09 口実

 少年は朝の風を受けながら、昨夜耳にしたジェルスの話について考えていた。

 座長の言ったように、すぐさま答えを出さなければならないというのではない。じっくり考え、バルキーに相談をして、場合によってはヴァンタンにも相談をして、ゆっくり結論を出してもいい。

 しかしこの朝、思考はぐるぐると少年の内を巡っていた。

 どうしようか。

 彼は何も「両親を捜す」ことに関してだけ「どうしようか」と考えているのではなかった。しかし彼自身は、まだそのことに気づいていない。

「――おはよう、クレス」

 かけられた声に少年は顔を上げた。

「いい朝だね」

「おはよう、ラウセア、トルーディ」

 クレスは返事をした。朝の巡回だろう、にこにこと笑っている若い町憲兵が彼に手を振り、その横には仏頂面をした年嵩の町憲兵がいた。

「トルーディ、挨拶をされたら挨拶を返すべきだろう」

「うるさい」

 そう言いながら面倒臭そうに、トルーディは片手を上げた。クレスは苦笑する。どうやら彼らは上手にやっているようだ。

「どうしたの。リンの見送り?」

「知ってるのか?」

 彼女が発つことを決めたのは昨夜であるのに、どうしてラウセアが知っているのかとクレスは驚いた。

「さっき、会ったんだ。タイレスまで東に行くんだってね。大した女の子だ」

 それからラウセアは笑った。

「君の婚約者じゃなくて、残念だよ」

 リンの演技にすっかり騙されたことは、この若い町憲兵にとって腹の立つことではなく、いっそ爽快なことのようだった。クレスは、リンが自分の婚約者などと言ったらしいことに驚いたが、それよりも、そう告げて違和感のなかった「女性らしい」リンというものに想像がつかず、首をひねる気持ちの方が強かった。

「隊商を探すと言っていたけれど、巧く見つかるものかな」

 少し心配そうに若い町憲兵は言った。年上の町憲兵は、肩をすくめる。

「見つからなければ、ひとりで行くんだろう。女のひとり旅なんか普通はヤバいもんだが、あのガキゃクソ度胸がある」

 仕方なさそうにトルーディはリンを褒めた――のだろう。

「早く行ったら? トルーディの言う通り、よい隊商が見つかればもちろん、見つからなくても、そのままその足で出て行ってしまいそうだよ」

 どきりとした。

 分かれは昨夜の内に済ませた、そう思っていた。

 でも、もう一度――会いたい。

 引っかかっていることの一部に、少年は気づいた。

「有難う、ラウセア。行ってくる」

「よい旅をと、伝えてくれ」

「――判った!」

 言いながら、クレスはもう駆け出していた。

 朝のアーレイドは活発だ。市場では着いたばかりの隊商が荷を広げ、在住の商人たちも屋台を出し、あれやこれやと売り買いをしている。

 少年は、見ても違和感のなくなった天幕のある広場を通り過ぎ、人波をかき分けて罵声を浴びながらも、東門へと走った。

 ――リン。

「クレス!」

 しかしそこで少年は、またも声をかけられる。

「こっちで見るのは珍しいな。バルキーの用事なんかは、港の方が多いだろう」

「ヴァンタン」

 彼を見かけて、青年はわざわざ同じように人波を抜け、同じような罵声を浴びていた。

「おはようさん」

「おはよう」

 返しながらも、クレスは東門が気になった。リンはもう、行ってしまうかも。

「ちょうどよかった。話があったんだ」

 ヴァンタン青年はそんなことを言い出した。

「話?」

 どうしようかと、思った。

「悪いんだけど、あとにしてくれるかな」

 そう言って踵を返そうとしたが、ヴァンタンは引き止めた。

「まあ待て。リンなら見かけた。たったいま、向こうで隊商と交渉をはじめたところだ。一ティム二分で行っちまうようなことはない」

 少年の急ぐ理由を見破って、彼はそう言った。

「余計なことかなとは思ってるんだが、俺はちょっと、考えてることがある」

「それってもしかして、俺の両親の話」

「……何で知ってるんだ」

「ジェルス座長から聞いた」

「成程」

 ヴァンタンは納得したようにうなずく。

「そのことは、まだ考えてないんだ」

 クレスはまず、そう答えた。

「どこにいるかも、第一、生きているかも判らない。それでも探しに行きたいと思うかどうか、いまはまだ」

「判ったと、言ったら?」

「……え?」

 遮られたクレスは、目をぱちぱちとさせた。

「判った?」

「いや、ちょっと言い過ぎた。だが、可能性のある話を見つけたんだ」

 ヴァンタンは頭をかいた。

「昨日、東からきたという旅人と飲んでな。何となくその話を振ったら、ずばり、昔に赤子を賊に連れていかれたという夫妻がいるなんてことを聞けた」

「……え?」

「そう遠くじゃないし、年齢なんかは合いそうなんだな。ただ、単なる偶然かもしれない。賊がガキ攫って売り飛ばすってのは、珍しい話でもないし」

 ヴァンタンは考えるようにした。

「クレス。名字は?」

 いきなり問われて、少年はまた瞬きをする。

「ないよ、んなもん」

 彼はただ、クレスとだけ呼ばれていた。

 昨日、詩人の姓を聞いたときの不思議な感覚が蘇る。そんなものは、なくて当たり前だと思っていた。自分にあるかもしれないなどとは、思ったことがなかった。

 事実、ない。そう、思っていた。

「ふうん。そうか、そうなると確認はできんなあ」

 でも、と青年は続ける。

「どう思う」

「どうって」

「これは、お前が飛び出す、いいきっかけになるんじゃないか」

「……んな」

「何ともちょうどいい。ふたりして、東だ」

 ヴァンタンはそちらの方を振り仰いだ。

「リンと一緒に、旅に出たいんだろう?」

 青年は視線を戻すとそう言った。

 どきりとした。

 だが、クレスは首を振る。

「見送りに、行くだけだよ」

「どうかな」

 ヴァンタンは肩をすくめる。

「どうもこうも、俺はこの街にいるんだし」

「ずっとか?」

 追及に、少年は、黙った。

「気づけよ」

 ヴァンタンはにやっとした。

「親探しなんてのは、口実で、いいんだよ」

「口実」

 そういう口実でリンを追えと、ヴァンタンはそう言っているらしかった。

「俺」

 迷った。

 答えは、まだ出さなくてもよかったはずだった。だが、話は違ってきた。

 両親を捜すかどうかではない。

 リンと行くか、どうか。

 それなのだアリシャス、と少年は思った。

 そうだ、それなのだ。昨夜にリンが発つと言ってから思っていたこと。ジェルスの話で、考えていたこと。

 彼もまた、彼女と共に――旅に出ることは、できないかと。

「ヴァンタン、俺、行きたい」

 気づいた瞬間、その言葉は不思議なくらいするりと、少年の口から出てきた。

「ようし、言ったなっ」

 茶色の髪の若者は、気持ちよく笑った。

「だいたいのところは、リンに話した。彼女から聞け。もっとも」

 少し、ヴァンタンは顔をしかめた。

「両親の件は、期待させておいて間違いだったら、むしろ悪いんだが」

「いいんだよ、それにそのことより、いろいろ助けてもらったことにきちんと礼を言ってなかった」

 クレスはぱっと手を出す。

「有難う、ヴァンタン。アニーナに、よろしく」

「おう」

 ヴァンタンはその手を取った。

「元気でな」

「また、いつか!」

 短い挨拶を交わすと、あとはもうクレスの頭には東門のことしかなかった。

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