怒る

 潮騒と共に日は暮れ、斜めに差し込んだ西日も色を失う。

 そろそろ夕食の頃合いだというのに、ミッジは固い床の上でピトーに寄り添ってうたた寝していた。

 突然、そこへじりりり…と昔ながらの呼び鈴がけたたましく鳴った。

 ピトーが跳ね起き、かっかっとクリック音を立てた。

「ピトー、ちょっと静かに」

 ミッジは両手をついてよいしょと立ち上がり、隠れてろ、とソファの下を指差した。

 呑み込みの早いピトーは身をうねらせて指示された場所へさっと潜り込む。

 ぐしゃぐしゃの髪を掻き回しながら、ミッジは来客を迎えた。

「よぅ」

 ぶっきらぼうに挨拶したのはグロッサリーのおかみのところの長男、コリーンだった。ミッジより2つ歳下で、子どもの頃祖母の家に遊びに来るたびに一緒に遊んで小突き回したものだ。今はミッジより少し背が高いが、昔は本当に芥子粒のように小さかった。

 昔と変わらぬ坊主頭で、思慮深さと無縁の悪童がそのまま大人になったような彼だが、物事をごちゃごちゃ考えるのが苦手な分シンプルな彼の意見は誰よりも的を得ていることが多かった。

「おう」

 コリーンは紙包みを二つ、ぱんぱんに膨らませて抱えていた。

「母ちゃんがお前んとこに持ってけって」

「ああ、悪いね」

「俺ら兄弟のお下がりのお下がりでもう相当ぼろっちいんだけどよ……母ちゃんが返さなくてもいい、ウェスでもダスターでも好きに使えってさ」

「助かるよ。ありがとう」

 コリーンからは、微かな揮発油と石鹸の匂いがした。

 海辺での本日分の回収作業を終えて簡易防護服を脱ぎ、さっとひとっ風呂浴びてここへ荷物を届けに来たのだろう。

 コリーンはリビングのソファに荷物を置き、その脇にどかっと腰かけた。

「晩飯はもう食ったのか?」

「いや……今から飯作ろうかって」

 コリーンはがさごそと傍らの袋を開け、潰れないよう一番上にあったホイルの包みを取り出した。

「これノーラが焼いたビーフパイなんだけどよ。まあまあうまいんだぜ」

 この大きさだとたっぷり二人分はある。

 彼の妻は美人の上に料理がうまい。食い意地が張っている彼女は、美味とは何かをよく心得ていた。

「あんたのかみさん、料理上手いもんね。ありがたく晩飯にさせてもらうわ」

 コリーンは少しくすぐったい顔をした後、真面目な口調で言った。

「……ところでお前が預かった子ども、障がいがあるとかって聞いたんだけどよ」

「……」

 彼はまどろっこしいものの言い方はしない。しかし、母親に似て実直で人情深いので嫌味がない。

「お前の親戚、ひどすぎだろ。預ける先ぐらい選べよって」

「うちは一族揃ってぼっちで頭おかしいんだよ! うちのばあちゃんもそうだったろ?」

「そりゃそうだけどよぉ……」

 歯に衣を着せないコリーンにミッジは笑ったが、その唇の右端は麻痺し上がっていない。コリーンは痛ましく思った。

「お前もそんな体なんだし、俺らができることは何でも手伝うからちゃんと言えよ」

「コリーンのくせに男前なこと言うじゃないのさ」

「そういうものの言い方、やめろ」

 このコリーンだって、家族を養ういっぱしの漁師なのだ。もう何もかも昔とは違っている。

「俺は真面目に言ってんだ。茶化すな」

「ごめん……ありがと」

 素直な気持ちで、ミッジは礼を言った。

「いい男になったなって言いたかったんだよ」

「じゃあ最初っからそう言え」

 そのとき、ミッジは換えたばかりのソファーカバーの裾から人魚の顔が半ばのぞいているのに気付いた。

 コリーンが履いている派手な色合いのデッキシューズが気になるらしく、そっと手を伸ばしている。

 ミッジはピトーの真似をして唇をぶるると鳴らし、歯を剥きだして威嚇の表情を作った。

 ピトーはミッジを見てさっと引っ込んだ。

 コリーンは驚いた。

「何やってんだ」

「ちょっとぶるるるな気分になったもんで」

「……」

「こういう病気なんだよ、私は」

 追及は認めない、というミッジの態度に、コリーンは深く考えるのをやめた。

「で、今どこにいるんだ? そのピトーとかっていう子は」

「ちょっと向こうで遊んでる」

「母ちゃんに、子どもがちゃんと元気にしてるか顔見てから帰って来いって言われてんだよ。ケガしてんだろ?」

「いやいやいやいやちょっと待って」

 ミッジは少々狼狽えている。

「どうしたんだ」

「いや、あの、向こうは散らかってて」

 コリーンは立ち上がりかけて足が何かに当るのを感じ、見ると古びたビニール人形だった。

 何気なく拾おうとした彼はびっくりした。

小さな手が彼の股の下あたりから出てきて人形を掴み、ソファの下へ引っ張りこんだのだ。

 コリーンの尻の下で、人形に仕込まれた笛の音が間抜けに鳴った。

「ミッジ……今」

 ミッジは少し焦っている。

「………その、いつの間にか……」

 コリーンは四つん這いになりソファーカバーを捲り下を覗き込もうとしたが、ミッジはこの若い漁師の腰のベルトを背後から掴むと渾身の力で引き摺り、ソファから離した。

「何だよ!」

 当然コリーンは喚いた。

「いきなりそういうのやめてよ! 難しい子なんだからさ!」

「わかったからとにかくベルト離せ!」

 コリーンは腰を捻って身を半ば反転させ、ミッジの手を振り払おうとしたが、ちょっとしたことですぐにバランスを崩す病人は突き飛ばされたようなかたちで転び、キャビネットにぶつかって倒れ込んでしまった。

派手な音を立てて、花の飾られていない古い型の花瓶が床に落ち、割れた。

「あ、すまん! 大丈夫か!」

「……うー……」

「わざとじゃねえんだ。ごめんな」

「わかってるって」

 そのときだった。

 コリーンの目が虚空に大きく見開かれた。

 じわじわと眉根を寄せて目をつぶる。

「……なんか……あれ……」

「あ?」

 彼はこめかみを押さえた。

「すっげえ頭痛い」

 そう呻くと、顔にぎゅっと皺を寄せた。

「何だこれ……こんな痛えの初めてだ」

 コリーンは冷たい床に額をつけ、起き上れなかった。

「大丈夫?!」

 ミッジはコリーンの脇に膝をつき助け起こそうとしたが、苦痛に唸っているコリーンを抱えることなど無理だった。

「今、嫁さんに電話してやるから!」

 おろおろと携帯電話を取り出したミッジは、ふとピトーがソファーの下から首だけ出しているのに気が付いた。

 恐ろしく顔を歪め、口角を下げた形で口を開けてコリーンを見ている。


 こいつは人間のオスだ。

 オスのくせに、メスのミッジを困らせて、攻撃した。


 幼い人魚は、この坊主頭をさっさと追い払わなければ、と思った。

 海中では望むべくもない美味をいつも饗してくれるミッジ。

 他の人間と見比べると体の動きがとてもおかしくて、一緒に食事をしていても右の口元だけやたらと汚れるミッジ。

 抱っこしてもらっても、右の手にほとんど力が入っていないミッジ。

 それをいじめるなど、オスの風上にも置けぬ不埒の極みだ。

 ちょうど空腹を感じ始めたころで、ピトーは機嫌が悪くなりつつあった。

 早速ピトーは、複雑に口腔口蓋、鼻腔を使って方向性を持つ低周波を作りだし、ミッジをいじめるムカつくオスにぶっつけた。

 初対面でいきなり髪をざく切りしたミッジに対してやったように、だ。

 可聴域の広い人魚同士だとすぐに気付かれて、相手がおとなだと叱りとばされ、こどもだとやりかえされてくんずほぐれつのけんかになるのだが、人間はとても苦しみだす。

 その苦痛の原因に、気付きもしない。

 エアコンや湯沸し室外機などによる低周波に起因した健康被害は、主に頭痛、言いようのない不快感、不眠、食欲減退という姿でじわじわと襲ってくる。そして、その原因になっている音や振動は、その症状に悩まされているものに認識されていないケースも多い。兵器としての利用を目論んだある国が行った低周波発生増幅機の実験では、起動の瞬間、操作していた技師たちの多臓器同時破裂による即死という惨事を招いたことすらある。

 使いようによってはかなり危険なものだ。

 これは地上にいたころは単なる「声」だった。

 もともと、人間とは同種同属の起源を持っている生き物だったのだから。

 意思の疎通手段に起源をもつこの低周波は、海棲哺乳類中泳力も体力も底辺レベルに位置する海の住人に、外敵に襲われたときのための能力として備わったもので、子どもの頃から遊びに交えて使い方を覚えていく。


 しかしミッジにはそんなことはわからない。

 とにかく、なぜだかわからないがミッジはピトーにひどく不吉なものを感じた。

 ミッジはコリーンとピトーの間に這うようにして身を置きコリーンの目から異様な形相を浮かべた幼い人魚を隠した。

 コリーンは軽く握った両手をこめかみに強く圧しつけ、痛みを逃そうと歯を食いしばっている。

「あ……」

 ミッジは顔を顰めた。

 いきなりだ。

 本当にいきなり頭痛が始まった。

 痛い。

 かなり痛い。

 脳に指を突っ込まれてぐるぐる引っ掻き回されるような痛さだ。

 脳には痛覚点がないはずなのだが、そういう形容しか見つからない。

 人魚の魔力の源と言い伝えられている髪を、切ったあの時と同じだ。

「痛ててて……」

 ミッジがそう呟くと、痛みはぴたりと治まった。

 ピトーを見ると、先ほどの不気味な表情は消えばつの悪そうな顔をしてさっとソファの下へ引っ込んでいった。

「あれ?」

 コリーンが声をあげた。

 おそるおそる起き上った彼は悪夢から覚めたような顔をした。

「痛いのが……消えたぞ」

 ミッジの中に、一つの確信が生まれた。

 やらなければならないことができた。

 ミッジはコリーンに気遣いの言葉をかけた。

「大丈夫? まだ動かないほうがいいんじゃない」

 頑丈さが取り柄のコリーンには少々ショックな出来事だったらしく、ぼんやりと床に座り込み、頭を撫でまわしている。

「今、ノーラ呼ぶから」

「いや、……なんか、いいわ」

 ゆっくりと立ち上がったコリーンは目頭を押さえてみたり、頭を軽く振ってみたりしている。

「全然痛くねえし。一人で帰れるわ」

「帰り道でひっくり返って冷たくなっても知らないよ」

 コリーンの言葉を一蹴し、ミッジはグロッサリーの隣にある石造りの平屋へ電話をかけ、マーティ家の嫁に繋いでもらった。

「あ、ミッジだけど。いろいろ気ぃ遣ってもらって悪いね……いやこれから食うんだけど……マジでありがとう。そんでコリーンがちょっと体調崩して頭痛いって言い出してさ、ちょっと迎えに来てもらえないかな……うん、うん、よろしく」

 電話を終えるとミッジはソファの上にくしゃくしゃに丸まっていたひざ掛けを広げた。

 床にしゃがみこみ、ソファの下からくだんの生き物をくるみ、引っぱり出す。もちろん、この子の下半身が絶対に来客の目に触れないように。

「コリーン、これがピトーだ」

 手荒に抱きかかえられたピトーは、ミッジの腕の中でとりあえずコリーンに向かって顔を顰め、唇を震わせブーイングを行ってみせた。

「知らないやつに会うとさ、なんか機嫌悪くなるみたいなんだ……」

 憎々しげに睨みつけ、噛みつかんばかりに敵意丸出しの男児に、ただでさえ痛みに耐えることで体力を消耗しきったコリーンはよろしくな、とだけ言った。

 ミッジは不本意なお披露目が終わったピトーを寝室へ連れて行き、ベッドの上に置いた。

「ミッジ、いたいいたい、わるいひと、ねー」

 二人きりになるとピトーが興奮して喋り出した。

「わるい、ねー、ぎっぎぎっ、ミッジ」

 同意を求めるが、ミッジは冷めた顔で見下ろしている。

「あれは、お前がやったんだね?」

「……ぎっ」

「あいつをいたいいたいにしたのは、ピトー?」

 ちびっ子人魚は、いっぺんに不安になった。

 大きな青い瞳をどぎまぎと細かく動かしてミッジを見上げる。

「そう言えば、ピトーの髪をちょきちょきしたときも私は頭いたいいたいだったね」

 語彙の幼稚さにもかかわらず口調は冷ややかで、ピトーは彼女が今までになく怒っているのを悟った。

「ピトー、ぎっ、ミッジ、いたいいたい、ない!」

 必死に何ごとか言い立てているが要領を得ない。

 ミッジは無言で、寝室のドアを閉めて出て行った。


 電話の十分後、玄関先でばたばたと足音がし、ミッジがドアを開けたところへコリーンの妻、ノーラが飛び込んできた。

 明るくあけっぴろげな性格の栗毛美人で家事もばっちりなのだが、やたらと大食いな上おつむの出来に少々問題があり、おめでたいところのあるコリーンとつりあったよい奥方だった。

「ミッジ、こんばんは!」

「ああ、早かったね」

 入ってすぐの貧相なリビングを見回して、ソファで薄いコーディアルをゆっくり飲んでいるコリーンを見つけるとノーラは急き込んで訊ねた。

「どこ? どこが痛いん?」

 嫁の剣幕に押されて、新婚の夫は少したじろぐ。

「いや、どこも……さっきまで痛かったんだけどな」

 コリーンはグラスを置き、あの痛みが信じられないと言ったように頭に手を当てた。

「心配したんやけ、もう!」

 ノーラは、コリーンを抱き締め目を閉じてちくちくする丸坊主の頭に頬を寄せた。

「おー新婚さんは熱いねえ」

「ミッジ、ちょっと黙っとって」

 愛情表現にしては真剣な顔だ。

 そして目を開け、神託を受けた巫女のような重々しさで彼女は言った。

「ああ、大丈夫。何ともなかろうや」

 ギリシャ人の血を引いているノーラは、ひょっとしたら古代の巫女の系譜なのではと思うほど勘が鋭かった。コリーンはそこに全幅の信頼を置いている。

 彼は明らかにほっとしていた。

「そうか。じゃあ帰るか」

「うん!」

 立ち上がったコリーンに、ノーラも安心した様子で快活に返事しさっと寄り添う。

 見送ろうとするミッジに、コリーンは言った。

「あのちびも腹空かせてるだろうしよ、さっさと飯にしてやれ」

「……うん」

「どうした?」

「あの……ごめんな」

「何が」

「ピトーがあんなで」

 コリーンはにやりとした。

「すっかりお前、母ちゃん気取りだな」

「うるさい私はここ数日で寿命縮んでんだよ」

 そのミッジの言葉に、ノーラは何とも複雑な顔をする。しかし彼女の夫も、その知己もそれに気づかなかった。

 ミッジの家からの帰り道、ノーラはコリーンに訊ねた。

「コリーン、ミッジの病気って何?」

「脳の病気だって聞いたけど、詳しくは知らねえよ」

「病院にはかかっとるん?」

「ボーラーのとこには行ってねえみたいだな」

 島に一カ所ある小さな診療所には小柄で童顔の若い医師と、彼に不器用にアタックし続けているブロンド美人看護師がおり、娯楽らしい娯楽のない島の衆目を集めている。

 ただでさえ狭いコミュニティで、どこの誰が何の病気だというのは、どんなに医師や看護師が守秘義務を遵守していても筒抜けだった。

「何か、医者に診せても診せなくてもどうでもいい病気って言ってたぜ。何でそんなこと聞くんだ?」

「……なんかミッジ、少しずつ悪くなっとらん?」

 ちょっと前まで、歩くのがもっと速かった。

 どんどん彼女の体は傾ぎ、首も心持ち斜めになってきている。

 鳶色の目は茫洋とし、焦点が合わないのか何度も眉を顰める。

 ノーラは初めてミッジを見たときからずっと、あるものを感じていた。

 それは、死のにおいだった。

 実際に臭うわけではないのだが、そこはかとなく漂う雰囲気は、においのようにふわふわとミッジに纏わりついている。

 ミッジを見かけるたび、それを告げるべきかどうかいつも考え込んでは、日常の雑事に追われ結局は忘れてしまう。


 ピトーは低い食卓の、キッチンがよく見える位置に置いたぺしゃんこなクッションにアシカの姿勢で行儀よく座っている。

 骨折しているかと思った右手は大したことがなかったようで、もう腫れもなくすっきりしている。自分で引き剥がしたミトンや保冷剤、湿布は床に落ちていた。

 しかし、ビーフパイののった皿は目の前から遠い遠い、ミッジの手元にある。

「コリーンはな、お前のためにいろいろ持ってきてくれたんだよ? それをお前は……」

「がっ」

「コリーンは、いいやつなんだよ」

「……がっ」

 ミッジはあのとき、ピトーが健常な子どもではなく、いや人間ですらないかもしれないことに気づいたときと同じ嫌悪感を抱いた。

 深くて暗い海底で得体の知れぬ生き物を見たような不気味さに一瞬鳥肌が立った。

 この幼さで、この生き物は十分に人間を害せる。

 ミッジを見つめながらうるうると大きな目に涙を溜め、洟を垂らしだすちび人魚にミッジは疲れた顔を擦った。

 どうしてこんな、どうしてこんな、と心の中で繰り返しながら、箱からティッシュを引っぱり出し顔を拭いてやる。

「いいか、二度と頭いたいいたいしたら、そこのきっちゃない海に捨てるぞマジで」

 自分を頼りきり、こんなに懐いているというのに。

 こんなに柔らかく温かい身体で、澄んだ目をしているのに。

 ミッジは、心に落ちたインクの染みのような忌避と恐怖の思いから目を逸らした。

「わかったかこらピトー」

 人魚は何のことを怒られているのかよくわかっている。

 しかし、メスをいじめるのはオスとして許さざるべきことだ。

――わるいやつ!

 泣きつつも、思い出すとまだ怒りがこみ上げる。

 自分は悪いことはしていない。

 こうしてミッジに怒られるのだって、もとはと言えばあの坊主頭のせいなのだ。

「反省した? もうしない?」

「……ない」

 ミッジがそういうなら、素直にそう言っておく。

 でもまた来たら、何度だってやってやる。

 ピトーは顔をミッジの胸に擦りつけた。

「じゃあ、ご飯にしよう」

 料理には、その家の匂いが染み付いているものだ。多孔質なものや、油脂の多いものには特に残り香が感じられやすい。


――これ、こことちがうにおいがする。


 ピトーは、いつものミッジがくれるもののほうが好きだな、と思った。ミッジはもう実に簡単なものしか作れなくなっているし、腐臭や黴臭、酸化臭やぬめりさえなければ消費期限など気にしない性質なのだが。

 ちびっ子人魚がそれでも手や顔をグレービーソースだらけにしながらビーフパイを平らげると、ミッジはもう一切れピトーの前の皿によそった。

「うまいだろ? これ、コリーンが持ってきてくれたんだからな。ありがたく食え」

 はっきり意味こそ分からないがこの食べ物の出どころについてあまり愉快でないことをミッジが言っているのを感じ取り、ピトーはぐぅ、と唸った。

 彼が食べ終わった後も、ミッジは肉の繊維をゆっくりゆっくりと咀嚼していた。

 もしこのまま嚥下機能が低下して、流動食しか受け付けなくなり、そして「食べる」という行為を捨てて胃瘻を作られ栄養管理されるのを想像するとそれだけで半世紀以上歳を取った気がする。機能回復の見込みがなくなって経口食を断念すると、一気に様々な機能がダメになる。死に近づく、と同義なのだ。

 導尿カテーテルの袋や様々な点滴の袋を引っ掛けたホルダーをからから押しながら、病院の廊下を呆けた顔で歩く自分の姿を、自分自身が受け容れられない。

 伏し目がちに、長い時間口を動かすミッジの横にピトーはどたどたとやってきて、そっと脇腹に寄りかかった。


 ミッジがぼくとはなしができたらいいなぁ。


 幼い人魚は、自らの言葉でいつもミッジに話しかけている。

 もちろん、ミッジには理解できないどころか、その高周波は聞こえてすらいない。


 あのね、おとながむかしのはなしをしてくれたんだよ。


 むかしは、みんなおなじでうみでくらして、そのあとりくへあがってくらしてみた。

 でもあるひ、うまくくらしていけなかったひとは、うみにもどった。

 そして、りくにのこったひとはにんげんといういきものになって、うみにかえったものをころすようになった。

 ちがういきものだっていって、たべたりするようになった。

 だからぼくたちはかくれてくらして、みつかってしまったときだけにんげんをころした。


 ミッジにみつかったときぼくはころされるとおもった。

 でもミッジはぼくがにんげんじゃないとわかってもころさなかった。

 こまってたらやさしくしてくれた。

 だからぼくは、ミッジがだいすきだよ。




   つづく

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