第72話 ゆるして

 吐く息がうっすら白くなって、闇のなかに消えていく。

 もう、深夜をまわっただろうか。


 庭園の離れにある休憩所にやってきたのは、ミナミだった。

 彼女は一目見るなり、脇目も振らずボクを抱きしめてきた。


 その腕の力は、女の子とは思えない強さで──抱きしめるというよりは、締め付けるというほどに。

 もう少しで、身体を折りたたまれてしまうんじゃないかと思った。


「マコ……ああ、マコ──!」


「うッ……!? くるしい……よ、ミナミ……」


 ボクがうめき声を出しても、彼女は少しも力をゆるめてくれない。

 身体同士が密着して、身動きがとれなくて……動かせるのは、首から上くらいだ。



「よかった、マコ……戻ってきてくれて、よかったよぉ……。探したんだからね……!」



 ミナミは、汗だくだった。


 魔素合戦マナゲーム大会の舞台上からボクとバル様が連れ去られてから、彼女はどれほど王国内を駆けずりまわったのだろう。

 髪はぼさぼさで、服はしっとりと濡れていて。休む間も無く走り続けたに違いない。


「遅くなって、ごめん……すぐに脱出できなくて」


「いいんだよ。その間、んでしょ?」


「──えっ? う、うん……」


 その問いかけの一瞬だけ、ぞわっとするような感情のない声だった。

 身体を交差させるようにして、真横にあるミナミの顔がどんな表情を浮かべているのか、この体勢では見ることができない。


「……ふ、ふふふ」

 

「ね、ねえ。いったん落ち着こう? 息が、できないよ……」


「やだ。あなたをもう、どこへも行かせたくない」


「な、なんでぇ……」


「あなたはちょっと目を離すと、どんどんわたしが知らないになっていっちゃう……。ずっと捕まえてなくちゃ、だめだったのね……?」


 頭をぐいっと抱き寄せられて、とうとう首も動かせなくなった。

 うなじと肩にしたたっていた汗が、ボクの頰を濡らす。


 ……ミナミのにおいがする。

 バル様の野生的なにおいとは違って、彼女は甘くて懐かしい香りだ。


 ふつふつと、自分の体温が上がってくるのを感じる。

 ボク自身もじわりと汗ばんで、頭がくらくらしてくる。



「ボクは変わっちゃ……だめなの?」


「だって、どこかに飛んでいっちゃいそうだもん。……こんな……翼なんて、生やしてさぁ……!」


 ああ──さっき悶々としていたとき、ボクの背中からは翼が飛び出したままだった。

 それをミナミの指が、つうっと撫でる。


「──ひゃひっ!?」


「へへ……いまの声、もう一回出してよ?」


「あっ、そんな……まだ自分でも触ったことないんだか……らっ」


 ぞわぞわと、知らない触感が背中をのぼってくる。

 髪留めをつけなおしてから頭も重いし、いろんな感覚が混ざって──今度こそヘンになってしまう──。



「はは。そっか、わかったよ……マコ。最初からこうしていればよかったんだね……」


「な、なにが……?」


「あなたが飛んでいってしまうなら。あなたがあいつに取られちゃうなら。──そう、無理やりにでも……捕まえておかなきゃね」


 ミナミの腕が、ドレスの背中側のスリットから服の中に入ってきて……。


「あ、やめっ!? なにしてるの──!」


 そのままお尻まで手が降りて……しっぽの付け根に、指が触れてきた。


「あなたを捕まえるなら、ここだと思って……へへ」



 う、ああ……もう、だめ。


 頭がぼーっとして、身体が熱くて、翼としっぽが気持ちよくて──意識が朦朧もうろうとして──。



「や、あっ、ミナミ……。ボクこのままじゃ……あたまがおかしくなって、しんじゃう……」


「……ふ、ふふ」


「ミナ、ミ……」



 ……服の中をまさぐっていた手が、ぴたりと止まった。


「ふ、あはは……! ジョーダンだよマコ。これはただの、スキンシップ!」


 そう言うと、締め付けていた腕の力がフッと抜かれて、ボクの身体は開放された。

 いたずらっぽく照れ笑いするミナミの顔が、目の前にやってきて……。



 ──ぷちん。


 次の瞬間。

 ツノが伸びたばかりのボクの頭の内側で、が壊れる音がした。


「はぁー……。はぁ、はぁ……はぁ」


「……マコ?」


 視界に飛び込んできたのは、少しやりすぎたとばかりに反省の色を見せるミナミの顔……ではなく。

 汗に濡れて、てかてかと光る……彼女の首筋くびすじ


 なぜかそれが、瑞々みずみずしい果実のように見えた。

 ボクの目には、れて食べごろになった甘い甘い桃の肌が映っている──。


「……


「なっ。どうしたの、マコ……近いよ……ちょっと!?」


「身体が、乾いて……仕方ないんだ……。このままじゃ、ボクは……


 背中から夢魔サキュバスの翼がふわりとまわり込んで、彼女の身体を押さえつける──。


「えっ、あっ! マコ、待って、心の準備が」


「ゆるして、ミナミ……」


 吸い寄せられるように顔を近づけると、ミナミはぎゅっと目を閉じた。


「う──」

 

 

 そして、ボクの心から"理性"がこぼれ落ちて──。

 "本能"が口をけた。


「はぁっ……ん」

 ──がぷっ。

 

「……ぎゃッ!?」



 汗ばんだ首筋くびすじに歯が突き立って、柔肌やわはだに小さなあなをつくった。

 ミナミのうめきと同時に、ボクの口の中にとろりと広がったのは……血とは思えない、まるで蜜のような甘み。


 味覚が、違うんだ。

 おいしいと感じているのは人間の味覚ではなく、夢魔サキュバスの味覚。


 前世からさかのぼっても、体験したことがない──最高の、極上の、至上の……美味。



 もっと──!



 もはや、その欲求にあらがうことはできなかった。

 ボクは獣のように彼女の首筋をひたすらねぶすする、本能のドレイに成り下がった。

 

「ふぅッ、んんう……じゅるぅ……」


「あわっ──マ、マコ……!? いっ痛いってば……!」



 ああッ──!

 身体の内側で、めらめらと炎が燃えている。

 乾いていた皮膚が、潤いを取り戻していく。


 血管の中を熱が駆け巡って、全身の細胞が喜んでいるのがわかる──!

 これが、夢魔サキュバスに必要な栄養……”生命力”なんだ。



 ……だけど。



 自分の紅い瞳から、ぽろぽろと涙があふれてくるのも、抑えられない。


 ぜんぶ、ミナミの言う通りだった。

 こんなふうに、自分がになってしまうまで……自覚できていなかったんだ。


 やめないといけないのに、彼女の首筋を犬みたいに舐め続けるのを、やめられない──。


「みあみ……あっ……ボク……、ボクは……はむっ……あう……」



「へへへ──」


 耳元で、笑い声が聞こえた。


 ……わらっ、た?

 頭がおかしくなって、幻聴まで聞こえたんだろうか。



 顔をあげると、よだれしずくがつうっと糸になり、ミナミの肩からボクの口に橋が架かった。



「──マコの、えっち」


「えっ……!?」


 ミナミはやっぱり、へらへらと笑っていた。

 よく知っている、懐かしい、幼馴染の微笑みだ。


「キスしてくれると、思ったのにな」


「うう、だって……」


「でもね、わたしは今……はじめて、”それでもいい”って、思えたよ」


「……どういうこと?」


「あなたが”マコト”を忘れてしまっても、ね」


 ミナミは人差し指を伸ばして糸を引いた雫をすくい取ると、める間も無くかぷっと自分の口に含んだ。


「なっ……なにしてるの! きたないよ!?」


「人の生き血をすすっておいて……。どの口が言うんだかね」


「う、うう……」


 返事に詰まっているのを尻目に、彼女は口に含んだ指先を──がりっと噛んだ。


ッ……ふふ。ねぇ、舐めたいんでしょ? わたしの血……いいんだよ、味わっても。許してあげる」


 新鮮な血液をぷつぷつとしたたらせるミナミの人差し指が、ボクを誘惑する。

 目の前に、芳醇ほうじゅんな香りをまとう細長い果実がぶら下げられているみたい──。


「ああっ、なんてことを……」


「うはあ。いいよぉ、その眼差まなざし。わたしは、あなたにそういう視線を向けられたかったんだぁ……」


「だっ、だめだよ……! ボクは、バル──」


 口の中に、彼女が血に濡れた指を突き入れてきた。


「──むぐッ!?」


 それは意思に関係なく舌の上に乗っかってきて、容赦なく極上の甘みを運んでくる。

 血液と唾液が混ざったそれは、ボクにとって全く新しい──快楽の洪水の味がした。


 うう、どうして!

 どうしてこんなものが、存在してしまうのか──!


「ね、おいしい?」


「あうっ……あむっ……うう──!」



 禁断の果実。


 知りたくなかった。

 知れば知るほどボクの意思は押し流されて、後戻りできなくなる。


 それどころか……みずから進んで、もっとちてしまう。



「ああ、最高──。その顔、最高だよ、マコ。ふ、へへへ……」



 また、涙が溢れてきた。


 でも……これはさっきとは違う味のする涙だ。


 ミナミが喜んでいるから?

 ミナミが許してくれたから?

 


 嬉しいのと、悲しいのと、申しわけないのと……ぜんぶが混ざって、ボクの顔はなみだよだれでぐちゃぐちゃになった。



 力が抜けて、仰向けに倒れこむ──。


 ずっとぼやけていた視界がくっきりして、休憩所の天井が鮮明に見えた。


 暗闇の中に巣を張る蜘蛛や、裏にこびりついた埃まではっきり識別できる。

 ……急激に、現実に引き戻されるような寒気を覚えた。



「なんで……なんで、こんなことに……?」


「……わたしが望んだからだよ、マコ」


「ミナミが……?」


「そう、あなたは何も悪くない。わたしがそうさせたんだから」


「でも、血を……ボクは、本能のままにこんなことを、しちゃって……」


「本能? そんなの……大歓迎だよ、マコ。あなたがちたいなら、わたしも一緒に──。言ったでしょ、マコの行くところがわたしの行くところだって」



 暗闇のなかでボクを見下ろす彼女は、なにもかも呑み込みこんでしまう、沼のような顔をしていた。

 


 リリニアさん……。ボクは、んでしょうか?

 

 仕方なかった?

 これが、夢魔サキュバスの生態だから……?


 だとしたら、ボクは。

 人間だった頃の心は……捨てなければならないみたいです。

 

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