知る

 どう見てもそれは人間の子どもだった。

 だいたい3歳くらいだろうか。

 ひょっとしたら生きているのかもしれないし、第一発見者としては生命の徴候があるかどうか確認し、必要があれば救命措置を講じるべきだ。

 だが、この潮だまりが視野に入ってここに立つまでの数分、ここは一揺らぎもしていなかった。

 顔が油と水に浸かっている状態なのだ。常識的に考えて、社会死状態だ。

 ミッジは頭の中で警察、警察と唱えながら、とにかく家へ戻ろうとしたところで足を縺らせた。

 視野が大きく振動し、激しい上下の揺れが頭の中の柔らかいチーズのような脳を襲う。

 彼女はいつものようにすっ転んでいた。

 動揺するなと言う方が無理だ。

 一応町育ちの彼女は、どざえもんを見るのは初めてだった。

 しかもこんなに油でぎとぎとな子どもの死体だ。

 買い物袋を放り出し、彼女はごつごつした岩の窪みに溜まった砂の上に手をつき起きあがろうとした。

 そのときだ。

 目の端で、潮だまりの中、真黒いものが動くのが見えた。

 視線を向けると、あの死体が、もとい死体だと思ったものがのろのろと身を起こしている。

 前のめりに転んだ姿勢から今度は尻餅をついた体で、ミッジは恐怖と驚愕で凍りついた。

 彼女の目の前で、それは小さな両手で顔を擦り、目を開けた。

 ゆっくり首を左右に動かして辺りを見回している。

 とうとう、どろどろねとねとと顔貌も不確かなそれはミッジに目を留めた。

 長い髪の垂れ下がりの隙間で、真っ青な大きな瞳が瞠られる。

 髪から垂れてくる黒い汚水をもう一度手で擦りのけ、その生き物はミッジの頭のてっぺんから足の先まで警戒と訝しみの視線を走らせている。

 ミッジが、このちびっこい人間が生きているということを確認するには充分すぎるほど充分な動きだった。


 死体だと思っていたものがしっかり生きていて、どう見ても誰かの助けが必要な状態。

 これは押っ取り刀だろうが何だろうが、取る方法は一つだ。

 緊急時用の脳のレバーががちんと音を立てて押し下げられるようなイメージだった。

 ミッジは今までのもたつきが嘘のような素早さで立ち上がるとタンクトップの上に羽織っていたコットンのシャツを脱ぎ、白目と黒目だけしか清潔な部分を持たない鉛色の塊をくるみ、がばっと抱きかかえた。

 腕の中で、それはぎぃ、と奇妙な声を上げた。

 声と言うより不快音に近い。

「大丈夫だよ! 助けてやるから!」

 よろよろ駆け出す。

 一度、磯へ降りるためのコンクリートの階段で子どもを抱えたまま足を滑らせたが何とか自分の身体をクッションに腕の中のものを庇い、またミッジは懸命に走りだした。

「大丈夫だから」

と繰り返しつ叫びながら。

 その半分は、動転しきっている自分に向けての言葉だったのだろう。

 子どもは大人しくしていたが、んぎぎぎぃと妙な声をひとしきり小さく上げていた。


 動かすのもままならぬ右手でポケットの鍵を取り出し、鍵穴に刺そうとして落とす、を数回繰り返したが、自由の利く左手は軽く踵を浮かせて心持ち持ち上げた左膝と共に、シャツに包まれた生き物をしっかりと抱えていた。

 やっとドアを開けて家へ入り、ミッジは毛が擦り切れて硬い麻の芯地が透けて見えているカーペットの上に、恐ろしく揮発油臭いぎとぎととしたものをそっと下ろした。

男とも女ともつかぬ子どもはくるまれているシャツから長い髪の生えた頭を出し、ぷう、と唇に付着した油泥を吹いた。

「ここにじっとしてて! 今洗ってやるから」

 唇や鼻を手でしきりと擦っていた子どもは、自分の前に立っていた若い女が何らかの言葉を発し、どこかへ向かおうとするのを見上げた。

「いい、動くんじゃないよ?!」

 転んだ時にこさえた頬の擦り傷に血を滲ませた顔で振り向いて、ミッジは子どもに人差し指を立てて言い聞かせた後、壁に手を這わせながらバスルームへ向かった。

 蛇口をひねってバスタブに湯を溜めながら、棚からタオルを引っ掴み、寝室に置きっぱなしにしていた携帯電話をポケットに入れてリビングへ戻る。

 さんざん、重油が肌に触れないよう手袋やゴーグル、レインコートで防護するようTVで注意喚起されていたが、もう今更面倒だ。

「ちびすけ! 風呂だぞ!」

 声をかけながら、古い型のソファの陰を覗いた。

 いない。

「おい! どこ行った!」

 もちろん返事はない。

 ただ何かを引きずったようなどろどろの跡がカーペットの上にくっきりと残され、探している相手がどこへ行ったかを雄弁に指し示している。

 それはソファの下に続いていた。

 ごそごそとカーペットが擦れる音がする。

 そしてソファの脚に時々体の一部をぶつける音も聞こえる。

 意外と元気なんじゃないのこいつ、と思いつつも、ソファのスカートをめくると、ベトベトのシャツを腰に纏わりつかせたまま、カーペットにしきりと顔を擦りつけて汚れを落とそうと躍起になっている子どもと目があった。

「汚ないことすんじゃないよ!」

 床に膝をついて屈み、ソファの下へ両手を突っ込む。

 子どもの脇に腕を差し込んで引きずり出そうとすると、子どもは唇を震わせてふぅ、ともぶぅともつかぬ音を立てた後、ミッジの右腕に素早く噛みついた。

 痛いことは痛いが、いつも痺れたような感覚のある右腕だ。この程度無視できないことはない。

「このクソガキ!」

と喚きながらソファから上半身を引っぱり出し噛みついた口から腕を引き抜く。

 本気で噛めば腕の肉などすぐに食いちぎられるはずだが、この子どもは加減をしていたらしい。

 またあの聞き苦しいぶうううぅぅという唇を震わす音が始まる。

「うるさい!」

 よいしょっと素っ裸の子どもを抱え上げたとき、ここでやっと違和感を覚えたのだが、落とさないように、転ばないようにということに集中しきっているミッジはそれを突き詰めようとはせず、衝撃の瞬間はほんの少し先送りされた。

 バスルームへ運ぶ間、子どもは血の滲むミッジの顔をしげしげと眺めていた。


 浅く湯を張ったバスタブに子どもを沈めると、真黒い油の層が早速浮いてきて白い琺瑯の湯船の肌を汚す。

 固まりかけのチョコレートのような油泥は浴用せっけんやシャンプーで太刀打ちできるものではなかった。

 実際、TVで自然愛護ボランティアが油まみれのカモメを洗ってやっているのを見たが、彼らは強力な油脂溶解能力が売りの台所用洗剤を使っていた。

 これはもう、スパチュラか何かでこそげ落として、台所洗剤で根気よく乳化させるしかなさそうだ。

 だが、その前にやるべきことがある。

 ミッジは警察へと発信中の携帯電話を左肩と耳で挟み、油泥をたっぷりと含んだ子どもの鬱陶しい髪を切るべく、ヘアカット用鋏を鏡のついた棚から取り出した。

 子どもはしきりと身体を擦っている。


「どうしました?」

 緊迫した声がミッジの携帯電話に届いた。

「海に落ちた子どもを保護しました」

「住所とお名前をどうぞ」

 言われるまま、自分でも可笑しいほど回らない舌で答えるが、ふとミッジは言葉を詰まらせた。


 これは、何だ…?

 私の眼は、どうかしちまったのか?


 取り落とした携帯電話から小さく小さく、音声が聞こえた。

「どうしました?」

「どうしました? 大丈夫ですか?」

「すぐ救急隊と警察が向かいますから、」

 ミッジはその場にへたり込むと、地味な銀色の機器をやっとの思いで拾い上げ、上ずった声を絞り出した。

「ごめんなさい……何でもないです」

「は?」

「私、脳の病気で時々幻覚が見えて錯乱することがありまして」

「救急隊が必要ですか?」

「いえ、たった今、急に頭がはっきりしてきました」

「……そうですか?」

 ドラッグでもキメていると思われそうだったが、ミッジは他にいい言い訳を思いつかなかった。

「ごめんなさい、本当に何でもないんです!」


 目の前にいる子供には、下肢が二本ともなかった。

 なかったと言い切らないほうがいいだろうか。

 若木の切り株のような、PCのマウスほどの大きさのぴこぴこと動く二つの突起は、おそらく下肢の痕跡だ。

 もともとあった脚を失った痕というには異常なほど小さく、妙に平べったい。

 なのになぜ体長が不自然でなく、抱えたときにこの程度の大きさの子どもとして在るべき質量をしっかり感じたのか。


 その生き物は、脊椎動物の総てが、胚である時に備えているある特徴をそのまま備えていた。

 脊椎骨が滑らかに伸び、腹側に少し湾曲したもの。

 それは尾と呼んで差し支えないものだった。


 ミッジは電話を切った後、強張った顔で子どもを見た。

 子どもは青い瞳でミッジを見つめ、またぎぃと声を上げた。

――奇形。

 その一言が頭の中で渦を巻く。

 奇形なだけではない。知能にも問題があるようだ。

 人間には、種の存続を強固なものとするために、優生学的な意味において歪つなものには生理的な忌避感を持つよう本能に擦りこまれていると言われている。

 それを理性でラッピングし、人間愛だの倫理だので保護しようとしてきたのが近代以降の人間であり、もちろんミッジも社会的弱者への理解や協力について全く無関心だったわけではない。

 しかし、覚悟もなく突然目の前に突き付けられるとやはり尻込みするものだ。

 しかもこの子はかなり重度と来ている。

 見聞きはしていたものの、介護だの福祉だのそういう分野にタッチしてこなかった若い女はつい後ずさった。

 さっきまで普通の子どもだと思っていた生き物は、ミッジがそのまま立ち竦んでしまっているのを不思議そうに眺めるとバスタブの縁に両手をかけた。

それは上体を持ち上げた海獣の姿勢で、油泥に対しほとんど奏功しなかったシャンプーを手にとると、見よう見まねでノズルのプッシュ部分を押した。

不潔に濁った湯に、どろりとした液体が飛び出して落ちる。

 それが面白かったらしく、その生き物はおずおずと二、三回、それから気が狂ったかのように何度も何度もノズルからシャンプーを飛ばし始めた。

 やっと我に返ったミッジは、それでもこの生き物をどう扱えばいいのかわからず弱々しく制止する。

「やめて」

「めて」

 その生き物は不安定な発音でミッジの口真似をしたかと思うとぞろりと歯を剥きだした。

 やはり驚いて固まっているミッジに、うまく威嚇できた、と思っている様子でそれは楽しい作業に戻った。


 奇形であったとしても、放っておくわけにはいかない。

 何しろこいつは生きてて、困ってて、保護してくれるやつも今のところいない。

 ああ、潮だまりを覗いたりしなきゃ、私は今日も平和だったのに。


 とりあえず鋏を持ってバスタブの脇に跪く。


 今度はコンディショナーで遊び始めたその生き物の背後から髪を一束切り取ると、初めてそれは吠えるような大声を上げた。

 腕を振り回し、尾でびたんびたんとバスタブの湯と底を叩いて体いっぱいに激しい怒りを表現している。

 もう一束を切ろうとしていたところへの強烈な抵抗で、ミッジは危うく首の皮膚を傷つけてしまうところだった。

「うるさい!」

「ぐがあああああああああああ」

 こんなものを頭から生やして重油を纏わりつかせていては、いつまでたってもこいつはべっとべとのぎっとぎとだ。

 既にぐっしょりと汚水を吸い込んでいるタンクトップと膝丈パンツのまま、ミッジはバスタブへ踊りこんだ。

 何の制約も理性もなく暴れ回りながら断末魔のような声を上げて、狭いバスタブの縁を乗り越えて逃げようともがく生き物は小さな身体に似合わぬ怪力の持ち主だった。

 しかし、いかに暴れようと相手はちびっこ。

 あっさりとミッジは馬乗りになり、膝でばたばたと動く細い腕を押さえつけた。

 鋏を振りかざす。

 背中に、何度も尾が叩きつけられる。

 地味に痛かった。

 細い喉から出てくる濁った悲鳴の中、ひどい狼藉を働いている気分になりながら、彼女は鋏を使った。

 一回毛束をカットするごとに鋏を拭き、ぬるぬると滑る手で掴み直して切り進んでいく。

 そうやってとにかく作業を終えようと夢中になっているうち、ふとミッジは目が霞むのを覚えた。

 頭が痛い。

 気が付いてしまうと、痛みは増幅していく。

 終いには吐き気を覚えるほどになった。

 頭蓋骨が割れるような痛み、とはまさにこのことだ。

 痛みには呼吸に合わせた波があり、最高潮に達すると目の前に光がちかちかと踊る。

 こんな痛みは初めてだった。


 頭に抱えた爆弾のせいだ、とミッジは思った。

 脳幹に何か起こった場合、あまり痛みは感じないものだが、ミッジはそれ以外思い当たる節がない。


 何て間が悪いんだろう。

 このまま倒れて死んだら、私は奇形児相手に暴力を振るっていたど変態の虐待女扱いだ。そして、この子は私の身体の下で死んでも、生きて発見されても、いずれにしろ惨めな末路を辿ることは確実だ。


「大人しくしてよ……きれいにしてやんだからさ」

 痛みに食いしばる歯の隙間から、ミッジは呻いた。


――とにかく、やれるところまでやっとこう。


 やれるとこまでやったその後はどうすればいいのかわからなかったが、とにかくミッジは歯の間から息をしながらヘドロのような毛髪と格闘した。


 奇形児の髪を、何とかカットし終わった。

 さらに1時間半かけて、全身洗いあげた。

 バスタブの湯は、10回ほど張りかえた。

 1ガロン入った台所用洗剤のボトルが空になった。

 汚れの再付着を防ぐため、ミッジも途中で汚れに汚れた服を脱ぎ、ブラとパンツでひたすらその子どもを洗い擦り、拭きあげたが、不思議とその頃には頭痛は治まっていた。


 そして、洗いながらミッジはこれが奇形ではない、ある生き物である可能性に気づいてしまった。


 腰から上は人間に酷似している。

 頭には緑色っぽい黒髪が生え、切ってしまうまでは背を覆うほど無秩序に伸びていた。おそらく生まれてから伸ばしっぱなしだったのだろう。

 顔は人間の幼児そのもので、なかなか整った賢そうな顔をしていた。目鼻立ちからするとおそらく男児だ。

 手の指の間には皮膚が延長した水かきがある。

 口の中には細かな歯がぎっしりと生え、ネズミイルカのそれのように先が平たくなっている。この歯だけでは食性が判断できなかった。

 それ以外は、上半身には変わったところはない。

 普通にへそがあり、有胎盤哺乳類として生まれ、暮らしてきたようだ。

 しかし問題は、やはり下半身だった。


 腰から下は、人間の皮膚の色から柔らかなグラデーションで少し血の色の透けた灰色となっている。

 一度海から上がったものの陸上での生存競争を放棄し、「陸なんかもう二度と来ねえよ!ばーかばーか!」と中指を立てながら海へ戻っていった肉食偶蹄目、つまりイルカ・クジラ類のような質感だ。

 ごく稀にイルカやクジラにも下肢の痕跡器官をもつ個体が生まれると聞くが、おそらくこんな感じなのだろう。

 しかし、尾の先は水棲偶蹄目とは違い、横に広がった尾びれはない。

 魚類の尻鰭に相当する辺りにある下肢の痕跡器官と思しき、ぴこぴこ動く突起の先と尾の先が薄い皮膚が繋がって、スコップのような水かきを形成している。

 生殖器も排泄口も、イルカ同様外からは見えない。

「ぴこぴこ」の間、おそらく人間の股間に相当するのだろうが、そこに縦に裂け目がありそこに普段は格納されているらしい。

 そこを洗ってやろうとすると、ミッジは再び抵抗にあい、ふやけた手にくっきりと歯型を付けられた。

 顔だちから類推しておそらくオスというべきか男というべきか、とにかく女ではなさそうなのだが、そういうあれやこれやで確証に欠けた。


 とにかく、以上のことから類推するに。


――これは、「人魚」という生き物ではないだろうか?


 ケルトの伝承に、半人半魚の「メロウ」という妖精とも海洋生物ともつかぬ生き物がいる。

 伝承により美醜は様々だが、それは何百年も生き、非常に多くの知識を蓄え、強い酒が好きで、海難事故に遭った船乗りの魂を籠に集めて海中の棲みかに置いていると言われている。

 また、この島から真っ直ぐ南に海を渡ったところにあるフランスのブルターニュ地方にはやはり海獣とヒトのあいのこの一族が海中に住んでいるという伝説がある。

 それは見目麗しく、たまに人を攫って繁殖すると伝えられている。

 彼らだけで繁殖すると、海獣の姿に先祖返りしてしまうため、それを防ごうとして数代に一度、人間の血を入れるのだという。


 祖母は、幼いミッジにそんな物語を折にふれて聞かせてくれた。

 鰯の頭を折り取りながら、豆の筋をつつっと引きながら、そして夜、枕元まで押し寄せるような波の音に怯えるミッジの頭を撫でて、優しく寝かしつけながら。

 その知識は、驚くべきことに今、役に立とうとしていた。



          つづく

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