第4話 六月の夜
梅雨の季節真っ只中に入り、じめじめとした空気が不快指数を上げていく。
その割に今年も空梅雨のようで、なかなか雨が降らない。
ボクのプランターも毎日枯渇している状態だった。
そんなある夜。ボクは突然萌愛の柔らかい唇とやわらかいおっぱいを思い出した。
ヒデさんの手前、連れてきてもらって以来、しばしば通っているなどとは、口が裂けても言えない。
それでも時々思い出すようにして、あの愛しい唇とおっぱいが恋しくなるのだから不思議だ。それだけ萌愛の唇とおっぱいが魅力的だということだろう。
この夜は、久しぶりに雨が降っていた。大きな音を立てて。
久しぶりなだけに、ばしゃばしゃと降りしきる雨がうっとおしかった。
こんな夜はきっと客も少ないに違いない。それが最も期待できた背景だった。
店に着いたのは二十二時を過ぎたあたり。今頃の時間帯までは、飲み会を終えたおじさんたちが、若い女の子のエキスを吸収するために、多くのフリー客がなだれ込んでいる時間帯である。
しかし、この時間を過ぎると、最終電車を気にする酔っ払いたちが、少しずつ店を後にする。だからボクはその後の時間帯に訪問するのである。
幸いにしてボクの住んでいるアパートは、駅で言うところの二駅ほどで、この店からさほど遠くない距離にあり、最悪の場合は歩いてでも帰れるという寸法だ。
この日は天候も悪く、すでにピークの時間をとっくに過ぎていた。
受付で「ご指名は」と聞かれ、すかさず「萌愛さんを」と答えている。
「いらっしゃ~い。」
ボクの顔を見つけた萌愛は、短期間で再訪問してくれたボクに、まずは感謝のキスを施してくれる。やわらかい唇がたまらない。
心の中でそっと、「これだこれだ、この感触だ」とほくそ笑む。
だけど今日のボクの目的は、唇とおっぱいだけじゃなかった。
なかなか話をしてくれない萌愛から、色んな情報を聞き出そうと思って、覚悟して訪れているのである。
「一人で住んでいるの?」
「そうよ。」
「休みの日はどうしてるの?」
「寝てるかな。」
「出かけたりはしないの?」
「しなあい。」
全部が万事こんな調子である。
なかなか会話が弾まない。ボクの聴き方が悪いのだろうか。
この日、唯一と言っていいほど萌愛の情報を引き出せたのが、ペットのことであった。
「萌愛ちゃん、おうちで猫とか犬とか飼ってない?」
ボクとしては、猫を飼っていてくれると、イメージがぴったり合うんだけどなあと思いながら、しかしながら彼女の返事は、
「何にも飼ってない。でもハリネズミは飼いたい。飼えないけどね。」
「どうして飼えないの?」
「だって、お部屋の中に動物がいるっていうだけで大変じゃない?だから無理。」
まあ、予想通りといえば予想通りの内容だったけどね。
この日は指名の客よりフリーの客が多かったようだ。たまに萌愛が場内コールで呼ばれて席を離れても、フリー客の顔見せだったのか、割と早くボクのところへ戻ってくる。
でも、そんなパターンが頻繁にあると、結局は込み入った会話がなかなかできなくなるという始末。
結果的には、ボクたちの何回目かの逢瀬は、特に収穫のないまま終わるのである。
このときまでは、ボクがこれ以上深く萌愛に係わることになるなんて思いもしなかった。
萌愛は可愛くて愛おしい。
だけどそれは、絶対に開くことのないショーケースの中の人形をねだるようなものだと思っていた。
デートに誘ってみたいなとおぼろげに思ったことはあったが、実現することなんて絶対ないと思っていた。
しかし、それは突如としてやってきた。まるで嵐のようだった。
その日も雨がしとしと降っていたある六月の夜。そして、その日は金曜日だった。その夜がボクにとって二回目の運命的な出会いとなった。
この日の仕事が終わり、ヒデさんが例によってボクを飲みに誘う。仕事でちょっとしくじったボクを見て誘ってくれたのだ。ボクのミスを拾ってくれただけでなく、後のフォローまでしてくれた。また借りが一つできてしまい、申し訳ないと思う。この先輩には世話になってばかりだ。もちろん誘われて断る理由もないので、今日も焼き鳥をアテにビールが進む。うっぷん晴らしにカラオケで時間を過ごし、ストレスを発散した後、この日の分岐点を迎えた。
ヒデさんは例によってスキモノの店へ。ボクは帰宅する道を選択して駅前の角で別れた。それでも帰宅すると言いながら、まだまだ宵の口でもある。ふと、萌愛の顔が浮かんだ。
「どうせヒデさんは別の店に行くんだし、ちょっと萌愛の顔でも見に行こうかな。居なけりゃ居ないで帰ればいいことだし。」
と、独り言のようにつぶやきながら「ムーンライトセブン」の方向へと足を向けた。店へとつながっている商店街のアーケードの下を抜けるのに狭い路地を渡ろうとしたとき、その狭い路地から突然飛び出してきた女がいた。
危うくぶつかりそうになったが、そこそこ運動神経の良いボクはひらりとかわす。女はぶち当たる予定だったボクの体が不意に無くなったこともあってか、バランスを崩して道に倒れた。
「大丈夫ですか。」
自分がかわしておいて言うのもなんだが、責任の一端を感じて彼女の身の上を心配する。
肩を抱いてその顔を見てみると見覚えのある顔。
「もしかして、萌愛ちゃんじゃないの?」
「んんん?」
彼女は泥酔と言っていいほど酔っていた。
「ボクが誰だかわかる?こんなところで酔いつぶれちゃ危ないよ。」
「うん。」
と言ったっきりそのまま寝ようとする。
勇者や王子様ならこんな時には彼女を抱きかかえて、タクシーにでも乗せて行くのかもしれないが、如何せんボクは男としては小柄な体つき。ぼっちゃり体型の萌愛を抱きあげられるほど逞しくなかった。この時ほどこの小柄な体を恨んだことはない。
仕方なく萌愛の体を引きずるように道端の安全な場所まで移動し、萌愛の酔いの醒めるのを待つことにした。酔っぱらっている萌愛の顔をしばし眺める。いつもは紫のライトの下でしか見たことがなかった萌愛の顔。白灯の下で見る彼女の顔はいつもにも増して可愛いと思った。幸いにもすぐ近くに自動販売機があったので、水を買って少し飲ませた。口移しでもよかったかもしれないが、相手が酔っているときである。少し卑劣な気もしたので、普通に口元に持って行って飲ませた。寝ぼけてはいたけれど、喉が渇いていたのか素直に飲んだ。
じっと佇んで、二十分ほども経ったろうか、萌愛は睡魔とも酔魔ともおぼつかぬ意識から少し醒め、ボクの顔を見上げた。
「キョウちゃん。」
「やっとわかってくれたね。大丈夫?一体どうしたの?」
「うん。」とうなずいたきり、彼女はそれきり下を向いたまま無言を貫く。
もともと口数の少ない萌愛の事だから、自分から話すまではどうあっても口を割ることはあるまいとあきらめる。
そしてしばらくすると、かすかにすすり泣く声が聞こえてきた。
「いいよ、今は何も話さなくても。ボクなんかに話さなくても大丈夫だし、今日の事は誰にも言わないから安心して。ボクは意外と口が堅いんだよ。とりあえず、お家に帰ろ?ボクが近くまで送ってあげるから。」
「キョウちゃん、萌愛、お家に帰りたくないの。」
「萌愛ちゃん、一人暮らしじゃないの?家族と一緒ならなおさら心配しているかもよ。」
「萌愛ね、今おうちないの。」
嘆願するようにボクの顔を見上げながらつぶやく。
「でもね、このまま外で夜を明かすわけにはいかないし、ボクも萌愛をおいてこのまま放っておけないよ。」
「じゃ、キョウちゃんとこへ連れてって。」
それはボクとしては願ったり叶ったりだが、これではホントに猫に鰹節だよ。この場合猫はボクで本来猫の萌愛は鰹節だけど。
「大丈夫よきっと。お願い、帰りたくないの。」
うるんだ目でそう嘆願されるともうダメとは言えなくなっていた。
「わかった。今夜一晩だけは襲わないように我慢するよ。」
「ありがとう。」
萌愛はボクの腕に寄り添うように立ち上がり、肩を抱き合って二人で歩く。まるで恋人同士のように。ボクは少なからず夢心地になっていた。
そこからタクシーを拾いボクのアパートへ帰る。時間はすでに二十三時を回っていた。
夜はただ更けていくばかり。
部屋に着くなり萌愛はボクのベッドを見つける。そしてなだれ込むようにシーツの中へもぐりこんだ。ほっとしたのか彼女は間もなく深い眠りについた。安心したように眠る萌愛の鼻息がスースーとして可愛い。
「ちょっとだけご褒美をもらってもいいよね。」
といって、軽く唇にキスをする。
「おやすみ。可愛い萌愛ちゃん。」
といってボクはベッドの側のソファーに身を沈めた。仕事はさほど疲れていたわけではなかったが、この一連の出来事のおかげで神経に疲労をきたしていた。おかげでボクも萌愛と同じタイミングで眠りにつくことになった。
しとしとと降っていた雨は、人知れず夜の街を通り過ぎていった。
あとは静かな暗闇だけがボクたちを包んでいた。
翌朝、窓際のスズメがその鳴き声でボクを起こしてくれた。一瞬、どうしてボクがソファーに横たわっているのか解らなかったが、すぐに記憶が蘇り、ベッドの方に目を向けた。
萌愛はすでに起きていた。起きていたけどまだベッドに横たわり、ボクの方をじっと見つめている。
「キョウちゃんおはよー。昨日はありがとう。出会ったのがキョウちゃんでよかった。」
「可愛い猫ちゃんを拾ってきた気分だよ。」
萌愛はベッドから抜け出し、ボクの横に座り、さらにボクの膝に頭を乗せる。
「萌愛、昨日キョウちゃんに襲われた?」
「約束したでしょ。一晩だけは我慢するって。」
「やっぱり優しいのね。ねえ、今夜も帰らなくてもいい?」
とんでもないことを笑顔でサラッと言うんだなと思った。
「ボクはかまわないけど、今夜も約束を守れるとは限らないよ。ボクだって萌愛ちゃんの事が好きだからお店でも指名してたんだよ。その萌愛ちゃんがボクの部屋のベッドの近くでうるんだ目でボクの膝の上にいるんだ。襲わない方が不思議じゃない?」
「襲ってもいいわよ。」
その瞬間、ボクのタガが外れた。もう我慢の限界だった。
ボクは彼女の唇を吸い、女神の挨拶を求めた。彼女も素直にボクのキスを受け入れる。そして彼女の服の上から体のラインを確かめるように挨拶をしていく。やがて、彼女の衣服を一枚一枚脱がせていく。そして最後の一枚をはぎ取った後、彼女を抱いてベッドへと移動する。わずかな距離ならお姫様抱っこも何とかこなせる。
「ホントに襲っちゃうよ。」
「・・・・・・・。」
萌愛は何も言わずにじっとボクを見つめる。
ボクは彼女を腕の中に抱き、うなじから胸元へと彼女の匂いを堪能する。昨晩はお預けを食らっていたため、ボクの分身はすでに猛烈な勢いで萌愛への侵入を求めている。しかし、そんな乱暴なことはしない。折角のごちそうが目の前にあるのだ。ゆっくりと頂くことにしよう。
幸いにも今日は土曜日で仕事は休みだ。ボクたちを邪魔する者もいない。
ボクの手は彼女の胸のふくらみを弄ぶ。ゆっくりと弧を描くように筆を進める。突起物へのキスも忘れない。少し歯を当てるぐらいに愛撫する。慣れた恋人同士ならもっと激しい破廉恥な愛撫もあるのだろうが、ボクたちにとってはこれがいわゆる初夜である。いきなり唐突な行為は避けた。
やがてボクの右手は彼女の秘部へと到達する。彼女の洞窟内はすでに受け入れ態勢ができているようだ。すこしばかり指であいさつを行い、彼女の顔を見つめる。小さくうなずく彼女の合図を待ってから、ボクは分身を洞窟へと侵入させた。
萌愛の中は暖かかった。その温もりがたまらなく心地よかった。同時にボクは彼女の唇も弄んだ。萌愛はボクの背中に腕を回し、ボクのされるがままに体を預けていた。夢のような時間だった。彼女の芳香と彼女のぬくもりが全身で、そしてさらには分身でも感じられている。店の中で妄想していたことが今、現実となっているのである。
独り者のボクは、萌愛の妖艶な姿を想像して何度か自分を慰めたことがあった。今は現実のこととしてボクの目の前にいる。
彼女のやわらかな体と皮膚と唇がボクを夢中にさせていた。いつまでもこの時間が続けばいいと思っていたが、恍惚の時間もやがては終焉を迎えるときがくる。できる限り我慢していたが、そろそろ限界が近づき、彼女の吐息が甲高くあえぐ頃、ボクは萌愛の中で果てていた。
最高の時間だった。至極の空間だった。ボクと萌愛が初めて結ばれた瞬間でもある。その快感の余韻に浸るころ、ボクは現実の世界に呼び戻される。
「ゴメン。やっぱり約束は一晩しか守れなかった。」
「いいのよ。萌愛を愛してくれたんでしょ。助けてくれた御礼もあるし。」
「萌愛の事が好きだよ。今もっと好きになったよ。ボクはどうすればいい?」
「萌愛をしばらくここにおいて。萌愛の事、キョウちゃんの好きにしていいから。」
「そんな条件じゃ嫌だよ。萌愛もちゃんとボクの事を好きって言ってくれないと。まるで援助交際みたいじゃない。」
実際に萌愛は見た目よりも若かった。一度店で年齢を聞いたことがあったが、確か二十一とか二十二歳とか言ってたな。若葉よりもさらに若いのには驚いていた。それでいて若葉よりも遥かに色っぽいのだ。その妖艶さにも彼女なりの魅力があったことには違いない。
「萌愛もキョウちゃんのこと好きだから許したのよ。だからねっ、しばらくの間ここにおいて、お願い。」
そうまで言われては、もう否む理由もなくなっていた。現在ボクには付き合っている彼女もいなかったし、ボクを訪ねてくる友人も思い当らなかった。仲のいいヒデさんでさえボクの住居までは知らない。
ボクは覚悟するしかなかった。
そうと決まれば色々と準備が必要だ。まずは衣服。着の身着のままで来た萌愛は、とにかく着替えるものがない。まさかボクの部屋に女物の衣類や下着が置いてあるはずもなく、まずは買ってこなきゃ。とはいえ、どんなものを買えばいいのかわからない。などと考えている隙に、萌愛はすっとボクの側を離れ、いつの間に探し当てていたのか、シャワーを浴びに行く。ボクは萌愛が脱ぎ捨てた下着を手に取って、それを眺めながらどうしようかと考えていた。
「これと同じものを買ってくればいいのか?でもボク一人で?どこへ?」
おかしなもので、ボクが一人でそれらの調達をしなければならないと思い込んでいる。普通に考えれば、とりあえずは今身につけているものを着用して、近くの店に一緒に買いに行けばいいことなのである。
しばらくして萌愛がシャワーから出てきた。
「キョウちゃん、キョウちゃんのシャツとパンツ貸して。」
「シャツはわかるけど、パンツもボクのをはくの?」
「いいじゃない。他にないでしょ。男の人の衣服を身に着けるの嫌いじゃないよ。」
小柄とはいえさすがに萌愛よりも小さな体ではない。できるだけきれいなシャツとパンツを出して萌愛に与えた。ボクの下着を身に着けた萌愛は。
「ステキ。これで萌愛はキョウちゃんのオンナになったのね。」
なんともドラマじみたセリフだ。しかし満足いくセリフでもある。ボクも萌愛に続いてシャワーを浴びる。体についた萌愛の匂いが洗い流されていくようで少しもったいない気分がしないでもなかったが、汗ばんだ体で萌愛と一緒にいる気にはなれなかった。
お互いに、体を清めた二人は再びベッドで熱いキスを交わす。久しぶりの情事だったボクは今日の萌愛が相手なら二回戦も可能な状態になっていた。
萌愛がボクの分身を手であいさつしてくれる。ボクも反対の手で萌愛の秘部にあいさつをする。もう初夜ではない。これからのあいさつは恋人同士のものとなる。ボクは萌愛の秘部へのキスを求めた。すでに濡れている萌愛の秘部は柔らかく濡れていて、ボクの訪れを待っているかのように震えている。ボクはゆっくりと唇を寄せて、舌を差し入れた。その瞬間、萌愛の吐息が小さな声と同時に漏れ聞こえた。萌愛の洞窟内もすばらしくいい匂いがする。とろけるようなその匂いに圧倒されながら、洞窟の入り口を示す地蔵様にあいさつをする。
今度は萌愛がボクの分身に挨拶を求めてきた。ボクもちょうど挨拶をしてほしかったところだった。彼女は両手で丁寧にボクの分身を抱えてゆっくりとくちづけをする。やがて妖艶な女神が待つ温かな祠に包まれて、この上ない感触を得ることとなる。彼女はゆっくりと前後の動きを繰り返し、ボクの分身のふくらみを確認する。ボクも濡れた祠を確かめるようにパトロールする。彼女の動きが激しくなりかけた時、ボクはその動きを止めて、彼女をボクの腕の中へ引き寄せた。
「それ以上は勘弁して。キミの口の中で果てちゃうよ。」
「うふふ。」
彼女は一瞬笑って、すぐにボクを見上げた。来てもいいよという合図だと思った。
「萌愛が好きだ。夢じゃないよね。」
「うふふ。」
萌愛はいつもそういって微笑むだけ。でもはっきりとした返事を求めてはいけない。彼女は猫なのだから。いつも答えは曖昧なのである。
簡単な言葉のやり取りの後。ボクは再び萌愛の体の中にボクの体を埋めていくのである。
ベッドのきしむ音ともにボクの心も踊った。店に通っていたとき。あれだけ憧れていた萌愛の体が今ボクの腕の中にある。
きっかけは突然で、これからどうなるかも全く分からない状況の中で、ボクはあまり先のことも考えずに、今現在の快楽の事だけを楽しんでいた。
萌愛も黙ってボクを受け入れている。彼女を腕の中に抱きながら、色んな不安も頭をよぎったが、彼女の匂いとともに一瞬にして払拭されてしまっていた。
やがて二回目の終焉を迎え、再びボクは萌愛の中で果てていた。
「ゴメンよ。何も考えずに萌愛の中でいっちゃった。でもちゃんと責任取るから心配しないで。」
「大丈夫よ、ちゃんと飲んでるから。心配しなくていいのよ。でもありがとう。そこまで言ってくれて。もっと早くキョウちゃんと出会いたかった。」
なんとも意味深なセリフだ。
「もう遅いなんて言い方に聞こえるけど。そんなことないよね。」
「うふふ。」
彼女の返事はいつも短い。そして微笑むだけだ。
「萌愛ちゃん、これからどうするの。」
「キョウちゃん。萌愛って本当の名前じゃないの。ホントの名前はユイっていうのよ。ユイって呼んで。」
とうとう彼女がホントの名前を教えてくれた。この瞬間ボクは感動を得たとともに、完全に彼女への恋心が本物になったと言っても過言ではなくなった。彼女がどこまでボクの事を本当に好きなのかはまだ疑問だったけど。
因みに、上の苗字はカワシマというらしい。つまり、カワシマユイっていうのが本当の名前なんだね。
ボクもフルネームがツノダキョウスケであることを告げ、初めてボクたちは本当の恋人同士の間柄になったのである。
「じゃあユイちゃん、これからどうする?まさか一日中ここで丸くなっているわけにもいかないでしょ。いつまでかわからないけど、ユイちゃんがここにいるなら、その用意をそろえなきゃ。まずは下着でしょ、服でしょ、それに歯ブラシと乳液とってとこかな。」
「うふふ、なんだか楽しそうね。」
「そうだよ、ボクにとっては久しぶりの恋人なんだ。心が躍らないわけがないじゃない。」
楽しそうなボクを見て彼女は微笑んでくれる。とにかく彼女の笑顔が見られた。それだけでも一安心ってところかな。
ユイは料理を作るのがあまり好きじゃない。お店でもそう話していたような気がする。お店のプロフィールには特技が『料理』であると書いてあったけど。
得意とまでは言わないまでも、さほど料理も苦手ではないボクは、彼女のためにスクランブルエッグとトーストとコーヒーを用意する。二人で食べる最初の食事だ。愛しい人と食べる食事にしては少し乏しい気もするが、ボクの部屋の中ではこれも致し方なし。今夜は外でもう少しマシなものを食べに行こう。食事が済むとお出かけの準備だ。
さすがに六月に入ると梅雨の季節。外はしょぼしょぼと雨が降っていた。
とりあえずは着の身着のままで出かける。近くの洋品店で彼女の身の回りの物をそろえ、歯ブラシとおそろいのマグカップを買った。幸せなひとときってこれぐらい些細なものかなと思う。
しかし、彼女は元来が面倒臭がりだからなのか、ボクたちにとって必要最低限の買い物を終えると、すぐに帰宅することを希望した。ボクはもっとデートっぽい散策を期待していたのにである。
仕方なしに、数日分の飲み物と食料品を調達した後、アパートに帰ってきた。
帰ってくるなり彼女は服を脱ぎ。新しいパンツに履き替えてボクのシャツを羽織る。そしてベッドに横たえてうつろな目でボクを見るのである。
ボクも上着とズボンを脱ぎ、彼女の肩を抱く。唇を重ねてお互いの存在と体温を確かめるように息を合わせる。それだけでボクの分身は心地よく反応するが、ボクは彼女の体が目的で一緒にいるわけではない。すでに彼女はボクの手中にあるのだ。今は彼女の匂いと体温を感じられればそれで満足だった。
萌愛はベッドの上でも猫だった。
しなやかな体を横たえ、退屈を楽しむかのようにゴロゴロしながら、時折りボクを見つめては「うふふ。」と笑みを投げかける。
そんな時間をまんじりと過ごすだけだった。
テレビは好きみたいで、自分でテレビのリモコンを握り締めたまま、好き放題にチャンネルサーフィンをこなしている。
ボクはどうせなら萌愛と遊びたかったので、「ゲームでもしない?」って誘っても、「面倒臭いからイヤ」とはっきりした意思を持って答える。仕方がないので、トランプを引っ張り出してきて、一人でペーシェンスでもして時間をつぶし始めた。
すると、「キョウちゃん何やってんの?」と言って、ボクの隣へ座ってくる。こういうあたりが、まさに猫たる所以である。
しかし、今はいい。でも夜はどうするの。
まずボクの脳裏に浮かんだのは「ムーンライトセブン」のことだ。
「ユイ、今日はお店に出勤するの?」
途端にユイの表情が曇る。
「お店には行きたくない。でも連絡してない。どうしよう。」
ボクはしばらく考えた後、
「仕方がないから、実家のお祖母さんが亡くなったことにすれば。まさかお葬式に社長が来るなんてことないでしょ。」
裏を向けていた物を表に返したかのように、あっという間に眩しい笑顔になるユイ。
「キョウちゃん頭いいね。さっそく電話する。」
そう言って社長に電話をかけている。
「さすがにこの時間帯では、店にはまだ誰もいないため、そういったことを全て管理しているという社長への連絡となるのである。
これで一週間は安泰だ。しかし、そのあとはどうする?
それはその時になってから考えよう。
次はユイ自身の問題。
「で、ユイちゃん。そろそろ、どうしてこうなったのか話してくれないかな。」
さっきまで、明るかった表情が一変し、あっという間に雲行きが怪しくなる。
そしてボクから逃げるようにして、ベッドのシーツの中へと潜り込む。
ボクはそんな彼女を見て溜め息をつくしかない。
それにしてもいったいどうしたのだろう。
「あのね、お腹空かない?お昼ごはんどうする?食べに行かない?近くに美味しい中華の店があるんだけどな。」
「ごめんキョウちゃん。ユイ、あんまりお外に出たくないの。お腹空いてないから、ここにいさせて。」
ボクはニッコリと微笑みながらベッドに近づく。ゆっくりと。
「いいよ。でもどうしてなのか、訳を話してくれないと、ボクは何をどうしていいのか解らないじゃない?」
ユイはボクの目をみて、
「知らないほうがいい。キョウちゃんに迷惑かけなくないから。」
「あのね。ユイはボクのことが好きって言ってくれたよね。だからここにいてくれるんだよね。だったら、ボクたちはもう全くの他人じゃないんだよ。」
それでもしばらく黙っている。そしてボクにそっと抱きついてくる。
「もうちょっと待って、ユイの踏ん切りがついたら話す。ごめんね。キョウちゃんのことは好き。でも、まだいろんなことを迷ってる。キョウちゃんが優しいから、ユイが甘えてるだけなのかもしれないけど・・・。お願い、もう少し待って。ねっ。」
潤んだ目で見つめられるとイヤとはいえない。ユイの言ってる「好き」は確かに疑問だけど、ボクの方は間違いなく惚れているし、「棚からぼた餅」的に降って湧いてきたたようなチャンスを逃したくない、手放したくない、その一心である。
「惚れた弱みだから仕方ないか。」
そう言ってユイの体をそっと抱く。
ユイは、ボクの動きに合わせて体を寄せてくる。
午前中に行った買い物で必要最低限のものは買ってきてある。
お昼は焼きそばでも用意するか。
ボクは台所に立って支度を始める。
すると後ろからユイがスルスルと近づいてきて、
「キョウちゃん。ユイ、お料理できないわけじゃないのよ。」
と言って率先して台所に立とうとする。
「お世話になるお返しに、焼きそばぐらい作ってあげる。」
そう言うと棚から包丁とまな板を取り出し、キャベツを刻み始めた。
ボクの無機質な感じのするアパートのキッチンで、若い女の子が包丁でまな板を叩いている。そんなアットホーム的な光景が身近にあるなんて、いったい誰が想像するのだろう。女の子が一人部屋にいるだけで、これほどまでに部屋の明るさや空気感が変わるのかと思うぐらいだ。
しかし、ユイの手際はさほどでもなかった。キャベツをいきなり真ん中から切ろうとしたり、冷凍豚肉をラップごと切断しようとしたり、見ていて冷や冷やモノだった。
結果的にはボクも手伝うこととなる。でもそれはそれで楽しい。
なんだか子供のころ、近所の女の子たちとしていたままごとごっこを思い出す。
やがて悪戦苦闘の末、なんとか完成させた焼きそば。
二人して初めての共同作業だ。なんだかちょっとうれしい。
出来栄えなんかどうでもいい。味だって多少まずくても構わない。
気になっていたのはユイの味付けのアレンジだが、ソースを入れて炒めるときに、酢を加えていたことだ。そんなの初めて見た。
「さあ、キョウちゃん。ユイ特製の焼きそばができたわよ。」
「ねえ、ソース焼きそばに酢を入れるって本当に美味しいの?」
「そうよ、それにマヨネーズをちょっとだけ加えると抜群よ。」
なんだかちょっと怖い。でもせっかくユイが初めて作ってくれた、しかもボクのために作ってくれた料理。食べないわけにはいかないでしょう。
恐る恐る一口目を口に運ぶ・・・。
「あっ、これは美味しい。ユイ、美味しいよ。」
ホントに意外とボクの口に合った。
「うふふ。」
ユイは、少しはにかんだような笑みをボクに投げかける。
なんだかとっても幸せな気分だ。
食事の後の片づけはボクが率先して行う。
皿を洗い、箸を洗い、コップを洗う。その横でユイが乾いた布巾で拭いていく。
これも連携作業。なんだかとっても楽しい。
片付けの後はまたぞろ二人でまったりとした時間を過ごす。
ベッドを背中にもたれ、テレビを見ながら二人で手をつなぐ。
ときおりボクがキスをせがむと、無条件で応えてくれる。女神様へのあいさつも怠りなくさせてくれる。
でも、それは「ムーンライトセブン」の中でも同じだった。ちなみに、ボクはおっぱいへのあいさつも試みてみる。
ユイはそれも無条件で体を預けてくれる。
これも、店でも同じだった。なんだかちょっと不思議な気分だ。
「ねえ、お店ごっこしてみない?」
「うふふ。いいわよ。」
ユイは着ていたボクのシャツを脱ごうとする。
「いいんだ、そのままで。店でもシャツのコスチュームがあったでしょ。その方がお店っぽい。」
「うふふ。」
ユイは黙ってボクの隣に座る。
ボクはお店では女の子たちに特別な座り方を要求していた。
女の子を斜向かいに座らせて、ボクの膝に背もたれさせる。
そうすることで、彼女はボクに体を預けることとなり、ある程度無防備な体勢となるのである。しかもボクの片手は完全にフリーになり、色んなところを触り放題になるのだ。
かといってボクの手は、ほとんどが胸の膨らみにかぶせられている。
ボクがお店で萌愛を指名していたのは、彼女のおっぱいに魅力を感じていたからである。
聞いたところによると、ヒデさんなんかは嬢たちの大事なところを結構乱暴にいじったりしていたようだが、ボクはそんなことでモンモンするよりも、大好きなおっぱいを十分に堪能していたかった。
ところがユイは今、ボクの部屋でボクの隣にいる。
コスチュームだってシチュエーションだって好みのままだ。
時間も気にすることはない。
さらに、モンモンしすぎた後は、ベッドに移動すればいいのだ。
そんなことを考えながら、ボクはお店ごっこを始めていた。
「折角だから、『いらっしゃいませ』から始めてくれる?」
「いらっしゃーい。久しぶりね。」
「萌愛ちゃん、逢いたかったよ。」
「うふふ。」
「ボクの好きな萌愛のおっぱいに触ってもいい。」
「いいわよ。優しくね。」
「ボクはいつだって優しいでしょ。」
「そうね。いつもキョウちゃんは優しいよね。」
そう言って萌愛はボクの胸に顔を付けてくる。
このシチュエーションのときには、彼女のことを萌愛と呼ぶことにしよう。
萌愛はいつもとろけるようなキスを与えてくれた。おしゃべりが面倒臭い萌愛は、最上のキスで会話の時間を代替えしてしまうのである。
「おっぱいにもキスしていい?」
このシチュエーションもお店感覚そのものだ。
「いいわよ。」
そう言ってブラをずらして、トップレスの美しい姿を露わにしてくれる。
萌愛のおっぱいは、そのボリュームのある質感に最大の魅力がある。ボクの手のひらでは持て余すが、トップに君臨するポッチはうす肌色で、とってもエロチックである。
今まで、あの店で何人もの客を虜にしてきたこのおっぱいが、今はボクだけの手中にあるのだ。大いなる満足感がボクを充実させてくれる。
萌愛の甘いキスと甘いおっぱいの匂い。この二つだけで、ボクはすでに楽園気分だ。
今日は、朝からすでに鱈腹ご馳走をいただいているので、このセットではモンモンしてもベッドには行かない。
萌愛の体を這いずり回るボクの唇を見て、萌愛が「うふふ。」と笑う。
薄暗いライトの下ではなく、明るいボクの部屋でお店ごっこ。これはこれで新鮮な雰囲気だが、スリルがない分だけ緊張感が薄れる。
スリルって何?
それは、周りにいる客や前後で様子を伺っている他の嬢や店のスタッフの視線である。
お店にはお店のルールがあり、それを監視するスタッフの目や前後左右にいる客が、いったい他の客はどんなふうにして遊んでいるか覗き見ている視線がある。そういった視線や目線をある程度気にしながら遊ぶのが、ボクの言うスリルの部分である。
少なからずボクはこのスリルも楽しんでいた。時折、前の席にいる嬢が、客の膝にまたがっているときに、同じようなスタイルでいるボクと目線があったりする。それが見知っている嬢だと、ちょっとドキドキしたりする。
ところが、ボクの部屋は監視カメラで盗撮されていない限り、他人の目線は一切ない。
だから、そういったスリルがないのは心なしか、物足りなさを感じる。
かといって、萌愛の体が楽しくないわけじゃない。いつもと同じように豊満な萌愛の体はボクの欲求を十分に満足させてくれる。
「ベッドには行かなくていいの?」
萌愛が気を使ってくれる。それは非常にうれしい。
でもボクは萌愛の体が目当てなだけの客ではない。ボク自身はそう思っていたし、今でもそうだ。だから、モンモンしてきたからと言って、本能に任せて体を求めたりはしない。
今はまだ、お店ごっこの真っ最中である。そして、そろそろセット終了の時間が想定されるシチュエーションに入る。
「場内アナウンスで、ラブアタックって言ってるよ。そろそろ時間かな。」
「キョウちゃん、今日はもう帰るの?まだ萌愛のそばにいて。」
シチュエーション好きのボクに萌愛は、よろしく合わせてくれる。
「じゃあ、もう1セットだけ延長しようかな。」
「ありがとう。この時間だとまだ六千円で大丈夫よ。」
ボクが側に会ったバッグから財布を出して、六千円を渡すと。
萌愛は首をかしげて困った様子を見せる。
「萌愛、これをどうしたらいいの?」
「お店の人がいないから、萌愛がもらっておけばいいんじゃない。」
「うふふ、面白い。でも、萌愛はいらない、返す。今日はサービスデーだから、キョウちゃんは無料です。その代り、萌愛にもいっぱいサービスして。」
そういって、萌愛はボクに抱きついてきた。
「どんなサービスをご所望ですか?」
「いっぱい抱っこして、いっぱいキスして。」
いつの間にか遊びが変わっている。
でもいいや、こんなに楽しい休日は久しぶりだ。
先週は仕事でも失敗してるし、今日はゆっくりとそしてのんびりと過ごそう。そう思ったら、何となくウトウトしてきた。
お昼も食べたし、萌愛とまったりもしたし、気分はもう天国だ。
そしてボクは萌愛を抱っこしたまま、お昼寝タイムに入ってしまった。
何時間寝ていただろう。
ボタボタと音を立てて降っていた雨が、いつの間にか上がっていた。
ユイも隣で寝ている。スースーと寝息が可愛い。
ボクが目覚めてから間もなくユイも目覚めた。
「おはよう、萌愛ちゃん。もうそろそろユイに戻るころだよ。」
「ん?」
「夢を見ていた。ユイとお店ごっこしている夢を。」
「夢じゃないよ。お店ごっこしてたよ。」
ユイは真顔で答える。
彼女が着ているボクのシャツが肌蹴ているので、お店ごっこが夢じゃないことなど解っている。それでもボクは夢の中の出来事にしておきたいと思っている。
「いいんだ。お店ごっこはボクの夢の中の出来事にしておいて。」
「うふふ、いいよ。」
彼女の口数は、萌愛のときでもユイのときでもその少なさは変わらない。
ボクは目覚めたユイの唇をそっと求めに行く。
ユイも優しく応えてくれる。
しばらくの間、ユイのやわらかい唇を堪能した後、ボクはゆっくりと背伸びをして立ち上がった。
「さて、そろそろ日も暮れてきたし、散歩がてら晩御飯を食べに行きますか。」
するとユイから思いがけない返事が戻ってくる。
「ユイはお出かけしたくない。ここにいる。」
「えっ?でも、お腹すかない?」
「ユイ、ご飯いらない。ここから外に出たくないの。」
「困った子だね。わかったからそろそろ訳を話してくれない?」
「・・・・・・・。言いたくない。言うとキョウちゃんに迷惑がかかる。」
「かかってもいいよ。だから訳を話して。少しは力になれるかもよ。」
「ううん、無理よ。」
ユイは首を振って答える。
「お願いだから、このまましばらくじっとしていて。キョウちゃんに迷惑をかけたくないの。お願い。」
そう言って泣き出してしまった。
女の子の涙に勝てる男はいない。
「わかった。でも、なんか食べないとダメだよ。お願いだから涙を拭いて。」
「やっぱりキョウちゃん、優しいのね。お店にいるときからそう思ってたけど。」
「普通じゃない。泣いてる女の子を目の前にして、自我を通せる男なんていないよ。」
それを聞いてユイの表情が一瞬、強く反応した。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
何かあるな、と思った。でも今は触れないでおこう。いずれ話してくれる時がくるだろう。この時は割と簡単に考えていた。
「さあ、お腹すかない?」ユイの涙を拭きながら尋ねる。
「うん、すいた。」ボクの目を見て笑顔で答えてくれる。
少しほっとした表情でボクに抱きつき、くちづけを与えてくれた。
何よりもうれしいご褒美である。
「じゃあ、ちょっとお留守番していてね。お弁当を買ってくるから。近くに美味しいお弁当屋さんがあるんだ。シャケと唐揚げとどっちがいい。おすすめはシャケだけど。」
「うふふ、ユイどっちでもいいわ。それよりもお酒が欲しい。ワインか焼酎がいい。」
そう言えば、彼女はいつも店では酎ハイを飲んでいた。ボクがお茶を飲んでいるときにでさえも。
「わかった。じゃ、行ってくるね。いい子でお留守番していてね。」
そう言ってボクは部屋にユイを残し、玄関にカギをかけて出かけた。
近くの弁当屋までは徒歩十分弱、待ち時間も含めて往復で三十分ぐらいか。
ボクは予告通り、シャケ弁当と唐揚げ弁当を買って部屋に戻ってきた。リクエストされているワインや焼酎なら、わざわざ買って帰らなくても部屋にストックがある。ただし、萌愛はいつも酎ハイを飲んでいたので、炭酸水だけは買って帰った。
季節はまだ初夏。
十八時もすぎると。外は少しずつ薄暗くなりかけていく。
アパートに到着すると、ボクの部屋にはすでに灯りがついていた。
「ただいまあ。ユイ、お弁当買ってきたよ。」
部屋の向こうからユイが駆け寄ってきた。
「ユイね、スープ作っておいたの。そこにコンソメと冷蔵庫に玉子があったから、葱と合わせてたまごスープ。」
「凄ーい。そんなことができるんだ。」
「あのね、料理は苦手じゃないって言ってたでしょ。」
「うん、そうだね。」
ユイは、にっこり微笑んでボクの首に腕を巻きつけてくる。そしてぼくにくちづけを求めてきた。
ボクにそれを否む理由も根拠も条件も何もない。
あっという間に甘い時間が訪れる。
「さて、シャケと唐揚げとどっちにする?ボクはどっちも好きだから、ユイの食べたい方を選んで。」
「キョウちゃん、それよりもお酒は?」
「ユイ。どんだけ飲んべなんだ。でも、ワインも焼酎もあるよ、ちゃんと。で、どっちを飲みたい?」
ユイは黙ってボクに抱きついて耳元でつぶやいた。
「キョウちゃんって用意がいいのね。ますます見直したわ。」
「お褒めのお言葉を賜り、ありがとうございます。で、シャケにする?唐揚げにする?」
ユイはその表情に満面の笑みを浮かべて、再びボクの胸に飛び込んでくる。
ボクは思わずその唇を所望する。ねっとりとした彼女の女神がボクを喜ばせてくれる。
そして、ユイの体を離して彼女の飲み物のリクエストを聞く。
「ボクはワインを飲もうかな。ユイはどうする?」
「ユイもワインでいい。白?赤?」
「どっちもあるけど、今日のボクの気分は白かな。」
「じゃあ、ユイはシャケにする。」
こうしてボクたちは、二日目における晩餐をしがないお弁当で済ませるのであった。
しがないお弁当でもユイと二人だけの晩餐会。ボクとしては独りで食べる満漢全席よりも遥かに素敵なディナーとなった。
「さすがキョウちゃんおすすめのお弁当ね、シャケが抜群だったわ。クセになりそう。白ワインに最適だった。キョウちゃんに唐揚げ押し付けてゴメンね。」
「ボクは肉でも白ワイン飲んだり、魚でも赤ワイン飲んだりする人だから全然大丈夫なんだ。それよりもユイが喜んでくれれば、それで満足だよ。」
ボクたちは全然豪華でも何でもないディナーで、十分に満足した夜を過ごせていた。
この夜が、ボクとユイの幸せな生活の始まりとなった。
今夜は珍しくいい天気だ。
梅雨の合間の気まぐれか。雲もなく、月がきれいだ。
ボクの部屋の窓辺で、ユイがその月を見上げながらウットリしてまどろんでいる。
静かな時間が流れていた。
その時間は、ボクにユイの姿を見せつけるように流れていた。
ボクにはカメラの趣味があった。高校時代は写真部でもある。
月夜の下に、ワイングラスを傾けながら窓にもたれかかるボクのシャツを着たユイ。
ボクがこのシチュエーションをカメラに収めないわけがない。ボクは無我夢中でシャッターを切った。何枚も何枚も撮影した。
今までにボクが見てきたどの光景よりも美しいと感じた。
もちろん部屋の灯りは消した。ユイに降り注いでいる灯りは青く輝く月光のみ。
「月下の萌愛」
それがボクのポートレートのタイトルだった。
ボクのシャッター音に気付いてくれたユイは、いくつか目線を変えながらポーズを作ってくれた。
ボクはもう夢中だった。高校生だったのあのころに戻ったみたいだ。
この時撮影したポートレートは、結果的にボクの生涯において、最高のポートレートとなったことはいうまでもない。
「いい写真が撮れた?でも恥ずかしい。」
「そうだね。ポートレートが完成したら見せるよ。どこかのコンクールにも応募しようかな。かなりの自信作なんだけど。」
「それは止めてね。お願いだから。」
虚ろな目でボクに訴えかける。その目線が一瞬にしてボクを狼に変えた。
まぶしく光る月もボクを刺激した。
ボクはユイの唇を強引に奪いに行く。
一瞬、「あっ」という声を放ち、防御の体勢に入ろうとしたが、ボクの意図を察してすぐに受け入れの体勢に戻す。
狼に化すとはいえ、別に暴力的になるわけではない。ボクの気持ちがユイを抱きたいと思っただけだ。
ボクはユイに視線を送り、手を取ってベッドへとエスコートする。
ユイは黙ったまま、笑顔で応える。
やがてボクはユイの着衣を一枚ずつ脱がせてゆき、生まれたままの姿に変える。
彼女のヌードは美しい。今夜の月明かりが一層彼女のヌードを輝かせる。
ボクは思わずカメラを取りに行こうとするが、それはユイに諫められる。
「ヌードは嫌。恥ずかしすぎる。」
「どこにも出さない。ボクの秘密にするから。お願い一枚だけ撮らせて。」
「・・・・・・ホントに?誰にも見せない?キョウちゃんだけ?」
「約束するよ。」
そう言ってカメラを取りに走る。
目を瞑ったユイは両腕を頭の位置にあげ、ひざを折ったポーズを作ってくれる。
まさにボクが望んでいたポーズだ。
さらにちょっと腰を浮かして、少しだけ唇を開く。
タイトルをつけるなら「月灯りのヴィーナス」といったところか。
何度か角度を変えてシャッターを切ったが、次のポーズをお願いする前にボクの本能が我慢の限界を超えてしまった。
「きれいだ。とってもきれいだ。」
それだけを言い放つと、ボクはたまらなくなり、ユイの唇を求めに行った。
彼女は快くボクを受け入れ、すすんで女神様があいさつに訪れる。
ボクもユイと同じように生まれたままの姿になって肌と肌を合わせる。
それだけで痺れるような快感が皮膚を走り抜ける。
さらに胸の膨らみはボクの手を誘い、唇さえも誘惑する。
拒む理由も意思もない。誘われるがまま彼女の丘陵へと散策を始める。
いつもと変わらぬやわらかい二つのあたたかい手毬が、普段はおとなしいボクの分身を狼に変えるのだ。
さらにボクの手は洞窟探検をも始める。
ユイの腕はずっとボクの首に巻きついて離れない。そしてときおり優しいくちづけを与えに来てくれる。
ボクは濡れている洞窟の様子を確認すると、ゆっくりと中へ入っていった。
同時にユイの声は漏れ、ボクの全身は得も言われぬ痺れで満たされていく。
首筋も胸元もむせかえるほどのユイの匂いがボクの鼻腔を突き抜けると、ボクの舌はユイの女神と絡み合い、テンポのいいダンスを踊り始める。
甘い吐息はずっとボクの耳元でバラードを奏でていたが、ボクのボサノヴァはいつまでも演奏しているわけにはいかなかった。
ときにロックをときにはブルースを最後にはジャズのリズムを刻む。
心地よいリズムが最終章を迎えるとき、ボクたちはがっちりと互いの肌を寄せ合い、互いの存在を確認して、夜のしじまへと果てていくのであった。
翌日の朝は、二人してベッドの上で生まれたままの姿で目が覚める。
今日もスズメの鳴き声は軽快だ。
ただし、今朝早くから再び雨が降り出している。
「ユイ。このままずっとここにいてくれるの。」
「そうね。キョウちゃんが望んでくれるなら。」
「じゃあ、ボクはキミのご両親に挨拶をしに行かなきゃ。」
「うふふ。」
例によって彼女の会話は言葉数が少ない。
「まだダメよ。まだそんな大それたこと決断しちゃいけないわ。」
「ユイはボクのことは遊びなの?」
「ううん、違うの。でも、ユイはキョウちゃんにとって相応しい女じゃないのよ。だからもう少し様子を見た方がいいのよ、キョウちゃんは。」
ときおり含みを持たせるセリフがユイの口から出てくる。
一体何がどうしたというのだろう。
「何がふさわしくないの?キャバクラにいたからってこと?」
「それもそうなんだけど・・・・・・。」
結局またぞろ口をつぐんでしまった。
ユイは、ボクから目線をそらせて、表情に影を含みながら窓の外を見つめる。
ボクはユイの手を取り、彼女の体を引き寄せる。
「いつか話してくれる約束だったよね。」
そう言って抱きしめるしかなかった。
時間はボクたちを包んだまま、ただ静かに駆け抜けていた。
この日も一日部屋をほとんど出ることなく、昨日と同じような時間を過ごす。
燃えるような情交はなかったけれど。
その代わりに一つだけいいことがあった。
「今日の晩御飯はユイが作ってあげる。」
突然、そんなことを言い出したのだ。あの面倒臭がりのユイが。
「ちょっと驚き。で、何が作れるの?」
「意外と何でもできるよ。ホントはちゃんとできるんだよ。」
そういえば、お店のプロフィールにも特技は『料理』ってなってたんだよね。
「じゃあ、カレーがいい。」
ボクがそう答えると、
「もしかしてキョウちゃん、私のことナメてない?そんな簡単なものしかできないとでも思ってる?」
少しムッとした感じだったのだが、
「そうじゃなくて、ユイが作ったカレーが食べたいのさ。どんなアレンジをしてくれるのかなって思って。」
そう、カレーというのは作り手によって微妙に味が変わる。ボクは今からユイが作るカレーを覚えておきたかったのである。作るカレーによってその人の人柄がわかる、なんていえば完全に言い過ぎだけどね。
「わかったわ、ユイは今から試験を受けることになるのね。これに合格しないと、ここに置いてもらえないのね。じゃあ、頑張る。」
そう言ってユイは、冷蔵庫と戸棚の中身に相談を始めた。
「抜群においしいものはいらないさ。ユイらしいカレーができれば一番嬉しい。」
「うふふ。じゃあ、例えばルウだけとか?」
「あはははは、それでもいいよ。ユイが胸を張ってそれを出せるならね。」
ユイは実に頑張った。ジャガイモの皮をむき、人参を刻み、タマネギを炒め、肉を炙り、そして煮込んだ。
やがて、ルウが鍋の中に投じられ、香ばしい匂いが部屋の中を充満する。
ホントはボクにとっては、微妙な味の違いなんてわかりっこないのだ。だから、ユイが作るユイの味のカレーなら、多少不味くても「美味しい」と言って食べることができると思っていた。
「キョウちゃんできたよ。」
こころなしか、ユイの顔がドキドキソワソワしている。
「見た目と匂いは抜群に美味しそうだよ。」
「意地悪ね。」
そして二人で食卓の準備にかかる。ユイは簡単にレタスとコーンのサラダも作っていた。
「いやあ、立派なカレーセットだよ。見直したなあ。」
「よく考えたら、途中で味見をしてなかったわ。」
このあたりがユイらしい。
「いただきます。」と言って一口頬張ってみると。
「うっ、ううううううう、うまい。」なんてジョークが言えるほど美味しい。
ニッコリ微笑むユイは、嬉しそうな顔をして、
「これでここに置いてもらえる試験は合格ね。よかった。」
ユイと恋人同士になって二日目の夜。今宵は明るい雰囲気で時間が経過していく。
そして、日曜日は終わるのである。
外の雨はそ知らぬふりで、次第にその足音を増大化させていた。
月曜日は多少考えなければならない。
ボクが仕事に出かけなければならないからである。
サラリーマンであり、しかも大した肩書きもないボクは、簡単に会社を休むわけにはいかなかった。
ボクがいなければ進まない仕事があるわけでもなく、「休みたければ、ずっと休んでいれば」と言われそうなのが情けない。
朝七時。颯爽と出勤の支度に取り掛かる。
ボクのモーニングはいつも薄っぺらのトースト一枚とインスタントコーヒーだ。
それでも急ぎ気味でトーストを齧りながら、シャツを着てズボンをはく。
ユイはというと、まだベッドの中でまどろんでいる。
「ユイ、ボクは会社に行ってくるよ。ボクが帰ってくるまでどうする?」
「ユイ、子供じゃないのよ。留守番ぐらいできるわ。」
「じゃあ、行ってくるよ。お昼は自分で何とかできるよね。」
「うふふ。大丈夫よ。」
今日一日誰もいない部屋でどう過ごすというのだろう。テレビを見て過ごすのだろうか。一応トランプは置いてきた。ゲームも多少はある。パソコンだってもちろんある。
一日ぐらいはそれで何とかなるかもしれないが、これから毎日、ただズルズルと過ごすつもりなのだろうか。
少し心配だ。
しかし、今のユイでは、絶対に一言も答えてはくれないだろう。
何かきっかけがあればいいのだが。
結局ボクはこの日、そのことを考えるためだけに時間を費やしていた。
「おい、キョウスケ。」
不意に呼び止められて振り向くと、そこにはヒデさんがいた。
「どうしたんだ?今日はずっと何か考え込んでるじゃないか。何かあったか?例の彼女と連絡でもとれたか?」
「いや、何でもないです。」
ヒデさんにもまだもう少しの間は秘密にしておこう。そう思ったボクは、とっさにシラを切る。
「じゃあ、どうしたんだ。なんだかボーとしてる感じじゃないか。そのままじゃ、またしくじるぞと思ってさ。」
「心配かけてすみません。でも何でもないんです。ちょっと体調がすぐれないだけで。」
「気分的にだろ?仕事が終わったらパアーっと飲みに行こうぜ。」
「今日はちょっと用事があるので、すみません。」
「そうか、でも気をつけろよ。」
ああ、ウソをついてしまった。
でも今は仕方がない。もう少し事情がわかるまでは・・・。
会社が終わると、ボクは一目散にアパートへ戻った。
「ただいまあ~。」
玄関を開けると、部屋の奥からユイがボクに向かって飛び込んでくる。
「おかえり~。やっぱり淋しかったあ。」
さすがはキャバ嬢、男が心をくすぐられる言葉とタイミングを心得ている。
ユイはボクの首に腕を回し、唇を求めに来てくれる。
ネットリとしたユイの女神が、甘い芳香を運んでくれる。
「今日は一日何をしていたの?」
「ん~と、テレビを見たり、インターネットしたり、寝てたり。あとは、キョウちゃんの部屋の秘密探索かな。」
「ゲッ。」
忘れていた。やもめ暮らしの部屋の秘密を。
確かあそこによろしくない本が、そしてあそこによろしくないビデオがあったはずだ。
「で、何か見つけた?」
恐る恐る聞いてみる。
「うふふ、ウソよ。他人の部屋の粗探しなんかしないわ。でも、なんか怪しいものがあったりするの?じゃ、今から探してみようかな。それとも探検は明日にしようかな。」
「ねえユイ。いやユイちゃん。やっぱりそれはよくないんじゃないかな。やっぱりボクにも見られたくないものだってあるし。」
「それって、エロ本とかのこと?」
ああ、やっぱりわかってるよね。でも健全な男の一人暮らしの部屋の中には、それぐらいのものは普通にあるって理解して欲しいところなのだが。
ちょっと返事に困っていると、
「大丈夫よ。解ってるわ。ユイだって持ってたもの。」
「へえ、そうなんだ。」
ボクは女の子の心理はよくわかっていないが、女の子でもそういうものを持っているものなのか、と単純に思ってしまった。
それはともかく話題を変えよう。
「お昼ご飯はどうしたの?」
「キッチンの棚にあったカップめんを貰っちゃったわ。」
「冷蔵庫や冷凍庫にあるものは、何でも食べていいんだよ。」
すると、わかりきっていた返事が返ってくる。
「だって、面倒臭いんだもん。」
やっぱりユイは猫だった。
ボクは夕餉の支度をする。
米をすすいで、ご飯を炊いて、野菜を刻んで。今日のメインは野菜炒めだ。
お酒のアテにウインナーも一緒に炒めよう。
「ユイ、ボクがご飯の準備をしているうちに、シャワーに入っておいで。」
「はーい。一緒に入らなくていいの?」
「入りたいけど、ボクはご飯の支度をするから。」
「うふふ。」
ユイは、その笑みだけ残してバスルームへ入る。ガラス戸にシャワーを浴びるユイの姿が映しだされると、それはそれでエロチックだ。
何だか変な気分になりながら、キッチンに立つボク。今までの日常とは違う日々を過ごしている実感が湧いていた。
ユイが浴び終わると同時にボクの夕餉の準備が終了する。
ボクは基本的にいつもカラスの行水なので、ユイが着替えたり、髪を乾かしたりしている間にボクのシャワータイムは一気に完了してしまう。
さあ、これで夕餉の準備は万端だ。
ユイは例によって酒を所望する。今日は酎ハイがご要望のようだ。土曜日に炭酸水を買っておいてよかった。
ボクも晩酌には付き合うが、どうやらユイほど酒豪ではないらしい。二杯も飲むともう結構な赤ら顔になってくる。ユイの顔色は一向に変わらない。
飲んべの猫なんて聞いたことがない。
それでも時折り甘えるように、ボクの体に頭や頬を擦り付けてくる。
これはこれで可愛いからたまらない。惚れてしまっている弱みでもある。
やがて、ほろ酔いが酩酊となってくるが、ユイの酩酊状態は見ていてわかる。
どんどん軟らかくなるのである。顔の表情が、腰の動きが、そして声のトーンが。
その頃には、ボクはすでに〆の茶漬けを食べていた。せいぜい三杯までは付き合ったが、これ以上飲むと酩酊どころか泥酔に辿り着いてしまう。
箸をおいたボクを見つけると、ユイはグラスを持ちながらボクの膝へと乗り移ってくる。
聞こえてはいないけれど、「にゃ~お」と言っているみたいだ。
そんなしなやかな動きでボクに体を擦り付ける。
まだ体力にも精力にも自身があるボクの分身は、そのしなやかな動きを発見するだけで直立し始めるからたまらない。
元々言葉数の少ないユイのことだから、この動きの間も可愛い笑みがあるだけで、発する言葉はほとんどない。気まぐれ子猫そのままである。
「あとどれぐらい飲むの?そろそろ片付け始めてよろしいですか?お嬢さん。」
「いいわよ。でもユイのグラスは置いていってね、ダーリン。」
ところどころでブチカマシてくる一言が、ボクの心臓をことごとく打ち抜いてくれる。今時死語にもなっているかのような言葉を平気で投げかけてくるのだ。
こういったあたりにボクはユイの、いや萌愛の魅力を見出していたのかもしれない。
片づけを一通り終えると、ボクはユイの体を後ろから抱いて、まったりタイムを所望し始める。
彼女はその要求に拒むことなく応えてくれる。
多少のアルコール臭はあるものの、それを上回る甘い女の匂いがボクを誘惑する。
店にいる頃から、あまり香水を使わなかった彼女は、ボクにはありがたかった。
ボクは子供のころから香水や化粧の匂いが苦手で、それを強調するかのように着飾っている女性は好きになれなかった。
そういった点でも、ユイは理想の女性なのである。多少うわばみでも、ボクは動じないしね。
そんな嬉しい匂いのするユイの首筋を勝手に堪能する。時折り着衣の上から、豊満な体を嗜みながら。
ボクの場合、リアルタイムのまどろみ方はこれぐらいで充分満足できるのである。
裸にならなくったって、唇がずっと繋がってなくったって、温もりを感じながら彼女の匂いを満喫できれば、ボクは充分に満足感を得られるのである。
しかも今は、お店で多くの客が恋焦がれていた萌愛を、ボクはユイとして手の中でゆだねられている。これほどの優越感があるだろうか。
そんなまどろみの時間とともに今夜も更けていく。
ボクとユイはそうした時間をまさに月曜日から金曜日まで、飽きることなく過ごしたのである。あの悪夢第一章となる土曜日が来るのはその翌日のことだった。
土曜日の朝、ボクたちは遅めに目覚める。
ボクの会社が休みだから。
朝はゆっくりとベッドの上で戯れる。
じゃれあっているといった方が正しいかもしれない。
ユイとのじゃれあいは、まさに双方が猫じゃらし状態である。
もし、端から見てる人があれば、「何やってんだアイツらは」と思われるぐらい馬鹿馬鹿しいじゃれあいである。
それでも、ゆっくりとしたひと時を楽しんでいた。
「さて、ユイちゃん。とうとう一週間が経ってしまいました。ここからは又、色んなことを考えなければなりません。まずはお店です。どうする?」
「行きたくないなあ。飛んじゃってもいい?」
お店用語で、嬢が突然やめてしまうことを「飛ぶ」と言うらしい。これは、数ヶ月前、まだ若葉と遊んでいたときに教えてもらったことである。そのころ、いきなり音信普通になった女の子がいて、お店側が随分と気をもんでいたようだ。
お店側も彼女たちの活躍に運営の指針がかかっているので、若い嬢の確保には躍起になるはずである。
今回のパターンに当てはめてみると、萌愛の出勤は元々週に四回。いずれもお気軽に出勤予定を変えるわがままな嬢の一人ではあるが、ついている客は少なくない。萌愛を目当てに来る客はボクをはじめとして多く存在するのである。
今週については、身内の不幸ということで、一週間の休みを許可せざるを得なかったが、そろそろ萌愛ファンの「おあずけタイム」が限界を迎える頃かもしれない。店としては是非とも出勤願いたいところであるに違いない。
それでも、「ユイは行きたくない」の一点張り。
ボク個人としてはもちろん行かせたくないことは言わずもがなだが、大人の事情を納得させるには名案が必要だ。
そこでボクはたいして有りもしない知恵を絞って、次のように提案してみる。
「『お祖母さんの葬式に帰ってから、両親が心細くなってしまった。子供たちをみんな手元に置いておきたいと願う父と母の姿を見て、その願いを叶えてあげようと思った両親思いのユイは、急で申し訳ないけれど、実家へ帰ることを決意しました。つきましては、大変急で申し訳ありませんが、親孝行させてください。』と言って社長に直訴するっていうのはどうだろう?」
「長い。そんな長いセリフ覚えられない。」
「内容が理解できれば、覚えなくても大丈夫じゃない?紙に書いてあげようか。」
「今どこにいるって聞かれたら、なんて答えればいいの?」
しばらく考える。まさかボクんちって訳にはいかないだろう。しかも、ユイは自分の住まいをカラにしているのだし。
「とりあえず、まだ実家にいるってことにするしかないんじゃない?ユイの実家はどこだったっけ?」
「木更津だよ。中途半端な距離なんだけどね。」
「でもまさか、そこから通えとは言われないでしょ。」
「あの社長なら言うかも。でもそれで電話してみる。」
店のほうは片付いた。次はユイのマンションの件だ。
「確か十一階だって言ってたよね、ユイのマンション。それはどこにあるの?」
「世田谷なんだけど・・・・・。」
途端に顔が曇りだす。
「そろそろ話をしてくれてもいいんじゃない?家賃とか払ってるんでしょ?」
「うん。そろそろ解約しなきゃ。それに、しばらくなら、ここにおいてくれるでしょ?ユイのこと見捨てないよね。」
なぜか涙目になるユイ。どこまで訳ありなんだ。
「どうしてそのマンションに帰らないの?」
ユイはボクに抱きついてきた。そしてボクの胸に顔をうずめる。
小刻みな振動とジワっと濡れた感じが胸のあたりに伝わり広がる。
二、三分ほどそうしていただろうか、やっとの思いで顔を上げたユイが、意を決したように話し始める。
「ユイね、一年前まで付き合っていた彼氏がいたの。高校の先輩で、高校時代からちょっと不良だった。そんなところに少し憧れていたのね。でも、やっぱり違ったの。だから別れたんだけど、最近になって偶然にも会っちゃって、でも何もなかったのよ。なのにあの人は『運命の出会いだ』とか言って、しつこく付きまとうようになったの。」
折角話し始めたので、話の腰を折らないように、相槌だけ入れてユイの話を進めさせる。
「今住んでる部屋にも来たことがあるから、マンションの下で待ち伏せされたこともあって、だから帰りたくないの。あの人、機嫌が悪くなると暴力も振るうし、怖いの。」
言い終わってほっとしたのか、力んでいた肩がゆるくほぐれていくのがわかる。
「なんで今まで、それぐらいのことが言えなかったの?」
「だってあの人、今の状況を見たら、キョウちゃんに何をしだすかわからないもの。だから、ここでじっとしてるしかないと思ったの。」
ボクのことを心配してくれたのかと思うと、ボクの中の男の部分が奮い立つ。
「大丈夫だよ。世田谷だと、ここはお店とは方向が違うし、まさかこの辺までは来ないでしょうよ。」
言ってなかったが、ボクのアパートは高円寺にある。店は新宿だし、逆とは言わないまでも方向は違う。
「心配しないで、少しは外へ出ようよ。もう理由もわかったし、ボクもちゃんと警戒するから大丈夫さ。ここでずっと固まってると、そのうち腰が曲がってきちゃうぞ。」
「うん。ありがとう。」
やっとユイの笑顔が見られた。やっぱりユイは笑顔が可愛い。
久しぶりの外出許可を下ろしてくれたユイと、手をつないでアパートを後にする。
今日も空はどんよりしている。まだ梅雨明けの宣言は聞こえない。
端から見る限りは恋人同士に見えるかもしれないが、見えないかもしれない。
十歳以上も年齢が離れているボクとユイの関係はまだ微妙だ。
現状逃避を最優先に考えた結果だけの現在かもしれない。たまたまその相手が、たまたま偶然に会ったボクだっただけかもしれない。たまたま、転がり込めた先がボクのアパートだったから、その流れに任せているだけなのかもしれない。
それでも構わない。今はボクの手中にあることは事実である。犬ならば一日の恩は三年忘れないというが、ユイは図らずも猫である。残念ながら三年の恩は期待すべき事項ではないようだ。
今はあまり深いことを考えずにいよう。
「どこへ行く?まずは買い物に行こう。」
「まずは薬局へ行きたい。女の子の必要なもの買わなきゃ。」
「ユイのお酒も買わないと、ウチの酒蔵はもう空っぽだよ。」
「うふふ。」
これぐらいの買い物なら近所の商店街やスーパーで十分にことが足りる。このあたりは比較的住宅が多く、休みの日も往来の人波は少なくない。
午前中のうちに、必要な買い物を終わらせて一旦部屋に戻る。
ランチは、ボクの特製チャーハンとユイが作ってくれたピリ辛もやしスープ。
二人でキッチンに立つことが、今は最高に楽しい。
ともすれば、時折り昼間から酎ハイを所望したがる彼女だが、それだけはさすがに止めている。まさかボクの部屋で彼女をアル中に仕立てるわけにはいかないからね。
ランチのあとはしばらくの間、まったりとした時間が過ごせる。
そろそろ梅雨も明ける時節柄、雨は降ったり止んだりだが、気温と湿度だけは日に日に高い数値を示していく。部屋の中はエアコンが無いと住んでいられない。
でも、このタイミングが暖かくなる時期でよかったと思っている。ユイの着替えが少なくて済むからだ。必要最低限は買い揃えたものの、これが冬場だったら、その容量は今の五倍ぐらいになるかもしれない。
そんな薄着のまま、ボクとユイの体は至近距離を保つ。
ときどき体の動きに変化があるときに触れる程度の距離だ。
ボクはもっとイチャイチャしていたいのだが、猫たる所以のユイはそれを望んではいないだろう。たまに、じゃらして遊ぶ程度が丁度いいのだ。
それでも、ずうっとそれをガマンできないボクは、彼女の体温を求めてしまう。
「ちょっとだけ抱っこしてもいい?」
「うふふ。いいわよ。」
そう言って許してはくれるけれども、「過ぎたるは及ばざるが如し」になってはいけない。
ユイの匂いと体温が確認できれば、日の明るいうちはそれで満足すべきなのである。
「さて、午後からは住まいのことを解決しに行こう。着るものだって小物だって、全部置きっぱなしでしょ。放置しておくわけにはいかないんじゃないの?それに、元カレだってずっとマンションに張り付いてるわけ無いと思うし。」
「うん。ユイのお部屋、そんなに荷物ないの。ずっとそこに住むつもりじゃなかったし。大事なものって、あんまりないの。」
「でも、通帳とか株券とか宝石箱とか機密書類とかはあるでしょ。」
「ユイって何者?通帳ぐらいはあるけど、他の怪しげな物はない。アクセサリーとかもあんまりないし。」
実際に、セクキャバ嬢がどれぐらいの給金を貰っていたのかは知らない。でも、接客業と風俗業のハザマにある仕事、そんなに安いはずがない。
そんな彼女がボクみたいなしがない安月給のボーイフレンドで満足いくのだろうか。そんな心配さえしたことがある。
「それはともかく、マンションはどうするの?ボクはユイにずっと居てくれてもいいと思ってる。っていうか居て欲しいと思ってる。」
「キョウちゃん優しいのね。でもあんまり迷惑はかけられないし、少なくとも引越しする用意はしなきゃね。」
ボクとしてはずっと一緒に居て欲しかった。彼女さえ望んでくれれば、ボクは多少のリスクは背負うつもりでいたから。それならそれで、ボクがもう少し広いところに引越ししてもいいかなとさえ思っている。
「とりあえず、服とか靴とか身の回りのものと、お金とか大事なものだけは取りに行くことにする。キョウちゃん、ついてきてくれる?」
「もちろん。なんならボディーガード役の友だちも呼ぼうか。」
「それは遠慮しておくわ。キョウちゃんだから教えるのよ、ユイの住んでるところ。他の人に知られるのはイヤ。」
それもそうだ。本来ならボクに教えることさえ憚れるはずの機密事項である。
しかし、このときのボクの提案を実行しておくべきだったと、後々悔やむことになる。
ボクの住んでいる高円寺から、彼女のマンションがある三軒茶屋まではJRから田園都市線に乗り換えて、都合三十分とちょっとである。
一応あたりを警戒しながら駅の改札を出て様子をみる。
駅からマンションまでは徒歩で五分ぐらいか。なるべく人通りのある道を選んで向かう。
まるで昔テレビで見た探偵モノのドラマみたいだ。
とりあえず何とか無事についてホッとする。
部屋の中に入ると、一瞬ムッとする熱気のような気配に圧倒される。これは、しばらく誰もいなかった空間の匂いだろう。
ユイは、小さな旅行バッグと流行のキャリーケースの中に必要な衣類と靴を詰め込み、さらに引き出しから預金通帳らしきものと鏡の前のメーク道具を押し込んだ。
「長居は無用よ。」
そう一言だけ言い放ったユイは、すぐに部屋を出る。
「忘れ物はない?」
あまりに慌しかったので、一瞬のゆとりを与えたつもりだった。
「大事な忘れ物なら、また取りにこれるわ。それよりも早く行きましょ。」
その言葉を言い放つとすぐに、玄関を閉めて颯爽と飛び出す。
しかし、時すでに遅しだった。
マンションの表で待っていたのは二人組みの男たち。一人は背が高くサングラスをしている。もう一人はボクと同じぐらいの背格好で髭を生やしていた。
「ユイちゃん、今までどこにいたんだ。随分探したぜ。」
サングラスの男が言い放つ。
「兄貴がどれほど心配してたかわかってんのか?さあ、来いよ。」
髭の男がそう言ってユイの腕を掴もうとすると、ユイは本能的にその手を振り払い、ボクの後ろへと回り込む。
「兄ちゃん、邪魔すんじゃねえ。おとなしくその女をこっちへよこせ。」
凄む顔はヤクザ顔負けだ。
「誰だか知らないが、彼女は嫌がってるじゃないか。どうして無理やり連れて行こうとするんだ。それに君らこそ一体誰なんだ。」
髭の男がさらに凄んでくる。
「女の前だからってカッコつけんじゃねえぞ。痛い目に会いたくなかったら女を渡せ。」
「あんたらが誰かは知らんが、黙って『はいそうですか』って訳にはいかないよ。」
ボクが言い放ってすぐにサングラス男がユイに踊りかかる。
「いいから来いって。」
ボクは暴力的なことは好きじゃないし、腕に自身があるわけでもない。ましてや二人組みが相手だから、まず戦っても勝ち目はない。
そこで、大声を張り上げる。
「だれかあ、おまわりさんを呼んでくださあいっ!」
その瞬間、二人して同時にボクたちに襲いかかってきた。
ボクは応戦せずに、ユイをかばうために、ユイの体に覆いかぶさる。
男たちはユイを奪うために、ボクを引き剥がそうとして、ボクの背中を、腹を、腕を思う存分殴り、蹴り飛ばした。
「痛くない。ユイを守るためなら痛くない」そう自分に言い聞かせて耐えた。
しばらくすると、近所を通りかかった人が何人か駆け寄ってきてくれた。
「おい、何をしているんだ。」
その声を聞いて、サングラスの男は、「おい、とりあえず引き上げるぞ。」といって髭の男の腕を引く。
しかし、最後に顔面に食らった蹴りは唐突に効いた。
「ユイ、兄貴とこへ戻って来い。さもないとその男もただじゃおかないぞ。」
そう脅し文句を置き土産にして去って行った。
「大丈夫、キョウちゃん、キョウちゃん。」
「ユイこそ大丈夫か。」
そこまで言って、ボクの意識がなくなった。
気がつくと、病院らしき部屋のベッドだった。
何だか体のあちらこちらが痛い。
「キョウちゃん、気がついた?ゴメンネ、ゴメンネ。」
それだけ言うとボクの体に覆いかぶさり、声を上げて泣き叫ぶ。
「痛いよ、ユイ。どうやら大丈夫じゃない?それよりここはどこ?」
「近くの病院、助けに来てくれた人たちが運んでくれたの。お医者さんは、骨はどこも折れてないって。よかった、大事無くて。でもゴメンネ。だから言ったのよ。私はあなたに相応しくないって。」
そこは、マンションのすぐ近くにある小さな個人経営の病院だった。整形外科も診ているみたいなので、応急処置は万全だった。
助けてくれた通りがかりの人たちは、ボロボロになりながら女の子を守っているボクに感動したらしく、処置費まで支払ってくれていた。
ユイに、「いい彼氏を持って幸せだね。」と言い残してくれたらしい。
ベッドの横に座り、ただ泣きながら謝るユイに手を伸ばして、
「大丈夫なんだからいいんじゃない。よかった、ユイに怪我がなくて。それが一番良かった。安心したよ。」
ユイはボクに抱きついたまま、ただただ泣いて謝った。
「どうせ抱きついてくれてるんなら、ご褒美のキスをくれたりしないの?」
「ばかあ。」
そう言いながらも、ちゃんとくちづけをくれる。優しく、そしてやわらかく。
その間もユイはボクの手を放さなかった。ボクが握り返すと、さらにユイの瞳から大粒の涙が零れ落ちてきた。
このときボクは決心する。
「守らなきゃ。」
どうせボクは頑丈にできているのだろう。
ちょっとした脳震盪を起こして気絶しただけで、何箇所かの打撲はあるものの、骨折も縫うような切り傷もなかった。
残念ながら散々蹴られ殴られたおかげで、相当綺麗に顔は脹れている。鏡を見るのも痛々しいほどに。男前が台無しだ。
そんな試合後のボクサーみたいな顔をしたボクと、無事だったおかげでいつもどおり可愛いユイと二人揃って病院を後にする。
面倒を見てくれた病院の先生にお礼を述べて。
後でユイに聞いたところによると、病院の医院長先生も、ボクの勇気に敬意を表して、ほとんど処置料はとらなかったらしい。
ボクたちは高円寺のアパートに帰り、今後の方針について二人で真剣に考える必要に迫られていた。
ユイが無事だったことが一番だったが、荷物を強奪されなかったこともよかった。
おかげで、ユイはしばらくの間はここで身を隠すことができる。
しかし、ずっと身を潜めているわけにもいかないだろう。
ボクは、ユイの元カレといつかは対決しなければならないだろうことを覚悟していた。
別に決闘するわけじゃない。腕ずくの対決は苦手だ。かといって頭脳派でもないボクは途方にくれるしかない。
そこで、ボクは思い切ってヒデさんに相談することを決意する。
「ユイ、ボクの会社にヒデさんという先輩がいるんだ。ボクを「ムーンライトセブン」へ連れて行ってくれた人なんだけど、この人はボクと違って頭も切れるしできる人だし、何よりボクが一番信用している人なんだ。その先輩に相談してみよう。」
「大丈夫?ユイのこと、そのときのキャバ嬢だって知ったら・・・・・。」
不安がるユイの手をポンとたたいて、
「大丈夫。そんなことで怯む人じゃないよ。かえって、羨ましがられるだけだよ。」
「ユイ、やっぱり出て行く。これ以上キョウちゃんに迷惑かけられない。まだひどい目に合わされるの見たくない。ユイがガマンすればいいだけだよ。」
そう言って立ち上がろうとするのを止める。
「もう、乗りかかった船なんだ。ボクだってやられっぱなしじゃ悔しいじゃない。きっとユイを自由にしてボクのモノにしてみせる。」
「キョウちゃん。ゴメンネ。ありがとう。」
「それよりも、ウソでもいいから『愛してる』って言ってくれない?」
「ウソじゃないよ、愛してる・・・・・。」
ボクとユイの夜が更けていく。
さすがに痛みが全身に走っている今夜は、ユイを抱くことはできそうにない。
思えば、まだ短いけれどボクの人生において最悪の土曜日だった。
しかし、この後に更なる悪夢の日が訪れることになるとは、誰も想像もできなかった。
翌、日曜日は完全休養日となった。
動けないわけではないが、痛々しい見た目と脹れ上がった顔が、ユイの母性本能を刺激してくれたらしい。
朝から甲斐甲斐しくボクの世話をしてくれる。
不幸にして口の中が切れているので、食事には苦労する。そこはスープ料理が得意なユイの出番となるのである。
手際のほうは相変わらずだが、思ったよりも多彩な才能を見せてくれた。スープ料理ってこんなにバラエティに富んでいるものとは知らなかった。
「はい、あーんして。」
なんて光景を想像した諸君は、初心者といわざるを得ない。
もしくはアニメや漫画の見すぎである。
スープ料理とは、熱いうちに熱いままを食べるのである。これは自分のタイミングで口まで運ばねば、後々大変なことになるだろう。
幸いにしてボクは指も腕も動くので、ユイが心をこめて作ってくれたスープ料理を、自分のタイミングで美味しく堪能するのである。
元来丈夫に産んでくれた母には感謝している。大した病気もせずにここまで来られたボクは、多少の顔の脹れも日曜日の昼頃には元の男前が随分と復帰の兆しを見せてきた。
「元気になってよかった。」
「別に病気をしてた訳じゃないからね。痛くなければ元気だよ。それにユイが作ってくれたスープのおかげだね。」
ベッドに横たわりながらボクはユイの唇を要求する。
ユイは「うふふ。」と、笑みを浮かべながら、ボクの要求に応えてくれる。
すでにボクの分身は直立している。
「ダメよ今は、体力を余分なことに使っちゃダメ。」
そう言って、ボクの分身を指でツンツンと刺激する。
「それって、余計にモンモンするだけじゃない。」
「ごめん。これで許して。」
またユイの唇がボクの唇に重ねられる。やがて女神がボクの舌に挨拶にやってきた。
ボクの腕はすでにユイの体を包んでいる。
そして、ユイの甘い芳香がボクの体に注がれていく。それで満足するしかなかった。
さて問題は明日からどうするかということである。
ボクも万全な状態じゃないので、まずはヒデさんに相談してみるしかない。
「ユイ、ボクのケータイを取ってくれないかな。」
ボクはヒデさんに電話をして、相談したいことがあるので会いたいという旨の連絡をした。
ヒデさんは快く了解してくれたので、今日の午後に会いに行くことにした。
ユイを連れて・・・・・・。
午後三時、渋谷駅近くの喫茶店。
それが、ヒデさんがボクに指定した待ち合わせである。
先輩よりも先に着くべしと思い、約束時間の十分前には到着したが、すでにヒデさんはそこに待っていた。
「すみません、お待たせしまして。」
あいさつをすると同時に、
「おいキョウスケ、女連れなんて聞いてなかったぜ。その可愛い子ちゃんはいったい誰なんだ?ちゃんと紹介しろよ。」
「はい、こんどボクの彼女になったカワシマユイちゃんです。」
「こんにちは、ユイです。よろしく。」
「おい、うそだろ?ホントかよ。今まで聞いてなかったぜ。しかも、お前のその顔はどうしたっていうんだ?」
「今日はその相談にのってもらいたくて連れてきたんです。」
ボクは正直にユイとの馴れ初めやいきさつ、そして今の状況、昨日の事件のことなどを話した。そして、これからのことについてどうしたらいいのか相談したいとした。
「ようするに、彼女をその元カレから守りたいっていう話だな。男らしいじゃないか。見直したぜ、キョウスケ。」
と言ってボクの肩をパンと叩くが、それはかなり打ち身に響いた。
「痛いです。それに、ボク一人じゃ埒があかないと思ったので、ヒデさんに頼るんです。」
「よしわかった。考えてやるよ。しかし、あの店のお嬢さんと付き合えるなんて、お前ちょっとイケ過ぎてるな。しかもオレに内緒で通ってやがったってことだろ?チクショウーめ、まんまと騙されてた訳だな。ユイちゃんだっけ?いいのか?こんな貧乏で冴えない、しかもまんま中年のオッサンだぞ。」
「うふふ。」
ユイは少し笑っただけで、特に何も答えずにボクの顔を見てニッコリ微笑む。
「なんだよなんだよ、オレと話すのは恥ずかしいかい?」
「すみません。そんなことないです。いい先輩がいて羨ましいなと思っただけです。キョウスケさんはとってもいい人です。それだけでいいんです。」
「どうみても釣り合わないんだけどなあ。もっといい男がいるだろうに。どうしてよりによってこんなヤツでいいんだろう。まっ、それはいいか。ところで、その元カレって一体何者なんだ。若いの連れて見張らせてるなんて、ヤクザか?」
「付き合ってたころは、新宿のある店のバーテンダーだったんですが、今はホストクラブにいるみたいです。」
「若いやつらを使えるってことは、そこそこの兄貴分になってるってことだな。結構な男前だろ、そいつ。」
「見かけだけはかなりイケメンです。でも性格は最悪です。気に入らないとすぐに暴力を奮うので、逃げ出してきたんです。」
「だったら、今の状況をすぐにでも変えていった方がいいだろな。」
「一つはユイの今住んでるマンションをどうするか、二つ目はお店をどうするかだと思うんですが、どうでしょう。」
ヒデさんは腕を組んで、しばらく考えてから話し始める。
「まさにそのとおりだな。マンションは、運営している会社があるんだろ。そこへ連絡して解約するしかないな。引越しするにしても廃棄するにしても業者に依頼して、その業者と一緒に出入りすることがベターだな。いまどきはストーカー対策のサービスもあるだろうから、頼めば可能だと思うよ。」
「マンション運営の会社に業者を紹介してもらえると助かるな。」
「店についてはどうしたいんだい、お嬢さん。」
ヒデさんがユイに話を振る。
「私はもう辞めるつもりでいます。飛んじゃってもいいと思ってるんですが、キョウスケさんがちゃんとケジメはつけた方がいいって言うから。」
そう言ってボクの顔をみる。
ボクはあまり納得していない顔で答える。
「ユイがいい加減な娘だって思われたくないんだ。」
それを受けてヒデさんはボクに忠告してくれる。
「今の状況を察すれば、そんなこと言ってる場合じゃないぜ。店にもその連中が張ってたとしたら、黙って姿を消した方が彼女のためじゃないかな。それはお前のためでもある。」
「ユイ、それでいい?」
「ウン。」
ユイはヒデさんの意向に納得した様子だった。
「だけど、・・・。」
「だけど、なんでしょう。」
今度はヒデさんが納得していないような顔をしてボクに尋ねる。
「彼女をこのままずっとお前さんの部屋に住み込ませるつもりか?これからの仕事はどうするんだ?」
「それはまだ何も考えていません。とりあえず、今の状況を脱出してからでいいんじゃないですか。」
「そうだな。それにしてもいいよなあ、お前。オレもこんな若くて可愛い彼女のために体張って怪我をしてみたいよ。ねえユイちゃん、オレにも誰か紹介してくれない?」
「ダメですよ、ヒデさん結婚してるじゃないですか。」
「遊びなんだからいいじゃない。」
「彼女はどうか知りませんが、ボクは本気なんです。遊びじゃないです。」
そう言い切ったとき、突然ユイの目からポロポロと涙が零れ落ち始めた。
「どうしたの?」
「だって、過去に酷い男がついていた夜の女よ。本気で恋だなんて・・・。」
「どんな仕事をしてたって、どんな過去があったって、今のキミはボクの目の前にいる普通の女の子じゃないか。しかも、あの仕事は絶対に客に体を許してない。そうでしょ?」
ユイは耳元でそっとボクにつぶやく。
「キョウちゃんには許しちゃった・・・・・。」
「それは・・・・」
思わず赤面し、口ごもるボク。
「うふふ。」
そんなやり取りを見て、ヒデさんがやりきれない様子でボクらを叱りつける。
「おいおい、熱いところ見せてくれるのはいいが、しっかりしろよ、おまえら。ったくホントにやりきれんな。」
それはともかく、先輩に相談しておいて良かった。
翌日、ボクは顔に多少の傷跡を背負ったまま会社に出かけた。
事情を知るヒデさん以外は、どうしたのこうしたのと色々尋ねてきたが、ボクは酔っ払って自転車で転んだことにしておいた。
ヒデさんもウインクして見せたが、ホントのことは秘密にしてくれたようだ。
夜、仕事が終わったころ、ユイが一人でどうしているのかと心配して部屋に帰ってみたが、意外にもテキパキと前向きな処置をこなしていた。
マンションについては、不動産会社を通して部屋の解約手続に入った。もちろん電話の対応だけでは、手続きは完了しないので、契約の解除については、会社事務所に行かねばならなかった。それは次の土曜日にボクと一緒に行くこととした。
店については、社長あて辞める旨の連絡を入れていた。理由は元カレとのトラブルが発生し、店で待ち伏せされるのがイヤだからとした。
突然のことで社長からは随分引き止められたらしいが、申し入れ理由に関しては事実なので、臆することなく意志を貫き通し、了承を得たと聞いた。
これでボクが懸念していた無断で店を辞める事態は回避されたのである。
あとは引越し業者に相談だ。これも土曜日にボクが一緒についていくこととなる。
ボクの怪我は思っていたよりも早く回復した。
ユイの作ってくれたスープのおかげだと思っている。
あれから毎晩、ボクの腕の中で夜を過ごすユイは、寝返りを打つ度に心地よい芳香を奏でながらボクを楽しませてくれる。
少しカールした長い髪がボクの鼻腔をくすぐりながら通り過ぎる。
その時になんとも言えない幸せを感じるのである。
回復してからは、夜毎とはいかないまでも、ユイの体を堪能させてもらっている。
店に通っていたときに夢にまで見た憧れの女の子が、今ボクの腕の中で猫のようにまどろみながら夜を嗜んでいるのである。
ユイの皮膚の感覚は、ドキドキするぐらいにやわらかい。特に胸の膨らみから腰にかけてのラインは、素晴らしくやわらかい感覚でボクの手を吸い付かせる。
途端にボクの犬としての本能は狼に変わるのである。
今夜もボクとユイの睦言が始まる。
「今日も淋しかった?」
「うん、一人で淋しかった。」
ボクは始めにかなりの時間を費やして、抱きしめながら彼女の温もりと匂いを感じ取る。
昼の間は、一人で部屋にいるユイのことを思うと、胸が締め付けられる。
「ボクには遠慮なく何でも言ってね。」
そう言ってボクはユイのやわらかい唇を求める。
「エヘ。」って言いながらニッコリと微笑んでボクの唇を待ち受けてくれる。
うっすらと開いた唇からは、そっと女神様が辺りの様子を伺うようにして覗き見をしてくるので、ボクは彼女の行き先を阻むようにして受け答えする。
次のタイミングにはボクの方から女神様の祠に訪問し、そこでネットリと絡まる空気を満喫するのである。
ユイはボクがその肌に触れる前に、必ずと言っていいほど先にボクの分身と彼女の女神様のご対面を施してくれた。彼女の温もりで満たされた祠でゆっくりと粘液を感じたボクの分身は、あっと言う間にそのシルエットを増大させる。
それを確認したユイは、あるときは吸引させながら、あるときは女神様を一人歩きさせながら楽しんだ。
恍惚な快楽が背中から脳天へ走りぬけると、思わずボクはユイの頭を抑えてしまう。
しかし、その行為は我が砲台が暴発する前に抑止しなければならない。
ボクはユイの体を引き上げて、感謝のくちづけを施す。ありったけの愛の言葉とありったけの抱擁を捧げ、彼女の衣服を一枚ずつ剥いでいく。
やがて月の光に照らされた彼女の曲線は、神々しいばかりにその輝きをボクの瞼に放射する。眩しい光でボクは妖しい気配に翻弄され、彼女の胸の膨らみへと誘われていく。
ユイの丘陵はいつものとおりにやわらかくてあたたかい。
手に余るほどの大きな波と香しい薄茶色の突起物がボクの理性を破壊する。波の中で溺れるボクは、時に呼吸困難に襲われることもあるが、このまま死んでもかまわないかもと思ってしまう。
すでに、やわらかい粘液の刺激を与えられているボクの分身は、お預けの時間に耐え切れずに、別行動を起こし始める。
それを察してくれたユイは、にこやかに微笑んで、ボクを受け入れる体制に体を入れ替えてくれる。
ユイの洞窟はすでに熱くほとばしる泉が、受け入れの準備を万端にしてくれていた。
洞窟の中は熱く、そしてやわらかい。時折り幅が狭くなったりするので、気をつけねばならない。急激に起こるその刺激は、通常の刺激よりも何倍もボクの分身を楽しませる。
ボクはできるだけ長く、そしてできるだけ最後までユイの体温と刺激を感じていたい。その申し出を快く受け入れてくれた彼女は、いつもその準備を完了していてくれる。
おかげでボクの最終章はいつも彼女の洞窟の奥深くで砲撃を発する。
「いつも、ボクだけが奉仕してもらってるみたいでゴメンよ。もっとユイにも感じて貰わなきゃバチがあたるよ。」
「ユイも十分感じてるよ。それに、ユイを守ってくれる人に尽くしたいだけ。」
「そんなこと思わなくていいんだよ。ボクのためなんだ。キミを他の男に触れさせたくないだけだよ。ある人がね、ボクのことを独占欲の強い人だって分析した人がいるんだ。そのときはそうでもないと思っていたけど、今はそれが大当たりだったと思う。」
「そんなキョウちゃんが、ユイで感じてくれてる姿が可愛いから、それが面白い。」
「誰にも渡さないよ。」
「離さないでね。」
そしてボクとユイは抱擁の後のくちづけを再び楽しむのである。
「ちょっと待ってね、きれいにしてあげる。」
そういい残して、ユイはもう一度シーツの中に潜り込み、ボクの分身をやわらかな祠で温かく包んでくれた。ボクの愛の証を残さず搾り取るように。
そしてボクたちは生まれたままの姿で抱き合いながら、今宵も夜を明かすのである。
さて、マンションの管理会社と引越し屋さんに相談に行くことになっている土曜日。念のためにお願いしてヒデさんにもついてきてもらった。
先日の二人組みが見張っていたらと思うと、一対二ではハナから勝ち目はないが、二対二ならばボクにも多少の応戦能力はあるつもりだ。
しかし、このことが後の最も痛手になるきっかけを作っていたとは、そのころは知るよしもなかったが。
マンションの手続も引越しの手続も、思いのほかスムーズに運んだ。
マンションの解約は二ヵ月後とされたが、引越しのほうは来月早々に作業が行える。
往路も復路も希望の場所まで送り迎えしてくれる。作業中もつきっきりになってくれるそうだ。もちろん、作業の日は土曜日の設定なので、ボクも立ち会うのだが、多くの力持ちがいてくれると心強いことこの上ない。
あとは、引越し作業の日となる七月の土曜日を待つだけである。
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