーに、深緑と紺の太いストライプ生地に白と臙脂の細いストライプが入った襞スカート。スカートと同じ柄のベストには、フェノール樹脂のボタンが控えめに光沢を放っている。
まるで時が止まっていたかのように、制服の生地は柔らかさを保っていた。
着替えを進めていくうちに手が止まる。ブラがない。どうして女の子がブラをするのか、分かった気がする。オシャレのためだけじゃないのね。単純に、着けないと痛い。ワイシャツの生地に擦れるとむず痒い痛みが起こる上、少し激しく動くだけで大きく揺れる。あとは、ワイシャツ越しにうっすらと透けてしまうことを防ぐため。
制服のようにブラを拝借することもできたけれど、さすがにそれは憚られた。代わりにインナーを重ね着してベストを羽織り、今日はなるべく静かに動くことでごまかそうと決めた。
「ねぇ、日和。今日は何だか晴れやかね。嬉しいことでもあったの?」
「別に、いつも通りだよ」
『ひより』とは、僕だった頃の名前の『はるかず』の読みを変えたもので私の名前だ。
慣れない容姿に慣れない名前。私にとっては何もかもが変わってしまった世界なのに、両親にとっては変わらない世界。それは少しだけ居心地が悪い。
あまり長話をしているとぼろを出してしまいそうなので、早々に席を立つ。
「あら、もう行くの?」
「ちょっと用事があるから」
「気を付けてね」
お母さんに手を振り、玄関へ向かう。靴に足を入れると、僅かにサイズが合わない。下着、靴、その他諸々。揃えなければいけないものの多さにうんざりする。貯金で足りるか不安になりながら、ドアをぐっと押し開けて外に踏み出す。飛び込んできた風に髪がなびく。女の子になってから初めて経験した季節は初夏、春の名残と夏の息吹が混ざり合い、生命が芽吹き始める季節だった。プラタナスの香りが風に溶けている。ぬるま湯のような気温が思考を蕩けさせ、見飽きたはずの世界は、どこか新鮮さで溢れていた。
(いい、天気)
群青に細く走った帯雲を仰ぐ。
昨日までは男の子として歩いていた道を女の子として歩いている。私は今、女の子として生きている。私が望んだ姿で、憧れた可愛らしさで。たったそれだけのことで身も心も浮き立つ。
それでも、学校に近付くとそこはかとなく不安が込み上げてくる。お父さんとお母さんは変化に気付かなかったけれど、誰もが同じとは限らない。周りが気になって仕方なく、瞳が泳いでしまう。私のことを凝視している人はいないか、私の姿はおかしく見えていないか。普通の女の子に見えているか。頭の中はそんなことばかりに塗り潰される。
幸い昇降口に着いても何も起こらず、靴を履き替えようと屈んだとき、
「おはよーう、ひよちゃん!」「ひゃっ⁉」
背中に小さな体が飛び乗ってきた。
「高千穂さん⁉」
「かたいなぁ、相変わらず。『ちい』でいいってば」
「ちいちゃん?」
そう呼ぶと、高千穂さんは満足そうに笑みを浮かべた。
高千穂晴香さん。私のクラスメイトで、私が『僕』だったことを知っているはずの人。
「どうしたの、そんなに見つめて。まさか、何か付いてる?」
小首を傾げて見つめ返してくる彼女に、私を不審に思っている様子は見られない。やっぱり世界中の人間が、私の変化には気付いていないのかな。
「ねぇ、ちいちゃん。私、どこか変じゃないよね?」
それでも訊ねずにはいられない。高千穂さんは私を正面から覗き込み、手を持ち上げる。
「前髪が変」
「他には?」
「別に。変なひよちゃん」と私の前髪に指を絡ませながら、彼女は笑う。
「もしもひよちゃんが変わったのだとして、私が気付かないはずないでしょう?」
楽しそうに頬を緩めつつ私に背を向け、高千穂さんはその場で踊るように一回転した。彼女の動きに合わせて空気が舞い上がり、柔らかな髪に朝の雑踏が溶けていく。
「私はひよちゃんをいつでも見てるんだから」
カツリと踵を打ち付け、彼女は静止する。
「お友達でしょう、私達」
そうして浮かべられた彼女の微笑みに、思わず背中が冷たくなる。
昨日まではただのクラスメイト。名前を知っている程度の間柄だった彼女は『友達』になっていた。何もかもが、この世界そのものが私に都合よく改竄されているのだとようやく気付く。新しい友達に、受け入れられた私。何もかもが私に親切で、優しい世界。それはとても心地よく、私の裡からは、男の子への未練なんて綺麗に消えてしまった。
「ねぇ、ちいちゃん。……友達になってくれて、ありがとう」
「何よ、恥ずかしい」
そっぽを向いた高千穂さんの横顔を見つめながら、眦を緩める。
浮かれずにはいられない。だって、彼女は私に初めてできた友達なのだから。
「ほら、教室行こう。遅刻しちゃう」
手を握られて走り出す。リノリウムとゴムが擦れ合う音を響かせながら、私はちいちゃんと一緒に階段をのぼる。舞い上がる気持ちを宥めさせ、ほんの少しでも彼女のことを正面から覗いていたなら、彼女の瞳に『罪の意識』が浮かんでいたことにも気付けたはずなのに。
それは、この時の私にとっては難しいことだった。
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