私の心は病気なのだ

 焼け付くような喉の渇きを覚え、キッチンに向かう。階段を降りるたびにシフォンのレースが揺れ、お母さんの表情が思い出される。僕の『私』という一面をお母さんに知られたのは、僕が私の姿を始めてから間もない頃だった。それは、知られたというよりかは知らせたという方が正しいのかもしれない。逸る胸を押さえながらお母さんに『私』を告げたとき、お母さんは何かを言いたそうな、何かを言わなければならないと急き立てられるような、そんな複雑な表情で唇を戦慄かせていた。けれど、終ぞ、叱責の言葉を口にすることはなかった。

『ごめんなさい。でも、これが私なの。僕は、私なの』

 そんなことを言っていたような気もするけれど、それももう憶えていない。

 それからというもの、私は家の中では女の子として振る舞ってきた。お姉ちゃんは今年の春から大学に通うために家を離れ、お母さんはあの通り、何も言えない性格。こういうものに厳格なお父さんは海外に単身赴任中だから、私を咎める人なんて誰もいなかった。少なくとも、この家の中に限れば、僕は私でいることを許されていた。

 だから失念していたのだ。私の姿は、たとえ家族であっても奇異の目の対象になることを。これまではお母さんが言及してこなかっただけで、何を言われても仕方ないということを。

 キッチンの扉を開く。そこには影が立っていた。

「あ……」

 私の喉から裏返った声が漏れたのと、

「何だその恰好は!」

 影が猛々しく吠えたのは、ほぼ同じ瞬間だった。

 頬に乾いた痛みが走る。肌と肌が打ち合わされる音が鼓膜を劈き、私は後退る。瞳の裏で景色が歪み、チカチカと明滅する目を瞬かせる私へと、影は再度腕を持ち上げた。揚げられた平手は拳へと形を変える。何が起こったのか分からなかった先程の痛みとは異なり、今度は殴られることをはっきりと自覚して、振り下ろされた拳を瞳に刻み付け、それでも逃げようとはせずに私は殴られた。ドタタタッと美しくない動きで後ろへとよろめき、壁に背中を付けてどうにか留まる。沈んでしまった体を持ち上げようとする気力は湧いてこない。

「あなた! 殴らないでって言ったじゃない!」

 お母さんの切迫した声を聞きながら、

(お父さんが帰ってたんだ。まずいなぁ……)

 なんてことを、私は思う。

「お前は黙ってろ! 男のくせにふざけた恰好をして、情けないとは思わんのか⁉」

 お父さんの言葉に、私は小さく息を吐き出す。唇がいやらしく歪む。

「情けないなんて、思うはずないでしょ」

 嘲笑されたと感じたのだろうか、お父さんは額に青筋を浮かべ、またも平手を振るった。

 頚椎が軋み、口の中が切れたのか、じわりと鉄の味が広がった。

「あなた!」

 やめてと訴えかけるように、お母さんがお父さんの腕にしがみつく。

「お前もお前だ! 俺のいない間にどんな躾をしてきたんだ!」

「あたしは関係ないわよ!」

 両親の諍いの声を聞きながら、私は瞑目した。私の裡の静けさと、私の外の騒がしさが混ざり合い、お腹の底にひどく重たい感情が積み重ねられていく。

「この子は病気なの!」

「そんなもんじゃない。こいつは失敗作だ! お前の甘さがこいつを失敗作にしたんだよ!」

 目を開く。耳まで真っ赤にして、呂律の回らない舌で応酬を繰り広げる両親を見上げる。

 留まるところを知らずに溢れる言葉の中に混ざり込んだ『病気』と『失敗作』という言葉が、私の心にグサリグサリと突き刺さる。そして自覚する。自覚させられる。

 あぁ、私はやっぱりおかしいのだと。私の心は病気なのだと。


 初めて僕が、自分の裡に『私』という存在を自覚したのはいつのことだっただろうか。きっとそれは間違っていると思うけれど、おそらく、僕が生まれたときだ。まだ自分が何者なのかさえ理解できず、おぎゃあおぎゃあと泣くことしか能のない頃から、僕の裡には私がいた。みんなと同じように、男の子の中には僕がいて、女の子の中には私がいるのと同じように、僕の中には私がいた。そこに違和感なんてなかった。だって、それが僕にとっての普通なのだから。

 女の子に憧れるなんておかしいということは、随分と前から自覚していた。スカートを履きたいと思うのは変なこと。髪飾りを付けたいと思うのは変なこと。お人形遊びをしたいと思うのは変なこと。変、変、変。僕のしたいことは、変なことだらけだった。

 それが分かっていたから、変な人にならないために、普通の人であれるように『僕』であり続けようとした。『僕』として生きようとした。けれど、抑圧すればするほど、それはいけないことなのだと言い聞かせるほど、僕の中の『私』は膨れ上がっていく。男の子なんて偽物の自分を脱ぎ捨てて、女の子という本物の自分で生きたいという願いが芽吹いてくる。

 僕の容姿もそれを助長させた。顔立ちの線は細く、目鼻は小ぶりで、身長は140センチ程。肩まで伸ばした髪は指ですくうとたおやかに流れ、素肌はハクモクレンのようで、睫毛の凛とした黒が映えている。僕の容姿は私として生きるには充分すぎるほどで、まるで神様が『あなたは望む姿で生きてもよいのですよ』と祝福してくれているようで、僕はますます私に惹かれていき、私として生き始めた。初めて女の子の恰好をしたとき、お腹の底から叫び出したくなるような衝動が込み上げてきて、頬が緩むのを抑えられなくて、私は歓喜の涙で頬を濡らした。

 あの時、私は確かに幸せを掴んだのだ。

 でも、その幸せはとても儚くて、世間は私にとって残酷で。誰のせいでもなく、僕としての体が枷となって私を蝕んだ。私の心を病気にしてしまい、私を失敗作にしてしまった。


 胸倉を掴まれ、立たされる。レースがくしゃくしゃになってしまったことに胸が痛む。悲痛の矛先は僕の体ではなく、私を形作る服にしか向けられなかった。

 お父さんの手が微かに震えている。言葉なんてなくても、お父さんの怒り、悔しさ、悲しみは痛いほどに分かっていて、申し訳なさでいっぱいで、でも、どうしようもなくて。

 僕は私が分からなくて、私は居場所が分からない。

 ねぇ、どうして。女の子が男の子の恰好をすることは誰も『いけないこと』なんて言わないのに、どうして男の子は、女の子の恰好をしたらいけないの。

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