第2話「米計画(ライスプロジェクト)~ライス兄弟の野望~」前編

 月のない真っ暗な夜───

 さわさわと心地よい風が、連なる穂を揺らして吹き抜けていく。そんな平和な闇夜に微かな人の声が───

「兄さん」

 震える声。まだ若い男の声だ。

「僕…できないよ」

「そろそろお前も火をつけるくらいしろ」

 押し殺した声でこたえるもう一人の男。明らかにいらついている。

 だが、待ってはいられないというふうに、彼は指をくわえて微かに口笛を鳴らした。

 すると、彼らから少し離れた場所でポッと火の手が上がった。

 それも等間隔の四箇所からだ。

 それを見て彼は満足そうに頷く。

 そうしてから鋭く弟の名を読んだ。

「ハッシュド!」

「…………」

 だが、ハッシュドは下を向いたまま答えない。

「ちっ」

 彼は舌打ちすると、おもむろに右の手のひらを前に突き出した。

「火よ…」

──ポッ…

 小さな炎が生まれる。

 彼はその炎を近くの穂に移した。

 あっというまに燃え移り、勢いよく火は広がっていく。

 見ると向こうの方はすでに火の海と化していた。

「カーリー様」

 声をかけられ彼は振り向いた。

 そこにはいつのまにか四人の人物が控えていた。

 頭を垂れて跪いているために顔だちはよくわからない。

──パチパチ──

──ゴォォォ──

 今や彼らの周りは炎が渦となって荒れ狂っていた。

 燃えているのは麦の穂であった。

 この大陸のどこでも見られる、もっともポピュラーな穀物だ。

 主食のパンを作るための材料となるものである。

「ふふふふ…」

 それを見つめる男───炎の明かりで照らしだされた顔は楽しくてしかたないといったふうに笑っていた。

 かたそうな黒い髪はまるで猛獣のたてがみのように逆立ち、意思の強そうな太い眉はキリリとつり上がって、切れ長の大きな目はなにものにも屈しないぞといわんばかりに輝いている。

 何よりも印象的なのは秀でた額に走る傷だ。

 それはどうやら火傷の跡らしい。

 まるで何かの勲章のようにくっきりと刻まれている。

「燃えろ、燃えろ、麦の穂など燃えてしまうのだ!」

 男の名はカーリー・ライス。

 そして、傍らでぶるぶると震えているのが彼のたった一人の弟ハッシュド・ライスである。

 弟の方は、これまた兄とは正反対の優しげな風体の男であった。成人するにはまだ少し時が足りないといった感じである。

 兄に比べてやや薄い目の色、おかっぱに揃えられた髪も同じように灰色がかってまるで女のような顔だちをしている。

「兄さん……」

 ハッシュドは泣きそうな声で呟いた。

「燃えろ、燃えろ!」

 笑いながら叫びつづけるカーリー。

 彼はそうやっていつまでも炎に包まれる麦穂を眺めていた。



「ジュリーさん、いらっしゃい」

 ジュリーが琥珀亭に入ると、ここの娘フィレネーが可憐な微笑みを見せて声をかけてきた。

「フィレネー、おはよう」

 少し疲れた顔で答え、彼はそのままどっと食卓についた。

「何だかとても疲れているようね」

 ふわふわとした茶色の髪を今はきっちりと後ろで結び、白い清潔そうな前掛けをひらひらさせてフィレネーは心配そうな表情を見せた。

「いつものアレを用意しましょうか?」

 彼女は水の入ったコップをジュリーの前に置く。

 すると、その伸ばされた白く細い手を彼はギュッと握りしめた。

「あ……」

 たちまちポッと頬を染め、かわいい声を上げるフィレネー。

 これにそそられない奴は男じゃないぜ、と彼は心で呟く。

「フィレネー……」

 たまらずジュリーは彼女を引き寄せようとした。

──バシッ!

「いたっ!」

 いきなり後ろから頭をはたかれ、彼は手を放すと振り向いた。

「お戯れはおよしくだされ」

「おやっさん…」

 そこにはねじり鉢巻きをしたここの食堂の主人ジュラシックが立っていた。

「フィレネー、あっちにいってな」

「はい、父さん」

 そそくさと店の奥へと姿を消す彼女。

 その後ろ姿をジュリーは名残惜しそうに見送った。

「若さん、どうか娘に手を出すのはやめてくださいな。要らぬ期待をさせてしまってはあの子がかわいそうでのぉ」

「おやっさん、そんな…」

 ジュリーが何事か言おうとするのをジュラシックは遮った。

「それよりも若さん。ゆうべもあったんじゃろ」

「…………」

 ジュリーは不服そうな表情を見せたが、それも一瞬のことで、すぐにキリリと口許を引き締めた。

 そんな彼の返事も待たずに、ジュラシックは喋りつづける。

「まったく困ったもんだ。これではうちのおいしいパンをみんなに食べさせてやることもできん。こんな平和な国に放火魔なんぞ、そんな不届きなもんがおるとは…まさか魔族が入り込むこたぁねーと思うが…どうしたもんかのぉ」

 ジュリーは彼の言葉を聞きながら、先程までの疲れた顔から一転して厳しい顔つきを見せた。

「…………」

 そんなきりっとした表情のジュリーを黙ったまま複雑な目で見つめるジュラシック。

 彼の目にはとてもこのような下町に徘徊するような者ではない男の姿が映っていた。

 男にしておくには勿体ないほどの見目麗しい顔だち───といっても女顔というわけではない。

 切れ長の目は冷たい青色で眼光が鋭い。

 素晴らしい輝きの黄金の長い巻き毛を無造作に後ろで括っている。

 身につけた衣装はここらあたりで流行っているゆったりとしたデザインの上着とズボンであるが、明らかに平民には手に入れにくい上等な生地で作られている。

 見るからに身分の高そうな身なり、そして物腰なのだ。

(まったく…うちの娘など不釣り合いこの上ないことだ)

 ジュラシックはジュリーに気づかれないようにそっと首を振った。



 ここジャミー王国は、アフラシア大陸の西に位置し、四方を山で囲まれた盆地に栄える小さな国である。

 国王アウグスティン・ジャミー三世は心優しき統治者で、国民すべてに慕われていた。

 王国はとても平和ではあったが、実は国を一歩外へ出ると、ここアフラシア大陸は魑魅魍魎の住まう大陸なのであった。魔族と呼ばれる悪しき者たちが、か弱き人間どもをいかようにも弄び、その短き命をも奪おうと待ち構えているのだ。

 しかし、ここジャミーだけはそんな恐ろしい魔族たちの手から逃れていた。

 それは王国を取り囲むように四隅に建てられた塔に秘密がある。

 世界には魔法士と呼ばれる者たちがいた。

 その魔法士は魔族から護るための結界を張ることができ、魔族によって傷つけられた身体を癒すこともできた。

 だが、いかんせんその数は少なく、なかなか己の国に召し抱えるということができずにいたのだ。

 しかし、このジャミーにはその貴重な存在である魔法士が四人もいたのである。

 魔法士たちは東西南北に建てられた塔の最上階の一室で、昼夜を問わず結界を張りつづけている。

 傍らにはすべての世話をする小姓のようなものが控えており、いったいいつのころからそこに座りつづけているのか四囲の者たちにはわからない。おそらくはアウグスティンだけが与り知ることなのであろう。

 ともあれ、ジャミー王国はその魔法士たちのおかげで大陸一の平和を謳歌していたのであった。



「あの…すみません」

 すると、互いに厳しい顔つきをしていた琥珀亭のおやじジュラシックとジュリーに話しかけるものあり。

「…………」

 ジュラシックたちは振り返って声の主を見つめた。

 そこにはハッシュドがおどおどした表情で立っていた。

 もちろん、彼らはこの男が夕べの放火犯の一味だとは知らない。

「なんだね?」

 ジュラシックは愛想よく笑いながら、ハッシュドに近寄った。

「食事でも? それとも泊まりかい?」

「いえ…そうじゃないんですけど……」

 ハッシュドはもじもじするばかりで、なかなか用件を切り出せないようだ。

「買ってもらいたいもんがある!」

 すると、野太い声が轟いた。

「!」

 ジュラシックとジュリーは入口へ目を向け驚いた。

 そこには樽のように大きな荷物を担いだ大男が立っていた。

 ジュリーの背丈もけっこうな高さだったが、その彼をも上回る背の高さだ。頭一つ分といったところか。しかも横幅もでかい。

「だめだよ、ガーリック。そんなに大きな声しちゃ、みなさんに迷惑だよ」

「す、すんません、ハッシュドさま」

 大男ガーリックはしゅんとしてこたえる。

「いったい、なんでしょうか?」

 何が何だかわからないといった風にジュラシックはハッシュドに聞く。

「あの、あの…すみません…。実は買っていただきたい穀物があるんです」

「麦ですかっ?」

 ジュラシックは目を輝かせて言った。

「いやあ、ありがたい!」

「いえ…あの…麦じゃないんです」

 とたんにハッシュドはすまなさそうな表情を見せた。

「え? 麦じゃない?」

「はい、あの…すみません。買っていただきたいのは米なんです」



「それで結局買ったのですか、その…米というのを」

「うん、まあ、そうなんだが……」

 ジュラシックは娘のフィレネーの呆れたような口調に言葉を濁した。

「あきれた! 父さんったら!」

 とたんに彼女は父を非難する。

「どうやって調理するのかわからないようなわけのわからないもの買って……どうするんですか」

「いや、それがな、なんだか気の毒そうな男で、売ってこなけりゃ鬼のような兄に鞭打たれるんだと」

「そんなの嘘に決まってます!」

 ピシャリとフィレネーは言い切った。

「麦を売ってくれるのならともかく、何ですかその米って。私は知りませんよ、そんなもの」

「いやいやフィレネー。これは若さんもご承知のことなんだよ」

 火のように怒るフィレネーに辟易した彼は奥の手とも言える名前を出した。

「ジュリーさんの?」

「そうだ。若さんはな、こう言いなさった。ここアフラシア大陸からずっとずっと東の方に広がるチュウカ帝国ではよく料理に使われているんだそうだ米というものは。それになフィレネー、その男はていねいに料理の仕方を教えてくれたぞ。麦が手に入らないから仕方ないだろう。しばらくその米とやらでパンの代わりをしようじゃないか」



「なに? それは本当か、ムスターファ」

「はい」

 今宵も新月。

 ジュリーは町の広場の噴水の石垣に座っていた。

 だが、もう一人の声の主はよく目を凝らしてみないとそこに存在しているのかどうかわからない。それほど微動だにせず跪き、頭を下げていた。

 難しい表情のジュリー。

 彼は背筋をピンとはった姿勢で、己の右腕の動かぬ姿をじっと見つめた。それだけ見ても、やはり彼が高貴な生まれであることがよくわかる。

「琥珀亭だけでなく、あちらこちらで米を売りさばいているとの報告が入っております」

 跪く男は静かにそう言った。

「ふうむ……」

 ジュリーは考え込むように呟いた。

「放火……麦畑から麦が消え、そして米を売り歩く者たちがいる……」

「…………」

 跪く男は相変わらず動く気配もない。

「残った麦畑は…?」

「王宮専用が残っております」

 即答する男。

「わかった」

 ジュリーはしっかりと頷く。

「新月ももう終わる…ムスターファ、俺は今夜張り込みをするぞ」

「では皆を配置につかせましょう」

「うむ」

 ジュリーが頷くと同時に風のようにその場から去っていく男ムスターファ。

「お気をつけて、我が君」

 去り際に囁くような声だけをジュリーに残す。それを不敵な笑いで見送るジュリー。

「俺には怖いものなんかないさ」

 そう言う彼は、ゆっくりと歩きながら噴水を離れていった。



 一方、王宮の裏に広がる麦畑───

 かなりの広さがあるために、畑の東寄りの場所には作業用の小屋が設置してあった。

 刈り入れ時になれば泊り込む小作人たちがいるだろうが、今は少し季節的に早いため、誰もそばに寄るものはいなかった。

「もうそろそろ夜中になるわね」

 しっとりとした艶のある女の声。

「…………」

 だがカーリーは黙っていた。

 半裸状態の女を抱えたまま小屋の暗闇を見つめている。

「カーリー様?」

 女はカーリーの腕から身体を離すと、彼の顔をのぞきこむ。

「また思い出してるの?」

「…………」

 カーリーは答えない。

 すると、女は恐い表情をしているカーリーに情熱的な口づけをほどこした。

「思い出しなさい。憎しみは忘れるものじゃないわ。増幅させるもの。憎んで憎んで、憎み通すのよ。このサフランが…あなたの忠実なるしもべ四天王の一人であるあなたの愛人サフランが、もっとあなたの憎しみを増大してあげる………」

 そう囁きながら、サフランは裸の身体を官能的にくねらせカーリーの唇をむさぼった。

「……………」

 カーリーはそんなサフランの行為に、半ば反射的にこたえる。

 そして再び肉欲の渦へと戻っていく。

 だが反対に心はここになく、はるか昔へと戻っていくのを彼は心のどこかで感じていた。




「あっちへ行け!」

──ヒュン──

 怒声とともに飛んでくる石。

「いたっ!」

 とたんにカーリーの額から血が吹き出す。

 まだ十才という幼い少年には酷すぎる仕打ちである。

「兄ちゃん!」

 ハッシュドは慌てて自分の手を兄の傷口に押し当てた。

 それでも傷は深いらしく血は止まらない。

「お前らのような汚いガキに食べさせるもんはないんだよっ」

 食堂の親父は唾を吐いた。

「でも、お願い、おネガいします! チョッとだけでもいいです。パン、メグんでください!」

 健気にも、ハッシュドはたどたどしい口調で訴えた。

「それ以上言ったら殺すぞ!」

 今度は包丁を振り上げて怒鳴る親父。

「!」

 ハッシュドは震え上がった。

「いくぞ、ハッシュド」

「で、でも兄ちゃ…」

「行くぞ!」

 血だらけの顔で親父をにらみつける。

「ふ、ふん…さっさと行け」

 親父は、思いのほかカーリーの少年らしくない目にびびったのか、少しひるんだように身を引いた。

 だが、カーリーはそれ以上何も言わず、のろのろと立ち上がった。

 そして、弟に支えられながらその場を離れていった。



「兄ちゃん、だいじょぶ?」

「ああ、大丈夫。心配すんな」

 村外れの川のたもとで、兄弟は仲良く座っていた。

 カーリーは自分の服の袖を引きちぎり、傷ついた頭に巻き付けていた。

 どうやら血は止まったらしい。

「それよりもお前のほうこそ大丈夫か? 腹へってんだろ?」

 カーリーの厳しい目つきが一瞬心配そうに細められた。

 そんな様子はまるで彼の年に似つかわしくない。

「うん。まだヘイキだよ。どうしてもガマンできなくなったら、また草でも虫でも食べればいいよ」

「ハッシュド……」

 カーリーの唇がギュッと結ばれた。

 彼の目には兄を心配させまいとして、健気にも微笑んでいる弟の顔が映っていた。

(オレたちがいったい何をしたってんだ)

 カーリーは川の向こうに広がる麦畑に目を向けた。

 豊かに広がる穂の波はどこまでもずっと続いている。

 ここの地方ではどこでも見られる光景だ。

 主食のパンの原料になる麦は、ここではなくてはならない穀物なのである。

(オレたちには生きる権利はないっていうのか。ちくしょう、お前らの食べるものなんか絶対食べてやるもんか。絶対!)

 さらさらと川の清水は流れゆく。

 さわさわと麦の穂は風に吹かれゆく。

 いつのまにかカーリーは立ち上がり、両手を握りしめ川向こうの麦畑をにらみつけていた。

 そして、それを泣きそうな目で見つめるハッシュド。

 その時!

「あれあれあれぇ───!」

「!」

 甲高い叫び声に二人の子供は飛び上がるほどびっくりした。

 そして振り返る。

「まぁぁぁ───カオ、痛いよ、ソレ」

 そこには大柄な中年の女性が立っていた。

「わわっ……」

 先程まで大人びた表情をしていたカーリーが鉄砲玉をくらったように目を剥きだす。

 その中年女はいきなりカーリーを抱え込むとどこかに連れていこうとしたのだ。

「兄ちゃん!」

 慌てたハッシュドが、自分の身体よりもずいぶん大きな女の身体に取りすがった。

「兄ちゃんをどうする」

「ははは、ダイジョブ、ダイジョブ。ケガ治すよ」

 女は笑いながら歩きだした。

「兄ちゃん!」

「ハッシュド、心配するな」

 カーリーは意外とおとなしくしていた。

 抱えられたままの恰好で、じっとこの大柄な女を見つめている。

 自分たちにとって敵か味方か、子供の持つ本能で嗅ぎ取ったらしい。

 すると女は、おろおろしているばかりの弟ハッシュドの手を掴み、どんどん歩いていってしまった。



 それからしばらくのち───

 カーリーたちは村からずっと離れた一軒の家に連れてこられた。

 家というよりは見るからにただの掘っ建て小屋という感がしないでもなかったが、それでも居心地のよい室内であった。

「さ、食べるアルよ」

 テーブルの上にドンと並べられた異様なもの。

 それは子供たちにとって初めて見るものであった。

「なんだこれ?」

 カーリーは胡散臭そうに見つめたが、ぷんと香り立つ湯気になぜかグググっと腹の虫が鳴った。

 ほかほかと温かそうな湯気が立つそれは三角の形をしていて真っ白だった。目をこらして見ると小さな粒々がくっついて出来上がったもので、窓から射し込む日の光にキラキラと輝いている。

「おにぎり、いうアルよ」

 女はニコニコ顔で言った。

「おにぎ…り?」

 不思議そうな顔でカーリーは呟く。

「あたし、チュウカから来た。国では皆それ食べるアルよ。パンの代わりね」

「チュウカ……」

 だが、すでにもう子供たちの我慢にも限界がきていた。

 兄のカーリーは、それでもおそるおそるその白い物体に手を伸ばす。

 しっとりしたほどよい湿りけが、なぜか食欲をそそる。

 そして、次の瞬間、彼は夢中になってかぶりついていた。そのあとを追う弟ハッシュド。

 二人の子供はあっというまに女の用意してくれた「おにぎり」を食べ尽くしてしまった。

「あたし、アン・ニンいうよ……」

 ようやく人心地ついた子供たちにアン・ニンは香草茶を飲ませながら語り出した。

 その話によると───

 アン・ニンの国はここアフレシア大陸よりずっと東の大陸に栄えるチュウカ帝国であること。

 そして、彼女の夫は商人で、彼女は全国を回る夫についてここの土地にやって来たのだ。

 だが、少し前にその夫が病に倒れ、急死してしまった。彼女はやむなくこの土地に居住することにしたのであったのだ。

「住むとこないアル? なら、ここ住む」

 アン・ニンは屈託のない笑顔でカーリーたちに同居を持ちかける。

 すでに彼ら兄弟も、すっかりこのチュウカ女アン・ニンの人柄に魅せられ、そして彼女の作ってくれた「おにぎり」の味が忘れられなくなってきていたため、一も二もなく承知した。

 そして奇妙な同居生活が始まったのである。

 だが、幸せはそう長くは続かなかった。

 彼らが一緒に暮らしはじめてから一年も経たぬうちに悲しい出来事が起こったのだ。

 ある日、魚釣りから帰ってきた兄弟を迎えたのは荒らされた住居だけだった。

「アン・ニン!」

 カーリーとハッシュドは必死になってあたりを捜し回ったが、どこにも気のいいチュウカ女を見つけることはできなかった。

 村の者にはもとより聞けるはずがなく、二人は途方に暮れてしまった。

 それから何日も彼ら二人はそこで待ったが、結局アン・ニンは戻ってこなかったのである。




「魔族にでもやられちゃったんじゃないの、その人」

 妖艶な微笑みを浮かべながらサフランはそう言った。

 彼女はカーリーの腕を枕にして逞しい裸の胸を指でなぞっている。

「そうともいえる」

 答えるカーリーは、先程までの情熱的な行為などまるでなかったかのように落ちつきはらっていた。

「…………」

 サフランは憎らしげな表情でそんな彼を見つめた。

「アン・ニンは生贄として魔族に捧げられたのだ」

 だが彼は彼女のそんな表情にも気づかないまま、憤りを漂わせてそう言った。

「後でわかったことだが、オレたちを迫害した村は邪神教を信奉する人間たちの村だったんだ。あの日、オレたちが留守にしていた時に彼女はさらわれ、そのまま酷たらしく殺されてしまったらしい。おそらくオレたちもいたら今ここにこうして生きちゃいなかっただろう」

「よかった!」

 サフランは再びカーリーの裸の胸をかき抱いた。

「ああ、愛しのカーリー様! あなたが生きてこの世に存在してくれてよかった。そのアン・ニンって人には悪いけど、彼女の犠牲があったからこそあなたはこうして生きていられるのよ。きっとそうに違いないわ!」

「…………」

 だが、しかし、カーリーは別段感激するふうでもなく、ちらりとサフランを一瞥しただけだった。

 そして、すぐに彼の目は目前の暗闇に向けられる。

 その赤っぽい目は冷たく光り、それこそ世界中を敵に回す覚悟ができているぞとばかりにランランと輝いていた。

(麦なんか食べているから人間は邪教に身を染めてしまうんだ。米を食べればきっと目が覚める。みんなアン・ニンのように……)

 彼の心の中は豪快に笑う優しげなチュウカ生まれの女が住んでいた。

 彼は気づかなかったが、それはもう母親に対する気持ちとしかいいようのないものだった。

 だが、物心ついたときにはもう兄弟ふたりで乞食同然の暮らしを強いられてきた彼であったので、肉親に対する気持ちというものが理解できない。

 彼のその気持ちは紛れもない親に対する気持ちなのである。

 ただ、彼にはそれが愛情であるとは漠然と気づいてはいてもはっきりとどういった感情なのか理解できないのだ。

(絶対この世界から麦を一掃し、米文化を確立させるのだ)

 それは彼の心からの決心であった。

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