萎びる

 小さな古い家と庭だけしか行動の場を与えられていない小さな人魚は、随分退屈している。

 この年齢の子供を大人の目の届く範囲でじっとさせておくことなどどだい無理な話で、身体の機能にハンディキャップのあるミッジならなおさらだ。

 だから、器用に体をくねらせてベッドやソファーのスプリングを軋ませ跳ね飛んでいても、壁紙を剥いでも、手入れの行き届かない、というよりもう雑草の楽園となっている花壇で転げまわろうと彼女は何も言わなかった。

 自分だって子どものときにはやっていたが、祖母や母に制止された。誰だって通って来た道なのだ。それにどうせ自分は死ぬのだから、この家をしっかりと保全する必要などない。

 そう思って、彼女は黙っていた。

 ただ、さすがにカタツムリを食べようとしているのは阻止した。


 そうしてまた一週間ほど過ぎたある日。

 いつものように陸にあがった海洋生物の不恰好さでどたどたとピトーは掃除の行き届かぬ家じゅうを這うというか跳ねるというか、どたどたとうろついた後ソファに這い寄りよじ登ってきた。

 ソファに寝そべり、ぼんやりとTVを見ているミッジの腹に乗りかかり、胸に顔を埋める。

「ミッジ」

 手にしっかり握られているのは綿ぼこりをたくさん集めて握りつぶした灰色の塊だった。

「うわ、汚ね」

「きたね?」

「くしゃみ出るぞ。ぽいしてこい」

「ぽい」

 小さな両手を床についてどたんとソファを降り、ごみ箱に件の圧縮した綿ぼこりを入れるとまたピトーはミッジの腹の定位置に戻った。

 何気なくその人魚の背を撫で、尾を撫でしているうちにミッジはふと気づいた。


――これは?


 伸ばせば意外と長い尾の先の、がぎっと曲がっている脊椎の終わり。

 そこは肉がついて、硬質なゴムのような皮膚に覆われていた。

 尾骨の先端は肉の中で猫の鍵尻尾のようによじれて曲がり、尖った骨の先に触れると幼い人魚は痛がる。

 だからミッジはあまり触らないようにしていたのだが、その尾の先が以前より妙に骨ばり、固く感じられた。

 驚いて、霞む目を近づけて見ると尾の先は皮膚に骨のかたちを浮き上がらせている。

 前はこのがぎんちょになった尾骨にも豚の尾ほどには肉がのっていたはずだった。

 何度も何度も、ちょっと齧ったら病が癒えるのではないか、としみじみ考え続けたあの尾の肉が萎縮しているという事実。

 それに、骨自体も細くなり、妙に尾が短くなったような気がする。

 気のせいだろうかと思ったが、脚の痕跡器官と思われる肉の瘤との大きさの比率が変わってきているように見えるのは気のせいではなかった。

 ミッジは恐る恐る、その脚の切り株から尾に向かって張っていた水掻きのような膜を指でつまみ、伸ばしてみた。

 明らかに以前の伸縮性を失い、というよりも、縁が溶けるように狭くなり、大きく広がらなくなっている。

「ピトー、痛くないか」

「いたい、ない、よー」

 ピトーは質問の意図するところを理解していないらしく、至って呑気に答える。

 筋肉の拘縮時の痛みはないようだが、ミッジは自分の唇が震えるのを感じた。

 この生き物は、長いこと陸にいすぎたせいで泳ぐための器官を萎縮させてしまっているのではないだろうか。

 このままここにいれば、尾が拘縮し海へ帰れなくなってしまうのかもしれない。

 幼い人魚はぺしぺしと尾でミッジの頬に触る。

「ぴとー、しっぽ、いい。いたい、ない、よー」

 ピトーは、ミッジの強張った顔を不思議そうに見ていた。

 人魚の尾の萎縮を自分の怠惰に結び付け、ミッジはほとんど泣きそうになっていた。


 そのときからミッジはピトーを膝に抱き、電話台の脇に置いたPCで寸暇を惜しんで世界中の海を見はじめた。

 それまでにも見ていないわけではなかったが、心血を注いで、というほどでもなかった。重油の除去が進んだらぼちぼち海に帰そう、程度の考えでいたことをミッジは震え上がるほどに後悔していた。

 様々な観光に関するホームページやブログ、地図サイトの航空写真の3D表示や海岸線のストリートビュー、投稿動画サイト。

 素人の思いつく範囲でひたすら青い画面を見続ける。

 大きく口が裂け、その脇に小さな、そして意外とシニカルな目でカメラを見ているナガスクジラ。

 捉えたアシカを食べる前に空高く投げ上げて遊ぶシャチ。

 いつもほほ笑んでいるようなネズミイルカたち。

 幾千ものナイフが煌めくような、サーディンの銀鱗。

 そうしていると、ピトーが画面を指差し、何か得々ときぃきぃぎりぎり説明してくれるのだが相変わらず何と言っているのかわからない。

「そうかそうか、お前はこれ、知ってるのか。すごいなぁ」

 適当に相槌を打ち頭をわしゃわしゃと撫でると彼はひどく嬉しそうな顔をする。

 もはや髪を触られても、ピトーは威嚇するどころか、気恥ずかしげな喜びを見せるようになっていた。

「なあピトー、この海岸とか見覚えないか?」

「……?」

「えっと、なぁ……」

 如何に賢いとはいえ、人語に触れてまだ日数の浅いちびっ子だ。

 さほど難しくない語彙であっても理解の流れが滞ってしまう。

 ミッジは、一度噛み砕いて、易しい表現に直す。

「……ここ、知らねえか?」

「しやない」

 砂糖の結晶にびっしり覆われたラスクをぼりぼりと齧り、キーボードに屑を落としながらピトーは言った。

 北大西洋海流の大凡のルートから、この幼い人魚が辿ってきていそうな様々な海岸線をピトーに見せてもほとんど無反応だった。

「一体お前はどこから来たんだ」

「うみ」

「それは知ってる。海のどこから来たんだって言ってんだ」

「うー」

 今日もまた飽きて膝の上でじたばたし始めるピトーをあやしながら、ミッジは人魚伝説の残るイングランドとアイルランドの南あたりを、ポルトガル海流に添ってなぞってみる。

 ここだって、もう幾度となく見てきた海域だ。変わり映えはしない。

 ふとミッジはあるブログに目を留めた。アイルランド南西にある漁業の町ボルティモアからテルセイラ島へディンギー(1~2人乗りの小さなヨット)で旅したブログの主が撮った画像だった。

 これは一昨日投稿されたもので、世界の大多数の人間が初めて見る画像だ。

 海の真ん中に、暗礁の存在を示す灯浮標。

 海面を透かして不気味に見えているいくつもの黒っぽい岩。

 まるで海中に首長竜が群れているのを眺めているような、ぞっとするような雰囲気。

 深い海や淵、ダムなどを覗き込むときに感じる、背筋を冷たい手で逆なでされるような感覚だった。

「なんかここ、気色悪いな」

 そう言った途端、ピトーはぎぎっと鳴き、ミッジの膝からPCモニターへと身を乗り出した。

 思いきり顰めた顔で、掌を思い切り拡げて画面を叩く。

 モニターには脂じみた手の跡とさっきまで齧っていたラスクの小さな屑が張り付いた。

「ぎっ」

 彼は憤懣やるかたない顔でミッジの顔を見た。

「わるい、ねー」

 この幼い人魚は何か非常に不満らしい。

「悪い?」

「だめ、ねー」

 ミッジに、小さい指で示したのは画像の中の灯浮標だった。

「これはな、船がごつんってならねえように目印で置いてあるんだぞ」

「だめ」

 大真面目な顔だ。

 おそらくピトーはミッジに同意を求めている。

 ミッジは彼の鼻梁の出っ張りを優しく指の腹でつついた。

「なんでだめなんだ?」

「……ぎっ」

 クジラ・イルカ類の持つメロン体ほど巨大な器官でもなく、やや鷲鼻状になっているだけだが、それでも大事な集音器をとんとんされ、人魚は顔を顰めた。

「ここ、知ってるのか?」

 ピトーは唇を尖らせた。

「ぴとー、しってる」

「……お前の仲間も、よくここに来るのか?」

「うん」

「みんな、ここにくるのか?」

「……こども、みんな」

 幼い人魚は尾を前後に揺すりながら妙に重々しく頷いた。

――そうか

 ミッジはそのブログのコメント欄に丁重な照会文を書き込んだ。

 送信のボタンをクリックすると、彼女はゆっくりと、膝の上の小さな身体を抱き締めた。

「……やっとお前をおうちへ返してやれるかも知れないぞ」


 この島の若い漁師で重油の回収作業のムードメイカー、エリックはさすがに疲れ切っていた。

 だいぶ作業は進んでいるのだが、漁業再開の目途はつかない。他の海域での類似の事故では、6か月かかったという。しかしそれは大都市近郊の狭域という条件で、こんな田舎の離れ小島だとどうなるのだろう。漁業補償でどのくらい暮らしは維持できるのだろう。

 そういう心配が、身体の疲労に拍車をかける。

 日本人バッグパッカーのミドリと結婚してからもう3年になるが、彼女は何一つ不平や不安を口にしなかった。ミドリは直情的なエリックに心底惚れこんでいて、一緒にいられさえすれば天国だと思っているようだった。エリックに話しかける若い女がいようものなら無意識に凄味を利かせた真っ黒い大きな瞳で睨みつける。

 そして今は、子供用バギーに可愛げのない男児を乗せて訪ねてきた痩せ女を彼女は無表情に見つめていた。

 エリックがピトーの顔を覗き込んだ。

「こいつか、お前が預かったって子は」

「おう」

「名前はピ……ピーターだったよな」

「ピトーだ」

 この狭い島でミッジが預かったという足萎えの幼子の噂は隅々まで広がっているようだ。

 子供は、胸から下、ミノムシのように布でぐるぐる巻きにされ、ミッジの膝の上から深海の色の目でエリックを凝視している。

 その視線が少しそれ、彼の背後にいるミドリに注がれる。エリックの細君は、ぎこちなく笑って見せた。

 ピトーはミドリの笑顔にぶつかると、ぎゅっとミッジの胸に顔を埋め、時折ちらちらと横目で黒髪の女がまだ自分を見ているか盗み見し始めた。

「で、今日は何の用なの?」

 ミドリはミッジに視線を戻した。

 ミッジはかさかさと乾いた唇をちょっと舐めて、切り出した。

「あの、浮桟橋ポンツーンの右手にいつもあるぼろ船、お前んちのなんだってな」

 船着き場の南側に、小さな浮桟橋がある。この島の漁民が自分の船に人や物を乗せて運ぶときは漁港の舫い場を使うのだが、ここは言わば巨大な筏で橋面と水面との高低差が比較的少ないため、小さな船、――本土からの海上白タクやレジャー用の船はここを使うことが多い。

 そこから海を向いて立ったとき、右手の奥まったあたりに廃船がごちゃごちゃと置かれていて、その中に比較的状態の良い20フィートほどの船がある。

「あ、ああ」

 エリックはばつの悪そうな顔をした。

 それはエリックが若気の至りで買った古いプレジャーボートだ。

 ハッチは小さくて漁には使えないものの、優美でスマート。

 外洋の航行にも耐えるフィンランド製シャフト艇で、日本製エンジン搭載。

 センターのディーゼルオイルのタンクも大容量、燃費もよし。

 このクラス、コンディションにしては破格の安値で、散々業者に煽られたエリックはミドリの反対を押し切って飛びついた。

 ところが最悪だったのは、たまたま島に漁船を卸しに来た別の中古船売買業者に世間話の気軽さでこの船の異常な安値を話したときのことだ。

「ああこの船、有名ですよ。前のオーナーもその前のオーナーも……その、亡くなってますよ。うちらの間ではこの船は売っても売っても戻って来るってんで結構お馴染みっていうか、……誰かが買ったっていうんで心配してたとこなんですが、バーンさんとこにあったとはねえ」

 この船に満足はしていたが、どこかにずっと引っ掛かるものを感じていたエリックは真っ青になった。

「は? これ買ったときそんなこと一言も……」

 業者は頬髯を伸ばした顔を少し掻き、気の毒そうな顔をした。

 海に生業の場を持つ者が傍目から見れば可笑しいほど縁起を担ぐのは、古今東西を問わない。この若者は実に不運な買い物をしてしまった。

 事業者として、あの不吉な船を買い取って自分の販売店で焦げ付かせるのは避けたい、と思うのは当然で、業者はそそくさと話を切り上げエリックから離れていった。

 そういうことを一気に思いだし、少々眉を寄せながら、エリックは訊ねた。

「あれが、どうかしたのか」

「乗らないんなら貸してもらえないかと思って。もちろんただでとは言わないよ」

「……貸すって?誰が操縦すんだ?」

「私だけど」

「お前、免許持ってたのか?」

「……うん」

 どう見ても嘘をついている。

 嘘でなかったとしても、この身体で操縦しようなんて無理だ。

「……どっか行きたいとこでもあるのか?」

「ちょっと南西の方へ」

「南西って?」

「ポルトガルのほうとか」

「『とか』って何だよ。どこらへんだ?」

「アングラ・ド・エロイーズモだよ」

 それは、世界遺産としても登録されたポルトガル領の古い街だ。

「アングラ?」

 訊き返すエリックにもう一度ミッジは鬱陶しいほどゆっくりと発音してみせた。

 気を利かせてミドリが差し出した海図と地図をエリックが拡げ、ミッジが指し示す。

 イベリア半島の遥か西の沖、北大西洋に浮かぶアゾレス諸島のテルセイラ島。

 芽を出しかけたエンドウ豆のような形の島だ。その南沿岸のほぼ中央にその町はある。

 CFP(EUの共通漁業政策)によって規定された排他的経済水域内の移動なので、特段の法的手続きも要らず、燃料や気象条件、他の船舶の航行にさえ気を付けていれば行けなくはない。

「うわマジか」

「マジだ」

「こっから1400マイルはあるぞ」

「あるだろうよ。往復で2800マイルってとこか」

「そもそも何しに行くんだ」

 血色の悪い痩せた女は幼児の真黒い髪の生えた頭を二回、軽く撫でた。

「こいつの親類がいてさ……こいつはそこで面倒見てもらうのが一番なんだ。だから、連れていく」

「病気のお前が連れてかなきゃいけないのか?そいつらがそのちびを引き取りに、ここに来るべきだろ?」

「ちょっと事情があってな」

 ミドリがのっぺりとアクセントに欠ける口調で言う。

「そもそも、ここから船で行くより、連絡船で本島に行って、飛行機使うか陸路で油が漂着してない港まで行ってフェリーに乗った方が安全」

「この身体で、こいつ抱えての公共交通機関の乗り継ぎ続きはきついよ」

「それはそうだけど、何でミッジが」

 ミッジは畳み掛けた。

「人に預けて連れて行ってもらおうにも、こいつ私がいないとパニック起こすし」

 エリックはあまりの長旅に躊躇っている。

「でもなぁ……」

「無理ならいいんだ。疲れてるとこ悪かったな」

 呻くような掛け声をかけてピトーを抱え、立ち上がるミッジに慌ててエリックは声をかけた。

「俺が一緒に行こうか?」

 ミドリも早速夫唱婦随の体だ。

「エリックが行くなら私も行く。エリックはそそっかしいところがある。だから私も行くべき」

 ぼそぼそと大人たちが喋る声を聴きながら、ピトーは相変わらずミドリをちらちらと見ていたがふと彼女の腰回りをしばらく見つめたかと思うと、ミッジの首にぶら下がるように薄い耳朶に口をつけ、何事か囁きはじめた。

「なんだピトー」

「おなか、ねー、こども」

「……は? 大人が話し合ってるときは邪魔しないもんだぞ」

 ミッジは軽く窘める。

 ちびっ子はミドリをまた見ると、自分の幼児特有のぱつんと張った腹を両手で軽く叩いて見せた。

「こども」

「ああ、ああ。お前は子どもだな」

「ちがう。あのひと、おなか」

「……あ? ああ……え?」

 ピトーを耳から離すと、ミッジは妙に困惑したような瞬きをしながらミドリを見た。

 彼女も黒い瞳で訝しげに見返す。

 癒えない病を抱えて人生を諦めた女は、少し切ない気分になりながら言った。

「ミドリはやめといた方がいいと思う」

「なぜ」

「妊娠してんだろ? 重油の除去作業も、もうやめときなよ」

 若い夫は面食らった。

「……はぁ?」

 彼は大きな緑色の眼を丸くしてぽかんとミッジを見ていたが、ロボットのような不自然な動きで彼に負けず劣らず驚いた顔で固まっている妻に向き直った。

「本当か?」

「わからない……確かに生理は少し遅れている、けど」

「けど、何だよ!」

「そう言えば、ノーラにもそろそろ赤ちゃんがとかなんとか言われた」

「あいつの勘はすげえんだぞ! そういう話ならすぐ俺に言えよ!」

 エリックはミッジに向き直った。

「おいミッジ、何でお前知ってんだ」

「噂っていうか、風の便りっていうか……なぁ、ピトー」

 ピトーは自分の名を聞くや、かちかちと歯を鳴らす。

 エリックは少しうるさく伸びてきたこげ茶色の髪をがしがしと掻き回した。

「こういう話を、他人から聞かされる俺って……」

 彼は呻いた。

「普通、女房から話すもんだろ?」

「エリック、私も知らなかったから。それに本当に妊娠しているかどうか、まだわからない」

 至極もっともな話だ。

 まだぶつぶつとこぼしているエリックと対照的に、ミドリは次第にぽわんと浮ついた目になってきた。彼女のそんな顔など、エリック以外の誰が見たことがあろうか。東洋人のきついアーモンドアイもこうして和らげば、彼女もかなりの美人だ。

 だがミッジは夫婦の込み入った話にはつきあう気がない。

「おい、エリック。船は結局出してくれるんだな?」

「おうよ。いつがいいんだ」

「できるだけ早く」

「整備に一週間くれ。何しろもう何か月も置きっぱなしなんだ」

「わかった。じゃあ次の水曜の朝7時、いいか?」

「よし。じゃあルートも俺が決めとこう。あっちで何泊かするのか?」

「いや、すぐ帰る」

「じゃあ、帰りも乗ってくだろ?」

「お前がいいって言うなら」

 ミッジは、自分がこの若い男をどんな目に遭わせようとしているかを思い、視線を床に落とした。

「当たり前だろうが。今の時期は波も風も大したことないし、行き帰り、強行軍で四日くらいになるな。都合つけといてやるぜ。缶詰とかでよけりゃ食いもんも水も支度しといてやっから」

 体力にも気力にも自信のある彼は若々しく言い切った。

「ありがとう。ミドリ、こんな時に悪いけど亭主と船借りるよ」

「あ、ああ……」

 心許ない声を上げるミドリにミッジはあっさりと言った。

「大丈夫、お前の亭主はちゃんと返すって。私はこの子の前で既婚者に手を出すほど色キチガイじゃないし、お前の旦那だってこんな病気持ちとどうこうしようなんて趣味はないだろ?」

「……確かに」

 本当に、ミドリはエリック以外は割とどうでもいい女だった。


 こうして、ミッジはピトーと翌週の水曜日に船出をすることに決めた。


 アングラ・ド・エロイーズモなんか嘘っぱちだった。ただ、そっちの方面に船を進めるというだけのことだ。

 エリックは往復で四日と言った。おそらく、あの場所へは二日足らずで着く。

 ミッジは、預金を今月の大凡の引き落とし分だけ残して下ろすと、ピトーが好きなもの、好きだと言いそうなものをたくさん買い込んで震える手で荷造りした。

 そして、先日コリーンが届けてくれた子供の衣類や雑貨類もまだ使えそうなものはひとまとめに箱に入れ、ひどく汚したり破れ目を作ってしまったものだけを手元に残した。箱にはコリーンの住所を書いた届け票を貼りつけ、配達日は二週間先の日を指定した。集配に来た初老の男は宛先がごく近いことに不思議な顔をしたが、何も言わず料金を徴収し、箱を持っていった。

 そうやって休み休み、身の周りを整理し、ごみを纏め、生鮮食品を食べきっていく。水道電気ガス、解約の予約もした。

「遠い遠いところへ行くから、きれいきれいにしとかないとな」

 船出の前夜、ミッジは殻のままバリバリとゆで玉子を食べているピトーの頭を撫でた。


             つづく

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