もし君を食べたなら
江山菰
出会う
夏だというのに、このところ空はどんよりと鉛の色で肌寒い。
おまけに、吹く風は発がん性を持つ揮発性燃料のせいでひどい臭いだ。どの家も窓を閉め切っている。
一昨日、この海岸から600mほど沖合で古い漁船が外国籍のタンカーと衝突し2隻とも沈んだ。
重油はどろどろと海を覆いつくし、海流に乗って広がっていく。
もうその日の夕方からごろごろと巨岩の転がる砂浜に、波が不吉などす黒い横紋を描きだし、打ち寄せられるごみにも汚らしく油が付着していた。
油にべとつく羽根に包まれて、泳げも飛べもしない海鳥が悲しげに砂浜でもがき、死んだ魚が生白い腹を黒く汚して浮いている。
静かだったこの島に起きた災難に、漁師たちは泡を食って至る所に泣きついた。官民ともに大慌てでオイルフェンスを設置し、重油を吸着するシートを海面にばらまいたが当然しばらく漁ができる状態ではない。
数年前似たような事故に遭った別の地方の漁港では、漁の再開まで半年かかったという。
岸壁で海を見ながら言葉少なに立ち尽くす男たち。漁網を干すポールの脇で喧しく喋り散らす女たち。対照的ではあったが、同じ不安を顔に浮かべていた。
集落にあるたった一軒のグロッサリーで牛乳と小麦粉を買ったミッジは、古着をつぶして足踏みミシンで縫った買い物袋を左手に提げて、こそこそと海岸線を東へ向かって歩いていた。
ミッジは職を失った。
それは半年前のことだ。
小さなネット通販の会社で契約社員として働いていたのだが、次期の契約更新をしないという通告をされた。
この小さな仲良し所帯の職場が、業績不振で給料さえまともに払えない状態なのはわかっていたため、この田舎じみたがさつさの抜けない、それ以外は平々凡々な女はそれほど動揺しなかった。ただ、気のいい同年輩の仲間たちと別れるのは残念だった。
「前から気になってたんだけど、病院には行ってるの?」
顔にかかる短い金髪を指先で掻きのけながら、一か月後にはいなくなる部下に上司が言う。
ミッジは3か月前の休日、ロードバイクで買い物に出かけ、自動車に接触したことがある。
救急車で運ばれた救急医療センターで一晩過ごしただけで、外見上はそう異常も残らず職場復帰したミッジに、皆胸を撫で下ろしたのだが、それからが大変だった。
彼女は幾度となく、商品を詰めた化粧箱を派手な音を立てて落とした。
落とすのは商品だけではない。
ペンも、モバイル機器も、カトラリーも、しっかり持ったはずの手から滑り落とす。
そして、よく転ぶ。
何もないところで、突然足を縺つらせるように倒れ、時には受け身も取れず顔に生傷を作る。
同僚たちはそれが気になってしょうがなかった。
上司は三度目に階段から落ちたミッジに、いかに急いでいても非常階段を使用することを禁じた。
身体のどこかしらに生傷をつけて「おはようございます」と出勤してくるミッジに、近所に住む同僚が「私が車で拾うよ。どうせ道すがらだし」と提案もした。
しかし、ミッジは日々自分のしたいように振舞った。
それは、事故に遭うまで周囲にはあまり感じられなかった依怙地さだ。 時には激しく苛ついていたり、無表情に虚空を見つめていたりと、不自然さを感じさせる。
きっと脳のどこかに損傷があるのだろう、と周りは推測していた。
「みんな心配してるんだよ」
ミッジは、日焼けした頬を心持ち強張らせたまま無言だった。
本当のことをぶちまけてしまえば、自動車に接触したからこうなったのではない。
あまりつつき回されたくないので黙っていたのだが先に脳幹部分に病変があって、自分でふらついたのだ。
事故の相手は確かにスピードこそ出していたが被害者という色合いが濃く、自分と相手の損保会社が痛み分けのような形で片付いた。
それをいちいち説明するのも、怠くてたまらない。
もうすぐこの職場を出て行かなければならないのならなおのこと、説明する必要性はない。
何となくおかしいなと思ったのはこの前の夏だった。
何気なく街を歩いているとなぜか吸い寄せられるように右側へと寄っていく。
路地裏の不潔なダストボックス、目線が届かなかった犬や子ども、幸せそうなカップル、貧乏人を見下すような綺羅綺羅しい店のショーウィンドウ。
今までぶつかったものには枚挙のいとまがない。
気のせいかと思っていたがさすがに自分の注意力散漫では片付かなくなり、夏季休暇を利用して大嫌いな病院、といってもかかりつけ医として登録している小さな医院で診察を受けた。
細く整えた眉の間に皺を寄せた医師はその画像を矯めつ眇めつし、ミッジを診察用の台の上に寝せると、膝の少し下あたりを固いゴムのハンマーでこつんと叩いた。
その途端、ミッジの細い足は膝蓋腱反射で跳ね上がり、近くにいた看護師に軽く当った。
「あ、ごめんなさい」
「……いえ」
何故か医師も看護師も期せずして揃って深刻な顔をした。
謝ったのに、とミッジは思う。
さらにこの五十がらみの女医は足の裏を大きな錐のような器具で擦りたくり、踵を引っ張ったり押したりしたあとおもむろに言った。
「脳幹部分に、何らかの病変があるかもしれません」
「は?」
「ほら」
医師はミッジの右脚の裏をもう一度尖った器具で擦った。
足の親指が反射的に足の甲側にぐっと反り、他の指はメイプルの葉のようにぐっと開いた。
「これ、中枢神経に何か起きているときの反射なんですよ」
バビンスキー反射をもう一度起こさせてみて、彼女は糖蜜色の顔に残念そうな表情を作った。
「それにさっき、膝のとこ叩いたら足が跳ね上がったでしょう?あれは普通だと錐体路……脳の、身体の動きをコントロールしてる司令部分が反射を抑制しようとして働くから、あんなに大きく跳ねないんです」
黙りこくるミッジに、咬んで砕いたような脳の部分名称や働きの説明が始まった。
鬱陶しい、とミッジは思った。
そんなこと、ハイスクールを卒業していれば誰でも知っている。
紹介状を左手に、看護師に支えられながら病院を出ると、セミがうるさく鳴き騒ぎ、外の日差しが耐えられないほど眩しかった。
来るときには普通に見えていた風景が今は何故か、少し色褪せて見える。
皮膚を焦がす陽光の下、空だけが深い淵のように底なしに青く見えた。
――馬鹿にして。
誰にともなしに、ミッジは胸の内で呟いた。
脳腫瘍治療で有名な大学病院の外来予約を一か月待ちで取り、おのおの半月づつ予約待機して3回通ってMRIやCTを取った挙句、告げられた病名はdiffuse intrinsic pontine glioma(DIPG:小児びまん性橋膠腫)だった。
外来棟は建て替えられたばかりで、新しい建材の匂いがする。
心理的圧迫感を失くすため、強化ガラスで大きな窓が設えられているが、さすがに脳神経科では視覚神経を刺激しないよう遮光用ブラインドが掛けられている。
これだと外も見えない。
「大人にもたまに見つかるんですよ」
気の毒そうに言う脳内科専門医の顔を見ながら、ミッジは半眼でぼんやり考えていた。
――この歳で小児って何なの
質問を待っているように、医師は高価そうな椅子のアームレストに肘を預けたまま右手でごま塩髭を生やした顎を撫でた。
「悪い病気ですか」
ミッジは力の宿らぬ声でごく抽象的に訊ねた。
もっと言葉はあるはずなのだが。
「あまり性質の良い病気とは言えません」
「治るんですか、これ」
「治療法は現在見つかっていませんが、放射線治療で浸潤や転移を遅らせられたケースも報告されています」
「遅らせられる? 完全には治らないということですか」
この質問に対する答えには、かなりのデリカシーが要求されていた。
「治った例は現在は報告されていませんが、治らないと断言はできません。一緒にがんばりましょう」
報告されていないケースに、ちゃんと治ったやつがいるかもしれない。
もしかして私が、治った初めてのケースになれるのかもしれない。
そんなことはこの腫瘍のできた部位の性質と司る機能を考えると、あり得なかった。
「あの……私は死ぬこともあり得るんでしょうか」
「小児だと、発症から一年前後でほぼみんな亡くなりますが、成人で発症した場合5年生存率はそんなに低くはありません」
「……」
「特にあなたのように、徴候に気づいていても長い間放っておいて、生活に何も問題なかったような場合は、長期生存していた例がいくつもあります。」
この先には死ありき。
しかしそれを回避する希望も若干は残されているという口ぶりだった。
「長期ってどのくらいですか」
「…5年生存率という指標があってですね、それに基づいています」
たった五年。
ミッジは顔を歪めて笑った。
「遅かれ早かれ、このDナントカカントカで数年内に私は死ぬと」
「まだそう決まったわけではありません。ごくごく初期ですし、今のうちから治療を始めればある程度コントロールできるかもしれません……我々もできる限りのことはします」
――うるせー馬鹿。
その日、ミッジはどうやって自分の小さなフラットへ戻ったか覚えていない。
今までの例では化学療法も投薬も有意な効果を得られず、浸潤が見られるのでガンマナイフも使えない。
従って漫然とした放射線治療しかない。
その中でも効果的と言われる粒子線治療施設は飛行機の距離だ。さらに治療効果が望めるBNCTの設備と来たら、この国には一カ所しかなくその上故障中。どうしても治療を受けたければ隣国へ行かなければならないという惨状だった。
そもそも、この国には公的医療機関が少なく、医療スタッフも慢性的に不足し職業意識も低い。医療費はただ同然だが、この待ち時間、というより待機期間の長さと医療の質の悪さには定評がある。
痛みも何もない。
ただふらついて、右手が時折いうことを聞かなくて目が少し霞むだけ。
そう言えば、食事中少々噎せることも増えたように思う。
しかし大したことはない。
他は何ともない。
それでも、ぼんやりと死を意識した彼女は医師の勧めるまま、とりあえず通常の放射線治療を始めることになった。
まだ重篤になっているわけでもなく、仕事の方でも周囲からそこそこ信頼され任された業務がある。
まだやれる、とミッジは思っていた。
月に二度、休前日に有休をとって誰にも何も言わずにミッジは病院へ通った。
照射を受けた後はまるで別人のようにぱんぱんに顔が腫れる。頬に二カ所あるシミもまるでストッキングの柄か何かのように伸びて広がった。浮腫み止めの強力なステロイドも焼け石に水だ。
この体たらくを、誰にも見られたくなかった。
休日明けに「なんか顔、浮腫んでない?」と同僚に言われると、「夜遅くまで飲んでたんで」と誤魔化し、あははと笑って見せる。
しかし低分子量経口アルキル化剤のせいで、腹に力が入らない。
髪が抜けるため、セルフヘアカットを失敗した、と自虐風に語って常にニットキャップを被るようになった。
とにかく何をしてもだるい。
「ミッジ、仕事したくないんだったら帰りなよ」
上司は怒鳴る。
周囲には、ミッジが急に何もかも無感動で怠惰になったように見えた。
辛かった。
治っているという感覚はまるでなかった。
却って、自分の身体が滅茶滅茶になっていく実感だけがあった。
ネットから得る知識は、Relinquite omnem spem, vos qui intratis.(この門をくぐる者一切の希望を捨てよ)という神曲の地獄門銘文をとてもよく表現していた。
「まだ症状が軽いから、治療の方がきつく感じるでしょうがきっとその価値はあります。がんばりましょう」
と言われても、ではお前はこの薬飲んで、この部屋でわけのわからん放射線とやらを浴び続け、ぱつんぱつんに膨れた顔で周りからとやかく言われたことはあるのかと問いたい。
彼女が吐き気を訴えているすぐ横のパーティションの奥で、何かスナックを食べる音がし看護師が談笑している。
怒りや呆れを通り越し、ミッジは羨ましくなった。
人並みに生きていたい。
ただそれだけで苦行僧のようにストイックに通った病院。
服用し続けた薬。
温め続けたしょぼくれた会社の椅子。
事故でひん曲がってしまったロードバイク。
今でも、夢に見てはやるせない気分になる。
祖母が一人で住んでいた、小さな島の木々に囲まれた家。
住む者がいなくなったそこへ、失業したミッジは移り住んだ。
日に一度の連絡船に乗って、大きなトランク一つを杖代わりにやってきたミッジを迎えた祖母の家は、記憶にあるよりもはるかに小ぢんまりとし、あばら家といった風情で少し傾いていた。
ポーチの朽ちたベンチの下にいた斑の野良猫が、ミッジの顔を一瞬睨みつけ、こそこそと逃げていった。
防風林の木々に守られ辛うじて家屋の姿を留めているようなその家に、ミッジは思った。
どうせ長くは住めない。
加療を諦めたというべきか逃げてきたというべきか、そんな身なのだ。
少し手を加えるだけで十分だろう。
青いペンキがぽろぽろと剥げるドアを開け、埃臭いしんと静まった空気の中に身を置くと、住む者がいなくなって五年は経とうというのに懐かしい匂いがした。
幼かった頃、ここへは母に連れられて遊びに来たものだ。
ミッジは深い溜め息をついた。
この懐かしい、という感情には寂しいとも悲しいともつかぬ、胸を締め上げる肉体的感覚がある。
祖母も、祖母の入院の支度をした母も、これがこの家との今生の別れになるとは思っていなかったようで、ワードローブの中の年寄りじみた服も下着もそのままだった。色褪せた写真がプラスチックの額に入れられ、壁に掛かっていた。
もちろん電気も水も止まっていたが、島の小さな役場出張所に水道開栓は頼み、電力会社に電話をしてブレーカーを上げると、なんどかライフラインは確保できた。ガスは、明日プロパンガスタンクを業者が持ってきてくれるという。
早速モップや箒を探し出して目についた場所から掃き、拭く。掃除機もあったのだが、故障しているようで通電してもうんともすんとも言わなかった。
うんともすんとも、と言えば、冷蔵庫が酷いことになっていた。扉を開けると、腐臭や黴臭を通り越し、発酵が終わった堆肥のような臭いの茶色い残滓が冷蔵庫の底に溜まり、かさかさに乾いている。瓶や保存容器に入っていたものは変色し、誰もが目を逸らしたくなる有様だった。
一方パントリーを開けると、乾物や粉類、瓶詰、台所用雑貨、洗剤が几帳面に積まれていた。粉はもう駄目だろう。
目線を下にやると、ニシンの缶詰が棚の一番下にぎっしりと詰まれていた。
缶詰のニシンの油漬けが好きだというミッジのために、いつも祖母は売るほどに缶詰を買い溜めていた。
ミッジは、祖母が缶詰を開け、庭で採れた野菜と彩りよく皿に盛りつけるのをいつもわくわくと見つめたものだった。
「せっかくここに来たんだから、缶詰じゃない普通のお魚を食べたらいいのに」
といつも祖母は笑っていた。
祖母から手紙をもらうときはいつも、「ミッジの好きなものをたくさん用意してるからまた遊びにおいで」と書かれていた。
大人になってくると嗜好も変わり、どちらかと言えば好みではなくなってしまったその缶詰を一つ手にとり、ミッジは崩れるように床に腰を下ろした。
きっとここでなら、子どもに還っても許される。
いつも斜に構え、無意味に肩肘張って生きてきたミッジは呻き声を上げて顔を覆った。
埃を被った食器棚から、時々訪ねてくる小さな孫のために揃えられた食器に描かれた小さなアヒルが蹲って動かない彼女を見下ろしていた。
この島の住人たちはほとんどが漁業を営み、昔からの知り合い同士で強固なコミュニティを作り上げている。
もちろん彼らにとって、若い女が一人で移り住んできたというのは格好の話の種だ。老若男女問わず、胡散臭げにじろじろと見つめてくる。
「あんた、観光客かい」
「いいや」
祖母の名を出しその孫だと伝えると、島に一軒しかないグロッサリーのおかみは新聞紙を糊付けする手を止め、納得したようにふっくらした顔を上下させた。
「へえ…そういや、あんたのおっかさん、ちっこい女の子連れて遊びに来てたね!思い出したよ!ああ、ああ!あの時の女の子があんたかい!随分大きくなったもんだねえ」
ミッジの母と同年配の彼女は、ミッジを見上げて笑った。
「おっかさん、元気かい」
「母ちゃんは三年前に死んだよ」
「あら…まだ若いのにねえ」
きっと自分が死んだ時もこの女はこの台詞を言うのだろう、とミッジは思った。
自分に言い聞かせて、諦めて、覚悟は決めた。
そうやって選んだ道なのだが、日常の小さなことごとに隠れた小さな引っ掛かりが、胸の奥にかすり傷をつけていく。
ミッジは、少々の動揺を押し隠すように快活に言った。
「葬式のあとも私一人でプリマスに住んでたけど、何しろこの景気で、仕事、クビになっちゃってさ…ばあちゃん家が空き家になってるなら、そこに住めば家賃浮くんじゃないかって思って。しばらく失業保険で貧乏暮しするわ」
「そうかい。あんたも若いのに苦労するねえ。しばらくのんびりするといいよ」
ミッジは店の冷蔵庫から牛乳のパックを落とさないよう誰にも知られない努力と共に取り出すと会計のカウンターに置いた。
所謂レジスターはなく、何十年も前の武骨な計算機が、割れた角をビニールテープで補修されて現役で働いている。
「あんた足悪いのかい?」
新聞紙で実益と暇つぶしを兼ねて作った紙袋に、牛乳を突っ込みながらおかみは訊ねた。
「あ……、まあ、うん」
牛乳の表面に浮いた結露が染みて黒っぽくいかにも破れやすそうだ。
袋に入れる意味はあるのだろうか、とミッジは思った。
カウンター脇の籠にざっかけなく積み上げられた安っぽいチョコを一つ、おかみは紙袋にぽとんと入れた。
「これ、初めてうちの店に置いてみたんだ。味見しとくれ」
「……ありがと」
誰とも打ち解けず、馴染もうともせず、あいさつ程度しか口にしないミッジは、案の定かなりな変わり者という噂を立てられた。
それもwonder lasts but nine days(人の噂も七十五日)という諺通り、おぼつかない足取りで島の舗装されていない道を歩いていても特に注目を浴びなくなった。
物流が不自由な島だけに髙い送料を払ってなんとか必要なものを買い揃え、何とか快適に暮らせるようになったところで、この事故だ。
これでは、今年の岩ガキも、最近のアジア風健康志向で都市部で売れるようになった何とも知れぬ海藻ももう無理だ。
今までは家からほんの2分ほど……道を挟んで真ん前と言ってもいいところにある磯に出かければ、そういうものが簡単に収獲でき、貧相な食卓にほんの少し華を添えていたのに。
こうしてちょっと買い物に出ただけで、累々と打ち上げられた魚や海鳥の死骸が目に入る。
一様に、魔女のシチューか何かで煮込まれたようにどろどろと真っ黒だ。
都市部に近い海岸には多くのボランティアが集まって海鳥を洗浄し、汚染されていない海域へ放すという活動が精力的に行われているらしいのだが、この地味な島はまだ置いてけぼりだ。
ぶらぶらと揺れる買い物袋を気にしながらゆっくり歩き、ふとミッジは足を止めた。
家の前の磯には12フィートはあろうかという大きな岩が高く聳えていて、潮が引くとその陰に大きな三日月形の潮だまりができる。イソギンチャクやフジツボが生え、鉛に汚染されていないムラサキイガイも採れる。
ここには時々、南からの海流に乗ってやってきた色鮮やかな魚が閉じ込められていることがある。宝石のように美しい彼らは自力では故郷に戻れず、そこで死んでいくだけの死滅回遊魚だ。ミッジは彼らを見つけると決まって、絶対にありえないことと知りつつも仲間の元に戻れるよう幸運を祈ってやった。
そこが今は、油のプールとなって、揺らぎもなく不気味に静まっている。ここにもグロテスクな銅版画の怪魚をミニチュアにしたようなオコゼやまずそうな小さな鰈などの底生魚が油の層に呼吸を阻害されて窒息し、波で運ばれてきていた。
今は揮発臭ばかりが鼻につくが、腐臭も混じり出している。
実に気が滅入る。
その中にひときわ大きな黒い塊があった。
漁網か何か、大きめのごみが漂着したのだろうと思ったが、目でなぞるとなんとなく生き物のように思えた。
何やら胸騒ぎを覚える。
――ねえ、よしなよ
――よしなよって言ってんじゃん!
あれはただのゴミだと思っていればそれでいい、と野性の勘が大声で喚き散らしているのだが、なぜだがそういうときほど二度見、三度見してしまうものだ。
ミッジは最初、それをアザラシの類かと思った。
うつ伏せの顔や身体の半分から下は鉛の坩堝のような水に浸かって見えない。
その状態でも明らかにわかるまるっこい頭蓋を持つ頭部。
どう見ても魚のものではなく哺乳類的な、さらに言えば非常に慣れ親しみ、毎日目にする生き物のフォルム。
頭部に絡みついた海藻と見えたものが海藻にしてはきめ細かく人間の髪に似て、銅像の毛髪表現にそっくりそのまま汚く束になって皮膚に張りついている。
頭部から胴へ続く部分に細くなった箇所、所謂「首」があり、肩が張っているように見える。
鳩尾から胃のあたりにかけて、きゅっと締まるような感覚。
このひどい揮発性の臭いのせいでも、患っている病のせいでもなく、眩暈がした。
――警察!警察に電話だ!!
つづく
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