本山らのといつか別れが来ると分かっていても私は貴女に出会えてよかったと思うのです。
「本が読みたい」
十歳の誕生日、私は家出をした。
疎開先は本の一冊もない田舎で、貸本屋の一人もいない。空襲に怯えて避難することはないけれど、本の虫だった私にとっては読書できないことの方が問題だった。
一九四三年、夏。
私たち家族は東京を離れ、祖父母が住む田舎へと疎開した。
当時の私はちょうど読書の楽しさに目覚めた頃で、兄たちが読んでいた貸本漫画から母親が読んでいた婦人誌まで、活字という活字を読み漁り、図書館に足を伸ばしては『銀貨鉄道の夜』や『坊っちゃん』まで手を伸ばしていた。
読書は凄い。本を開けばどれだけ昔の、どこまで遠くのことでもすぐに体験することができる。私にとって読書とは食事、睡眠と並ぶ大事な大事な生活の一部だった。
それなのに、疎開先へ引っ越してきてから一ヶ月、私は一冊たりとも本を読むことができていなかった。
「誕生日がきて十歳になったら何でも好きな本を買ってあげるから」
(今年のお正月にはそう言ってくれたのに)
そして十歳の誕生日。お祝いに本を買ってくれるという約束を破られた私は、ついに我慢できなくなって家出することを決意したのだ。
畑を横切り、川べりに沿って、歩いて歩いて歩いて歩いて、太陽が西に沈みかけた頃、ようやく私は歩みを止めた。道はまだ続いているが、周りの風景はこれまで一度も見たことがない。一人で知らない場所まで来たんだ。その事に気付いたとき、興奮よりも不安が勝った。
周りには誰もいない。日は暮れる。足は痛い。日が落ちる。
思わずその場にうずくまって泣きそうになった時、ふと人の気配を感じた。
「うーん、やっぱり江戸川乱歩は面白いですね。これは将来誰かが漫画でも描きそうな気がします」
化け狐がそこにいた。
黒地に赤縁の服を着て肩開きの袖を鈴紐で留め、丸眼鏡。そして頭には白い花びらの簪と、どこからどうみても狐耳。見るからに怪しい格好の少女が石段に腰掛け本を読んでいた。先程までただの林だった場所に小さな石段と鳥居が現れ、文字通り狐に化かされた気持ちになる。
田舎の狐は本当に人に化けるのか、と私は泣きそうだったことも忘れてぽかんとした。
「お姉ちゃん、だれ?」
「ほぁっ!? えっ、えっ!? み、見えてる? 何で、あっ、結界解けてる!!」
「あ、それ……『幽霊塔』?」
ふと狐のお姉さんが手に持っていた本のタイトルが目に入った。江戸川乱歩はどれも人気で、なかなか読む機会が無く、両親も「まだ早い」と言って読ませてくれなかったので、図書館で少しだけ読んだことがあるくらいだ。
『幽霊塔』もずっと読みたかったが、結局疎開前は読むことができなかった。
「あわわ、どうしましょう……って、お嬢ちゃん、この本を知っているんですか?」
「うん。狐のお姉ちゃんも本が好きなの?」
「えぇ、大好きですとも! 私は本を読むために生まれてきたと言っても過言ではありません! 今日もこの本の続きが気になって、境内のお掃除をしながらつい一頁、もう一頁と読んでる内にこんな時間になっちゃって……いたわけじゃありませんよ! ちゃんとお仕事はしていましたよ!」
「いいなぁ。私は読みたくても読めないのに」
「ほっ?」
私は化け狐よりも彼女が持っている本が羨ましくてしょうがなかった。妖怪变化ですら本を読めるのに、なんで私は読むことができないのか。そんな不満を八つ当たりのように狐耳の少女へ打つけ、疎開してきたことも家出してきたことも洗いざらい吐き出して、気付けば今まで読んだ本の感想をお互いを話し合っていた。
宮沢賢治やら夏目漱石やら、お互い知っている本なら盛り上がり、どちらかしか読んだことがない本なら、いかに面白かったかを自慢しあった。
楽しい時間は過ぎるのも早いもので、黄昏時はいつの間にか宵闇に覆われる。私はふと「帰らなきゃ」と口に出し、家出してきたことを思い出した。結局、家出と言っても子どもの遊びで、ご飯も寝床も何も考えていなかったのだ。
すると狐耳の少女は人差し指を顎にあてて「うーん、うーん」と唸り始めた。しばらく葛藤を続けた後、意を決したのか未練を断ち切ったのか、本を私に手渡した。
「同好の士として、この本は貴女に貸してあげましょう!」
「えっ! あ、……でも本って高いんでしょ」
「本好きに二言はありません! そうですね、それじゃ次会った時、感想を聞かせてください」
約束ですよ、と言って狐耳の少女は姿を消した。
気が付くと私は祖父母の家の前に立っており、心配して村中を探し回っていた両親に散々叱られ、泣かれ、謝られた。兄たちは泥だらけの格好で、何も言わず軽く頭を小突いてくれた。
∞
「もうあれから何年経ったかしら」
整えられたベッドの上で私は独りごちる。
2019年。私も人並みに歳をとった。
疎開先で終戦を迎え、東京に戻ってから仕事に就いて、恋をし、結婚し、子供も産んだ。その傍ら、私はいつも本を読み、折を見ては狐耳の少女と感想を述べあった。
人気のない神社を探して、その時流行っている本を片手に参拝する。すると、何処からともなく彼女は姿を現すのだ。時には解釈違いで喧嘩して、時には相手の読んでいない本を紹介しあって、それはとても幸せな時間だった。
いつ見ても変わらない彼女は、いつまで経っても私を見つけると、あの朗らかな笑顔で挨拶をしてくれた。
それでも、寄る年波には勝てないもので、一人で歩けなくなってからは彼女と合うことも無くなってしまった。年上の夫は大往生、子にも孫にも恵まれ、私の人生も終盤に差し掛かった。同居を提案してきた子どもの誘いを断って、一人気ままに施設暮らし。こんな人生も、悪くはないものだ。
「おはらのー」
もう十数年聞いていない、聞き慣れた声がどこからか聞こえた。
職員さんを呼んで、声の聞こえる談話室まで移動すると、大型スクリーンに映し出された狐耳の少女がかつての姿で微笑んでいた。
「あの、彼女はいったい?」
「ぶぃちゅーばー?さんという方で、パソコンの中で活躍されてる有名人さんらしいですよ。最近人気らしくて、うちの若い職員が準備してくれたんです。凄いですよねー、あんな風にアニメが動くなんて」
中年職員の説明はさっぱりだったが、確かなことは彼女がまだ本を読んでいたということだ。スクリーンの中で、書影を出して嬉しそうに本について語る彼女は、何も変わっていなかった。
それから、私は思い出を文字に綴った。子どものころ、初めての出会いから、成長する私と変わらない貴女。お互いに語り合った感想、喧嘩したこと、結婚をお祝いしてくれたこと、孫娘が自分そっくりな本好きになってくれたこと、先にお婆ちゃんになってしまったことの謝罪。
その、手紙とも私小説ともつかない私の人生を、職員さんに教えて貰って彼女のましゅまろとやらに送らせて貰った。
∞
拝啓 本山らの様
お久しぶりです。覚えておりますでしょうか。
この歳になって、ようやく貴女の名前を知ることができて嬉しく思います。
いつか、また会えた時は、貴女が読んだ本の感想を教えてちょうだいね。私はもう読むことができなさそうだから。
初めて会ったのは、確か…………
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