思う

 すっかり夜は更けた。

 もうミッジはへとへとだった。

 ピトーが様々なものに手を伸ばすので、ミッジは細々したものを総て高い棚に片っ端から移動する作業で忙しく、真っ黒な油染みの掃除など盛大に断念していた。

 イルカ類は、右脳左脳を交互に眠らせることができるため、眠っていてもそれなりに活動でき、呼吸や泳ぎに支障はきたさない。

 もしこのちびっこ人魚もそうであれば、庇護者的には地獄だ。

 両手を組み合わせ、「そろそろ寝てほしい」と哀願したい気分だ。

 ミッジはバスルームとベッドルームの扉を開けた。

 ぴょこぴょこと後ろをついてきているピトーに、ミッジは跪いた。

「ねえ。私は寝たいんだけど」

 右手を小さな丸っこい頭に載せると、ピトーは指先まで水かきの張った手で払いのけた。

 やはり髪に触るのは、タブーなのだろう。

「あのな、お前はちびっこだからわかんないだろうけど、私は病人で、本当はいつ死んでもおかしかないんだからね」

「……」

 ピトーの真っ青な瞳には、間近で見ると陽光に透ける海のような青緑みが差していた。

 さすがちびっ子人外、自分の濁った眼とは大違いによく澄んでいる。

「今日は無理した。ほんとに無理ぶっこいた。頭も死ぬほど痛かったし。だから寝かせてよ」

 人魚の左頬を不自由な手で包むと、ミッジは哀れっぽい声を上げた。

「つきましてはピトーさんも寝てください。どっちがいいですか」

 指差しながらゆっくり言う。

「あっちで寝るなら、水入れてあげます。こっちで寝るなら、添い寝してあげます。どっちも嫌なら、そこらへんに転がっててください」

 ピトーは丸い目をぐりぐりさせてミッジの顔を見ている。どこまで理解したか、やはりよくわからない。

 少々めんどくさくなったミッジは、立ち上がった。

「私はこっちで寝るからね」

 ミッジは狭い寝室に入り、やっとこさ身体をベッドに横たえた。シアサッカーのシーツが身体の下で撚れているが、今夜はそれをどうにかするような気力も体力も残っていない。

 どたどたとついてきたピトーが、おそらくミッジよりも強力な背筋でぐっと上体を持ち上げ、ベッドの上のシーツを掴み、登ってこようとしている。

 左手で少し手伝ってやると、ちびっ子人魚は尾をばたばたさせながら、未婚女性の寝床に転がり込むのに成功した。

――犬みたい。

 この見かけによらずずっしりと重く骨太でしなやかな筋肉がついた小さな身体。

 ちびっ子特有の無駄な力が入った不器用さ。

 本当に、犬そっくりだった。

 ベッドに上がったピトーはぴっちりとミッジの胸にくっついてきた。

 くふー、と鼻息がかかり、額が鎖骨に当たる。

「よしよし、お前、母ちゃんいなくて寂しいんだね」

 小さなランプを一つだけ灯して、ミッジは優しく眠たげに話しかけた。

 ピトーはもぞもぞと蚯蚓腫れの残る彼女の胸元で何かやっている。

「ここにいる間だけ母ちゃんになってやってもいい……」

 その言葉の続きと眠気は、一瞬で吹っ飛んだ。

 ピトーが、ミッジの胸元のキャミソールとブラをぐっと引っ張り下ろし、露わになったミッジの薄茶色の乳首を何の迷いもなくぱくんと咥えたのだ。

「ひゃああっ?!」

 乳を吸うときの赤ん坊のように、ピトーは乳輪まで含み、軽く前歯を当てて乳首を舌で包んでいる。

 いきなりこれは受け容れ難かった。

 ミッジは思わず短く悲鳴を上げ、相手が子供だというのも忘れて両手で突き離した。

「私はお前の母ちゃんじゃないよ!」

 さっきの言葉はどこへやら、生娘のようにミッジは胸を押さえた。

 人間の成人男子なら対処しようもあるが、相手は子ども。

 人間の子どもであっても許し難いのに、さらに生態不明のクリプティッドクリーチャーときている。

――あっぶねえええ!

 何とも言えない禁忌臭だ。

 ミッジは、性的にはノーマル&スタンダードでペドフィリアやズーフィリアとは縁がない。

 ベッドの縁、すんでのところで落ちなかったピトーは、強張った顔でミッジを見つめた。

 そこには、当然の行為に激しい叱責を喰らった理不尽さが滲んでいる。

 仄かな灯りでも、みるみる目に液体が溜まってくるのがはっきりわかった。

 ミッジだって被害者気分なのだが、やはり子どもの涙には勝てない。

 床に手をつき、幼い人魚はずるっとベッドから降りた。

 開け放したままの寝室のドアへのたのたと向かっている小さい背中にミッジは、やらかした、と思った。

 言葉の通じぬちびっこに向けてもしょうがない嫌悪感がブーメランのように返ってきて突き刺さり、自責の念へ変換されてしまう。

 ミッジもベッドから降りた。

「ごめん」

 またよいしょと背後から掬い上げながら、ミッジは謝った。

「ピトー、まだちっこいのに怒鳴ってごめん」

 人魚はばたばたと身をくねらせて、降りたがった。顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「あ~、泣くな泣くな」

 ピトーをベッドにどすんと下ろす、というよりも暴れられたので落としてしまった。

 「もう、何なの、もう……」

 ぶつぶつひとりごちながら、ミッジはピトーの真ん前に胡坐をかいた。

「よく聞け? これを、おっぱいと我々は呼んでいる」

 何故か演説調で、キャミソールの胸元を引っ張って、谷間を見せた。

「おっぱい。お前の母ちゃんにもあるんじゃないの?」

 ピトーはぐしゅぐしゅと鼻を鳴らし、上目遣いでミッジの顔と半ば見えかかっている二つの柔らかい肉の隆起を見た。

 それでも全身から拗ねたオーラを立ち昇らせている。

 ランプの灯りが不気味にいかがわしい。

「ピトーはちびっこだから、服の上から触るのまではギリOKってことにしてあげる」

「……」

「でも!」

 ミッジは口を開け、何かを咥える動作を見せたあと、自分の乳房を指差し、手を大きく左右に動かして拒否の感情を示し、怒った顔をして見せた。

「ぱくっ、は無し! 私だって、一応傷付いたんだぞ!」

 ミッジの剣幕に、またベッドを降りようとするピトーを、ミッジは抱き竦めた。

「そうじゃないって! ほら! おっぱいとくっつきたいんでしょ?! おっぱいがありゃ落ち着くんでしょ?! だけどお口はやめてっていうか乳首もダメで…」

――私は何やってんだ。

――痴女だろこれ。

 ミッジは頭がくらくらしてきた。

 ところがおっぱいの威力というものは大したもので、ミッジの胸に顔を埋め尾と下肢の痕跡との間にある水かきを拡げておずおずとミッジの身体に密着させると、ピトーはたちまち大人しくなってしまった。

 七十年程生きる人間が二年ほどかけて完全離乳するのを、生まれてからあっという間に離乳して三年ほどで死ぬネズミには全く理解できないだろう。

 もし、この生き物が伝承の通り数百年も生きるのであれば、この小さな人魚も人間の常識を超え、ゆっくりと、気の遠くなるような時間をかけて成長していくのかもしれない。

 時間の概念も感覚も、きっと役には立たないのだ。

 ひょっとしたら、三歳児程度に見えて、自分より長く生きているのかもしれない。

 よしよし、と腰に張りつく尾を撫でてやっているうち、ふとミッジは気づいた。

 この人魚の尾の先は、他の尾を持つ動物と同じく、皮と薄い肉の中で尾骨の先端が尖っている。そして、先天的に尾骨が曲がっている猫のように、ピトーの尾の先も歪んでほんの少し右に曲がっていた。

「ピトー、お前かぎしっぽなんだ」

 小さな骨が曲がって固まったその先端は、軟骨状で少し軟らかい。そのささやかな湾曲をそっと伸ばそうとすると、痛かったらしくピトーはぎっと鳴き、尻尾でごく軽くミッジを叩いた。


 規則正しく、深い寝息をたてはじめた人魚は窮屈になったのかごろんと寝返りを打った。

 ミッジも仰向けに身体を伸ばし、白い天井板の雨漏りの染みを眺める。


 人間で言えば三歳児程度に見えるのだが、この動物は親と暮らしていたのだろうか?

 人間の場合、このくらいの子供には親がごちゃごちゃと世話を焼く。

 こいつも、そういう暮らしだったのだろうか。

 だとしたら、きっと寂しいに違いない。

 親も、こいつを探しているだろう。

 今のところ、海に戻そうにもあの状態では無理だ。

 そもそも、どの海域からきたんだろう、このガキは。


 そんなことをとりとめなく考えながら、ミッジは目を閉じた。いろいろ考えても埒が明かない。明くわけもない。結局は観察して、様々に推測するしかない。


 イルカやクジラの類は、陸に打ち上げられると皮膚が乾燥に耐えられず、損傷が始まる。さらにラジエーターたる海水がない状態では体内に熱がこもり、すぐに死んでしまう。

 ところかこの子はぴんしゃんして、気持ちよさそうに眠っている。

 上半身の皮膚は柔らかく、下半身はすべすべと、かさついて傷んだ箇所など見つからない。

 上半身だけといえど人間の姿かたちを失っていないし、陸上の活動にそれほど物怖じしていないように見える。

 そして、北洋に住む連中のような分厚い脂肪の層はこの小さな身体には感じない。

 底生魚介を捕獲するための水流噴出の能力を備え、海藻も食べている。

 以上のことを総括すると、この生き物はきっと大規模な回遊はせずに暖かい海で暮らし、気が向けば陸にも上がるのだろう。

 それが何故、こんなところへ一頭? 一人? でやって来たのか。

 眠りに落ちていくミッジの頭を、美しい南洋の魚たちがよぎっていった。

 死滅回遊魚……低緯度の暖かい海から北大西洋海流に乗って、高緯度の海までやってきて帰る術もなく死んでいく、ちょっとどんくさい魚たち。

 その多くは幼魚だ。

 それをこの人魚と重ねあわせたところで、ミッジはもう何も考えられなくなった。


――一番問題なのは、何にもわからないのに、推論だけで突っ走ってる私なんだろうなぁ……


 人生が終わるまでの数年、あるいは数か月、数日、あるいは数時間に最大のやっかいごとを抱えてしまったものだ。



 おとなになれば にんげんはあまりこわくない

 だが こどもは


 まだ何もかもが青みを帯びた夜明け。

 何か悲しい、でも暖かい夢を見ていたピトーは、ふと鋭く力強い鳥の声を聞いた。

――何だろう、この声。

 それは、ミッジの家から南に300ヤードほど離れたところにある民家で飼われている鶏の朝の訪れを告げる声だ。

 うつらうつらしながら面白い声だとピトーは思った。

 そうやって、幼い人魚は徐々に目を覚ました。

 仲間がいない。

 長い髪が無くなっている。

 ここはどこだっただろうか、と少し考え、すぐに昨日の一連の出来事を思い出した。

 ミッジ、という音の羅列に識別される人間のメスは、自分の隣でよく寝ている。

 ちょっと口を開けて、着けている黒い布が捲れ上がって腹も丸出しだ。


 睡眠中の代謝抑制ができるようになるまでは、親に抱かれて磯や海上に突き出た岩の上で眠る。

 たまには様々な群れと合流し、子どもを持ったことのない若いメスに守られ、群れの中の子ども同士で固まって寝るときもある。


 そのときと同じようにしただけなのに、あんなに怒るなんて。

 おとなたちにほんとうに似ているのに、やっぱり違う生き物だ。

 手にも足にも水かきがない。

 動きもぎくしゃくとして滑らかさがない。

 可聴・発声音域もひどく狭いようだ。

 屈みこんで二つ薄いシミがある顔をよく見ると、昨日自分を抱えて転んで擦り剥いた傷が薄い暈太を作り赤く腫れていた。

 この「ミッジ」の傷は膿みはじめている。

 この程度のケガなど普通すぐ消えてしまうはずなのに、人間は体が弱いというのは本当らしい。

 人魚は、ミッジの頬を舐めた。

 一瞬長い睫毛が震えたがそのまま目を覚ます様子もなく、ミッジは一見健やかに寝息を立てている。

 しばらくミッジを眺めた後、とたん、とベッドから降り、ピトーはちょっとした探検に出かけることにした。


 日が高くなった。今日は昨日よりは暑いようだ。

 ミッジはのろのろと起き上り、辺りを見回した。

 何もいない。

 昨日のことは夢かもしれない。

 とうとう、私は夢と現実の見境もつかなくなってきているのか。

 ちびっ子人魚を拾ったなどと、荒唐無稽にもほどがある。


 いつの間にかぺろんと出ていた貧弱な乳房をブラジャーにしまい、ミッジはベッドから出て大きく伸びをした。

 腰が痛い。

 寝室のドアの脇に掛けてある民芸風木彫り枠に嵌った鏡をちらりと見ると、いつもと同じ十人並みな顔が映った。

 昨日怪我をしたように記憶している頬も、つるんと傷一つない。

やはり、夏の疲れやあの海から漂う悪臭が脳によくないのだ。

 だからあんなに食感や臭いや痛覚までがリアルっぽい夢を見てしまう。

 朝から大きく溜息をつくと、ミッジはトイレへと入り、愕然、そして呆然とした。

 便器の中が、濡れて溶けかけた大量のトイレットペーパーで惨たらしく詰まっていた。

 便座は、しみじみと見たくもない状態に汚れている。


――あいつがやったのか? やっぱ夢じゃないのか?

――いや、実はこれは私がやったのかもしれないし! 自分がやらかしたのを妄想の動物に押しつけてるのかもしれないし!

――私も、いよいよやばいな……


 そうやって気を落ち着けたようで余計不安になった。とにかくざっと掃除をして原状回復を行ったそのときだ。

 キッチンの方からがたがたと音がした。ホラー映画の追い詰められていくヒロインのように、ミッジはびくついた。

 ぎいいいいいという甲高い声にきりきりきりというクリック音が混じる。

 こんな音声をどうやって出しているのかさっぱりわからない。

 本日も重労働を約束されたミッジが右足を引きずってキッチンへ行くと、ちびっ子は冷凍庫を開け放ち、中にあったものを床の上に並べていた。

 ピトーはその中の一つ、ポリエステルの保存袋を食いちぎり、レイザークラム(マテ貝の一種)を殻ごとばりばりと噛み砕いている。

 開けっ放しの冷凍室に、とうに警報音を打ち枯らした冷蔵庫が唸っている。

「おいちび。何やってんの」

 ミッジはピトーの隣にしゃがみこんだ。

「お前、他人様のお宅で!!」

 いんげん、コーン、かぼちゃ、買い溜めしたベーコンや鶏肉。

 そしてつましい暮らしの中、ほんの少しの贅沢気分を味わいたくて通販で買ったアイスクリーム詰め合わせ。

 一度溶ければ食感も味も変化してしまうのはわかっている。

 ピトーは自慢たらしい顔をして尻尾で床を一叩きし、エビの詰まったポリ袋をミッジに押しつけてきた。ミッジに食えということらしい。

「はいはい、エビさん達もしまっとこうね」

 朝からミッジは憂鬱になった。

 床の上の溶けかけたものを片っ端から冷凍庫へと戻し、すっかり溶けて水が出てしまったものは冷蔵庫へ移す。

 そして、ピトーに左手を差し出した。

「それもちょうだい」

 ピトーは少々惜しそうに、溶けきったレイザークラムが2本残ったポリ袋をミッジに差し出した。

 その態度は大変素直でよろしいのだが、この袋にはたしか、大ぶりのものが15本ほど入っていたはずだった。

「ピトーさん、ここは勝手に開けたらダメだ」

「め」

「ダメ」

「ぁめ」


 昨晩の夕食もあざとく強請られたミッジは、憮然としつつもスープボウルにいつもより多めにシリアルを入れた。そして牛乳をかけようとして、はっとした。

 昨日買ってきた牛乳と小麦粉を海辺においてきてしまった。

 あの後、満潮が来ているはずだ。きっと流されている。流されていなくても、小麦粉の方は惨めなことになっている。

 だが牛乳の方はいけるかもしれない。常温で40日ほど保存可能なLL牛乳だ。パッケージが破れていなければ、まだ飲める。

「ピトー、これ食い終わったら、海見に行こう」

 牛乳を切らしたミッジは、シリアルの上に無残に溶けたピーチメルバアイスクリームを掻き出した。

 何かかけてふやかさないと、げほっと噎せてしまうのだ。

 ミッジの手元を凝視していたピトーがまた「がっ」と鳴いた。


 また「ミッジ」が自分を差し置いて美味しいものを食べようとしている。


 ピトーはこうして、朝っぱらから崩壊したゲシュタルトをデフラグ中のミッジから朝食の分け前を奪取した。

 何とも複雑なミッジの表情に引き換え人魚は陶然と甘ったるい穀物の粒をもぐもぐしながら幼稚な頭で幼稚なことを考えていた。


 こんな味のものは海にはなかった。

 何だか、すごくうれしい。

 帰ったら、みんなに話したい。


 この時点でも、このクリーチャーはそのうち自分の故郷に帰れることを露ほども疑っていない。

 ピトーはこと食べ物に関し、「ミッジ」に更なる信頼を置くことにした。

 ただ、自分をのけ者にしてこっそり食べようとするところが、ちょっとだめなところだ。

 ミッジの方はと言えば、得体のしれぬ動物が感激の面持ちでがっつくのを見るのは悪い気分ではなかったが、懐に吹きすさぶ厳冬の風を感じていた。


 すっきりとは晴れず、雲の隙間からジェイコブの梯子(雲の隙間から光が地上に直進して照らしている現象)がいくつもかかっている。それでも昨日よりは明るく、蒸し暑い。

 ミッジは、今日はレインコートとゴム手袋、長靴を装備した。誰にも見られてないのを確認しながら、物置にあった錆びついた運搬用台車にビニール袋から顔だけ出したピトーを乗せて昼前の海岸へ出る。

 ピトーは楽しそうだった。

 台車が砂に嵌りこんで、これ以上は無理だというところまで来ると、ミッジは足を止めて海を眺めた。

 やはり、相変わらず海面も浜辺も一面真っ黒だった。海面だけでなく、海底も潮汐にびくともしない重くべとつく沈殿物で一杯になっている。

「ピトー」

 ミッジは言った。

「これ、もともとは何だったと思う? 生き物だったんだよ」

 厚く堆積した生物の死骸が地熱や地圧の影響を受けながら、天文学的年月を経て液化したもの。

 それが、この発がん性を持つ揮発臭紛々のどろどろした鉱物油だ。

 ただの死骸の汁だったものが何億年も経て、自然環境に対しどれほどの脅威的な代物になるか。

 それを思うとミッジは「ナチュラル」とは何なのかよくわからなくなってくる。

 ピトーは台車に乗ったまま、困った顔をして海を眺めていた。

「お前、いつになったら帰れるんだろうね」

 そして、何とか無事だった牛乳パックを岩陰で見つける。

 身体から思い切り遠ざけてつまむように持ち上げて回収し、袋に入れて台車の端っこに載せた。

「ピトー、そっち側に寄って」

「ぎっ」

 昨日は人魚、今日は牛乳パックを洗うのか、とミッジは苦笑していたが、どんなにパッケージを洗っても牛乳はひどく揮発油臭く、結局捨ててしまった。


 がっかりしながらTVを点け、ニュースを見る。

 海外からの救援部隊が続々と到着して既に重油の回収作業が始まり、沿岸区域以外では油処理剤がヘリコプターで散布されている、とキャスターが語っている。

 ピトーは当然のごとくモニターの真ん前に陣取った。テレビ台に手をかけて伸び上がる。

 顔をくっつけんばかりに注視し、人魚はクリック音を発しながら画面を叩きはじめた。

「ミッジ」

 顰めた顔でミッジに画面を示し、かっかっという高く澄んだ音を出しながらまた叩きはじめる。

 人間の幼児と同じく、TVの中に小さな人が入っているという摩訶不思議に囚われているのだ。

 リモコンで、料理番組をやっている局に変えてみせる。ちょうど、若手の料理研究家がイタリア風のメレンゲを泡立てていた。

 口をæの発音の形にしたままピトーは固まってしまった。

 ミッジは、ピトーのよく日に焼けた滑らかな腰をそっと押し、薄型TVの側面の方へ導いた。

「ほら、薄っぺらいよね」

 かっかっ、が、きりきりきり、という音に変わった。

「こんなとこに人なんか入るわけないって」

 納得したようなしていないような顔で画面やその裏面を撫でまわす人魚に、ふとミッジはあるものの存在を思い出した。

「ちょっと退いて」

 ついぞ見もしなかった、以前の同僚が撮った動画のDVDをテレビ台の奥から出して、埃をふうっと吹いた。

 プレイヤーにセットし、再生する。

 そこには、白いドレスを着けた美しい金髪の女性が、タキシード姿の口髭を生やしたハンサムと照れ臭そうにキスしていた。

 その画面の奥の方に、ミッドナイトブルーのドレスを着けた一群がいる。いつも業績不振に苦心する上司に少しでも喜んでもらおうと、職場で取り扱っているドレスをそれぞれデザイン違いで新調した部下たちだ。

 白い米を撒くタイミングを、うきうきしながら待っているその一団の中に、ミッジがいた。

「これ。よぉく見ろ。私だよ」

 画面を指差してやると、ピトーは生身のミッジと液晶画面のミッジを見比べ、面食らった様子で呟いた。

「ミッジ」

「そう。イカシてるでしょ? この頃は元気だったんだ」

 この画面の中で動くものは生き物ではないということを納得させるべく、何度も同じところを再生して見せる。

「わかった? この中のものは、鏡みたいに別のものが映ってるんだよ」

 別のもの。

 そう、そこに映っているのは、自分とは別のものなのだ。

 映像の中の晴れやかな笑顔の同僚たちやハイヒールを履きバランスよく歩く自分の姿に少し苦しくなったミッジは、カーペットの上にその場しのぎで敷いた新聞紙の油染みに目を落とした。

「……もう何もかも、変わっちゃったよ」

 ピトーは、この映像のミッジが滑らかに左右対称な歩行を行っているのを訝しんでいたが、元上司の親類の子どもたちが着飾って画面に登場し、可愛らしい声を揃えて祝いの歌を歌い始めると、そちらの方へ釘付けになった。

 やはり子どもは子どもが気になるのだ。


 ミッジはTVにピトーの子守りを任せることにして、自分はPCでネット検索、そして祖母の書棚にあった民話集精読に取りかかった。



 だいたい世界中のどこにでも人魚の伝説が残っており、そこからこの子の出身地を特定することは難しく思えた。調べれば調べるほど混乱してくる。

 ミッジが今までに推測した、暖かい海で雑食、沿岸性だということだけではどうしようもない。


 アイルランドの西側、クレア州がメロウの伝承で有名で、ブルターニュにも多くの人魚伝説が語り継がれている。ほかにもドイツのローレライやギリシアのセイレーン、ノルウェーのハルフゥなどなどがいる。

 とくにこのヨーロッパの場合、5世紀ごろのキリスト教の伝播、そして宗教的隆盛とともに土着信仰はアグレッシブに否定され、消滅させられていった。その際、人心を惑わせ堕落させる悪の権化とされた伝説の生き物、自然神たちが「神の威光により」鳥や獣や虫に姿を変えられたとする伝承が布教者たちによって意図的に作られている。

 その中の一つが、ブルターニュのイスの町の伝承だった。善良な女神が荒淫で悪辣な女とされ、その呪われた町ごと海に沈められて人魚となったというやつだ。

その人魚「ダユー」が、どうもブルターニュ地方の人魚伝説の祖とされているらしい。

 そのイスのあった場所は、ドゥアルヌネ湾、あるいはそのすぐ近くのトレパセ(「死者」の意)湾という説があり、実際その近隣に人魚の伝承が多い。

 潮の流れからいっても、この小さな人魚が迷い込んできた経緯について、説明がつきやすい。

 だが人里近く、伝承の地として観光局もやってくるそこに人魚がいたら、とっくの昔に見つかっているはずだ。

 

 でも、人魚を海へ帰してやろうという仏心とは別に、ミッジの中で、じわじわと浮かび上がってきた思いがある。


 それは、この伝説の生き物を危機から掬い上げ、何とか人心地つける状態にしてやった今になって訪れた、生命への欲だった。

 ミッジは、TVに夢中の幼い人魚の腰から下を眺めた。

 浅黒い皮膚、腰から下の暗灰色、そしてややピンク色を帯びた尾の先や水かき状の膜。

 これが魚だったら、ゼラチン質たっぷりでいいスープにできそうな感じだ。


――もしこいつが本当に伝説の人魚なら、私は


 人魚の肉を食えば、不老不死になり、どんな病も癒える、と東洋では言い伝えられている。

 ただの伝承と笑い飛ばして、無視するべきだ。

 信憑性などどこにもない。

 それはわかっている。

 しかし、この目の前にいる生き物の存在自体が信憑性とか何とかをぶっ飛ばしているのだ。

 諦めていた機能を、時間を、運命を取り戻せる可能性が目の前をうろちょろする。

 もちろん、不老不死など望んではいない。

 ただちょっとだけ、まっすぐ歩ける脚と思い通りに動く手、噎せない喉、そして真っ当な普通の人間としての寿命を取り戻したいだけなのだ。

 本当に、ほんのちょっとだけでいい。


――海に返す前に、少しだけ、鰭の先だけでも口にできたら…

――殺すわけじゃない。

――私はこいつの命の恩人なんだし、ほんの少し、薬として分けてもらえたら……


 どうせこのまま生きていても、ある日突然意識を失い家か林か海辺でぶっ倒れて死ぬ。

 最悪の場合、意識を失わないまま運動機能や視覚がぶっ飛んで、動けなくなって誰にも知られず死ぬ。

 それもいいかもしれない、とミッジは思っていた。

 思っていた、のだが。


 ミッジの眼差しにも気づかず、ピトーはTVに映った歌手のMVに興奮して尻尾で床を小刻みに叩きつつしきりと声を出していた。

「らびゅべいべ……おーいぇーああああーおーおーおー」

 ミッジは正真正銘、人魚の歌を目の当たりにしていた。

 MVが終わるとピトーは振り向き、どうだ、とでも言うようににこにこした。

「ミッジ」

 昔話の人魚の歌は、非常に蠱惑的で我を忘れるほどに美しいということになっているが、ピトーの歌は稚拙で、正直下手くそだった。

 そもそも3歳ごろの子どもは音程もくそもなく、ただ歌詞をがなり立てるだけのようなものだ。

 ただ、ぼんやり聞いているうちにどういうわけか、泣きたい気分になってきた。


「おいで」

 リモコンでTVの電源をOFFにし、ピトーを呼ぶ。

 やってきたピトーを膝にのせ、ミッジはきゅっと抱き締めた。

 ピトーはミッジの心のざわめきをよそに、彼女の柔らかい胸元に口を付け、ぶぅぅぅと吹いて音を立てた。



       つづく

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