第8話 十月の夜
あれからボクたちは、確かに何もなかったかのような毎日を過ごせた。
あの元カレたちも、あれ以降音沙汰もなく、あきらめてくれたようだ。
しかし、ユイのテンションが特別上がるわけもなく、毎日をただゴロゴロと暇を持て余すように過ごしていた。
今夜もボクたちの姿は『もりや食堂』にあった。
「ただいま。」
もうこのあいさつが当たり前のようになってきた。
「おかえり。」
ユイも当たり前のように迎えてくれる。
女将さんが奥から寄ってきて注文を取りに来る。そしていつもと違うボクの雰囲気にいち早く気付く。
「今日は飲むのかい。おや、今日はどうしたんだい。やけにニヤケてるじゃないか。」
「そんなことないよ。いつもと同じだよ。」
女将さんは奥でお茶の用意をしていたユイを呼びつける。
「ユイちゃん、ちょっとおいで。」
「はーい。」
呼ばれて女将さんの前に立つユイも、キョトンとしたままでボクの顔を見ている。
「ユイちゃん、今朝の出がけになんかなかったかい。今日のキョウちゃんはちょっと雰囲気がおかしいよ。怪しいともいえるかな。」
「女将さん。何にもないよ。勘ぐり過ぎだよ。とりあえずビールとアジフライ定食ね。」
「ほら見ろ、おかしいだろ。それはいつもユイちゃんが食べる定食だよ。なんで今日はお前さんがアジフライなんだい。」
「ボクがアジフライを食べちゃおかしいですか。」
「おかしいねえ。あたしの記憶に間違いが無けりゃ、ユイちゃんがここでアジフライ定食を注文して以来、お前さんはそれだけは注文したことがなかった。なんで覚えてるかっていうと、いつになったら二人で同じものを食べるんだろうなとずっと思ってたからさ。」
すごいことを覚えているものだな。そしてすごいことを観察しているんだなと思った。
「でも、今は特に何もないです。ユイもそろそろ解放してもらえますか。」
「いいけどねえ。」
そう言って女将さんはユイにそっと耳打ちしている。
後で聞いたところによると。「帰ってから何かあるかもよ」って言われたらしい。
女の人は恐ろしいね。
割烹着を脱いでボクの向かいの席に陣取ったユイは、今日は野菜炒め定食を注文した。
それをみた女将さんが、ボクたち二人に向かって、再度勘繰りを入れてくる。
「やい、お前たち。あたしに内緒でなんかあったな。あったんだろう。注文している定食がまるでいつもの逆じゃないか。」
ユイも「うふふ。」と笑っただけで、あとは沈黙を保つ。
「ユイが野菜炒めを注文するのはボクも驚きです。猫が野菜をバリバリ食べるなんて聞いたことがないですからね。」
「なんだい、猫っていうのは。」
「ユイはね。猫なんです。月の灯りを見上げて『にゃ~オ』と鳴く猫なんですよ。」
すると隣にいた常連さんが。ボクの見立てに賛同する。
「そういや、ユイちゃんって猫っぽいね。キョウちゃん上手いこと言うね。」
女将さんはユイのことをジロジロと見ながら、
「そういや、しなしな動く仕草は猫っちゃ猫かね。まあ確かに犬じゃないねえ。」
「そうでしょ。だから野菜炒めは似合わないんですよ。」
するとユイが少しはにかんだ様子で、
「だって、今日はキョウちゃんがアジフライ頼んでるからユイは違うものにしようと思ったら、これしか思いつかなくて。」
すると女将さんは、呆れた顔で。
「ちぇっ、結局お前さんたちのノロケ話になるだけなのかい。親方あ、キョウちゃんのアジフライのあとはユイちゃんの野菜炒めね。どっちのがどっちのでもいいらしいよ。馬鹿みたいだね。はははは。」
そう笑って女将さんは奥へと姿を消す。
それを見てボクはユイに耳打ちをする。
「帰ったら報告しておきたいことがあるんだ。」
「えっ。」驚いたような顔をするユイ。
「大丈夫。悪い話じゃないから。帰ってからゆっくりとね。」
ちょっと含みを持たせた言い方をして止めた。
あとは二人でいつもの定食をいつものペースでビールと共に満たしていった。
そろそろ夜風が肌寒い。
肩を寄せ合い温めあって歩くのが丁度いい。
部屋に着くとボクは、リビングにユイを座らせる。
「今度ね、ちょっとしたボーナスが出るんだ。」
「よかったね。どうしたの、いい仕事ができたの?」
ボクは黙って首を振る。
「ユイには内緒だったんだけど、写真コンテストに応募したんだ。そしたら入賞しちゃって、賞金が出るんだ。残念ながら一等賞とかじゃないけどね。」
少しユイの顔が曇る。
「それってもしかして私の写真?それは止めてねって言ってたよね。」
「そうだよ。でも後姿だし、それにヌードでもないし、最高の出来栄えだったんだ。だから、黙って応募しちゃった。ゴメンね。でも入賞したぐらいだし、やっぱりよかったんだよ。来月発刊される『フォトグラフ』っていう本にも掲載されるんだ。」
「ユイの顔、わからない?」
「うん、顔は隠れているから絶対大丈夫だよ。」
「何だか恥ずかしい。でも、よかったね。」
笑顔で喜んでくれるユイ。
「一番最初にユイだけに伝えたかったんだ。ユイという最高のモデルさんのおかげだし、二人だけで喜びたかったし。」
「うふふ。」
と微笑んで、ボクの首に腕を巻きつけてキスを浴びせてくれる。
その唇を充分に楽しんだ後、ユイの体を少し離して、
「そこでね。このボーナスを使って引越しをしようと思うんだ。時期は、年明け早々ってところでどうだろう。」
ユイは、ちょっと心配そうな顔をしてボクに尋ねる。
「あんまり遠くに行かないよね。食堂の女将さんから離れたくない。まだ恩返しできてないし。」
「大丈夫、折角できた絆だから、大事にしたいと思ってるよ。」
新たな旅立ちのきっかけとなるだろう。ボクはそう思っていた。
「それとね、これ。」
ボクはカバンの中から小さな小箱を出して、ユイに手渡した。
「何これ?」
「入賞の記念に。えーと、モデル料みたいなものかな。」
「ん?開けてもいい?」
「うん、開けてみてよ。」
小箱の中には猫をかたどったイヤリングが入っている。
「高いものじゃないんだ。でもきっと表彰式があるだろうから、そのときにつけてくれたらうれしいなと思って。」
「うふふ。ありがとう。これをつけてキョウちゃんの晴れ姿を見に行くわ。」
そう言って耳につけて見せてくれる。
「似合う?」
一瞬見とれるボク。その姿はたとえようのないぐらい美しい。ボクは思わず部屋の灯りを消した。そして窓辺にユイを立たせて月明かりに照らし、その美しさに魅入られていた。その姿をファインダーの中に納めるとボクは満足気にユイを抱きしめた。
ちょっとしたトピックスがあった十月。
台風のピークも過ぎ去り、そろそろ木枯らしを迎える季節。
それでもボクたちは、この夜も真夏のような熱い抱擁で互いを確認しあっていた。
翌日、いつものように仕事が終わって食堂にユイを迎えに行く。
いきなり親方と女将さんが奥から走りよってきて、ボクに握手を求めた。
「キョウちゃん、おめでとう。入賞したんだって。」
ユイがすでに報告しているらしい。
「女将さんがね。昨日のおかしな雰囲気はなんだったのって、ずっと聞かれてて、悪い話じゃないと思ったから、言っちゃった。ゴメンね。」
と言って上目遣いでボクを見上げる顔も、いつもながら可愛い。
「いいよ。悪い話じゃないんだし、ユイがモデルなんだから、女将さんに報告する権利はユイにもあるさ。どうせ、今日は話そうと思ってたし、手間が省けたよ。」
「うふふ。」
相変わらず微笑みは女神級だ。
「それにしてもキョウちゃん、やっぱりモデルがよかったんだろうね。今まで何度も挑戦したのに全然ダメだったもんね。」
「どうせそうですよ。ボクの腕なんてたいしたことないですよ。」
とすねて見せたが、隣にいた常連客が追い討ちをかける。
「今回の入賞ポイントはモデル八割腕二割ってとこかな。」
すると親方は、
「いやいや、モデル九割腕一割だよ。ユイちゃんだよモデルは。この娘がモデルなら、オレでも入賞できそうだ。」
するとユイは、黙ってボクの隣に来て、ボクの耳元でささやく。
「そんなことないよ。」って。
ボクとしてはどっちでもよかったので、
「いいさ、ユイがモデルで入賞したのは間違いないんだから。ボクもユイがモデルだったからこそ入賞できたと思ってるよ。」
ユイはボクの返事を聞いてただニッコリと微笑むだけだった。その笑顔こそが、今回の入賞の最大のポテンシャルだったと思っている。
「ところで写真家さん、座るの?座らないの?」
びっくりして後ろを振り向くと、女将さんがコップに水を汲んで立っていた。
「もちろん座りますよ。今日はおめでたいので、とんかつ定食とビールを下さい。」
「おう、奮発したねえ。ユイちゃん、もういいからキョウちゃんと一緒にお座り。」
女将さんがユイを呼ぶ声は、ボクのときと違って妙に優しい。
「ユイちゃんはなににする?」
「じゃあ今日は秋刀魚定食にしよっかな。」
「親方あ、とんかつと秋刀魚ね。」
厨房の親方へ注文を叫ぶ。
「ところで、その写真ていうのはいつ見られるんだい。」
「来月の第二土曜日に表彰式があるんですが、そのときが一番早いかな。あとは雑誌が来月末に出るので、次はそれかな。」
「お前さんが現像したのはないのかい。」
「今は手元にないです。ちがうポーズの写真ならあるけど、あれだけは全然違うんだ。斜め後ろからとったポーズで、ちょうど月をじゃれる手と腕がユイの目線を隠している絶好のタイミングで撮れた写真なんだ。」
すると隣の常連客が、
「そ、それはヌードじゃないのかい。」
途端にその常連客は女将さんから叩かれる。
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。キョウちゃんがそんな写真をコンクールに出すわけがないじゃないか。」
「でもあったら見たいよなあ。」
その隣にいた客も調子を合わせてきた。
「ないよ。」とボクは言い切った。
ホントはあるんだけど、それはボクだけの宝物。ユイとそう約束したもの。誰にも見せない。そう誓ったのだから。
そうこうしているうちに、親方がボクたちの膳を運んできた。
「オレもぜひ見てみたいよ、ユイちゃんのヌード。一生の宝物にするからさあ。」
途端に女将さんからゲンコツが飛んでくる。
「親方、ないものはないです。これからも撮る予定はないです。ボクの写真を見てもらえれば、ヌードの写真よりもずっとステキに撮れているのがわかります。ボクの渾身の作品なんです。」
みんなが静まり返ったところを見計らって、女将さんがボクにたずねる。
「ところで、入賞の賞金っていくらなんだい。」
意外とみんなが知りたがっていることはそれかもしれない。
「素人ばかりのコンクールだから、入賞でも十万円だよ。それ以上もそれ以下もない。全部で十点選ばれるんだ。その十点の順位はつけないっていう方式さ。」
「まあでもたいしたもんだ。モデルがいいとはいえ、あとのエッセンスがなけりゃここまではこれないんだろうからね。」
「女将さん、そろそろ素直に喜んでやってくださいよ。」
「バカ、あたしの最高の愛情表現じゃないか。」
言ってるそばから涙ぐむ女将さん。
「お祝いだ、今日もあたしにおごらせな。親方あ、ビールもう一本もっといで。」
ボクらは女将さんもテーブルに招待して、三人で喜びを分かち合った。
あの、最悪な事件以来、久しぶりに明るい話題で盛り上がった夜だった。
今夜は月がきれいだ。
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