本山らのといたいけな少年はモニターの中の少女に恋をする


 その日、少年は恋をした。



「おはらの! 今回ご紹介するのはこちら! 『錆喰いビスコ』! 熱くて格好良くて爽快で、とっても面白い作品なので、本当皆さんに読んでほしいのです!」

 


 日曜の昼下がり、複合商業施設の一画にある本屋は賑わっている。漫画棚の隣、ライトノベルが並ぶ棚に設置されたモニターで、目に星を輝かせた狐耳の少女がオススメの本について熱く語っていた。



 少年はこれまで本というものを読んだことが無かった。まだ二十歳を越えたばかりのシングルマザーである母親は本を読む習慣がなく、自宅には一冊も本が無い。母親の仕事の都合で曾祖父母の家に泊まることも多々あるが、曽祖父の本棚に並ぶ司馬遼太郎や池波正太郎、野村胡堂などの歴史小説は少年には早すぎた。



 少年が本屋に立ち寄ったのはたまたまだ。

 毎週日曜日は母親と一緒に買い物に出かけるのが少年の楽しみだった。

 毎日、朝も夜もずっと働き詰めの母親とは家の中でもほとんど顔を合わせることがない。朝食はパンのトーストかシリアル。昼と夜は曾祖父母の家で食べることが多く、夕方に一度帰ってからすぐ夜の仕事に出かける母親とはほとんど会話もできない。

 だけど、日曜日のお買い物はいつもより母親と一緒にいることができる。それが少年は嬉しかった。



 家でお昼ご飯を食べてから、母親の運転する車に乗って複合商業施設へ。そこで母親は数時間バイトをしてから、仕事が終わるとスーパーで好きなものを一つ買ってくれるのだ。先週はライダーのお菓子。その前の週は格好いいシールがついてるウェハース。今日は何を買ってもらおう、と考えながら施設内を探検するのが少年の日曜日の過ごし方だ。

 一階は隅々まで探検し尽くしたので今日から二階、と意気込んで最初に入ったのは、ありふれた本屋。

 

 

 一目惚れだった。

 少年は母親が好きだし、近所のポチも好きだし、日曜朝にやっている特撮ヒーローに出てくる女性も、その前に放送している変身して戦う女の子も可愛いと思ったことがある。それでも、モニターの中で喋る狐耳の少女を見た時、それまでとは違う種類の好きという感情を知った。

 

 

 思わず大声をあげたくなるような。

 思わず息が切れるまで走り続けたくなるような。

 大事な宝物をようやく見つけたんだ、という強い感情が少年の全身を駆け巡り、それ以上に狐耳の少女をずっと見ていたいという気持ちが体をその場に縛り付けていた。

 

 

 すぐに動画は終わり、また最初から少女が同じ台詞を繰り返す。

 十分。三十分。一時間。

 少年は時間も忘れてモニターにかぶりつき、約束の時間になっても待ち合わせ場所に来ない息子を心配して探しに来た母親に見つかる頃には全ての台詞を覚えて、少女の台詞に合わせて暗唱するほどになっていた。

 

 

「お母さん、これ欲しい!」


「まずは『ごめんなさい』でしょ!」


「あ痛っ! ……ごめんなさい。お母さん、これ欲しい。お菓子いらないからこれ買って!」



 母親の鉄拳制裁げんこつを受けても少年はひるまなかった。

 その様子に母親は違和感を覚えた。目に入れても痛くない息子だが、いけないことをしたらちゃんと叱る。それが自分で決めた子育てのルールであり、これまでにも数え切れないくらい息子を叱りつけたことがある。普段はふてぶてしい態度の息子もその時ばかりはすぐに泣き出してしまうのだが、拳骨をされても泣かないなんて初めてのことだった。

 

 

 息子が指差す先には、眼鏡をかけたコスプレ少女が何やら本を紹介している。その横には画面に表示されている本が数冊平積みにされていたので手に取ると、定価六百五十円+税の表記。毎週買ってあげていたお菓子は、百円以内であれば何でもいいと決めていたが、まさか息子が本を要求するなど想像したこともなかった。

 

 

(たっか。それに、これってオタクとかが読むやつでしょ。こんなの)

 

 

 母親はそこまで考えたところで首を振った。

 勝手な思い込みで物事を評価するのはよくない。母親がかつて愛した男も、学生時代はとても素晴らしい男性に見えたのだ。イケメンで、会話が面白くて、一緒にいるだけで幸せな気持ちになれた。しかし、子どもができたと伝えた途端、姿を消した。

 鮮やかなほどの逃げっぷりだった。

 そして喧嘩ばかりだった両親に散々泣かれ、叱られ、愛されていることを再確認した。その後は地元を離れて祖父母の住む県に移り住み、学生時代の馬鹿なツケを精算するべく必死で働くうちに、それまで縁のなかった無かった多くの人たちと関わることで自分の価値観の低さを知ったのだ。



 K-POPが好きなパートのおばさん。アイドルのコンサート代を稼ぐためにバイトに励む大学生。パチンコが好きなガールズバーの店長に、数学が好きな店の同僚。

 いい人もいれば、嫌な奴もいた。だから、趣味で人を判断するなんて馬鹿げたことだと思ったし、何より逃げた男くそやろうは趣味で人を馬鹿にする筆頭だったので絶対に同じ人間にはなりたくなかった。

 好きになったならそれでいい。世の中嫌いなものより好きなものが多いほうがきっと幸せだ。

 そう考えて息子の期待に応えてやろう、と思ったところで母親は基本的なことを思い出した。

 

 

「あんた、本なんて読んだことあったっけ?」


「ない! でも欲しい!」


(えー……。息子って文字読めたっけ?)



 お金の都合と、普段は祖父母に預けられることに甘えて、息子を保育園にも幼稚園にも通わせてあげることができなかった。それ以前に、そもそも子どもがいつ、どうやって文字の読み書きを覚えるのかが分からない。自分の子どもの頃を思い出そうとしても、全く記憶に残っていなかった。

 困った時は適切な人に頼れ、とは社会に出てから母親が学んだ一つの真実である。近くで本のシュリンクをかけていた店員を捕まえて、モニターを指差した。



「あの、店員さん。この本って、小学校入る前の子にも読めます?」


「えっと、あの、これはちょっと難しいかもしれません。お子様へのプレゼントですか?」


「えー、まー。本なんか欲しがるの初めてだから、どうしようかと思って」



 書店員は少し考えながら辺りを見渡し、少年と母親を見比べてから別の棚を案内した。

 モニターの中の少女が紹介していた文庫よりもやや大きめの本が並ぶその棚は、実写の猫や絵本や子供向けアニメのような絵がそれぞれの表紙を飾っていた。中には「映画で話題の!」という手書きのポップが添えられた本もある。



「児童向けなら、角川つばさ文庫とか青い鳥文庫とかがいいかもしれませんね。こちらの棚なんですが」


「あ、これスマホのゲームのやつじゃん。こんなのあるんだー。こっちは去年映画やってたやつじゃん。へー、若おかみって本も出てたんだ。ほら、この辺の本にしたら。そっちはまだ早いってさ」


「いーやーだー! これが欲しいの!」



 少年にとって本の内容は正直なところどうでもよかった。

 大切なのは本の見た目でも内容でも無く、モニターの中の少女が紹介している本である、ということなのだ。


 母親の仕事が終ったので、後は買い物をして家に帰らなければいけない。そうなったら、モニターの少女とは来週までお別れとなる。母親に対するものとも、近所のペットに対するものとも違う好きの感情を少年はどう処理していいか分からず、せめて彼女が持っている本を自分も欲しくなったのだ。

 

 

 息子の真剣な表情に母親は一つだけ条件をつけることにした。

 もし息子が条件を飲むことができるなら、何も言わずに買ってあげようと、そう考えた。

 

 

「もしこれ買うなら、1ヶ月はお菓子我慢しないといけなくなるよ。それでもいい?」


「我慢する!」



 かくして、少年は宝物を手に入れた。

 赤髪色黒の少年が緑の弓矢を構える表紙は、少年にとって格好いい男の見本になった。

 

 

(自分もいつか、こんな格好いい人になれたら、狐のお姉ちゃんがテレビで紹介してくれるのかな)

 

 

 少年は保育園にも幼稚園にも通ったことが無く、平仮名すら読めなかった。だから、表紙に書かれた文字も、本の中に書かれた物語も、何が書かれているのか全く分からない。それでも、表紙と、口絵と、数ページの挿絵に書かれた魅力的な人物たちが、特撮ヒーローを見た時のような興奮を少年に与えていた。





               ∞





 数日後、いつものように曾祖父母宅に預けられた少年は外に遊びに行くこともせず、いつも寡黙で眼光の鋭い曽祖父に初めて自分から声を掛けた。



「おじいちゃん、本の読み方教えて!」


「なんだと」


「これ! この本読みたいの。だから、書いてある文字教えて」



 少年にとって曽祖父は恐怖の象徴である。

 この目付きの悪い老人はいつもムスッとしていて、少年にも母親にも笑顔を見せたことがない。ちょっとでも悪戯をしたら物凄く怒られるし、まるで特撮ヒーローに出てくる敵の親玉のような存在だった。

 それでも、少年にとって曽祖父は一番身近にいる「本を読む人」だった。



「何だ、この漫画は」


「格好いいでしょ! このポーズ、僕もできるんだよ。ほら、こうやって!」



 曽祖父は「ふん」と鼻息を鳴らして立ち上がり、少年をおいて部屋を出ていった。

 少年にとってはまさかの事態だった。

 母親は忙しくて文字を習う時間など取れないし、曾祖母は以前「目が遠くなって文字が読めなくなった」と言っていた。祖父母は遠くに住んでいるのでお正月くらいしか会えない。

 それでも少年は諦めるつもりなはなく、次の日曜日にまた本屋に行って店員に文字の覚え方を聞こうと決意したが、その心配は部屋に戻ってきた曽祖父によって杞憂に終わった。



「ほれ、まずはこれからだ」



 曽祖父が持ってきたのは幼児向けの五十音表が書かれた大きなパネル。

 ところどころに落書きの後が残っており、枠縁に描かれた子供向けの絵柄もかなり古いものだが、平仮名を覚えるには最適のものだった。



「お前の母親も。その父親も。みーんな昔はこれで文字を覚えたんだ。お前もすぐに覚えるだろうさ」


「ありがとう! おじいちゃん!」


「いいから、はよ座れ。平仮名覚えたら次は片仮名。その後は辞書の引き方を教えてやるから、今日中に全部覚えるのは無理だぞ」


「大丈夫! すぐに覚えるから!!」



 少年は恋をして、世界が広がった。

 狐耳の少女に恋をした少年は本山らのという名前もVtuberという存在も知らないが、確かに彼女の想いが届いていた。





               ∞





 本山らのは楽しそうに老人と会話する少年を影から見届け、満足そうに頷いた。

 彼女は自分がオススメした動画を見て誰かが本を購入すると、すぐに気付くことのできる特殊能力を持っている。


 人々の意識を木の根のように互いに張り巡らせた通神ネットワークを縦横無尽に調べることができる枝互査エゴサを駆使し、声がかすれるほどの大声で便りが届くかの如きその技は、「喝便かったよらのちゃん」と呼ばれているとかいないとか。


 まだ幼い少年の購入報告に「ちゃんと読めるでしょうか」とハラハラしていた本山らのは、いざという時は自分がお節介を焼こうと考えていたのだが、自分の心配が杞憂だったことに安堵する。



「ふふ、将来有望ですね」



 ラノベ読みVtuberの朝は早い。具体的にはそろそろJDとしての期末考査時期なので早起きして勉学にも励まなければならない。

 それでも、自分の活動が今日も一人、新たなラノベ読みを誕生させたことに、彼女は少しだけ頬を緩ませる。



 満月を背景に、狐耳の少女はくノ一が如く夜空を駆けた。





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