名付ける

 肌を撫でるときゅっと音がするほどに油を落としきった後は、その謎の生き物も、少し落ち着いたようだ。しかしひどく気落ちした様子で、尾を腹の方に巻き、ちょっと頭に手を遣っては、大きな目から海鳥の塩分代謝のようにだらだらと液体を垂らしている。

 動物に育てられた人間の子は、感情を顔に表すことがほぼないと言われているが、この子は人間に似た表情を持っている。

「ごめん」

 ミッジは甦ってきた記憶に、自分のやらかしたことがこの生き物にどういう意味を持っていたかやっと思い至った。

 人魚や水妖の類は、髪の毛が弱点だという。

 この子も、昔読んだ絵本で見た人魚と同じ、長い豊かな髪を持っていた……さっきまでは。

 押さえつけられてむりやり切り取られるなど、幼いなりに酷い仕打ち、許し難い屈辱だったのだろう。


「髪、大事だったんだ」

「……」

「ほんと、ごめん」

「……」

「またすぐ伸びるって」

 わしわしと撫でてやると、ちびっ子人魚はまた喉の奥からぐぶぅぅと摩擦音を立てて、唇をぶるぶると振動させた。

 これは不満を表す行動なのらしい。

 しかし、この小さな頭の中では清潔になった自分とミッジの取った行動の因果関係が結びついたらしく、もう噛みつくことはなかった。


 ミッジは、彼だか彼女だかわからないその生き物に、持っている中で一番小さなTシャツを着せてキッチンへ連れて行った。

 とりあえず何か食わせようというのだ。

 子どもはキッチンの床の上をオットセイのように上半身を擡げ、下肢の痕跡器官と尾を使いながら這いまわり、Tシャツをあちこち引っ張って脱ごうとする。

 ミッジは自分の着ているTシャツの胸元を摘み上げて見せた。

「大人しく着とくんだよ! 郷に入れば郷に従えって」

 どこまで言っていることを理解しているかわからなかったが、上半身だけなら品のいいお子ちゃま風情の幼い人魚は少々不満げな顔をして、それでもスムースコットン生地をぐいぐい引っ張っていた手を床にぺたんと下ろした。

「さあ、お前は何を食うのかなー?」

 ミッジは真新しい冷蔵庫の冷凍室を引っ掻き回しながら言う。

「まさか、人間食うってんじゃないよね」

 彼女はお目当ての冷凍焼けしたボラック(鱈の一種)の切り身を掴み出すと、電子レンジで半解凍して、あの幼児用のアヒル柄の皿に乗せテーブルに並べた。

 新鮮な魚があれば一番いいのだろうが、海があの状態ではしばらく入手しようがない。

「お前、椅子に座れんの?」

 言いながら、何かそわそわと落ち着きのない人魚を背凭れと肘掛のある古い椅子に抱きかかえてのせてみた。

 小さな人魚は腹で身を支え肘掛の隙間から尻尾を出してみたり、今度は背を座面につけて尾を腹の方に折り曲げてみたりしていたが居心地が悪いらしく、椅子からぐっと下に身を乗り出して床に手をつき、椅子から降りてしまった。

「椅子は嫌かあ」

「ぎっ」

 短く返事すると、ぐねぐねとアザラシのように下半身を波打たせ、人魚はどこかへ行こうとする。

 ミッジはそれを尻目に、玉葱やジャガイモを置く台に使っていた小さなベンチを傾け、上に載っているものをどさどさと落とした。謎の生き物に低いテーブルとして使わせるつもりなのだ。

 ベンチの上の根菜から落ちた土をざっと拭きとり、ミッジはそこへ鱈の乗った皿を置いた。

 甲高く何事か喚きながら、人魚が玄関のドアを低い位置でバンバン叩いている音が聞こえる。所在と行動が耳でわかる分、都合がいい。

「おーいご飯だぞー」

 その言葉が通じるはずもない。

 ミッジは久しぶりに小さく舌打ちすると玄関へと向かった。

 人魚は、青く塗り直されたドアの前で項垂れていた。

 ミッジの足音が近づくと顔を上げ、またあの威嚇音を出し始めたが、少々威勢に欠ける。

 それに身体を左右に揺らし気弱そうに視線を泳がせている。

 麻袋で作った粗末な玄関マットには大きな染みができ、そこに黄色っぽい泥状のものがゴムのような手触りの腹の下で潰れている。

 人間の便臭に酷い磯臭さを混ぜたような臭気が立ち昇り、思わずミッジは嘆息した。

「あ~あ……」

 小さな人魚は、見る見る真っ赤になった。

 再び口を歪め、怒りの表情を浮かべている。

 どうもこの人魚はしかるべきところで用を足すべく、外へ出たかったらしい。

「あ~、……だから外に出たかったんだ」

 ミッジはできるだけ優しく言った。

 こういうときの悲しさ、恥ずかしさは全く身に覚えがないわけではない。

 海洋生物は海の中どこででも糞尿を垂れ流すが、この子はここではそうすべきではないと判断したのだ。

 そして、思うようにいかなかった怒りと羞恥で泣いている。

 何とも賢い子だ。

「わかったわかった。大したことじゃないって」

 返事はなかったが、このちびっこはまたまた大きな目と鼻孔からだらだらと液体を流し始めた。

 ミッジはタオルとダスターを取ってきて、ざっと人魚を拭いてやり、玄関マットの上の不始末を始末した。

 そして、混じっている残滓に、この生き物が魚介と海藻を主食にした雑食性らしいということを知る。海の住民であることは間違いなさそうだった。

 ミッジは首から腰に掛けて軋むような痛みを覚えながら、もう一度人魚をバスルームへ連れて行って洗ってやり、別のTシャツを着せて食卓へ連れて行った。


 冷たいボラックを水かきのある手で掴み、匂いを嗅ぎ、一口齧って人魚はあれ?という顔をした。

「新しい魚は手に入んないから、これで我慢しなよ」

 同じ急ごしらえの食卓の端っこで、ミッジはまだ残っているニシンの缶詰と庭で半野生化しているロケットとトマトをぐしゃっとパンで挟んで食べている。

 ちびっこ人魚はミッジが食べているものを凝視し、次に自分が手に握っているものをじっと見た。

「食わないの?」

 がたんと音を立ててボラックを皿に戻すと、人魚は身をうねらせてベンチを半周し、ミッジのすぐ横へやってきた。

「が」

 咽喉から摩擦音を出すと、人魚は口を開けた。

「何だよ」

「が」

 人魚は、尾でびたんと床を叩いた。

 少々苛々している。

 最近嚥下機能に微かな変調を感じ始めているミッジは注意深く咀嚼しながら、言った。

「お前、自分の食いなよ」

 が、が、が。

 びたんびたん。

 とうとうこのちびっこはミッジの膝に手をかけた。

 どうしても、ミッジの食べているものが食べたいようだ。

 噎せないよう注意しながら呑み込むと、ミッジは指先でサンドイッチを千切った。とうの立ちかけたロケットの茎が、断面からずるっと垂れた。

「腹ぁ壊しても知らないからね」

「が」

 ツバメの親にでもなった気分で、口にそっと入れてやる。

 人魚は待っていたとばかりにもぐもぐと数回口を動かした後、呑み込んだ。

 下がり眉の顔が、徐々に感動の面持ちになり、ぱっと明るくなる。

 口に合ったらしい。

 幼い伝説の生き物はまた「が」と口を開けた。

「……うまい?」

「が」

「マジで、お前これ食うの?」

「がっ!」

「知らないよ……? ほんと、どうなっても」

 ミッジは皿にサンドイッチを置き、人魚の方へ押しやった。

 実に嬉しそうに、パンの肌にがしっと指を食い込ませて掴むと人魚は大口を開けてサンドイッチにかぶりついた。

 ぼろぼろと油漬けのニシンの身がこぼれる。

 胡椒やマスタード、玉ねぎなどは動物によっては毒物なのだが本当に大丈夫だろうか。

 気遣わしげに見守るミッジには全く注意を払わず、人魚は夢中になって食べている。

 その姿は、なかなか愛らしかった。

 こぼれたパン屑やニシンの身を、人魚が舐めとろうとしているのをミッジは慌てて制止した。

「床を舐めるな!」

 夕食をクリプティッドに献上してしまったミッジは、一口だけ齧られ小さな手で握りつぶされたボラックの切り身の皿を手にキッチンに立った。

 とりあえず塩コショウと小麦粉をはたきつけ、バターでムニエルにする。

 人魚のために誂えたローテーブルではなく自分がいつも使っているテーブルでそれを食べようとすると、膝にぐっと重みがかかった。

 見ると、顔をニシン缶の汁で汚した人魚がミッジの膝に水かきをいっぱいに広げた掌をかけて伸び上がり、ミッジが食べようとしているものを覗きこもうとしている。

「しっしっ! これはお前の食べ残しだよ」

 白身の魚を口に運ぶと、また喉から摩擦音を発しながら、今度は膝によじ登り始めた。

 尾がくるんとミッジのふくらはぎに巻きついた。


 この人間は、汚くて臭いところからここまで連れてきてくれた。

 髪は切られたが、黒いべとべとを洗い流してくれた。

 自分の排泄物を片付けてくれた。

 最初はまずいものをあてがって自分だけ美味しいものを食べようとしていたが、ねだるとあっさりくれた。


 そのような材料を総合し、この幼い人魚はこの人間のメスを善い人間だと認定した。

 今だって、膝の上に抱き、あのまずくて水っぽい魚を劇的においしく変えて棒の先に突き刺し、口に運んでくれている。

「はい、おしまい。もうなーい!」

 人間の口から空気の振動が発せられる。

 海中では全く役に立たない意思の疎通方法だ。

 もちろん何を言っているかわからないが、何となく、「このひとはやさしいひとだ」と思う。

 人魚は、メスの人間が空になった硬い平べったいものを示す様子に、口の中の幸福な時間は終りだということを理解した。


 食事を終えて、黒く汚れたカーペットに新聞紙を敷き散らかしたリビングのソファでミッジは訊ねた。

「お前、名前なんてーの?」

 見上げる青い瞳に、ミッジは今更ながら意思疎通の叶わぬ手応えのなさを感じる。

 ちゃんと通じて返答されたとしてもどうせ「が~」や「ぎぎぎぃ」なのだろうから、期待はしていなかったのだが。

「……ああ、そうだよね……じゃあとりあえず名前つけてやるよ」

 そう言って、ミッジは、祖母が使っていた古い電話帳を取り出した。

そして鳶色の目をぎゅっと瞑り、そのページの端をぱららららと指の腹で弾く。

 その手を適当なところで止め、そのページを開くとそこはBで始まる姓のページだった。

 電話帳の左上の隅にあった名前のファーストネームをミッジは読み上げた。

「ピトー……何だこの名前」

 少々フランス風な、子どもっぽい名前に、ミッジは苦笑した。

「……ファミリーネームは要らないね……よし、今からお前はピトーだぞちびすけ」

「……」

「ピトー」

「……」

 暫定名で呼びかけられても無反応な人魚に、ミッジはふざけていろいろと試し始めた。

「ぴとっち」

「……」

「ピトー閣下」

「……」

「ピトー社長」

「……」

「ピトーさんちぃーす」

 空腹を満たした後での命名の儀式にすっかり飽きた人魚がここで欠伸をした。

 反応があったとみなし、ミッジはこの子が実はメスであったとしてもとりあえず「ピトー」と呼ぶことにした。

「私は、ミッジってーの」

 ミッジは、自分を指差した。

 この生き物は先ほど、咽喉や唇から出す破裂音や摩擦音以外の音も、ほんの少し発音して見せた。

 やろうと思えば、きっとできるのだ。

「ミッジ。わかる?ミッジだぞ」

 暫定名ピトーは鹿爪らしく、発音した。

「いぎ」

「うん、まあそんな感じだ」

「いじ」

 まあまあ発音できている。子音は少し不安定だ。

「まあまあだな」

 人魚は、子どもらしい高い声で何度もいぎぃ、むぃっぎなどと繰り返している。

「ミッジ」

 とうとうピトーは、人間の幼児並みの発音でミッジの名を呼んだ。

 当たり前だが、伝説上の生き物に自分の名前を呼ばれる日が来るなど、ミッジは想像だにしたこともない。

 思わずミッジは幼い人魚をぐいっとハグし、マザリーズ一歩手前の声を上げた。

「おお! いいぞ! やるなピトー!」

「ミッジ」

「イエス! さすがレジェンドクリーチャーだぞ」

 拍手してやると、ピトーも小さな手を打ちあわせてぱちぱちと音を出した。


 口に毛の生えた棒を突っ込まれ、嫌な臭いの泡が口の中に広がる。

 がしがしと歯を擦られてちょっと嫌な顔をしながら、ピトーは大人しくしていた。

 きっとこの人間のすることに間違いはない。

 この生まれて初めての不快な行為も、何かきちんとした意味があることに違いない。

「よっしゃ、うがいするぞ」

 ミッジはアルミの小さなコップに水を汲み、口に水を含んで漱いで洗面台に吐きだして見せた。

「これ、できるか?」

 丸いパイプ椅子の上で洗面台に上体を凭せ掛けたピトーも、コップから水を口に含み、ぶくぶくと口の中で水流を作った。

「よし、ここに吐きだせ」

 そう言った途端、ミッジは胸元に突如、痛みを覚えた。

「痛っ」

 ピトーが白い陶器の肌に吐きだした、というよりも放った水流はどんなに頑張っても落ちなかった金属イオンの沈着をがっつり落とし、ミッジの胸へ高圧洗浄機さながらの勢いで跳ねた。

 ネズミイルカの類には、水流を口から噴き出し砂地の中の甲殻類を浮かせて捕食する連中がいるが、この生物にも水を強く噴出する能力が備わっているらしい。

 使いようによっては凶器だ。

 幼獣でもこれだ。成獣の水流の威力を思うと空恐ろしい。

 上手くできたという顔で、ピトーはミッジを見ている。

「よしよし、うまいうまい……」

 複雑な顔でミッジはピトーを褒めた。

「でも、もっとこう、やさしく……」

 ミッジはもう一度うがいし、より穏やかに水を吐きだして見せた。

「ね? こういう感じで……あ」

 ちびっ子人魚はミッジからひったくるようにコップを奪い、もう一度口に水を含んだ。

そしてミッジはもう一度、蚯蚓腫れができるほどの高圧水流の跳弾を受け悲鳴を上げた。


 一通り夜のグルーミングが終わると、キャミソールにパンツ姿といういつもの就寝スタイルになったミッジは、しばらく眉間に皺を寄せて考え事をしていた。

 この生き物を寝かせようと思うのだが、風呂にまたまたぬるま湯を張ってそこで寝せるのか、それともベッドでいいのか。その辺りが何とも悩ましい。

 バスルームで寝せるなら、傍らについてやった方がいいのだろうか。

 しかし首肩腰に鉛のように重く疲労がたまっている今夜は、ベッドで寝たかった。

 ピトーはまたそわそわし始めているのだが、ミッジは気づかない。

 そのうち、人魚はミッジの脚を尻尾で強めにはたいた。

「何だよ」

 ピトーは、ミッジがついてくるのを確認するようにちらちらと振り返りながら、少し腹側にある裂け目を浮かせ加減に玄関へ向かい、木製のドアをまたバンバンと叩きはじめた。

「ああ、わかった。トイレ?」

 大のほうかもしれないがそんなことはどうでもよい。

 ミッジは小さな人魚を抱え上げるとトイレに連れて行った。この家は、トイレとバスルームが独立しているのだ。

「ここでするもんだ」

 何とか便座に乗せてやったのはいいのだが、ピトーはまた唇から不満の音を発しはじめ、降りてしまった。

 不安定な姿勢で確かに酷だとは思う。しかし、できればこの設備で用を足してもらいたい。

 このままだと臭いだとか掃除の手間だとかで、少ない寿命がさらに縮まりそうだ。

「えええい! よく見てな!」

 ミッジは悪態をつきながら、自分の下着を下ろした。

 相手は人間じゃない。人間風味のお魚だ。そう思うことで自分を鼓舞する。

 ピトーは一瞬、尿意だか便意だかが収まったらしく、呆気にとられた顔でミッジの下腹部を見た。

 目をしぱしぱと瞬かせ、何かを意味するように薄く毛細血管の透ける水掻き付きの尻尾を高く上げぺしんと振り下ろす。

「……ぎっ」と声が漏れた。

 見せると決めて脱いだのは自分。

 これはこの動物に学習させるため必要な行為。

 必要不可欠だ。

 まさに不可避とはこのこと。

 それでも恥ずかしさを紛らわすように、ミッジはピトーに吠えた。

「いい?! こういうプレイは、店だと高くつくんだからね!」

 ミッジは便器に腰をおろし、体内から湧き上がる「自然の呼び声」に対する然るべき行為を行った。

「お前が人外で、がきんちょだから! 特別サービスなんだぞ!」

 しょぼくれた水音が響き、微妙に死にたい気分になる。

 ピトーがやっと合点のいった顔をした。

 なぜか多大な興味を持ったようで便器のすぐ脇までやってくる。

 覗きこもうとするピトーをうまく動かない右手でしっしっと払いのけながら、トイレットロールをかたかたと引っぱり出して股間を拭き、立ち上がって速やかにパンツを履く。

 これで完了だ。

「これでわかった?」

言いながらピトーを見ると、ちび人魚は便器に身を乗りかからせ、半ば頭を突っ込んで中を覗いていた。

人間の棲家を汚してはならない程度の考えはあるようだったが所詮海洋生物。

海獣たちは自他ともに垂れ流したものにまみれて泳ぐ、うんこしっこに平気な生きものなのだ。

「やめてええええええ!!!!」

 ミッジは慌ててピトーの首根っこを掴んで便器から引き剥がし、フラッシュレバーを押し下げて水を流した。

 突然音を立てて流れてきた水に一瞬びくっとしたピトーだったが、何となく、この大きな穴が開いていて中に水が入っている椅子のようなものの用途と機能はわかったらしい。

 改めて便器に乗せてやると、便器の洞の上にあの排泄口のある裂け目を下に、下半身を渡した姿勢で大人しくなった。

 排泄中の顔というのは何とも複雑なものだ。

 ミッジがじっと見つめていると人魚はぶぶぅと唇を鳴らし、顔を顰めた。

 他人の排泄行為や排泄物は平気でも、自分が真っ最中を凝視されるのはだめらしい。

「はいはい、あっち向いててやるから」

 短い水音がするまで2分ほどかかった。

 人間でも、初めて尿瓶を使うときはなかなか出ないもので、水音を聞いたり、局所にぬるま湯を流して排尿している疑似感覚を作り出して排泄を促さないとうまくいかないことも多い。

 ところがピトーは短時間で初めてのトイレトレーニングにおいて成功を収めた。

 一度、玄関マットの上でやらかしたことがいい経験になっているようだ。

 そのあと、がたがたと壊れんばかりにロールホルダーの回転音がした。

 甘美な勝利に酔いしれる間もなくミッジが振り向くと、案の定既に5ヤールほど便所紙は引っぱり出され、ロールホルダーはまだまだ激しく回転していた。

「ぅるるるる」

 ウミガラスの成鳥の声を上げつつ、白く柔らかい紙を手繰ってピトーは喜んでいる。

 幼児とトイレットロールの組み合わせは、非常に危険なものだと世界中で一般に認識されている。

「やめんかこのクソ人外!」

 ミッジはホルダーにつけたままのトイレットロールを奥に回し、床に波打つペーパーを巻き取った。

「こんくらいでいいんだよ!」

 適当な長さで便所紙を千切り、やんわりと丸めて手渡す。

「ふきふき! ふきふきだピトー!」

「ぷき」

 ピトーは渡されたものでもそもそと局部を拭いて稚拙な仕草でぽいと便器の中に落とし、すかさずミッジは水洗レバーを押し下げた。

「よくできました!」

 拭いたばかりの腹を床につけ、意気揚々と這い回るピトーを見て、ミッジは先日テレビで見た日本製の局部洗浄機能付便座が欲しくなった。

 


         つづく

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