魔女Re
亜峰ヒロ
僕と私
女の子になりたかった
僕は女の子になりたかった。ミディアムショートの黒髪に、やわらかな輪郭。背丈は少しだけ低めで、背伸びをしないと電車のつり革には届かない。スタイルは胸がほんの少しだけ寂しいことを覗けばそれなりに育っていて、まだまだこれからだもん、なんて風に頬を膨らませれば、周りの女の子がそうだよねーと笑いながら慰めてくれる。
「あぁ、笑ってる!」
「笑ってないってば」
そんなやり取りをひとしきりした後には、決まって頭を撫でられる。私は悔しそうに唇を尖らせているけれど、内心ではとても喜んでいるのだ。
何よりも大切なのは可愛いこと。私がいるだけで空気がふわりと和らぎ、一挙一動に合わせて光が躍る。みんなから愛される、天使のような女の子に僕はなりたかった。
肩を掴まれ、僕は床へ叩き伏せられた。右目の横でボッと燃え上がった痛みに視界を晦ませながら、どうにか目をもたげようとする。それでも、見えたのはせいぜい膝丈までだった。
机の脚に反射した夕陽が瞳を貫き、瞼の裏でチカチカと明滅する。幾度となく経験してきた光景に特別な感情など抱けるはずもなく、僕は肢体の力を抜き、屈服させられるがままに任せていた。それに、僕の力では敵うはずもないのだ。いたずらに彼等を興奮させるだけということは学習済みで、それだから、何もしないで時が過ぎるのを待つことが最善なのだ。
「なぁ、
痛みの波がまだ引いていないためか、声は幾重にも重なり合い、唸りとなって聞こえる。
「
「体操服デビュー作戦でありますな!」
センスのないネーミングだなどと、言えもしないことを胸中でぼやく。
鉄二の答えに満足したのか、唐谷は「よろしい」ともったいぶるように言い、それから鉄二に、僕の顔を上げさせるように命じた。前髪が引っ張られたことで、膝丈までしかなかった視界が一気に広がる。唐谷の汚れた上履きを見つめているのも嫌だったので、素直に従う。
すると、そんな僕にめがけ、唐谷は手中のものを放り投げた。
降ってきたそれに目と鼻を塞がれ、頭を振ることで払い除ける。ぼんやりと眼差しを注ぐのは、唐谷の命令で使うはずだった体操服だ。果たしてこれが、男子の体操服と呼べるのならばだが。いいや、それどころか、女子だってこんなものは拒むだろう。シャツは半分以上がハサミで切り刻まれ、さらに、下は短パンなどではなく旧時代のブルマだった。
「さて、遠里小野ちゃん。どうして任務を遂行しなかったのか聞かせてくれる? 理由によってはさ、俺等も優しくしてあげるから」
唐谷は優しさを装ってそう言うけれど、どう弁明したところで罰ゲームがなくなることはない。だから、いくつもの言い訳を浮かべながらも、僕は口を噤む。
耳が痛くなるような静謐が訪れ、時計の秒針が動く音だけが、カチリカチリと響いていた。僕は目を伏せていて、僕の瞳にはこれっぽっちも敵愾心が浮かんでいなかった。
「言い訳しないなら、仕方ないよなぁ。罰ゲームだ」
そして、唐谷は命令する。僕の服を脱がせ、と。
いつものように殴られるのだと思っていた僕は拍子抜けして、安堵して、それから唐谷の真意に気が付く。血の気が下がり、瞳に怯えの色が浮かんだことが自分でも分かる。僕の狼狽を認めたためか、唐谷は獰猛に笑った。やめてと叫ぶ余裕もなく、鉄二の手が服を剥ぎ取り始めた。ボタンを外すような丁寧なことはせず、引きちぎっていく。糸の切れる音と、どこかに飛んでいったボタンが跳ねる音の中に、唐谷と鉄二の乾いた笑いが、僕の叫びが混ざる。
全身を捩らせて抵抗した。けれど、そんなもの、圧倒的な体格差のある鉄二には通用しない。そんなこと、最初から分かっていたじゃないか。
抵抗も虚しくトランクスだけにされた僕を残し、二人は教室から出ていく。
「じゃあね、遠里小野ちゃん。服は家に送り届けとくから安心していいよ」
ピシャリと閉じられた扉の向こうで、唐谷は「俺ってやっさしー!」と叫んでいた。その声さえもすぐに聞こえなくなり、教室は平静を取り戻す。時間にすれば十分足らず、僕にとっては数時間にも相当する悪夢は過ぎ去った。けれど、これは目が覚めれば消えるような夢ではなく、いつまでも消えることのない現実なのだという意識が僕を粉々に打ち砕く。
憂鬱に沈んだ心を奮い立たせ、胎児のように丸めていた体を起こす。いつまでも、こんな格好で教室にはいられない。何の慰めにもならないけれど、唐谷が残していった体操服を拾い上げる。淡々と身に付け、トランクスははみ出した部分を折り畳んでブルマに詰めた。
そして、窓ガラスに映った自分の姿へと、目を向ける。
細い手足。貧弱な体。恐怖のためか、熱気にあてられたのか素肌はほんのりと紅潮して、目尻は蕩けてしまいそうなほどに歪んでいる。サイズの合わない襟首からは鎖骨が大きく覗き、伸ばしっ放しの前髪から一粒の汗が流れ、鼻先でポタリと弾けた。
あんな目に遭って、あんなことをされて、無理やりやらされているはずの罰ゲームなのに、僕は自分の姿に興奮する。まがりなりにも女の子の恰好をしていることを喜んでいて、女の子の姿に魅了されていて、嫌悪する。どうしようもないほどに苦しくなる。
「……かわいいね」
話しかけても、窓ガラスの中の彼は何も返さない。暗い影を落とすだけで笑うこともない。
「そうだよね……情け、ないよね」
嗚咽の混じった声でしゃくりあげるように呟き、唇に歯を立てた。
視界からシャットアウトした姿は、どうしても、可愛いと思えた。
暗くなるまでトイレに隠れ、それから家路に着く。
僕の住む町は駅に近付けばかなりの賑わいを見せるものの、離れてしまえば田畑が広がり、遊歩道が整備されただけで街灯のない山林だってある。田畑と山林に限っていえば、陽が落ちれば一気に寂しくなる。最短距離で帰宅すれば駅を横切る必要があるので、遠回りでも、山林を抜ける道を選ぶ。こんな姿で誰かに出くわせば、通報されるか襲われるかの二択だから。
僅かな月明かりを頼りに山道を通り抜け、幸い、誰かに遭うことはなく家に着く。
唐谷は約束を守ったらしく、制服が玄関の前に放り捨てられていた。変なところで律義なのだからと呆れながら制服を搔き集め、手早く家の中に引っ込む。
背後でドアの閉まる音を聞いた瞬間、緊張の糸が切れてしまった。体を支えていることなどできず、背中をドアに押し付けながら頽れる。荒んだ吐息は次から次へと込み上げてきて止まらず、緊張と恥辱が今さらのように上り詰めてきて全身が震える。剥き出しの太腿に額を擦り付けるようにして、体をぎゅっと縮ませた。火傷しそうなほどに肌は熱く、高鳴る鼓動が痛い。
体の芯が微かに冷えてくるまでそうして蹲っていて、ようやく立ち上がる。
時計を見ると、そろそろお母さんが帰ってくる時間だった。
お尻の土汚れを払ってから靴を脱ぎ、自分の部屋に向かう。
僕の部屋には、特別なクローゼットがある。その扉を開き、内側に静かに並べられた衣服を見るとき、僕の心は取り留めもなく踊る。嫌なことなんて全て色褪せ、教室の中で与えられた屈辱さえもちりぢりになって思考の隅に流れていき、遂には焔をあげて燃えてしまう。
それと同時に、ほんの僅かな燃えかすが、その見た目からは想像もできないほどの重みで圧しかかってくる。そいつは僕に迷いを抱かせ、僕を『普通』の道に引きずり込もうと手を伸ばしてくる。みんなと同じ価値観に、誰からもおかしいと言われることのない生き方に、そんな普通で僕を染め上げようとする。僕を普通の人間に作り変えようとする。
いつでも誘いに乗ることはできた。それほど思い詰めなくてもいい。
(やーめた)
そんな軽い気持ちでクローゼットに背を向けて、差し出された手を握り返せばいい。怖がらなくてもいいのだ。なぜならそれは普通になるだけなのだから。
(誰もがそうやって生きているのだから、失敗なんてしないんだよ)
そうやって、僕は何度、自分を諭してきたことだろう。騙そうとしてきただろう。
けれど、ダメなんだ。いくら言葉を重ねようとも、その先にある平穏を語ろうとも僕は騙されてくれない。張り裂けるような虚しさを胸中で響かせながら、クローゼットを開いてしまう。軽やかな蝶番の音とともに開かれたクローゼットの中には、色とりどりの可愛らしい服が並んでいる。どうしたって男の子の服には見えない。女の子のために誂えられた、女の子を彩るための服が僕を出迎える。おかえりなさいと言われた気がして、
「ただいま」
瞳を潤ませ、晴れやかな瞳を浮かばせて『私』は返した。
いそいそと私は着替え始める。ボロボロの体操服は少し迷ってから、クローゼットの奥に隠した。さすがにこのままではゴミ箱に捨てられない。お母さんがいない時に、こっそりと捨てておこうと思いつつ、選んでおいた服を手に取る。
やわらかな肌色のシフォンに、オレンジ色のキュロットスカート。黒のストッキングで暖色系の中にアクセントを付ける。季節を考えてタイツじゃなくてストッキング。少し悩んでから30デニールにする。最後にネックレスを首にかけ、私の装いは完了した。
クローゼットの扉に付いた鏡で全体の雰囲気を確認する。肩まで伸ばした髪を梳き――手櫛なんて粗相はしない――少し右に寄っていた髪を整える。それから、私は微笑んだ。
男の子の装いをしている『僕』には決して見せない笑顔を、女の子の装いをしている『私』にそっと注ぐ。そこにはありのままの自分が、普通ではないけれど一番輝いている私がいた。
幸せと充足感の裏にはぽっかりと
いつかは諦めるのかもしれないし、挫折するのかもしれない。遠いようで近い未来、私も大人になって現実から逃げられなくなる。私は『僕』以外の誰かにはなれなくて、私が『僕』の代わりになんてなれない。いくら好きでも、いくら望んでも、いくら憧れても。
それでも私は、いつかは変わってしまうのだとしても、いつかは終わってしまうのだとしても、今だけは私でいたい。僕ではなく、私として生きたい。
瞑っていた目を開き、つま先立ちで一回転する。キュロットの裾がふわりと浮かび、小さな風を起こす。それが収まるのを待ってから、私は小さく会釈した。そんな『僕』はとても女の子らしくて、そんな『私』は全然男の子らしくなくて、だからこそ、私は嬉しさに溺れる。
「いいよね? 私は、私のままでいてもいいよね?」
誰かへの訊ねは、窓の外に流れていった。
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