第7話 九月の夜

九月の初めにちょっとしたイベントがあった。

何のことはない、ボクの誕生日である。

夏休みの山梨旅行が楽しかったので、この日もドライブデートを決行しようということにした。行く先は伊豆である。行き先はボクに任せると言うので、以前から行きたかった爬虫類動物園を目指すことにしたのだ。ユイは多少気味悪がったが、何事も体験ということで出かけることとなった。

東京から伊豆まではおよそ三時間。ドライブとしてはちょうどいい時間かもしれない。

ボクとしては何かにつけてユイを外へ連れ出すきっかけが欲しいのである。

何でも良かったし、どこでも良かったのだが、いいタイミングでボクの誕生日に出くわした。この機会を逃す手はない。

この日は天気もよく、まだ日差しもキツかったが、お出かけには絶好の快晴だった。

途中のサービスエリアで何度か休憩を取り、和やかで楽しいドライブだった。

伊豆に到着しても天気は良く、道路もさほど混んでいなかったので、ボクたちはスムーズに爬虫類館に到着した。

「ボクはワクワクしてるんだけど、ユイはどう?」

「うーん、何だか少し不安。あんまりヘビとか好きじゃないし。」

それでもボクたちは、手をつないで入館する。

着いた時間が丁度お昼ぐらいなので、観覧の前にレストランで昼食をとることにした。

そしてメニューを見た途端、ユイの眉が歪み、目が釣り上がる。

「なにこれ。ワニのカレーとかワニのラーメンとか。これ食べないとダメ?」

「こっちを見てごらん、ハンバーガーもあるよ。ワニだけど。」

それでもボクたちはワニのハンバーガーとワニのカレーを注文し、二人でシェアして食べるのである。

「意外と美味しいね。」

「そうね。大丈夫みたい。」

まあ、お腹が空いていれば、何でも美味しく食べられるってことかな。

空腹が満たされたところで、館内の散策を始める。もちろんボクたちは仲良く手をつないだままで。

さすがに爬虫類館だけあって、展示されている動物は亀だったりトカゲだったりヘビだったり。後はせいぜいカエルやサンショウウオがいるばかり。

「キリンとかライオンはいないのね。」

「うん、そういう動物園だからね。」

途中で亀やトカゲが触れるコーナーがあり、ユイも果敢に挑戦する。

「キャーッ。」って言いながら、恐る恐る触るユイが可愛かった。

さすがにヘビを首に巻いての記念撮影は断念したが、ちょっとは爬虫類にも慣れてくれたかな。まあ、ボクも爬虫類を飼うつもりはないけどね。

あまり広くない建物なので、二時間もあれば十分に館内を満喫できる。

帰りのルートは天城越えだ。折角静岡まで来たのだから、途中の温泉に寄り道しよう。


混浴の温泉は見つからなかったけれど、三島で割りと新しい温泉施設を見つけた。ここなら軽く一時間はゆったりできる。

「じゃあ、一時間後にここで待ち合わせね。」

割りと新しい温泉施設は、ロビーまでは男女共有スペースだ。ちょっとぐらいどっちが早く出てきても、飽きさせない遊具もある。

ボクは元来カラスの行水なのだから、待つのはボクだと決まっているようなものだ。

昼間の明るいうちから入る温泉はなんて心地よいのだろう。

ボクも熱い湯に浸かり、ドライブの疲れを癒すが、湯だまり時間は四十分が限界だった。

つまりは早めに出てユイを待つことになるのである。

売店で冷たいドリンクを買って喉を潤す。マッサージ器が空いていたので、しばらく背中の振動を楽しんだ。

ウトウトしだしたころ、「ポン」と背中を叩かれた。

「お待ちどうさま。」

湯上りで色っぽい湯気をホカホカさせているユイの顔がボクの上から覗いてきた。

ユイもすでにドリンクを手に持っている。さすがにまだビールではなかったけど。

「どうだった?」

「気持ちよかったよ。キョウちゃん、それも代わって。」

そう言ってボクのシートを奪うユイ。女の子は肩こり持ちが多いと聞いている。ユイも気持ちよさげにマッサージ器に体を預ける。うっとりとした表情に思わずキスをしたくなったが、公衆の面前でもあるので、そこは自重した。

「さて、そろそろ帰りますか。」

「うん。」

「楽しんでもらえた?」

「うん。とっても楽しかったわ。ドキドキもしたし。」

「わが愛しのお嬢様に喜んでいただいて光栄の至りです。」

「うふふ。変なの。でもユイ、キョウちゃんの誕生日プレゼント何にも用意してないわ。」

と言いながら、どこで調達してきたのか、可愛い赤いリボンを自分の胸につけて、ニッコリ微笑んだ。

ちょっとドキッとしたが、ボクはユイの手を握り、

「キミの笑顔が一番のプレゼントだよ。」

そんな会話を残して、ボクたちはまたぞろ車に乗り込むのである。

さあ、ここからのドライブは睡魔との闘いになるかもしれない。


道は案外空いていた。ハイウエイはあっという間に神奈川に入り、首都高速に乗らずに川崎でインターを降りる。

そして、あと少しで東京への県境に差し掛かろうというとき、ボクの目線がとある看板に釘付けになった。

ユイもその目線を見ていたようだ。

ボクが「誕生日プレゼント」って言い終わる前に、

「いいよ。いこっ。」

そう言ってくれた。

目線の先、そこにはラブホテルの看板があったのだ。

ボクはこのまま帰ると、またぞろ日常の風景がそぞろ並ぶことを想像していた。

今日の誕生日は特別な日でありたい。そう思ったボクは、ユイと特別な想い出を作りたかったのである。これも些細な願いではあるけれど。

そして入って行ったのは街道沿いのラブホテルである。

最近のホテルは、昔と違っていかがわしい外装の建物は減り、可愛い女の子と一緒でも違和感のないお洒落な雰囲気のホテルばかりだ。

しかも、入り口のパネルをタッチするだけで部屋まで誰にも会わずにチェックインできるあたりが女の子にも優しいシステムになっている。

ボクもできるだけユイが喜ぶような可愛い部屋を選ぼうと思ったのだが、さすがに休日は混んでいると見え、空いている部屋は二つしかなかった。

「ユイ、選択肢は二つ。和風?洋風?」

「じゃあ、洋風。」

ボクたちはパネルの写真で洋風に見えるその部屋をチョイスして、エレヴェータに乗り込んだ。そして部屋の扉を開けて少しびっくり。

その部屋はとってもSMチックな部屋だった。

赤い十字架、銀色に光る鎖、レザーコートの椅子、蒼く彩られたベッド。どれもがかなり生々しい色を呈していた。

「ちょっとだけ悪乗りしてもいい?痛くしないから。」

それらのシチュエーションを見たボクは、ちょっと驚いたけれど、ボクの中の狼の部分がかなりざわついているのに気づいている。

「助けて。」

ユイは、そう言いながらも両手を差し出す。

「痛くなったり、怖くなったら言ってね。」

そう言いながらボクはユイの両手を鎖でつなぐ。更にその手を後ろ手に回して十字架に固定する。最後に目隠しをすれば、とりあえずは完成だ。

目隠しをしたユイは少し震えていて、その震え方がボクの狼の部分を刺激する。

十字架に身を捧げているユイは、それだけでポートレートになりそうな構図なのだが、如何せん、カメラはクルマの中に置いてきた。

ボクは仕方なくシャッターを切ることを諦める代わりに、ユイの衣服のボタンとジッパーを解放していく。

目隠しで見えないユイは、少しおびえながらボクの動作を待ち受けている。

ブラウスを脱がせるときに一瞬だけ鎖を解いたが、ユイは拘束のポーズは崩さずにいてくれる。

やがて、生まれたままの姿になったユイ。彼女の吐息が徐々に乱れて来るのがわかる。ボクも同じように呼吸が乱れる。

その状態でユイの唇とその奥で緊張している女神を陵辱し始める。

自由を束縛された体を撫で回すように唇を這わせる。

ユイの吐息もどんどん荒くなる。

やがて、十字架につながれたままの状態で、身動きのままならない彼女の洞窟への侵入を試みる。ゆっくりと。

甲高い声が漏れ始め、汗ばんだ皮膚が明らかに熱を帯びてくる。幾度か行っては引いてを繰り返し、少しサディスティックな気分を楽しんだ。

次に鎖を解き、レザーの椅子に座らせる。

歯医者で座る椅子のアレンジ版のような椅子だ。

目隠しのままのユイは少し不安げにボクの次の行動を待ち受けている。

その椅子は下方が分娩台のような仕掛けが施してあり、そこに足を乗せると、開脚させた状態で固定が可能となる。

まさに『まな板の上の鯉』といった状態で、手はベルトで拘束されたままである。

「怖くない?」

ときおりユイの機嫌を伺いながら、次の遊びへと進んでいく。

「平気よ。大丈夫よ。」

そう言って強がりなところを見せる。

その部屋にはもっと過激な道具が置いてあったが、そこまでの趣向はないので、シチュエーションだけでボクも十分に満足できる。

準備万端整ったところで、芝居がかった声色を使ってユイの耳元で含み笑いをしてみせた。

「ふふふ。」

「やめて、助けて。」

ボクたちはそれぞれの役になりきって、折角のシチュエーションを楽しんだのである。

「そろそろ我慢ができそうにないな。」

「いやよ、中は止めて。」

その声と同時にボクはユイの中で果てるのであった。

満足な陵辱感を得たボクはユイの戒めを全て解き放ち、ベッドへとエスコートする。

シーツの中で彼女を抱いて、

「大丈夫だった?怖くなかった?」

「だって、キョウちゃんだってわかってるから。」

「忘れられない誕生日プレゼントをありがとう。」

「うん。」

この日はボクにとって本当に忘れられない誕生日となった。

最後のシチュエーションは、ボクにもサプライズだったけどね。



それ以降、ボクたちの毎日は、特に何の波風もなく、ただ平凡に過ぎていた。

けたたましく始まったボクたちの同棲生活も、今はゆったりとした風のように穏やかな日々がボクたちを包んでいた。

ある夜、ボクは『もりや食堂』にいた。

「キョウちゃん、幸せそうだね。最近の顔はやたらニヤけてるよ。」

親方が精一杯ボクをからかう。

「ユイちゃん、よく働いてくれて大助かりだよ。もうこの店の看板娘になってるよ。可愛い看板娘の噂を聞きつけて、遠くから来るお客さんもいるみたいだよ。どうする?」

「で?ユイはどんな対応をしていますか?」

「えらいものだよ。眉一つ動かさないで、『うふふ』って笑って適当に足蹴にしてる。それを見てるだけで。キョウちゃんに惚れてるのがよくわかる。」

「うらやましいなあ。あんな若くてかわいい娘。キョウちゃんの彼女だって?」

とは、となりにいた馴染みの客。

「そうなんだよ。いい娘だろ。キョウちゃんにはもったいないぐらいの。」

女将さんがそう言ってるそばからユイがやってくる。

「何の話をしてるの?」

「ユイが可愛いっていう話さ。」

「ん?」

「ボクは焼きサバ定食とビールをください。」

「はいっ。」

ボクの注文を聞いたユイは。親方に告げに行く。

「ホントにいい子だねえ。私の娘にしたいぐらいだよ。キョウちゃん、早く結婚しちゃいなよ。おばさんが仲人してあげるからさあ。ホントいい娘だよ。あんた家宝もんだよ。」

「そうなんです。ボクにはもったいないぐらいいい娘です。ボクも結婚するつもりでいるんですが、まだ彼女がうんって言ってくれないんですよ。」

「へえ、なんでだろうねえ。」

ボクが女将さんとそんな話をしている間も、ユイは甲斐甲斐しく注文を聞いたり。後片付けをしたり、その働きぶりは女将さんがいうように、それは見ていて惚れ惚れする姿だった。彼女の姿を垣間見ようと訪れる客がいてもおかしくはない。ボクもきっとそういう客の一人になっていただろう。

なんせ彼女は若くてかわいくてスタイルが良い。愛想だけはイマイチそっけないが、またぞろそれが彼女の魅力でもある。

「お前さんに何かが足りないんじゃないのかい?あの娘がウンと言うための何かが。」

「何が足りないんでしょう。女将さん、解ってるんなら教えてください。」

「そんなこと解らないよ。でも、何かが彼女を納得させてないんだろうねえ。」

そんな会話を女将さんとしている間に、ボクの注文した定食が出来上がる。

「お待たせしました、焼きサバ定食です。」

ユイが笑顔でボクのところへ御膳を持ってきた。

「頑張ってるね。よく似合ってるよ。」

「うふふ。」

ユイの笑顔はいつも通りカワイイ。

「ユイちゃん。今日はもういいから、キョウちゃんと一緒にご飯を食べておかえり。今日はおばちゃんの奢りだよ。」

ユイはエプロンをとって。ボクの隣に座る。

「ユイちゃん、何を注文する?」

「じゃあ、アジフライ定食を下さい。」

「女将さん、それとビールね。」

ボクはユイと二人で焼きサバを少しずつつまみながらビールを飲んだ。

すると女将さんがいきなり立ち上がって、店の客に向かって大声で叫んでいた。

「みんな、このかわいいユイちゃんは、ここにいるキョウちゃんの彼女なんだからね。狙ってる馬鹿がいるんならあきらめな。見てごらん、この二人の姿を、お似合いだろ、みんなで二人の幸せを祈っておやり。」

反対側の席で若いお兄ちゃんが「うそだろ。」と呟いて、呆然とした顔をしている。

すると、その隣でとある馴染みの客が立ち上がって、

「キョウちゃん、この娘は女将さんが言うとおりええ娘や。絶対逃がしたらあかんで。」

大阪出身のオッチャンだった。

「ありがとうございます。」

ボクはそう言うしかなかった。

ユイはそれでもただボクを見つめながら「うふふ」って微笑んでいる。

ボクたちの新しい九月は、ほんのりと過ぎていた。



九月も終盤に迫るある金曜日のこと、久しぶりにヒデさんがボクを飲みに誘う。

「おいキョウスケ、お前最近付き合いが悪いぞ。たまには彼女をおいてオレに付き合え。」

「ヒデさん、今は幸せなときなんでそっとしておいてくれませんか。」

「ばかやろう、何カ月そっとしておけば気が済むんだ。もう彼女が引越しして何カ月経った?ぼちぼちお前もオレとの時間を作ってもいいころだろう。そんなに彼女が怖いか?そんなことで結婚した後はどうするつもりだ。男同士の付き合いもあるだろう。」

「でも、彼女に淋しい思いをさせたくないので。」

「だからお前はダメなんだ。お前は優しすぎる。時にはちょっとぐらいガツンと思わせる事も必要なんだぜ。」

「それでヒデさんとこはうまくいってるんですか?」

「んんんんん・・・。もちろんだよ。」

「やっぱり帰ります。ユイとの時間を大切にしたいので。」

そんなボクを無理やり引き止めるように、ヒデさんは強引にボクの袖を引く。

「いいから、今日だけはオレに付き合え。そんなに遅くない時間に帰してやるから。」

今にして思えばそれが間違いだった。無理してでもそれを振り払って帰るべきだった。

が、ボクは先輩の強引な誘いに抗うこともできなかった。ユイの引っ越しの際に世話になった恩もある。

しかたなしに、ボクはユイに電話を入れる。

「ゴメンね。どうしてもヒデさんが付き合えっていうから。でもなるべく早く帰るから。遅くならないうちに帰るから。」

ユイは明るい声で、

「いいよ、ヒデさんのお誘いだったら断れないし、断っちゃダメだよ、ユイは店じまいまでお店の手伝いしてから帰るから。心配しないで。」

これでヒデさんとの飲み会は決定してしまった。


例のごとく焼き鳥とビール。このセットだけは今でも変わらない。

ただ、場所が新宿駅近くの都庁付近だったのが気にかかった。

「最近の生活はどうだ。お前のことだからマメにやってるんだろうな。」

「おかげさまで幸せです。彼女は最高ですよ。」

「キャバ嬢だったんだろ。あっちの方も尽してくれるか?」

「そんな偏見な目で見るなら答えません。彼女は至って普通の女の子です。ボクよりもちょっとばかり経験があるだけ。それでいいじゃないですか。」

「そうだな。お前がそう思ってるんならそれが一番だ。うらやましい限りだ。それはそれとして、このあと行くか?ムーンライトセブン。」

「絶対に行かない。行くんなら先輩独りで行ってください。それだけはどんなことがあっても付き合えません。」

「堅いなあ。それはそれ、これはこれなんだぜ。たまには息抜きの遊びをしなきゃ。」

「お言葉ですが、毎日ユイが息抜きをしてくれています。なんの不満もありません。だからそれは勘弁してください。」

ヒデさんはニッコリ笑ってボクの肩を叩く。

「よかったよ。幸せそうで。ちょっと試してみただけだよ。彼女のこと絶対離すなよ。」

そう言って颯爽と店を立ち去る。もちろん勘定はすでに済ませてある。

ボクは黙って一礼をして先輩と別れた。

あとは、ユイの待つ『もりや食堂』へ行くだけである。

ただ、密かな足音がボクの後をつけていたなんて、その時は思いもしなかった。



やがて高円寺の駅を降りて、『もりや食堂』へ向かう。

「いらっしゃ~い。おっ、キョウちゃんかい、おかえり。ユイちゃん、彼氏が迎えに来てくれたよ。」

親方の呼ぶ声を聴いて、奥にいたユイがボクのところへ駆け寄ってくる。

「おかえりキョウちゃん。楽しかった?」

「ただいま。一秒でも早くユイのところへ帰ってきたかったよ。」

「ヒデさんと一緒だから、セブンに行ったのかと思った。」

それを聞いた女将さんがボクの隣に座って、ボクに問い詰める。

「なんだい、セブンって。いかがわしい店じゃないだろうね。」

「ボクの先輩がよくいく店なんです。きっぱり断ってきましたから。」

するとユイが横から口を挟もうとする。

「あの、私・・・・・・。」

ボクはすぐさまそれを遮って、

「ユイ、もう帰れるんだろ?一緒に帰ろ。それともここで一杯やって帰る?」

「キョウちゃん、私・・・、」

「いいんだってば、おじさん、瓶ビール一本お願い。」

ボクはユイの耳元でそっと呟く。

「そんなことは言わなくてもいいんだよ。」

「だって。」

「いいんだってば。ボクはちゃんと断ってきたんだから。ねっ。」

「うん。」

ボクとユイのひそひそ話に耳をそばだてていた女将さんが茶々を入れに来る。

「なんだい、なんだい、帰ってきていきなりイチャイチャしやがって。親方、ビールだよ、ビール。早く持っておいでよ、あたしも一緒に飲むんだからさ。それと冷蔵庫の漬物持ってきておくれ。」

ボクらの前には親方が女将さんの命令口調で用意してくれたビール二本と漬物とコップが三つ。さては二次会の始まりだ。

「女将さん。いつもユイがお世話になってありがとうございます。女将さんのそばだとボクも安心です。」

「まかしときな。悪い虫がつかないように見張っててやるから。最近、若い客が増えて来たしねえ。店としては大助かりだよ。なあケンちゃん、お前さんだってユイちゃん目当てだよねえ、ヨシオだってそうだって言ってたし、おいそこのシゲもそうだったよね。」

「女将さん、それは内緒の話だって言ってたジャン。」

「そうだよ、しかしお前たちもみんなユイちゃん狙いだったのかよ。」

その辺にいた若い客たちが一斉に不平を漏らしていた。

「若い連中ばかりじゃないよ。茶屋のハスジロウさんや一丁目のタカさんだって、いつもは昼にしか来なかったのに、ユイちゃんが店に出るようになってからは夜も来るようになったからねえ。」

女将さんにかかっては、みんな支配下に置かれているようなものだ。ボクだってそうなのかもしれない。

「頼りにしてますよ女将さん。」

そんなこんなで小一時間をここで過ごしたのだが、その間に微妙な情報が奴らに漏れていることをボクたちは知る由もなかった。


今宵もボクたちはベッドの上でまどろむ。

「今日はヒデさんとのデート、楽しかった?」

「うん。でも早く帰ってきたかったのはホントだよ。」

「セブンに行くのかと思ってた。でも、行ってもいいよ。」

「なんで行ってもいいって言うの?行かないよ。妬いてくれないの?」

ユイがボクの胸にしがみついてくる。

「嫌だけど、そんなこと言える立場じゃない。ユイもそこにいたから。」

ボクはユイの頭をなでながら。

「それはね、過去のことなんだよ。いつまでも気にしてちゃダメだよ。」

「優しいのね。」

「ユイのことが好きだから。」

そしてボクらは、少し酔った体を慰め合うように、次の朝を迎えるのである。



九月は平和だった。平和に過ぎようとしていた。

そろそろ秋の風が吹いてもいいはずなのに、朝夕が少しひんやりするだけで、昼間のうだるような暑さは八月の日中となんら変わりない。

皮膚をなでるように容赦なく流れ出る汗が、残暑の長引くことを示唆していた。

そんなある夜、少し仕事が遅くなったボクは、『もりや食堂』にユイを迎えに行った。

このところ、毎日迎えに行くのが日課のようになっている。

最近は親方や女将さんも、ボクら二人には誰にも内緒で安く定食を提供してくれていた。

しかもユイの分は「賄い食」だからと、いつもロハだ。

ボクが支払うのはわずかな材料費とその日に飲むビール代だけだった。

結局、ボクもユイも帰ってから支度する夕餉の手間が面倒で、その煩わしさからの解放には勝てなかったのである。

だから今宵も二人の夕餉は『もりや食堂』で済ませるのである。

「いつまでも暑いよねえ。」とは親方。

「あんたのせいじゃないけどね。」と女将さん。

ユイは黙ってビールを喉の奥に注ぎこむ。

ボクは麦茶で満足している。

「お前たち、そろそろ次の進展はないのかい。せめて親御さんのところへあいさつに行くとか、職場の上司に紹介するとか。」

すると珍しくユイが口火を切る。

「女将さん、私が待ってもらってるんです。もうちょっとだけ。」

「それは一体なんでだい。」

ユイの代わりにボクが答える。

「あのね、付き合い始めてまだ三ヶ月なんだよ。そんな先走る必要なんかないんだ。」

「ユイちゃんはいいよ。まだ若いから。キョウちゃんはもう三十・・・いくつだっけ?そんなに若いって訳でもないだろ。しかも、こんな若くて可愛い子、早くカタをつけちゃわないと逃げられちまうよ。お前さんのために言ってやってんだ。」

「恩にきますよ、女将さん。ボクもユイに愛想を尽かされないように努力してますから、もうちょっと見守ってやってください。」

「何だか見ていてイライラするねえ。早く結婚しちゃえばいいのに。今のままの二人を見てたら、これ以上のお似合いはないってぐらいだよ。」

「うふふ。女将さん、ありがとう。何だかとっても嬉しい。」

ユイが笑顔で答えた。そしてボクの方に目線を送る。

この時は、何も変化がないことの幸せを実感していたときだったかもしれない。


やがてボクたちは外の風が少し涼しくなってから帰路につく。

そろそろ道端ではコオロギの声が聞こえていた。

店を出て、大通りから少し人影が減った道に差し掛かったころ、一人の男がボクたちの歩みの前に立ちはだかった。

見覚えのあるサングラスの男だった。

ボクはユイの腕を掴み反対方向へ走り出そうとするが、その道には更に二人の男が行く手を阻んでいた。一人は髭の男だった。

そしてもう一人の見覚えのない男がツカツカと歩み寄ってくる。

「ユイ、探したぜ。こんなところに隠れてたとはな。」

おびえるユイがボクの背中に回る。その瞬間、ボクの後ろにいたサングラスの男がユイの体を確保してしまった。

「キョウちゃん、逃げて。」

「ユイ。」

ボクはすぐさま振り返り、ユイを確保したサングラスの男のあとを追う。その瞬間、行く手を阻んでいた二人のうちのどちらかが、鈍器のようなものでボクの後頭部を殴打した。

瞬時に薄れ行く意識・・・・。目の前が真っ暗になった・・・・。



気がつけば、どこかの倉庫の中だった。

ボクは後ろ手に縄で拘束されていた。

「兄ちゃん、気がついたか。兄貴、コイツ気がついたようですぜ。」

サングラスの男が、兄貴分らしき男に報告している。

男はボクに近づき、まずは思い切り殴る。

「うっ。」

その瞬間に聞こえる悲鳴とも言える叫び声。

「やめてえ。その人に手を出さないで。」

ユイだ。

ユイは髭の男に腕をねじ上げられて捕まっている。

サングラスの男が薄ら笑いを浮かべてボクに話しかける。

「なんで居場所がわかったか不思議だろう。」

確かに不思議だ。引越し業者も不動産屋もちゃんと秘密裏に事を運んで来たはずなのに。

「この間、お前さん、都庁付近で飲んでたろ。あのとき偶然オレがお前を見かけたんだ。ま、オレに見つかったのがウンの尽きってとこだな。あれから後をつけてあの店を発見したってわけだ。わかったか。」

そして兄貴分の男がボクの胸ぐらをつかみ、締め上げながら強烈に脅す。

「ユイはな、今でもオレの女だ。返してもらうぜ。」

「ユイはお前さんのところから逃げ出してきたんだろ、その時点でもうお前の彼女ではないはずだ。いい加減にあきらめたらどうなんだ。」

ユイは捕まえられている腕を解こうとして抗いでいる。

兄貴分の男は「パシッ」とユイの頬を平手打ちする。

「やめろ、暴力を奮うな。」

ボクが叫ぶたびに後ろから蹴りが飛んでくる。

ユイが罵声を浴びせながら兄貴分に訴える。

「あなたのそういう暴力的で傲慢なところがイヤなのよ。私は別れてって言ったでしょ。」

「聞いたさ。だけどオレは返事をしてないぜ。」

「もう、あなたと一緒にいることはできないの。あなた達とは違う世界に生きているの、もうほっといてよ。」

その瞬間、兄貴分の顔色が変わった。

「散々オレをコケにしておいてその言い草か。ほっとけだと?ふざけるな。それでオレの気が治まると思ってるのか?」

「わたしが何をしたっていうのよ。あなたのワガママと暴力に耐えられなくて、出て行っただけじゃないの。」

「おかげでオレの面子はボロボロだぜ。」

「誰に対して?他の女に対して?あなたの他の女への面子のためだけに私がいるんじゃないわよ。」

兄貴分はユイにもう一発平手を撃つ。「パシッ。」

「やめろ、弱いものいじめがそんなに楽しいのか、それでも男か!」

今度はツカツカとボクのほうへやってきて、いきなり頬を殴り腹を蹴飛ばす。

間髪いれずにユイが悲鳴を上げる。

「やめてえ、その人は関係ないじゃない。」

兄貴分は再度ユイに近づき、

「オレんとこへ戻ってくるなら、この野郎は無事に帰してやってもいいぜ。」

「ユイ、そんな約束するんじゃない。」

ボクが叫ぶと、ボクの後ろに控えていたサングラスの男がボクを殴る。

「おめーは黙ってろ。」

「いやあ、やめてえ。」ユイの叫び声がボクの耳に届く。

しばらく兄貴分の男がイライラしながら考えを巡らせていたが、思いついたようにユイに近づき、髭の男に命令する。

「しっかり抑えておけよ。」

そう言い放つと、ユイの衣服を強引に剥がし始めた。

「何をする、やめろ。」

「うるさい、黙ってろ。」

サングラスの男がまたボクを蹴り上げる。

「いやあ。」ユイの悲鳴が倉庫内に響く。

その声を無視して、兄貴分の男はユイをほとんど全裸に近い状態にした。

「兄ちゃん、コイツがオレの女だったことを教えてやるよ。見てろ。」

そう言って裸のユイに襲い掛かる。

「イヤ、ヤメテ、イヤよ。」

嫌がるユイの言葉を全て無視して兄貴分はユイの唇を襲う。

そしてズボンを脱ぎ、ヤツの分身をユイにくわえさせる。

「昔はよくこうやってしゃぶってくれたよな。」

「うっ、うっ。」

苦しそうなユイの声が聞こえる。ボクは叫ぶしかできない、「やめろおおおおお。」

その瞬間またぞろ蹴りが飛んでくる。

「兄ちゃん、ちゃんと見てろよ。」

そう言って兄貴分の男は、ユイを犯し始める。

後ろ手に縛られているボクはなす術もなく、目を瞑り視線を他にやるしかなかった。

ユイの叫び声と泣き声だけが響き渡り、ボクの耳を襲撃する。

しばらくするとユイの叫び声が聞こえなくなった。

そっと目を開けてみると、諦めたような呆然とした目線が、どことない空白のどこかを凝視していた。

「やめろおおおっ。」ボクの声も消え入りそうな絶望の声に変わる。

やがて男の憤りをユイに放った兄貴分は、子分たちにもけしかける。

「お前たちも可愛がってやれ。」

その言葉を待っていたかのように、髭の男とサングラスの男がユイの体に群がる。

そしてむさぼるように交互にユイの体を陵辱していく。

ボクはもう目を開ける勇気がなくなっていた。


三人の男たちに順繰りに欲望を果たされたユイは、呆然とするしかなかった。

そして兄貴分は、満足したかのようにボクの前に立ちはだかる。

「こんな女でいいならお前にくれてやる。目の前で三人のけだものに廻された女を愛せるならな、あはははははっ。」

そう言い放つと、もう一度ボクに蹴りを二つ三つほど叩き込んでから、三人は倉庫から出て行った。

あとは静か過ぎる静寂と、薄れ行く意識の中で、ユイの泣き声だけが聞こえていた。


どれぐらい時間が経過したかわからなかった。

そんな中で、わずかながらに自分を取り戻したユイがボクのところに駆け寄ってくる。

「キョウちゃん、大丈夫?ゴメンネ、ゴメンネ。」

それだけ言うと、ボクの体に顔をうずめて泣き始める。

「ボクは大丈夫だ。生きてるよ。それよりもユイの方が酷い目にあった。ユイこそ大丈夫か。」

ユイは、気力を振り絞り、泣きながら、それでもボクの後ろ手に縛られた縄を解いた。

ボクは自分が着ていたシャツを脱いでユイの体を覆う。

「ゴメンよ。ボクが守りきれなかったばっかりに、ユイに辛い思いをさせた。ゴメンよ。」

しっかりとユイの体を抱きしめる。

「キョウちゃん、ゴメンネ。ゴメンネ。」

ボクたちは悔しさに耐え、そしてしばらくの間、抱き合いながら泣いた。

悪夢を振り払うかのように。


その倉庫は割りと近所だった。

しかし、ズタボロ状態のユイを連れて歩いて帰るわけにも行かず、『もりや食堂』の女将に頼んで、信頼できるタクシーを呼んでもらった。訳は詳しく話さずに。

部屋に戻ったユイはシャワールームに駆け込み、ありったけの飛沫を自らに浴びせる。

「えっ、えっ、えっ。」

悔しさを堪えながら、涙を堪えながらの嗚咽だけが聞こえる。

「ゴメンネ、ボクがヘマをしたばっかりに、ユイに辛い思いをさせてしまった。」

ユイは、ぬれた体でボクにしっかりと抱きつき、ボクの胸元で涙を流す。声を上げて泣き叫ぶ。ボクはそれを受け止めるしかない。

「ゴメンねキョウちゃん。私は、やっぱりキョウちゃんに迷惑かけるだけの女だった。」

それだけ言い放つと、またぞろ泣き出す。

ボクたちはシャワーから出ると、その姿のままでベッドに入る。

「キョウちゃん、ユイは汚されちゃった。こんな汚れたユイでも愛してくれるの?」

ボクは黙ってユイを抱きしめる。力の限り。あらん限りの愛をこめて。

元のきっかけはユイにあったのかもしれない。でも、地雷を踏んでしまったのはボクだ。やっぱりあのとき、飲みになんかに行かなければよかった。そうすれば、見つからずに済んだのに。でも、今更言ってもあとの祭りだ。

「ユイ、ボクだってユイの体を汚した一人だよ。もしかしたらボクだって、ヤツラと変わりないことをキミにしでかしてるのかもしれない。それでも悔しかった、辛かったけど、ユイがボクのことを愛してくれるなら、ボクはいつだってキミのそばにいたい。」

そしてボクはユイの唇を求めた。愛しさをこめてユイの唇を求めた。

頬を涙で濡らしながらユイもボクの気持ちに応えてくれた。

今でも耳の奥に残っているユイの叫び声と男たちの咆哮と雄叫び。

胸の奥がはち切れそうだ。

それでもユイのことは愛おしい。汚されたなんて思っていない。いや、汚されたのは事実だが、守れなかった悔しさの方に憤りが激しく震える。

この夜は二人で慰めあうしかなかった。


翌日、ボクは体調不良を理由に会社を休む。

ユイも同じ理由で、『もりや食堂』を休む旨、ボクが電話を入れた。

女将さんは何があったんだと勘ぐりを入れてくるが、ボクは「ゴメン」といっただけで電話を切ってしまった。

それからのボクたちは、朝から二人して呆然と時間を過ごすしかなかった。

まるで昨日のことが幻であったかのような錯覚に陥りながら。いや、幻であって欲しいと願いながら。

それでも現実であることに落胆し、そして互いの存在を確認する。

「キョウちゃん、こんなユイでも、それでも抱いてくれる?」

ボクは溢れる涙が止まらなかった。泣きながらユイを抱いた。できるだけ優しく。これ以上はないだろうと思わんばかりの優しさを込めて。

ユイもボクの体を離さぬように、腕を背中に回し、ずっと力を込めたまま、何かに耐えているかのような表情を見せる。

ユイの本当の心理は図りかねた。三人もの無法者に暴力を持って陵辱された後で、ボクは恋人とはいえ、彼らと同じような行為を行っている。

本当は辛いはずだ。ボクが抱いたからと言って、彼女が「汚された」と思っている痕跡が浄化されるとは思わない。彼女がボクとの行為で悪夢を誤魔化したいだけなら、ボクはあらん限りの力で彼女を救ってあげたいと思った。

それでもボクの悲しみと悔しさは消せるわけではない。心のどこかで、ヤツラに対する復讐の気持ちが芽生えたのなら、この瞬間だっただろう。

ボクはただ、ユイの体をユイの体温を確かめるしかなかった。

ユイも泣いている。ただ、ボクの体にしがみつくようにして泣いている。

今までユイの体を愛してきた中で、一番辛い情交となった。

果てるときも泣きながら果てた。「ゴメンよ、ゴメンよ」と謝りながら。

ユイも「いいのよ、ゴメンねキョウちゃん」といってボクを抱きしめる。


「ユイ、辛かったよね。ボクにはユイが受けた屈辱も辛さもわからないかもしれない。でも忘れよう。ボクも忘れる。今までのユイとこれからのユイも何も変わらない。悪い夢を見ていたと思うことにする。もう、ヤツラも諦めたろう。だって、ユイのことを『くれてやる』って言ったんだから。お願いだから、ねっ。」

ユイは黙ったまま、一応うなずいて見せた。

ボクたちは朝から夕方まで何も口にすることなく、ただ裸のまま抱き合っていた。

互いの吐息を、呼吸を、匂いを確かめるためだけに。目の前にあるユイの唇だけしか見えなかった。

そのうちボクのケータイに電話がかかってきた。

無理やり起き上がって、「誰からだろう」と思い、見てみると『もりや食堂』の女将さんからだった。

昨夜、タクシーを呼んでもらった手前、出ないわけには行かない。

「もしもし。」と言った途端に怒鳴り声が聞こえてきた。

「何をやってんだい、大馬鹿もんが。どうしたんだい、何時になったら連絡をよこすんだい、どんだけ心配してると思ってんだい。」

矢継ぎ早の口撃で、ボクが話すチャンスを与えてくれない。

そのうち声のトーンが急に変わり、涙ぐむような話し声が聞こえてくる。

「なんか言っておくれよ。どこにいるんだよ。早く元気な顔を見せておくれよ。」

「女将さんゴメンよ、心配かけて。後でちゃんと話しに行くから。今はゴメンよ。」

それだけ言って電話を切った。

少しの間をおいて、今度はヒデさんからかかってきた。

「おい、風邪でも引いたか。見舞いには行けないけど、せいぜい彼女に看病してもらえ。」

なんて軽い感じだ。ボクは説明するのも言い訳するのも面倒だったので、「ハイ」とだけ返事をして電話を切った。

しかし、女将さんのところだけは無碍にしておいてはいけない。そう思い立ったボクは、この日のうちに女将さんに会いに行くことにした。

「ユイ、女将さんのところへ行ってくるよ。昨日のお礼も言わなきゃいけないし。なんだったら一緒に行く?それとも留守番してる?」

「今日は会いたくない。お願い、早く帰ってきて。」

それだけを振り絞るように言うと、シーツを頭から被り、ベッドの奥深くへ潜っていった。

「できるだけ早く帰ってくるよ。それと余計なことは話さないようにするから。」

そう言ってボクは身支度を始める。

そして、玄関を出る前に、もう一度キスを求めに行ったが、シーツの中のユイは泣いているかのように小刻みに震えていた。

ボクは黙って玄関を出た。


ボクは女性の心理を理解することはできない。彼女は明らかにレイプされたのだ。しかも複数の輩から。そんな彼女をどうすればメンタル的に救ってあげられるのか。今のボクにはわからない。

ボクにできることは、精一杯の想いで彼女を包んであげることだけだ。

逆に言えばボクにはそれしかできない。

それがどれだけ彼女を支えられるのかは解らないけれど。


数分後、ボクは見慣れた『もりや食堂』の暖簾の前に立っていた。

今日はいつもと違って、この暖簾をくぐるのには、一抹の不安とそれなりの覚悟が必要だった。ボクはどんな不安と覚悟を抱えて、この暖簾をくぐるのだろう。色んな想定をしながらここまで来たが、結局答えは見つからなかった。

仕方なしに、意を決して暖簾をくぐる。

「いらっしゃい。あっ、キョウちゃん。おーい、キョウちゃんが来たぞ。」

奥から女将さんがツカツカとボクの前に来て、いきなりビンタをくれた。

=バシィィィッ!=

間髪いれずに怒鳴り声が頭の上から聞こえる。

「何してたんだよ。何にも連絡をよこさず。ユイちゃんはどうしたんだよ。こっちはこっちで心配してるんだ。連絡の一つぐらいよこしなっ。」

正当な要求である。ましてや、親代わりを自称してくれている二人だ。心配するのは当たり前かもしれない。

しかし、ボクは何から話していいのかわからなかった。

「落ち着け、キョウちゃんだって話すつもりがあるからやって来たんだ。ちゃんと聞いてやれ。キョウちゃんもそこへ座れ。」

親方がボクをテーブルの席に座らせようと声をかける。

「遅くなってすみません。」

連絡しなかったことの謝罪をして、ゆっくりとテーブルに座る。少し間をおいて、ボクは静かに話し始める。

「すみませんが、女将さんだけに話したいんですが・・・。」

ボクがそう呟くと、

「なんでえ、オレだって心配してたんだぞ。」

と親方が口を尖らせて不服をいう。

それでも何かを察した女将さんが、奥の部屋に来るようにとボクを連れて行く。

奥の部屋は、まさに親方と女将さんの住まいである。その内の落ち着いた六畳ほどの和室に通されて、そこに鎮座する。

「さあ、これで話を聞くのはあたしだけだ。訳を話してごらん。」

ボクは思い出したくもないあの出来事について、なるべく順をおって話し始める。

「昨日の晩、ここを出た後にユイの元カレという男が仲間を二人連れて現れて、ボクたちの前に立ちはだかりました。前後に挟まれて、ユイも逃げようとしたんだけど、一瞬の隙をつかれて後ろのヤツに拉致されたんだ。ボクは追いかけたんだけど、今度は前にいたヤツラにぶちのめされて、気がついた時には、縛られて動けなかった。」

ボクはあのときの情景を思い出すだけで涙が出てきた。悔しい、張り裂ける思いと共に、ボクの中で憎しみが燃え上がる。

「アイツらは、ボクだけじゃなくユイにも暴力を奮った。ボクは、『止めろっ』て叫んだんだ。そしたらボクを何度も何度も蹴飛ばして、気が遠くなりそうだった。ボクはそれでもガマンした。それを見てユイが叫んだんだ。そしたら今度、ヤツラはユイを裸にして、よってたかって、ボクの目の前で・・・・・・。」

ボクがそこまで話して歯を食いしばっていると、女将さんが止めに入る。

「もういい。もうそれ以上話さんでいい。もうわかった。」

ボクは肩を震わせて泣いていた。自分の不甲斐無さを思い出して。

「ボクは無力だった。ユイがひどい目に合わされているのに、何にもできなかった。ボクは今度あいつらを見つけたら、殺してやりたいほど憎い。」

女将さんはボクの肩を叩きながら、

「だけどお前さんは、それでもユイちゃんを愛してるんだろ。」

「もちろんだよ、女将さん。あんなのはただの悪い夢だと思えばいい。ボクはそう思ってる。だけど、現実に酷い目にあったのはユイなんだよ。あんな酷い目に・・・。」

「キョウちゃんの気持ちはよくわかる。あたしだっておんなじ気持ちだよ。だけど、早まっちゃいけない。お前さんがやるべきことは復讐じゃない。ユイちゃんを心の底から支えてやるのが、お前さんの一番やるべきことじゃないのかい。お前さんしかいないんじゃないのかい。」

「・・・・・・・・。」ボクは何も言えなかった。

女将さんは、ユイにしばらくの間、店は休んでいいから、また元気な顔を見せてくれるようにボクから伝えて欲しいと言った。


奥の部屋から、女将さんに抱えられるようにして出てきたボクを、親方をはじめとして、そこにいた皆が心配してくれた。

「親方、何にも聞いてやるんじゃないよ。キョウちゃんとユイちゃんの悔しさはあたしが聞いた。それであたしは納得した。もうそれでいいだろ?」

そう言って親方を睨む女将さんの表情が、いつにもなく真剣な顔だったので、親方をはじめとした他の皆も納得せざるを得なかった。

ある程度は想像がついたのかもしれない。


ボクは女将さんと親方に散々励まされて店を出た。

部屋に戻ったボクは、まずユイがちゃんと部屋にいることを確認した。

ユイはベッドの中でただうずくまっていた。

「ただいま、ユイ。起きてる?大丈夫?」

ボクの声を聞いたユイはシーツの中から顔を覗かせる。

頬には涙で濡れた後が見えている。

「女将さんがね、いつでもいいから、元気になったら又顔を見せにおいでって、そう言ってたよ。」

「キョウちゃん。私を彼女にしたこと後悔してない?」

突然ボクを驚かせるようなことを言う。

「何でボクが後悔するの?」

「ユイと暮らし始めてから、キョウちゃんの生活は変わったでしょ。いやな目にも合ったし。だから・・・・・・・。」

「ボクはユイと暮らし始めてから、少し大人になったような気がするんだ。たぶん成長したと思うんだ。だから感謝こそすれ、後悔することなんて思いもよらないよ。」

ユイはボクの胸に顔をうずめて、

「優しいね。こんなユイでよかったら、もう少し一緒にいてくれる?」

「よかった、少しでも前向きなユイが見られて。いつまでもボクの側にいてくれない?」

ユイはボクの首に腕を巻きなおし、たっぷりとやわらかな唇をボクの唇にあわせてきてくれる。あたたかな女神様とともに。

そのままボクたちはベッドの中の模様になっていく。その模様は時間の経過とともに変化し、色までも変えていく。

ボクはもう一度ユイの心から、明るい笑顔とあたたかい想いを引き出したかった。もう一度微笑んで欲しかった。

そしてボクはあらん限りの想いを込める。

「このタイミングで言うべきことじゃないかもしれないけど、結婚しよう。いや、結婚してください。」

ユイは首を振って答える。

「勢いで言うべきことじゃないわよ。今は私のことを哀れに思って、それで言ってるだけなのよ。だから、今の言葉は聞かなかったことにしておくわ。だからね・・・。」

そう言ってボクの首に腕を回して抱きつく。

「ユイ、勢いで言ってるわけじゃないよ。キミのことを守りたい、守り続けたいと思ったのが今なんだ。だから・・・」

その先を言いかけた途端、ユイはくちづけでボクの唇を塞ぐ。

「いいの、ありがとう。でもその話は、今日は聞かなかったことにする。キョウちゃんがいやなわけじゃないの。キョウちゃんがもうちょっと落ち着いてから、ちゃんとしてから聞きたい。」

「わかった。」

それだけ言ってユイを抱きしめる。なぜか涙が溢れてきた。その涙をユイに見せないように、シーツで拭う。

決してボクは感情的になっているつもりはない。女将さんに言われた年齢的にユイほどゆとりがないことも理解している。それを差し引いてもこの愛しき人をずっと守っていきたい、ずっと一緒にいたいと思う気持ちに変わりはないのだが、今はボクよりもはるかに大人の対応をするユイに従うしかなかった。

ボクたちの想いが微妙に交差したまま、この日の夜は更けていく。

そして新たな朝を迎えなければならなかった。


「昨日休んだので、今日は会社に行かなければいけない。ユイは休んでもいいって女将さんに許可はもらっているけど、一人で大丈夫?」

「うん。ありがとう。」

「なるべく早く帰ってくる。」

そう言ってボクは玄関を出た。

朝からヒデさんを始め、色んな人に体調はどうだとか、気分はどうだとか聞かれる。はっきり言って体調は悪くないが、気分は最悪である。誰とも話す気になれない。

ヒデさんも少し心配になったのか、声をかけてくれた。

「おい、何だか顔色が悪いぞ。なんかあったのか?」

「あの、いや、なんでもないです。」

「もしかして、ユイちゃんになんかあったか。またヤツラに見つかったか。」

「・・・・・・・・。」

なんと答えてよいかわからないまま無言を貫くしかなかった。

「ユイちゃんはどこにいる。」

「ボクの部屋にいます。」

「定食屋には行ってるのか。」

「しばらく休みをもらいました。」

「何があったんだ。」

「・・・・・・・・、今は言えません。」

どうしても言葉少なになるボクの返事に気づいたヒデさんは、

「お前は体調が悪い。このままだと仕事に影響が出る。課長にはオレが帰したと行っておくから、今日は帰れ。そして、もうちょっとマシな顔して出て来い。夕方にもう一度連絡してやる。そのときまでに。」

そう言ってボクを事務所から追い出した。

帰り際に、「夜になったら電話する。」そう耳打ちをして。


そこからボクは一目散に走った。急いだ。少しでも早くユイの顔を確認したかった。

部屋の玄関を開けて一目散にベッドに駆け寄る。

そしてユイの所在を確認して安堵する。

「どうしたのこんなに早く。」

「ヒデさんがボクの様子を見て早退するように手引きしてくれたんだ。何も話してないけど、察してくれて。」

途端に、ユイがベッドから起き上がり、ボクに抱きついてきた。

「ゴメン。皆に迷惑かけて。」

そしてボクの胸の中で嗚咽を繰り返しながら泣き始める。

そして一呼吸おいてボクの顔を見上げながら、

「ずっと伏せってても始まらないよね。このままだと、またキョウちゃんに迷惑がかかるばっかり。だから、女将さんのところへ行ってくる。一緒についてきてくれる?」

「うん。もちろんだよ。女将さん、きっと泣いて喜ぶと思うよ。」

そしてそれは現実のこととなるのであった。


二人して覚悟を持って『もりや食堂』へ赴く。いつもとは何かが違う。暖簾をくぐる前にボクたちは互いに目線を合わせて、決心を確認した。

「入るよ。」

「うん。」

引戸を開け、暖簾をくぐり、女将さんを探す。

馴染みの客の間でテーブルを片付けていた女将さんは、すぐさまボクたちの姿を発見して飛んでくる。もちろん、ボクのところではなく、ユイのところへ。

「ユイちゃん。」

それだけ言って、ユイを強く抱きしめる。

「よう頑張って来てくれた。何も言わなくていいんだよ。キョウちゃんだって何も言ってないよ。あたしが勝手に解ったふりしてるだけなんだ。でもいいから、何も言わなくてもいいんだよ。来てくれただけで嬉しいよ。」

「女将さん。心配かけてごめんなさい。」

それだけ言って女将さんの胸の中に泣きながら沈んでいく。

それこそ声を上げて泣いている。

しばらくは気の済むまで泣かせてあげよう。女同士だから許しあえる心があるのかもしれない。ボクではフォローしきれない部分を補ってくれている。

女将さんと懇意になっていて良かった。心からそう思った。

それにしてもこの数日間の間に、ユイはどれほどの涙を流したことだろう。それを思うだけでもボクには決心するところがある。

ひとしきり泣き終えたユイに女将さんが優しく声をかける。

「キョウちゃんは優しくしてくれたかい。」

「うん。とっても。申し訳ないぐらいに。」

「馬鹿だねえ。そんなときは思いっきり甘えてやるんだよ。そうすれば男なんてイチコロなんだから。」

「はい。」

「キョウちゃん、いやキョウスケ、ちょっとおいで。」

命令口調で女将さんに呼ばれてノコノコと近づいていくと、今度はいきなりボクに抱きついてきた。

「お前さんもよく頑張ったよ。いい男になったな。なんでお前さんがあたしの息子じゃないんだい、悔しいねえ。」

女将さんには息子がいない。娘が三人いたが、とっくに他家に嫁いでいた。

「今日はよく来てくれた。お腹空いてないかい。今夜は何でもおばさんがごちそうしてやるよ。」

それを聞いて急にボクたちのお腹が鳴り出した。

「そういえば、昨日も今日も何も食べてなかったな。気づかなかったよ。」

「うふふ。」

「なんか食べる?食べられる?」

「うん。」

「やわらかいものにしような。でもスタミナもつけないとな。」

「うふふ。」

そんな様子を見ていた女将さんが、店の中にいる人々に聞こえるような大きな声で、

「みんな見たかい、この二人を。仲睦まじいってのはこういうのを言うんだよ。」

ボクたちは揃って赤面するしかない。

「あたしゃねえ、この二人を見てると、年の差なんて絶対に関係ないと思うね。しかも、それにはできた女じゃなきゃいけない。ユイちゃんはお手本みたいなもんだ。」

「あのお、女将さん。ボクはハンバーグ定食を、ユイには出し巻き定食を。」

「うるさいね、今お前さんたちの宣伝をしてやってるんじゃないか。黙って聞きな。」

もうこうなったら、最後まで女将さんの講釈を聞き終わるまで、ボクたちはひな壇に上げられたまま硬直するしかないだろう。

「いいかい、キョウちゃんがしっかりさえしていれば、この娘は大丈夫だ。ちゃんとお前さんの後ろをついていくよ。」

すると馴染みのお客さんが合いの手を入れてくれる。

「女将さん、そろそろ二人になんか食べさせてやんなよ。」

女将さんも諦めて注文を親方に伝える。

「親方、ハンバーグと出し巻きね、ユイちゃんとキョウちゃんのだから、たっぷりサービスしてやりな。」

「キョウスケ、食べる前にこっちへ来て皆の前であたしに誓いな。ずっとユイちゃんのことを大事にしますって。皆が証人だよ。」

「誓います。ボクが誓うっていうことを忘れないで下さい。ユイ、キミもおいで。」

女将さんのそばに立っているボクのところにユイを呼び寄せる。

「ボクはユイを愛しています。一生大事にすることを誓います。」

そう言って唇に軽くキスをした。

店内にいた人が一斉にボクたちに拍手を浴びせてくれた。

ようやく納得してくれた女将さんは、ボクたちを席に座らせ、親方に注文を追加する。

「親方、ポテトサラダ追加ね。あとヒジキもつけてやんな。」

「あいよ。キョウちゃんもユイちゃんも、これがコイツの精一杯の愛情なんだ。今日みたいなときは、いつもよりゆっくりしていってよ。」

親方の言葉を聴いた瞬間、女将さんはボクたち二人を抱くようにして涙ぐむ。

「よおく帰ってきてくれたね。よく帰ってきてくれたよ。」

ユイを見ると、その目からはやはり涙がこぼれていた。

ボクたちは女将さんの優しさを忘れない。


やがて運ばれてきたハンバーグと出し巻きは、空腹を忘れていたボクたちのお腹を十分に温めてくれた。

女将さんのあたたかい優しさに包まれて。

ボクはユイに聞いてみる。

「今日は来てよかったよね。」

「うん。」

「もう、泣かないでね。ユイの涙をこれ以上見たくないから。」

「うん。ゴメンね。」

「よかった。ユイの元気な顔が見られて。」

本当によかった。これでユイも元気になるだろう。

あとはちゃんとプロポーズできるように頑張ろう。

そう思った九月の昼下がりだった。


ゆっくりめのランチをゆっくりといただき、ゆったりとした時間を過ごした。

さすがに昼時をそこそこ過ぎると、馴染みの客も姿を消す。

テーブルには、ボクとユイと女将さんだけが残された。

「ユイちゃん。辛いことがあったら、キョウちゃんにも話せないことがあったら、なんでもおばちゃんに相談するんだよ。わかったね。」

「はい。」

「女将さん、よろしくお願いします。」

ボクが頭を下げたタイミングで、ヒデさんから電話が入ったので、二人から少しはなれたところで電話に出る。

「キョウスケ、どこにいる?今から部屋に行こうと思っているが、大丈夫か?」

「わかりました。今出かけてますが、すぐに戻ります。」

そう言って電話を切る。

「ユイ、ヒデさんが来るらしいから部屋に戻るけど、どうする?」

「ゴメン、もうちょっと女将さんと話をしてから帰る。」

「早く終わったら迎えに来ますので、それまで女将さんよろしくお願いします。」

「まかしときな。キョウちゃんが遅くなるようなら、おばさんが送っていってやるから。」

その言葉を聞いてから、ボクは一旦部屋に戻ることにした。

ボクが店を出た後で、ユイと女将さんとの間で密談が交わされていたことを後になって知らされたが、そのときはユイの笑顔が戻って来たことで安心していた。


部屋に戻ったボクは、簡単に片づけをしてヒデさんを待ち受けていた。

やがて呼び鈴が鳴り、ヒデさんが顔を出す。

あいさつもそこそこに中へ招き入れると、ユイがいないのに気づく。

「ユイちゃんはどうした。大丈夫なのか。」

「はい、今は定食屋の女将さんのところにいます。後で迎えに行きますが、それまでは女将さんと話がしたいようだったので。」

「無事ならそれでいいが。で、見つかっちまったのか。」

「いえ、大丈夫です。何でもありません。」

「キョウスケ、そろそろ引越しも考えた方がいいぞ。それをきっかけにいっそのこと結婚してしまえよ。それを言いに来たんだ。」

「ボクもいずれはと思っています。引越しも結婚も。なるべく早く進めようかと思っています。」

「そうか、それを聞いて安心した。通勤は大変になるかもしれんが、新宿を通らない沿線がいいだろうな。また、一緒に探してやるよ。」

「それは助かりますが、ヒデさん今の時間はまだ仕事中じゃないですか。」

「ああ、今からK商事に行くところだ。オレも帰りにその食堂へ寄ってみようかな。その女将さんにも会ってみたいし。」

ボクの歯切れの悪い対応に気を使ってくれたのだが、ユイが会いたくないといったときの対応を考えておかねばならなかった。


ヒデさんは仕事の途中だったといってくれたが、K商事の仕事はムリクリ作ってくれたのだろう。心配してくれている先輩に、まだ全てを話せないことは後ろめたいが、まだその時期ではないと思う。


ヒデさんを送り出して、再びボクは『もりや食堂』へ出向いた。

ユイは割烹着姿で、女将さんと一緒に甲斐甲斐しく働いていた。

「ただいま。っておかしいか。」

「おかえり、キョウちゃん。」

久しぶりの笑い声だ。思わず胸が熱くなる。

「ユイ。」涙が出そうで声が出ない。

「キョウちゃん。心配かけたね。ゴメンね。」

「ううん、いいんだ。ユイが元気にさえなってくれたら。どうする?帰る?それとももう少しいる?」

「折角、女将さんが元気をくれたんだから、もう少し恩返しする。」

「うん、それがいいよ。じゃあ店員さん、ボクにビールと煮込みと野菜炒めを下さい。」

「はい。親方、ビールと煮込みと野菜炒めでーす。」

ユイが注文を奥へ伝えると、奥からは親方の声が聞こえてくる。

「あいよー。」

すると、手の空いた女将さんがボクの隣にするすると寄ってきて、

「キョウちゃん。さっきユイちゃんと話しをしてたんだけどね。」

と話しかけると、ユイが駆け寄ってきて女将さんの袖を引っ張り、「女将さん。」といって唇を噛む。

女将さんは、なだめるようにユイの肩を叩き、

「わかってるよ。心配しなさんな。」といって、ユイに微笑を返す。

ユイも納得したように、元の仕事へ戻る。

「キョウちゃん、いつかそっと一人でおいで。大事な話がある。急がないし、悪い話じゃないから安心しな。」

それだけ言ってボクのそばから離れた。

何だか意味深な感じで少し不安になる。

それでも、悪い話じゃないって言うのだから、そこは女将さんを信用しよう。

「ユイちゃん、もういいから。その割烹着とかも脱いで、キョウちゃんと一緒にご飯食べな。そんなに慌てて仕事に戻んなくても大丈夫だよ。」

「はーい。」

ユイの返事はいつもどおり短い。なんだかいつもの時間に戻ったような気がする。

割烹着を脱ぐ前に、ボクが注文したビールと煮込みと野菜炒めを運んできて、

「お待ちどうさまでした。うふふ。」

その笑顔を待っていた。

丁度そのタイミングで、ヒデさんから電話が入る。

「今から向かうけど、まだいるか?」

「丁度今からビールの栓を抜くとこですよ。」

「十分で着くから待ってろ。」

と言って電話が切れる。そして十分どころか、五~六分でヒデさんが暖簾をくぐって入ってきた。もしかして走ってきたのかな。

「はあはあはあ。」息も途切れ途切れだ。

「とりあえずビール。」ユイがコップを取りに行く。

仕事に区切りをつけたユイも割烹着を脱いでボクの隣に座ってきた。

「ユイちゃん、キミの笑顔が最高のアテになりそうだな。結局オレには何が何だかわからないけど、どうやら解決したようだな。よかったよかった。」

「ヒデさん、心配かけてすみませんでした。また明日からちゃんと会社へ行きます。」

「そうだな。彼女のためにも頑張らないとな。」

ユイは「うふふ。」と笑ってから、

「ありがとうございます。」と礼を述べる。

ボクは隣にやってきた女将さんにヒデさんを紹介すると、丁寧に挨拶をしてくれた。

女将さんとヒデさんとの接点が、後々ボクにとって非常に重要な意味を持つことになるのであった。

ボクたちは、親方と女将さんの温かい好意とヒデさんの思いやりを受けて立ち直ることができた。そして、笑顔で部屋に帰ることができるのである。

「何かあるといけないから。」といって、ヒデさんが部屋まで送ってくれる。

部屋に着いて、少し上がっていくように誘ったが、今日は遅いからという理由で、玄関先で別れた。別れ際に、「また明日な。」とだけ言い残して。


二人だけになったボクたちは、部屋でゆっくりと抱擁を堪能する。

互いの温もりを再確認するかのように。

「ボクたちはみんなから応援されてるんだね。ボクはもっと頑張るよ。」

「うふふ。」

「明日から、またいつもの生活に戻れるよね。」

「うん。」

暗い、大きな影を落とした事件であったが、とりあえずユイの笑顔と元気な姿を取り戻せた。あとは何事もなかったかのように、ボクがしっかりすればいいだけだ。

そう思っていた。



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