第3章

01 俺は、やってない

 がちゃんと開けられた――いや破られたのは小さな窓だった。

「クレス、こっちだ!」

 硝子の割れる音と名を呼ばれたことに驚き、少年の金縛りクルランは解けた。

「早くこっちにこい、捕まればややこしいことになる」

 そこにのぞかせている顔には覚えがあった。割れた窓の間から手を差し入れ、外側から鍵を外しながらクレスを見ている。

「あんた」

 声が掠れ、咳がひとつ出た。

「――ヴァンタン! いったい何で」

「話はあとだ」

 素早く、街の青年は言った。

「女を殺害したとして捕まりたいのか。この状況じゃトルーディ旦那は躊躇いなくお前を犯人と決めつける」

 死体。ひとつ部屋。小刀。

 ヴァンタンの言う意味は、判った。

「クレス! こいっ」

 迷う間はなかった。少年は即断すると、小さな窓に駆け寄った。それを勢いよく全開にして、身を乗り出す。

 びゅう、と風が吹いた。クレスはまたも、固まってしまう。

「に……二階じゃないか!」

その通りアレイス。気をつけろ。まあ、万一落ちても、死なんだろうが」

 ヴァンタンは何とも心温まる台詞を吐き、あとは無言で少年を手招いた。

 そう、迷う暇はない。クレスはどうにかして小さな窓を抜けると、かろうじて一階の狭い軒の上に足を乗せることができた。背を向けるヴァンタンに続いて、おっかなびっくりでそのごく狭い道を歩き出せば、あとにしてきた部屋の扉がバタンと開く音が聞こえる。

「これは……!」

「もうひとり、子供がいるはずだ」

「どこに隠れ――窓が開いているぞ!」

 気づかれた。クレスはびくりとした。

 自分が陥っている状況を完全に把握しているとは言えない。だがここで町憲兵に見つかることがどれだけまずいかくらいは、判った。

「少年、度胸はあるか」

「え?」

「まあ、なければ今度までに育てておけ。いまは捻り出せ」

 ヴァンタンがよく判らないことを言った、と思った瞬間だった。

 男は暗がりのために距離感の不確かな地上へ、ひらりと飛び降りてしまった。

「こい!」

 そして無茶苦茶を言ってくる。クレスは口をぱくぱくとさせた。

「そ、そんなの」

「やるか捕まるか、どっちかだっ」

「いたぞ」

「裏だ、逃がすな!」

 窓からのぞき込んだ町憲兵は、幸いにしてクレスほど小さくはなく、窓を抜けるのは無理であると判断したようだ。すぐさま、外に回るつもりであるらしい。

(くそっ)

「ええい、度胸!」

 少年は気合いを入れると、見事に思い切った。

 幼少期を思えば、男の子らしいやんちゃな経験など皆無に等しい。子供たちが度胸試しと言ってやるような、こういった場所から飛び降りる危険な遊びをしたことはなかった。

 クレスの生きる道は、ダタクたちの言うなりになることだけだった。だから彼は度胸試しの遊びの代わり、賊たちの要求を少しでも早く叶えるための危ない近道――例えば、道の通りに進むことをしないで、数ラクトの高さがある石垣から飛び降りるとか――はよくやっていた。

 同じことだ、と腹をくくったのである。

 足の裏が地面に行き当たると、じいんとした痛みが骨を伝わって腰の辺りまで駆け抜ける。

 だが、耐えた。上手に着地した彼は足もくじかなかったし、痛みに叫ぶこともせず、転びもしなかった。

「よっしゃ、よくやった!」

 ばしん、と背中が叩かれた。むしろそれの方が痛い、とクレスは顔をしかめて呟き、ヴァンタンは笑って謝罪の仕草をした。

「いいか、クレス。俺を信じて、黙ってついてこい。それがたぶん、お互いのためにいちばんいい」

 それから真顔になって言ったヴァンタンの台詞には何の根拠も感じられなかった。けれどクレスに選択肢はない。少年はこくりとうなずいた。

 死体。小刀。

 ぱっと思い浮かぶ怖ろしい光景をかき消そうとばかりに頭を振り、クレスはヴァンタンのあとに黙ってついて走った。


 夜のアーレイドは、昼間とはまた違って活発だ。

 クレスがこれまで通ったことのない、色気のある通りを幾つか越えたが、少年は顔を赤らめている余裕などなかった。

 いったい、何が起きたのだろう。

 見知らぬ場所。見知らぬ女。――死んでいた。

 あれは、いったい。

「ファヴだ」

 ヴァンタンはひとつの井戸に寄ると、少年の手を洗わせてくれた。それから走ることをやめ、目立たない程度の速度で歩いた。

 しばらくはふたりとも沈黙していたが、耐えきれずにクレスが疑問を口にしたのだ。するとヴァンタンは、ひとつの名を口にして、追悼の仕草をした。

「公演に出てた。踊り子のひとりとして」

「……どうして」

「下町の女だ。ちょっとした顔見知りだったよ」

 ヴァンタンは、「どうしてその女を知っているのか」と問われたと考えたらしく、そう答えた。クレスは首を振る。

「どうして、その女があの部屋で死んでると……知ったんだ」

「ああ」

 質問の意味が判った、と言うようにヴァンタンはうなずいた。

「ちょっと、公演で気にかかることがあったんでね、顔見知りの町憲兵の旦那に話をしようと思ったんだ。ところが、詰め所は騒然。何があったと思う?」

 肩をすくめて男は言ったが、クレスに答えさせようとしたのではなかった。そのまま続ける。

「おかしな話だ。〈銀毛の山羊〉亭で、ファヴという女が死んでいる。やったのは一緒にいるガキだと言う――何とも具体的すぎる密告が、詰め所にあったんだ」

「俺は、やってない!」

 クレスは思わず叫んだが、判っている、とヴァンタンはそれを諫めた。

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