魔王の記憶 2 人間
数ヶ月か、数年か。
一体どれほどの時間が経っただろうか。
音も光も無く、終わりのない暗闇の中。
俺の意識は
──ゴゴォ……ン。
だしぬけに、大地が脈動した。
はるか遠くからの巨大な震動だ。
俺には風を感じる肌も、光を映す瞳も存在しない。
彼女の帰りを待ち続け、ついに気が狂ったのかもしれない。
だがその時、確かに感じたのだ。
マリアが俺に語りかけた時の、心地よい波動を。
マリアが俺のすぐ
“揺れ”が収まると、また暗闇と静寂が俺を包んだ。
……やはり、気のせいだったな。
俺はとうとう幻まで見るようになったのか。
いや、あの日々こそが夢だったのかもしれない。
暗闇に取り残された、名すら持たぬただ火の
──ピシッ……。
“俺”という存在を覆う殻である、
……違う。
違う……違うッ!
何を言っている? 忘れるな、本当のことだ!
俺の名は、バルフラムだッ!
忘れない。忘れたくない。信じているのだ。
いつか人間になり、マリア、オマエに再び逢う日のことを──!
──ガチャッ。
……なんだ、この音は? 扉が開く音だ。
「…………」
コツコツ、ガサガサと、せわしない物音が室内を動き回っている。
『──マリアか?』
「……ッ!?」
気配が、ぴたりと動きを止めた。
やましい感情と焦りがこちらへ伝わってくる。
『誰だ……オマエは? さては物盗りだな、不届き者め!』
「──う、うおッ! 棒切れが喋った!?」
見知らぬ男の声だ。
こちらを認識したのか、どたどたと近寄って来た。
『棒切れではないッ。俺の名はバルフラムだァ!』
「……なんだ、驚かすなよ。やっぱり棒切れじゃねえか」
声の主は、俺を無作法に拾い上げた。
無遠慮にも右へ左へと振り回し、手のひらで転がされている。
男の手はごつごつとして、脂ぎっている。
『ええい、汚い手で触るなァ! 俺に触れていいのは、マリアだけだ!』
「……ほーん、面白え棒切れだ! ヒヒヒ、高く売れそうだな」
まさか、俺をどこかへ連れていく気か?
冗談じゃないぞ──!
『やめろ! これ以上この家を荒しまわることは許さんぞ!』
「あぁん? ただの棒切れサマが、どう許さないってんだ? ヒヒヒ」
『……
──ゴオオッ!
勢いよく火が吹き出し、侵入者に襲いかかった。
「どあッ!? 危ねえなッ!」
『ククク、生き物だけを燃やす特別な炎だ、何も危なくなどない』
「このクソ杖め、ぶち折ってやるッ!」
──ゴッ! ──ガンッ! ゴンッ!
『……ぐあッ!?』
ヤツは俺を手放すどころか、振り回して家中の壁や床に叩きつけはじめたのだ。
「そら参ったか、この──!」
──ピシィッ! ブシュゥゥゥーーッ!
亀裂をきっかけにヒビが広がり、とうとう柄が真っ二つに折れた。”俺”が外に漏れ出ていく──!
『ぐッ、がァアーーーーッッ!!?』
俺は、肉体を持たず、
外気に触れ、大気に満ちる
自我すら
──嫌だッ!
俺はバルフラムだッ!
俺は、いつか人間になる。そう信じていたのだ。
マリア、オマエにもう一度逢うまで、俺は決して……滅びない!
ああ──肉体が欲しい!
オマエを撫でる為の腕を。
オマエを見つめる為の瞳を。
オマエに逢いに行く為の脚を。
オマエに語りかける為の口を──俺は、望む!
──ぼごごッ、ぼごぼごぼごッ……!
「がッ、はァッ! ああ、アアア──ッ! ……ハァ、ハァ──」
まず出たのは、“声”だった。
紛れもなく、俺自身の口から出た声。
明かりのない室内の、何の変哲も無い床すらも、眩しい。
初めて見る”本物”がそこにあった。
「わッ、ば、化け物……! 空中から手足が……ヒィーッ!?」
俺に乱暴を働いた不届き者は二度も三度も転げまわり、泡を食って出ていった。
──これは。
細胞だ。肉体だ。
俺自身が、細胞を錬成したのか。”感覚”の洪水だ!
……腕がある! 足がある!
マリアに読み聞かせられた本のイメージ通りに。
杖の
先端の輪っか状の部分だけが、俺の首周りに残っていた。
これが、肉体……!
全身に重力がのしかかり、ぐらりと床に手をつく。
もうその男を追いかけて咎めるような気分ではなかった。
俺は”人間”になったのだ──!!
「……フ、ククク、クハハッ……! これが──これが! 俺だッ!」
礼を言おう、名も知らぬ男よ。
俺は、マリアを探しに行けるのだ!
* * * * * * *
しかし、物事はそう簡単には
肉体を得て初めて知ったことだが、マリアが生まれ育った小さな村は
多くの人間たちが
マリアの家に残された持ち物から行き先の手がかりを得ることもできなかった。
俺の日課は、マリアの日記を持ち出して眺めることだ。
彼女自身が
最後に書かれたページでは、いつも通りの出来事しか語られていない。
中途半端なところで書き手が姿を消したためだ。
……突然マリアの家を訪れた男は、たしかこう言っていたな。
“
それだけを頼りに探し続けたが……。
一向に彼女の行方はわからなかった。
それどころか、とある町で俺は思い知った。
人間の
それは、ガラの悪い連中が
「──マリア・ルージュという名を知らないか?」
「
「そうなのか。マリアは、そんなにすごいヤツだったのか」
「すごいなんてもんじゃない。感じるだろう、あれ以来、大気に満ち続けている濃厚な
「そりゃ結構だなァ。そうか、アイツはそんな使命があったんだな……。マリアが今どこに居るのか、知っているか?」
「……聞いてどうする。あんたは……魔人だろう。ああ、やはりそうだ。まさかとは思ったが、改めて見れば間違いない。何かよからぬ事を企んでいるじゃないだろうな」
「なんの言いがかりだ。魔人だと? 人種に何か関係あるのか?」
「すっとぼけてんじゃないぞ。その燃える頭髪は明らかに人間とは違うだろ。……まあ、あんたらが大きな顔をしていられる時代はもう終わりさ。我々はもう、あんたらの
「なんだオマエ、何を言っている……? 俺が何をしたというんだ」
「あんたに心当たりがなくとも我々にはある。魔人は、人間を
「なんだと?」
「
「……チッ。何なんだ、一体」
俺は
暗い路地に立つと、背後の酒場の明かりが魔人の侵入を
俺が得た肉体は、人間ではないのか?
何が違うというのだ。見た目など、殆ど変わらないではないか。
俺を、その輪の中にいれてくれないのか?
……いいや、ヤツらは何か誤解しているに違いない。
マリア。
オマエならきっと、わかってくれるだろう。
姿が変わっても、俺は俺だ。バルフラムだ。
オマエが村に戻ってこなかった理由は、今となってはわからない。
なにか込み入った事情があるのだろう。そうに違いない。
俺はこんなに立派な肉体を手にいれたぞ。
人間とは少し違うかもしれないが。
早くオマエに見せてやりたいのだ。見たいよな?
まさか、俺の事を忘れたなんてことは──。
俺に逢いたくないなんてことは──。
オマエに限って、そんな事があるはずがないだろう……?
「おっ。お前……魔人かい? 珍しいな、初めて見る種だねェ」
暗がりを歩いていると、すれ違いざまに
向こうから声をかけてこなければ、気が付かずに通りすぎるところだ。
「なんだァ、オマエは? どいつもこいつも、魔人、魔人、魔人と……俺はもううんざりだ」
「アハハ。あいつらホントろくでもないよねェ、アタシも魔人だから、よくわかるよ」
よく見れば、そいつは頭から
なるほど、俺が見慣れ始めていた人間たちとは異なる特徴だ。
「オマエも……? 俺以外にも居たのか。オマエも昔は杖だったのか?」
「ん、何の話だい? アタシは生まれた時からこうだよ。それよりおなじ魔人のよしみだ、手を貸しておくれよ。アタシってば今、人間に追われててさぁ〜」
女は俺の腕に身体を
ぐッ、
「何故この俺が、初対面のオマエを気にかけねばならんのだ?」
「いいじゃんかよ〜。ちょいとあいつらの足止めをして、アタシの身代わりに散ってくれるだけでいいからさぁ〜」
女がけらけらと笑いながら、俺の胴体に指を
妖しい香りが鼻をついたが、あまりいい気分はしなかった。
「オマエ、ふざけてるのか? 俺は
「……へェ、ふゥん。お前、平気なフリしてるな? さてはムッツリスケベだな? だが、この”
──キュウン……。
俺を見つめる女の瞳が、わずかに紅い光を帯びる──。
「……なんだ、何かしたか?」
特に変わったことはない。
が、そいつにとってはそうでもなかったらしい。
「な、なにィ!? お前どうしてアタシの術が効かなッ……おい、待てェ! 待ちなよォ!」
「……しつこい女だなァ、俺は忙しいと言っただろう」
「無視しようなんてイイ度胸してんじゃねェか。しつこい女だってェ? アタシにはリリニア・ウェサイアって立派な名があるンだ!」
「そうか、よかったなァ。では達者でな」
俺は女の腕を払いのけて先を急いだが、あろうことかコイツはちょろちょろと
「おい、お前よ。アタシが名乗ったんだから、名前くらい教えてくれたっていいだろ? アタシは今、ちょいとお前に興味が湧いてきた所だぞ。男のクセにアタシの
「ええい、
俺は、はたと立ち止まった。
こいつは何か違う。
人間たちは俺を見れば魔人魔人と言って、名すら聞こうとしなかったのに。
「わっ、急に止まるなよ!」
「俺の名は……バルフラムだ。名乗ったら気は済んだか?」
「……バルフラム? 聞かない名だねェ。ただのそれだけか」
「どういう意味だ?」
「ファミリーネームはないのかい? お前にも親が居るだろう、まさか空気から生まれたとでも言うんじゃないだろうねェ」
「あァ……そういうことか」
どうやらこいつは、人間と違って俺のことが
「なんだよ、
そうだ、マリア。
もう一度オマエがくれた名を想い出す。
「……バルフラム・ルージュ。俺の事は、そう呼べ」
この名も魂も、オマエがくれたもの。
オマエが居たから、この広い世界を見ることができたのだ。
そう気づいてから、やっとオマエ以外のヤツも捨てたもんじゃないと思えた。
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