大地の神器 外伝集
谷兼天慈
第1話「愛ゆえに人は狂い」
僕は夢を見ているようだった。
どこか暗い場所──祠のようだ──で、あぐらを組んで座っている。
斜め前方両側に僕と同じくらいの女の子が二人同じように座っていた。
目を閉じ、薄暗いので詳しい風貌はよくわからないが、一人は銀色の髪、もう一人は神々しいまでの輝きの金色だった。こんな暗い場所で光も差し込んでこないのに、なぜかはっきりとわかった。
何かを瞑想しているようなそんな二人──
だからというわけでもないけれど、僕もそっと目を閉じた。
二人が何者かはわからない。
だけど、なぜか深い安心感を感じている。
だが───
「?」
僕は何かが動く気配を感じた。
さっきの女の子が動いたのだろうか?
うっすらと目を開けてみる。
「わぁっ!!」
僕は驚愕して、その場から慌てて飛び退った。
そこは、先ほどまでいた祠のようなくらい場所ではなかった。
光───光───光の渦だ。
その光の渦の中に僕はいた。
僕が思わず飛び退ったのは、目の前に女の人がいて、その人が青い目を憎しみにギラギラさせて僕に剣を振り下ろそうとしていたからだ。
「やめないか、スメイル」
僕はギョッとして振り向き叫んだ。
「ナァイブティーアスさんっ!!」
そう、僕の後ろにはあのナァイブティーアスがいた。
そして、今振り下ろされた剣を片手で楽々と受け止め、剣をもぎ取った。
彼の目は、僕の前にいる女性──スメイルに向けられている──スメイル?
ハッとして振り返る。
スメイルといえば──僕の母ではないか。
「母さん…?」
僕は呟いた。
だが、どうやら、彼らには僕が見えていないらしい。
それもそうだろう。これは僕の夢なんだから。
だけど、なんて生々しい夢なんだろう。
それにしても──この人が僕の───
こんな子供の僕でも、この人の美しさは理解できた。
輝く黄金の髪は真中から分けられ、真っ直ぐ長く地面を這うように垂らされている。
秀でた額はまるで大理石のように白く滑らかそうで、キュッと吊り上った眉は、この人がとても意志の強い人であることを教えてくれる。
今は憎しみにギラついた冷え冷えとしたアイス・ブルーの瞳だけど、笑顔になったら、きっとやさしそうな湖の青のような瞳だろうと思わせる。
鼻筋も整っていて、唇も真っ赤な紅を塗ったようだけど、不思議とけばけばしさは感じられない。
この人が僕の母さん──
すると、その母さんであるスメイルが口を開いた。
「貴方は……貴方は、私だけを愛していると言った。あの言葉は嘘だったのか?」
「嘘ではない」
彼の声はとても冷やかだった。
(…………)
こいつはナァイブティーアスじゃない。
僕にはわかる。
彼は──本当の彼はこんな冷たい声はしていなかった。
これは───
「暗黒神イーヴル……」
僕は思わず呟き、この、ナァイブティーアスの姿をした男を見上げた。
僕の──僕の父を───
そう。
イーヴルは光の神の腹心であるナァイブティーアスに化けていた。
そして、母であるスメイルと愛し合ったのだ。
その結晶として僕が生まれた。
今、僕は両親の間に立っているのだ。
「貴方がナァイブティーアスであろうとそうでなかろうと、私にはどうでもよかった。私が唯一愛したのは貴方──どんなに貴方が違う男に変貌しようとも私にはわかる。悠久の昔から私は貴方だけお慕いしていた」
どういうことだろう?
母は知っていた?
自分が愛した男がイーヴルであったと──?
「だから、貴方が私を望んでくれたことをどんなに喜んだか──私もやっと妹たちの気持ちが少しは理解できたと思ったのに───」
「…………」
父は何も答えない。
母と同じアイス・ブルーの瞳。
それはナァイブティーアスのものであり、彼本来の瞳の色ではない。
「紫の闇……」
僕は思い出していた。
初めてイーヴルに相対したとき、吸い込まれそうな闇色の瞳だった。
怖くて──そして、なぜだか懐かしい───紫の色を秘めた闇の黒。
「所詮、貴方は私の姿にお母さまを重ねて見ていただけなのよ!」
母はずっと憎しみをこめて睨みつけていた目を、とたんに涙で潤ませた。
だが、すぐに恥じたのか、再びギリっと睨んだ。
「貴方が愛したのはお母さまだけ。遙か昔からそうだった。そして、今も貴方は忘れていない。人間に身を落としたあの愚かな女を、貴方は今でも愛しているのよ!!」
「スメイルよ」
「!!」
ずっと、黙って母の言葉を聞いていた彼が、身も凍りそうな声で言った。
「スメイルよ。ナァイブティーアスは、真実おまえのことを愛しているぞ」
「ナァイアスではなく、貴方は?」
母は怒りに震える声で言った。だが、消え入りそうなほど細かった。
「少しも愛してはくれなかったと…?」
「我の愛はひとつだけだ」
魂が凍りつきそうなほどの声音だった。
(危険───)
僕は思わず後退った。
なぜかはわからない。
父の声は穏やかだったが、明らかな殺意が感じられた。
無意識のうちに母を庇うように手を広げる。まったくの無意味な行動だとも気づかないまま。
「ナァイアスを愛せたら…どんなに良かっただろう……」
「…………」
僕は後ろを振り返った。
母は両手で顔をおおっていた。
だが、すぐに顔を上げる。泣いてはいなかった。
「しかし…私の愛した人は彼ではなく…貴方だった…」
そして、母は父に指を突きつけ叫んだ。
「貴方は私の……」
と、そのとき───
「わぁぁぁぁ───!!」
突然、僕は暗闇に突き落とされた。
どこまでもどこまでも落ちて行く感覚が離れない──が、意外と早くその感覚から解放された。
いつのまにか、僕はふわふわと闇の中を浮かんでいた。
僕はいったいどうしたんだろう。
母は、父はどこへ───
「息子よ───」
すると、どこからともなく母の声が聞こえてきた。
間違いない、この声はさっき聞いたばかりの母の声だ。
僕はおそるおそる口に出す。
「か……あ、さん……?」
「息子よ。愚かな母を許しておくれ」
母の声はやさしかった。
これが僕の実の母親の声───なんて限りない自愛に満ちた声だろう。
だけど、母は僕を海に捨てた人。
その理由を知りたくて旅に出たんだ。
だから、僕はその疑問をぶつける。
「どうして僕を捨てたのですか?」
一瞬息を飲むような雰囲気が伝わってきた。
ややあっていらえが返ってくる。だが、その声はとても辛そうだった。
「おまえの父を母は心から愛していた。真実の愛だった。おまえが生まれたことを母はどんなに喜んだことか……」
「だったらなぜ……!」
「その母をおまえの父は裏切ったのだ!!」
「!」
僕は絶句した。
激烈な声のほとばしりだった。
真っ暗な空間に、激震が伝わるのを感じる。
そんななか、母は続ける。
「許せなかった。とても許せるものではなかった。そして、そのあまりの憎しみに、おまえまでも憎んでしまいそうになった。おまえには想像もつかないだろうが、母はそれまで憎しみしか抱いたことがなかったのだ。初めて…生まれて初めて人を愛することの素晴らしさを──憎しみから解放される時が来たのだと、そう信じられると思ったのだ」
母の声は悲痛を通り越して、僕の胸を刺すような刺に満ちていた。
「おまえをこの手で殺してしまう前に──まだ正気が保てるうちに、母はおまえを手放したのだ」
「母さん───」
「息子よ」
次の瞬間、母の声は激情にかられたものではなかった。
「忘れないでほしい、息子よ。母は最悪の女神だったかもしれぬが、おまえの母になれたことだけは、たったひとつ誇れることだと」
心に染み渡るほどにやさしい声だった。
こんなやさしい声、美しい声を聞いたことがない。
「そして…伝えられなかった言葉をおまえに今贈ろう。息子よ───愛している……」
僕は、次に語られる言葉を生涯忘れないだろう。
「愛している、愛している……母は、常盤の彼方でおまえをずっと見守っている」
どんどん母の声は離れていこうとしていた。
「母さん……」
「母をこのような悪しき存在にした大いなる御方が恨めしい……息子…よ……」
「母さん!」
僕は一生懸命叫んだ。
「母さん!!」
「いつまでも見つめている───」
「か・あ・さ・ぁぁぁぁぁぁ───ん………」
「母さん!」
「大丈夫?」
「!!」
僕はびっくりした。
目の前に母とは違う女性の顔があったから。
「あ…ああ…ううん…なんでもないよ、リリスさん」
そう。
僕は夢を見ていたんだ。
今心配そうにのぞきこんできている彼女はリリスさん。魔法剣士のリリスさんだ。
「夢をね……夢を見たんだ……」
「ふ~ん」
僕は苦笑した。
彼女の目に好奇の光が輝いたからだ。
こんな目と、こんな声をする時は、必ず何もかも白状させられてしまう。
「あたしにもその夢聞かせてよ」
僕は弱々しく微笑むと、ゆっくり頷いた。
どちらにせよ、あの夢はよく考えてみなければならない内容だった。
本当に父は母を殺したのだろうか。
実のところ、僕には信じられないんだ。
母は──たぶんこの世にはもういないのだろうけど、父に殺されたわけじゃない。なぜかそう思える。
リリスさんに話して、一緒に考えられれば、きっと心のモヤモヤもなくなることだろう。
空にはまだ月が輝く真夜中過ぎ。
森の中、泉のそばで、僕は夢の中の内容をリリスさんに全部話した。
すると、彼女が呟いた。
「愛ゆえに人は狂い、そして神もまた狂気にかられる。愛とは、げに恐ろしきものなり……か…」
「え?」
僕は訝しげにリリスさんのきれいな顔を見つめた。
泉に照り映える月の光が、彼女の目を野生動物の目のようにキラリと光らせている。
「前にね、カスタムさまがそう仰っていたの」
カスタム───死んでしまったという邪神の一人、風の神。
リリスさんと、彼女の親友であったリリンさんを花嫁にしようとしていたという。
「………」
リリスさんの視線が僕の髪に向けられた。
そう。
僕の髪の色は玉虫色の珍しいものらしく、それが風神カスタムと同じなんだとリリスさんが言っていた。
「カスタムさまは殊のほかイーヴルさまを愛しておられたというわ。ご自分でそうおっしゃっていたもの。ご一緒させていただいていたとき、いつもいつも聞かされていた。あの方の愛は確かに本物だったとあたしは思う」
「愛ゆえに……」
僕は呟いた。
愛───それがいったいどういうものなのか、僕にはわからない。
人を愛するってこと、愛しているのに憎むっていうこと───まだ僕は幼くて、それがどういうものか理解できない。
島に残してきた人間の父母は家族として好きだと思う。
だけど、その好きという気持ちとはまた別物なんだろうっていうことだけは、漠然とわかっても、どこがどうって説明ができないんだ。
「あ……」
僕は小さく声を上げた。
リリスさんが、その柔らかい身体で僕をギュッと抱きしめてくれたからだ。
「クリフのお母さまも、イーヴルさまを心の底から愛してらっしゃったのね。だから、愛する人の愛が自分に向けられていないと知ったとき、狂気にかられてしまったんだわ。息子を手にかけてしまいそうなほどに……なんて激しい愛なんでしょう。でも、その気持ちはあたしにはわかる。あたしもまた自分の愛が壊れてしまった時、狂気にかられてしまうだろうって知っているから……」
彼女の手に力がこめられた。
僕はされるままに抱きしめられていた。
リリスさんは僕を好きだと言ってくれた。僕を愛していると。
僕はまだほんの子供で──確かにリリスさんのことは好きだけど、その気持ちが本当に彼女と同じものなのかわからない。
いつか、この愛に応えられる日が来るだろうか。
わからない。
未来のことなど誰にもわからない。
僕が神の子であることさえ、いまだに信じられないのだ。
本当に神としてやっていけるのか、それさえもわからない。
だけど──
(僕の母と父の関係って何だろう)
今はただ、父と母のことをもっと知りたいと思った。
まず、それから理解していけば、きっと未来は開ける───そんな気がした。
そして、父の本当に愛した人──母の母親ってどんな人なんだろう。
僕は知りたい。
いつかその答えがすべてわかる日が来るのだろうか。
考えにふける僕のもとに、月はやさしくその光を投げかけるばかりで、彼は何も答えてはくれない。
そう、まるで父のように、そして母のように───
いつまでも僕と、僕を抱くリリスさんを照らし出しているだけだった。
初出2001年3月14日
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