10 失っていない
門の付近は、出て行く者たちと入ってくる者たちで、雑多だった。
クレスはきょろきょろと辺りを見回し、手近な人間をとっ捕まえては尋ねた。娘がひとりで隊商と交渉などしているというのは珍しかったので、リンを覚えている人間は多く、彼女の居所はすぐに知れた。
「リン!」
大声で呼べば、金髪を編んだ娘は驚いたように振り返った。
「クレス。何だ、わざわざきたのか」
「よかった。間に合って」
「挨拶なら、昨夜に済ませたのに」
「俺もさっきまでは、そう思ってたんだけど」
息を弾ませて、少年は言った。
「ヴァンタンに、会った」
「ああ」
リンは判ったというようにうなずいた。
「馬鹿な話を聞いたのか」
「馬鹿だと思うか?」
「根拠が薄弱だ。そうは思う」
冷静に、彼女は評した。
「気にかかるか」
「そりゃ、かかる」
「乗せられたのか」
「そうかもしれない」
少年は笑った。
「でも、きっかけだ」
「ヴァンタンもそう言った」
リンは街並みの方を見た。
「彼は、お前を誘えと言ってきたんだ。お前が旅を望んでいればともかく、そうは思えなかったから、首を振った」
「旅とか、正直、考えたことない。でも、ヴァンタンがきっかけをくれた」
クレスは繰り返し、じっとリンを見た。
「俺、お前に興味があるから、ついていきたい」
「……それは」
リンもまた、クレスを見た。
「愛の告白ということなのかな?」
「そっ、そんなんじゃないけど」
クレスは泡を食った。
「冗談だ」
リンはあっさりと肩をすくめた。リンがその気もない――だろう――のに男女の事柄を持ち出すときは、何かをごまかそうとしているのだということに、クレスはまだ気づいていなかった。
彼女は、クレスの言葉に喜んでいるのだ。
「そっちは、本気か」
はっきりと嬉しさを出さないまま、リンはそう問うた。
「本気だよ」
少年はうなずいた。
「いいのか。〈赤い柱〉亭は」
「ちょっとだけ時間をくれたら、ちゃんと挨拶をしてくる。バルキーをがっかりさせるかもしれないけど……」
「そこまで私も急いでいない。だが、もう一度よく考えろ」
「考えて悩んで、同じ結論に行き当たるなら、同じだ」
「違う結論が出るかもしれないじゃないか」
「いいんだよ」
クレスは顔をしかめた。いま、出した答えはこれなのだ。悔やむかもしれない。けれど、〈やらずに後悔よりもやって後悔〉。そう考えてから、少年はリンを見た。
「それとも、嫌なのか。俺が一緒に行くなんて言ったら、邪魔か」
「連れはないよりある方がいい。女ひとりは、なめられることもあるからな」
リンが「なめられる」とはとても思えなかったが、世間一般ではそういうこともあるだろう。
「本当に、いいんだな」
「そう言ってるだろ」
クレスが主張すれば、リンは笑った。嬉しそうだった。
「それにしてもヴァンタンは世話焼きだな。彼は、一生、人の面倒を見て過ごしそうだ」
「でも、当人は楽しんでるよ、絶対」
あのにやにや笑いは、少年の前途を祝福しているというより、展開を面白がっているように見えた。
「まあ、それならけっこう。世話焼きは能天気な方がいい。苦労性だと、苦労するだろう」
そんなふうに言ってからリンは笑いを消し、じいっとクレスを見た。
「何だよ」
「惜しいな、と思ったんだ」
「何が」
言うことに脈絡がないように感じて、クレスは顔をしかめた。リンは肩をすくめる。
「〈失せ物探しの鏡〉を売ってしまったことだ。いま、お前を鏡に映したらいったい何が見えるものか、とても興味があるのに」
「今日は別に何も、盗られちゃいないよ」
念のために腰に手をやった。財布の袋はきちんとそこにある。もっとも、大した金額は相変わらず入っていないのだが。
「何も、そういった具体的なモノだとは限らない。つまり、そうだな。お前は〈赤い柱〉亭での職を捨てて私とくると言っている。そうなると酒場の建物が見えたりするものか、それともバルキーやウィンディアの姿になるものか、知っておきたかったと思ったんだ」
その言葉にクレスは目をしばたたく。
「職を失っただとか……そんなことまで『失せ物』の範囲に入るのか?」
「そのはずだ。あの鏡が映すものは、対象が失ったと自覚しているかどうかに関わる。失せ物というのは失われたと気づいた時点ではじめて失せ物になるから」
「……意味が、よく」
判らない、とクレスは顔をしかめた。
「だから例えば、あのときにお前が財布をなくしたと思っていなかったなら、すられたという事実があったとしても、それはまだお前にとって失せ物じゃない。そうなれば、私は鏡のなかにお前の財布を見なかった」
「それって、変じゃないか」
クレスは反論した。
「すられた時点で、失せ物だろ」
「いいや。持ち主がなくしたと思わなければ、それは失せ物じゃないんだ」
リンはそう主張した。
「いま、お前は何を失ったと考えているんだろう。私はそれが、気になっている」
もしかしたらそれは、リンなりの気遣いであるのかもしれなかった。「失せ物」の定義に関してはまだ異論があったけれど、そのことはどことなく、感じられた。
「そういう意味なら、さ」
少年は言った。
「たぶん、何も見えないよ」
「何?」
「俺は確かに、〈赤い柱〉亭での職は失うかもしれないけどさ、バルキーやウィンディアを失ったとは思ってない。いる位置が変わるだけだ」
失ってない、と少年は言った。リンは笑んだ。安堵したように。
「そうか、失っていないか」
「いない」
「それじゃやっぱり、〈失せ物探しの鏡〉はもう要らないな」
「リンだったら、鏡かな」
何となく、クレスは呟いた。リンは片眉を上げる。だからさ、とクレスは言った。
「いま、リンをあの鏡に映したら、リンの上には〈失せ物探しの鏡〉が見えたのかな?」
「そんなはずがあるか」
リンは一蹴した。
「私はあれを失ったんじゃない。売ったんだ。正当なる代価を受け取った」
「でも、俺を映してみたいと思ったんだろ。リンの理屈によれば、鏡がないっていう自覚があったってことになる」
少年が指摘すると、リンは瞬きをした。
「……そうか。有り得る。それは思っていなかった作用だ。なくしたのではない、手放したことへの後悔というのも、あの鏡は映し出したかもしれないな」
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