第73話 どっちだっていい

 久しぶりに、夢を見ない夜だった。

 気がつくと朝の日差しがまぶたを赤く透かしていた。


「う──んん」


 ここは……、旅館・宵星よいぼしの客室。

 再びこの場所で朝を迎えられたことに、感謝しないと。



 ぱっちりと開けた目で、天井を眺めた。


 さっきまで寝ていたとは思えないくらい、意識がはっきりしている。

 ……けど、ぽっかりと空白を抱えているような、不思議な感覚。


 昨日どうやって寝床まで戻ってきたのか、よく思い出せない。



 むくりと起きあがると、行儀良く寝ているミナミと、団子状になった布団から飛び出たロゼッタさんのツノが見えた。


 昨日、あんなに重かったはずの頭の中はスッキリして、嘘みたいに呼吸が楽になっている。

 しかし、なんだか別のところが重くなっているような……いつもと身体の感覚が違う気がする。

 

 ひとまず、顔を洗おう──。

 と、立ち上がろうとして……まだ慣れないツノの長くなった頭にバランスを崩し、布団の上に手をついた。


 ……違う。いま重さを感じたのは、上半身のほうだ。


 なんだか、胸が、重い。


 これは……ちょっと……おおきく、なってる!?

 

 視線を下に向けると、自分の胸の谷間が見えた。

 昨日までより、質量を感じる──。

 

 

 ボクは布団をがばっとかぶり直して、半信半疑のまま自分の身体をまさぐった。


 あっ──やっぱり、違う。

 ぺたぺたと自分の胴体を触って、違和感は確信に変わった。


 気のせいでなければ、お尻の肉も主張が強くなってる、ような……。


 うう。こんなことがすぐにわかってしまう程度には、自分の身体に詳しくなっているボクもボクだけど。



 これは、今まで足りてなかった”夢魔サキュバスの身体に必要な栄養”を摂取したから、なのかな……。

 今までは他者から生命力を分けてもらうなんて生態、知らなかったし。

 いや。……知ろうとしなかっただけ、かも。



 これから先、夢魔サキュバスらしく振舞うほど、もっと身体が変わっていっちゃうかもしれない。

 あはっ、どうしよ──


 ──ばさっ!

 ボクを包んでいた掛け布団が、急に取り払われた。


「……ぷぷっ。何やってるのかなぁ、マコ」


「ぎゃーっ!? みみ、ミナミッ!」


 慌ててパジャマから腕を引っこ抜いたけど、どうやら手遅れだった。


「見ちゃったもんね~! マコがあられもないことをしようとしてるの……」


「はぁっ!? してないからっ! 勘違いしないでっ──」



「あなたたち、うるさいわよ」


 ──!?


 ロゼッタさんがくるまっている布団から、心臓をぎゅっと鷲掴みにするドスの効いた声が聞こえた。


 ミナミと顔を見合わせ着替えを引っつかんで、ささっと遠ざかった。

 鍵のついていない檻から、いまにも猛獣が顔を出すのを恐れるかのように。


 あの布団から飛び出したツノは、まさしくギロチンの刃先だった……。



「……ロゼッタさんは昨日の夜に強い魔法を使ったから、魔力欠乏で疲れてるみたいでさ……。あんまり騒がしくしないようにしようね」


「そ、そっか。あー、びっくりした……」


「ボクだって、びっくりしたよ……」



 それから二人で並んでパジャマを脱いで、いつものカットソーとショートパンツに着替えた。

 昨日、ノージェさんの屋敷で着せられたゴシックドレスには、さすがにもう一度袖を通す気になれなかった。

 というより、使用人さんの手でピシッと着付けられたのと同じようには、どうしてもできそうにない。

 

 やっぱりミナミと一緒に選んだ服がいちばん落ち着く。

 しかし、彼女がくれたキャスケット帽はもうボクの頭の形には合わなくなっていた……。



 * * * * * * *

 


 冷たい水でぱしゃぱしゃと顔をすすぐと、凝り固まった身体が頭から足にかけてシャキッと目覚める感じがする。

 洗面所の鏡の前に立ったボクの顔は、昨日の朝と比べてずいぶん顔色がよくなって見える。


「うへへへ……マーコぉ♪」


 ミナミの指が、横からボクの腕にからみついてくる。

 大義名分を見つけたとばかりに、熱が入ったくっつき方だ……。

 

「ミナミ、あのさ。……ボクのことが怖くないの?」


「どうして?」


「昨日、えっと……。……痛かったでしょ?」


「へへ、ちょっと痛かったけどさ……それより、嬉しかったよ」


「う、うれしい?」


 ミナミは首筋に残ったボクの噛み痕をいとおしそうに、見せつけるようにさすっている。


「マコ、情熱的だったじゃん。へへへ……」


「ちがっ──あれは、ちがうよ!」


「何言ってんのさ~。オジサンに見せつけちゃうよ~? コレ」

 

「み、見せる?」


「コレはわたしとマコとの……愛の既成事実きせいじじつっ! わたしたちがただならぬ仲だってことをさぁ……」


「えっ──やめてよっ!?」


「へへ、ほんとのことじゃん」


 ミナミは、ぐいぐいと肩を寄せてきた。

 嗅覚が刺激されて、昨日のことをまた思い出してしまう……。


「あれは、ボクが……その。夢魔サキュバス、だからであって……」


「だから血とか、いろいろを……吸うってわけ? あいつじゃなくて、わたしの血でも喉がうるおうならさ。……わたしでもいいと思わない?」


「そういうのって、何か違うんじゃ……。ミナミは、嫌じゃないの? ボクがこんな体質だってこと」


「わたしにとっては、どっちだっていいんだよ。やっとわかったんだ……ノージェが言ってたことの意味」


「どっちだって、いい?」


「軽い意味じゃあないよ。わたしにとってはの"どっちだっていい"なの。あなたが求めてくれるなら、わたしはなんだっていい」


「あっ……」


「……マコ?」


 いまミナミが言った言葉が無性むしょうに引っかかって、頭の中で繰り返した。

 この世界ニームアースに来てすぐ、コニーと話した時と同じ感覚。



 



 ……ありふれた言葉だけど。


 なにか、とても重要なことのような。

 頭の中でり固まっているものを、ほぐしてくれるカギみたいだ。


 思えば、ノージェさんと話してからかもしれない。

 ボクの気持ちがバル様の方向へおそるおそる踏み出しはじめたのは。


 だけど、心の中で何か引っかかるものがあって……。

 踏み出すと言ってもどこに足を置けばいいのかわからず、結局、踏んでいたのはブレーキばかりだった。

 何かいけないことのような気がして、後ろめたくもあった。


 でも、もう少しで……。

 からんで、まよって、こんがらがった迷路の奥にある答えを取り出せそうな気が──。

 


「おーい、マコ?」


「──んむッ!?」


 ミナミが、また人差し指をボクの口の中にぐりぐりと突っ込んできた。

 うう……これは、甘くておいしい指……。


「あなたのこと、好きだって言ったよね~? 昨日わたしがどれだけ嬉しかったか、わかる? ちがうなんて言わないで欲しいなあ~?」


「む、んぐぅ……」


「あなたのためならわたし、なんでもできるのになぁ~……」


「んぐぐ、んぐ……?」


「なあに?」


 ──てゅぽっ。

 指が抜かれた拍子に、糸を引いた唾液が床に染みをつくった。

 洗面所に元からある水染みと馴染んで、もうどれだかわからない。


「……けほっ。ボクもミナミのこと……。ミナミが困ってたら、助けたいって思う」


「──ふぁえっ!?」


 ボクの不意打ちで、ミナミは火がともったランプみたいになった。

 

「だけど、バル様に対してだって、そういう風に思ってる。……うん。そういう意味じゃ、彼のことも”好き”……なのは、間違いないよね……」


「い、意義ありーっ! その"好き"はどういう好きなの!? 一人で納得してないでよぉ!」


「……言ったら、納得してくれるの?」


「うっ──うぐぐ。それはそれで、聞きたく……ない」


 彼女は、狼狽うろたえている。

 いつもボクにいたずらを仕掛けてくるミナミだけど、翻弄ほんろうされる側は慣れていないみたいだ。


「……フフッ」


 口から、小悪魔の笑みがこぼれた。

 ボクの中で、目の前にいる女の子をもてあそんでみたい気持ちが鎌首をもたげる。

 ──新しい、気分。


「ど、どしたの」


「……どっちだって、いいんじゃないかな」


「へっ……?」


「いい言葉だね、ミナミ。さっきキミが言ったのって」


 そう言いながら、ようやく地に足が着いたような気がした。


 考えるのをやめるのではなく、これは──結論なんだ。

 理性とか、本能とか……もう、どっちだって変わらない。



「なに、なになに。どういう意味、マコ?」


「……ボク、バル様の様子を見に行くよ。昨日、怪我してたし」


「ええっ? ま、待てい! これが目に入らぬかあっ!」

 彼女は目の前に立ちふさがり、もう一度首元についた噛みあとを強調してきた。


「ミナミ……。いじわる、しないでよ」


「い、いじわる?」


「純粋に、心配なんだよ……。様子を見に行くくらい好きにさせてよ。ゆるしてよぉ……」


 無意識に──いや、わざと。

 ボクは、昨日衛兵えいへいさんにこびを売った時と同じようにひとみうるませて、くねっとミナミを見つめ返した。


「うっ……なんだよう」


「おねがい……」


 うん、もうひと押しだ──!

 ずいっと顔を近づけると……ミナミは逆に壁に追いやられて、観念したようにやれやれと両手を挙げた。


「……あーあ、もう。わかったから、そんな顔しないで。マコの側にいると、なーんかいたずらしたくなっちゃうからさ~」


「いいけどさー……。ほどほどにしてよねっ」


 ボクは彼女の横をすれ違いざまに、しっぽでその脚をぺちっと叩いた。

 少しだけの抗議と、感謝の意を込めて。


「っ!? ……マコ、やっぱりさ。なんか変わったんじゃない? あなたって、そんなふうだったっけ」


「ボクはボク。キミの幼馴染の、だよ。昨日、”それでもいい”って、言ってくれたでしょ」


「そう言ったのが正しかったのか、自信なくなってきたなあ」


「……うふふ」


「ちぇっ。なんだよ、その笑いかた」



 彼の部屋を目指して、歩を進める。


 ミナミは洗面所の手ぬぐいをさっと掴んで、首の周りに巻きつけた。

 そして、ボクのことを監視するかのように、あるいは護衛するかのように、ぴったりとくっついてきた。


「……ミナミ? ボクはバル様の部屋に行くつもりだけど」


「知ってるよ。わたしも行く」


「──えっ」


「悪い?」


「ううん。そんなこと……ないよ」



 背後から彼女のプレッシャーを感じながら、廊下を進む。


 きしきしとこすれる床の音さえ、うるさく感じる。

 何か大事な話をしにいくつもりでもないのに、鼓動が速くなってきた……。

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