第5話 七月の夜

その前日はボクの部屋の片付け最終日でおおわらわ。

その前の週の土曜日から少しずつ片付けてはいたものの、狭い部屋だからユイの荷物が来るとなると、ボクの要らないものリストを最大限広げていかねばならなかった。

いかがわしい本やビデオは、この際に全てをヒデさんに贈呈し、イケてない服や靴はユイのセンスで廃棄してもらった。

ビールグラスのコレクションだけは残してもらって、あとの小物は綺麗さっぱり諦めることとした。おかげで1LDKのワンルーム分のほとんどは、ユイの荷物が収まる広さを確保できた。

元々ボクは荷物が少ない方だったし、面倒臭がりについてはボクと引けをとらないユイにおいても然程の変わりはないぐらいの荷物だった。

家具や電化製品はのほとんどは、引っ越し業者にその処分をお願いしたが、電子レンジだけはボクの古いオンボロ電子レンジと交換することにした。二人揃って割とめんどくさがりのカップルには、電子レンジは性能がよいのが嬉しいに決まっている。

あとは掃除機をかけて、むき出しになっているベッドの乱れを整えて、引っ越しの朝を迎える予行演習は終了である。

「ようやく本格的に二人暮らしが始まるんだね。」

「ごめんね、面倒なのが転がり込んできて。本当に申し訳ないと思ってる。」

「ホントに面倒な猫を拾ってきた感じかも。その代わりボクはそれ以上に素晴らしい恋人を手に入れることができたよ。ユイ、もう一度確認するけど、ボクの恋人になってくれるんだよね。」

「私でいいの?ホントにいいの?私でいいなら、喜んでキョウちゃんの恋人になるわ。」

その瞬間、ボクはユイを抱きしめていた。軽くキスだけして、

「夕飯食べにいこっ。せっかく片付けたのに、キッチンとはいえ、散らかるのはイヤだし、片付けも面倒だから、ねっ。」

「うん。でも、これからは節約してつつましい生活をしないとね。ユイも仕事を探す。前みたいなエッチじゃない仕事を。」

「それはお願いするよ。ボクも一緒に新しい仕事を探してあげる。」

そしてボクたちは手をつないで玄関を出る。

近隣には商店街もあるし、二人で食事ができるところは迷うほどある。

中でも、昔からボクが通っていた定食屋があり、そこの老夫婦とはかなりの馴染みになっていた。

「かなり以前から馴染みの定食屋があるんだけど、そこでもいい?あんまりそんなとこ行かないだろけど。」

「別に構わないよ。ユイだって行くよ、定食屋さん。アジフライ定食大好きよ。」

アジフライとはいいイメージだ。まさに猫と魚。とあるアニメの歌が思い出される。『お魚くわえたのら猫・・・・』ってね。

「よかった。そこのおじさんとおばさんがボクと懇意でね、いろいろサービスとかもしてくれるんだ。今日は行ったら、ちゃんと紹介するから。」

「なんだか緊張してきたわ。キョウちゃんのお父さんやお母さんに会うみたい。」

ボクの手を握っている手に力が入っている。緊張しているのは本当みたいだ。

「何なら予行演習だと思えばいいんじゃない。いずれボクもキミのご両親に挨拶に行くことになるだろうし。」

「えっ?」

ユイは驚いたような顔をしてボクを見つめる。

ボクはドキドキしながらも、自分を落ち着かせてユイに言い聞かせる。

「ちゃんと責任は取るつもりでいるから、いずれちゃんとプロポーズできるように頑張るから、できるだけ早くするから。応援してね。」

「キョウちゃん。そう思ってくれてるだけで嬉しいわ。」

やがて見慣れた店構えと暖簾が見えてきた。

『もりや食堂』

それがボクの馴染みの定食屋の名前である。

「こんばんは。」

「いらっしゃあい。ん?おや?今日はお客さん連れかい?」

店内で配膳と片づけをしていた女将さんが、ボクの隣にいるユイを見つけて、興味深そうにボクに近づいてきた。

「キョウちゃん、今日はどこのお嬢さんの付き人だよ。そんな綺麗なお客さんをこんな小汚い店に連れてくるんじゃないよ。ちっとは考えな。お前さんも営業が下手だねえ、ねえお嬢さん。」

ユイはその会話を聞いて、ただ「うふふ。」と笑っただけで澄ましている。

「いいんだ。この人はボクのいい人なんだ。明日から一緒に住むことになったから、親方と女将さんに紹介するために来たんだ。」

女将さんの話を耳にして親方が奥から顔を覗かせる。

「なんだなんだ、誰がどうしたって?」

厨房から親方も野次馬よろしく駆け寄ってくる。

「キョウちゃん、こんな若くて可愛い子が、誰のいい人だって?ほんでもって誰と一緒に住むんだって?」

「ちゃんと聞いてね。明日からボクと一緒に住むことになったカワシマユイちゃんです。よろしくお願いします。」

ユイも緊張した面持ちで、親方と女将さんの前に立ち、

「カワシマユイです。こんどキョウスケさんところにお世話になることになりました。よろしくお願いします。」

「よくできました。」

そう言ってボクはユイの頭をなでる。

「へえ、キョウちゃんみたいなボンクラの男に、こんな可愛いお嬢さんが来てくれるなんて、世の中不公平だなあ。」

と親方がぼやく。

「お前さんみたいなマヌケにあたしがついているみたいなもんかもよ。」

女将さんの返しがボクをフォローしてくれる。

「とにかくそこへ座りなよ。よかったねえキョウちゃん。あれは一昨年だったっけ?前の彼女に振られて、ここでワンワン泣いてたのは。」

「そういうことをバラさないでくださいよ。恥ずかしいじゃない。彼女を手に入れるまでにどれだけ苦労したと思ってるんですか。その努力を水の泡にするつもりですか。」

「そりゃそうと、ユイちゃんだっけ?キョウちゃんのどこが良かったの。」

ユイはボクの目を見て「うふふ」と笑ったあと、ニッコリ微笑んで女将さんに答える。

「私はキョウスケさんに拾ってもらったんです。キョウスケさんに拾ってもらわなかったら、野垂れ死にしていました。だからキョウスケさんは命の恩人なんです。」

「拾ってもらったって、どういう意味?」

女将さんが不思議そうにたずねる。

ユイが説明しようとするのをボクが阻んで、

「単に困っているところを助けてあげただけです。そのときのことがきっかけで、ボクが猛アタックしたって訳ですよ。だからボクに少しばかりのアドバンテージがあったことは認めます。でも脅したりなんかしてませんからね。」

それを聞いて親方はあっけらかんとして言う。

「それって、鶴の恩返しと一緒か?そのうち機織りをしだすかもよこの娘。」

近くで聞いていたほかの客も一斉に笑いだす。

続けて女将さんが不吉なことを言う。

「つまりは最後には見てはいけないところを覗いてしまったキョウちゃんが、彼女に振られるって算段になってる訳だね。それでさ、またここでワンワン泣くことになるんだね。」

「女将さん、勘弁してください。まだ明日がスタートなんですから、縁起でもない。とりあえずボクは野菜炒め定食を下さい。ユイは何を食べる。」

ボクは話を一旦区切るために、無理やり注文を入れた。

「そうねえ、やっぱりアジフライ定食にするわ。ご飯少なめで。」

それに、瓶ビールを注文してコップを二つ貰い、二人の新たな門出に乾杯する。

のんべのユイにはビールなんて水みたいなものだろう。結局定食を食べ終わるまでに、もう一本追加したが、そのほとんどはユイの喉元を痛快に通過していった。

「飲める口だねえ、おじょうちゃん。飲みっぷりがいいねえ。」

親方が感心するようにうなづきながら唸っている。

「いい女だねえ。キョウちゃん、早く嫁にしちまいな。この子はただのウワバミじゃないよ、見てごらん。ちゃんとキョウちゃんのペースに合わせて飲んでる。ホントはもっと飲めるんだろ、キョウちゃんのペースが遅いからって待ってるんだよ。いじらしいねえ。あんた、お祝い代わりにジョッキを一杯ずつごちそうしてやんな。キョウちゃんが中でユイちゃんが大ね。」

「女将さん、あたしも中でいいです。」

「あんた聞いたかい、これがこの子のいいとこだよ。いいから、おばさんが奢ってあげるんだ、今日ぐらいはキョウちゃんごと飲んじゃえ。」

「私、今日から少し控えめにしようと思ってるんです。今までの自分を変えるためにも。」

「いい心がけだ。キョウスケ!お前もこの娘を見習って、もうちょっと自分にシビアになりな。そしてちゃんと男を上げるんだ。それで今よりもちょびっとだけ立派になって、この娘をヨメにもらってやりな。わかったか。」

「はい。」

いつしか二人して返事をしていた。

もちろん、店内の客に笑いをもたらしたことは言うまでもない。

こうして、新しい門出を迎える二人のイブが更けていく。


引越しの作業はスムーズだった。

ヒデさんも心配して手伝いに来てくれた。

「これって、いわゆる同棲生活だよな。憧れるなあ。オレもこんなのしたかったなあ。ねえユイちゃん、誰かオレにピッタリの彼女紹介してくれない?」

「ヒデさん又そんなこと言ってるよ。ヒデさんは結婚してるでしょ。それにボクは、遊びで彼女と一緒に住むんじゃありません。」

「わかったわかった、冗談だよ。でも、うらやましいなあ、いくつ離れてるんだ彼女と。昔から畳と女房は新しい方がいいって言うからなあ。」

「ユイだっていつまでも若いわけじゃないですよ。でもボクは一生彼女と連れ添うつもりです。今から宣言しておきます。」

「お前がそのつもりでも、彼女まで同じとは限らないぜ。」

ヒデさんは、そう言ってボクを脅しにかかる。

「大丈夫よキョウちゃん。ユイは恩を仇で返すようなことだけは絶対にしない。ヒデさんにも必ず恩返しします。」

そう言って涙ぐむユイ。

「じゃあ、まずはオレの分はユイちゃんの体で返してもらおうかな。」

「ヒデさん!」

「冗談だよ。怒るなよ。冗談に決まってるじゃないか。」

もうボクはユイを誰にも渡さない。ユイに指一本触れさせやしない。そう決意する。

「あらかた片付いたし、引越しそばでも食べに行きましょう。」


馴染みの定食屋のすぐ近くに、蕎麦屋がある。いい蕎麦を食わせる店なので、ボクのようなしがないサラリーマンには少し敷居が高い。

それでも今日は特別の日、蕎麦ぐらいはケチケチせずに奮発しよう。

「ヒデさん、今日はありがとうございました。たいした御礼はできませんが、ここはボクがご馳走させてもらいます。」

「馬鹿言え、お前ごときに奢ってもらうほど落ちぶれちゃいねえぜ。引っ越し祝いついでにオレに奢らせろ。」

実は引っ越し祝いに幾らかばかりの祝い金をもらっていた。手伝いに来るは、祝い金は出すは、蕎麦は奢るはでは、さすがに恐縮してしまう。

「なんのこっちゃない、ユイちゃんにいいところ見せたいだけなんだ。いい娘紹介してもらうために。なっ、オレに奢らせろ。」

「ヒデさん、奥さんと離婚しないと紹介はできませんよ。」

優しく、そして少し冷ややかな目で睨むユイ。

「冗談だよ。怒るなよ。冗談に決まってるじゃないか。」

さっきとおんなじセリフだ。こんなヒデさんのジョークにときおり酔わされる。

そして思うのである。いい先輩に恵まれたと。

蕎麦を食べ終わって、ほっとしながら一服していたとき、ヒデさんがボクたちに向かい、注意を喚起してくれる。

「お前たち、気を抜いたらダメだぞ。どこであいつ等と出くわすかもしれんからな。あんまり新宿の方へは行かないように気をつけろよ。」

確かにそのとおりだ。ボクもこれで安心したわけじゃない。新宿へもしばらくの間は行くつもりはない。しかしながら高円寺というところは不便なことに、都心へ出ようと思ったら、JRにしても地下鉄にしても新宿を通過しないと東京駅にも行けないという立地なのである。そう思えば、ボクたちの住んでいる今のアパートも、早々に引越しをしたほうがいいのかもしれない。

そして、その決断をもう少し早くすべきだったと後々後悔することとなる。


その夜、久しぶりにまったりと落ち着いたボクたちは、簡単な夕餉を済ませると、軽い晩酌タイムに入っていた。

ユイは酒を控えるとは言ったが止めるとは言わなかったし、ボクも止めて欲しいなんて思ってはいない。むしろ、たまに飲むボクに付き合って欲しいぐらいだった。こういう時は飲める彼女がいると安心である。ボクの方が先に酔いが回っても、介抱してくれるのはいつも側にいる彼女なのだからボクは安心して酔うことができる。そんなに深酒するつもりはないけどね。

この夜はいい月夜だった。

ユイは薄手の部屋着を軽くまとい、エアコンの風に揺られながら月を見上げていた。

その光景を見たボクはおもむろに部屋の明かりを消して、カメラを手に取った。

「月下の女猫」

ボクのポートレートは、またぞろ妖しい女猫が月にじゃれるかのように、その光を浴びている姿を捉えていた。

そしてボクは彼女に見とれたまま、シャッターを押し続けた。


同棲生活最初の夜、ボクの中に棲む犬が狼に変貌して彼女を襲い、彼女が黙ってボクに汚されたことは言うまでもない。

いやいや、ボクたちはお互いの獣の部分を認め合って、そして愛し合ったのである。

新しい生活を前に、ボクはユイの瞳を見つめて、ユイの温もりを感じながら、

「この日が来るのを夢見てた。」

そう言って唇を盗みに行く。

「うふふ。」

はにかんだまま、ユイはボクに体を預けてくる。

ボクたちはずっと一つに重なりながら、新しい朝を迎えることとなったのである。


そしてしばらくは平和な日々が続くのであった。

月もボクたち二人を優しく見守っていてくれていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る