10 思いもよらぬ色
観客たちが去った天幕の周辺は、すっかり静かになっていた。
いや、公共の広場であるからして、普段通りの小さな夕市が立っては、普段通りの賑わいを見せている。見せ物の終わった天幕の傍ではもちろん演奏などはなく、観客たちのさざめく声もなくなったから、静かに感じるだけだ。
秋の風が旗のような布をばたばたとはためかせ、クレスはしばらく、ぽつねんと立っていた。
リンに言われた通り、先に戻る――気には、なれなかった。
そろそろ酒場へ戻らなければ、仕上げの仕込みに間に合わない。判っていたけれど、リンの様子がどうしても気になった。
西の空に〈導きの星〉ダムルトが見えだした頃、クレスは待ちきれなくなって行動を開始した。
そっと天幕の内側を覗いてみたけれど、一座員たちが掃除をしているだけだった。そうと判るとクレスは、裏側に向かってみる。
昼間には「入るな」とばかりに張られていた縄も、いまはもうなくなっていた。もし張られていても、クレスは少し躊躇ったあと、そのまま進んだかもしれないが。
裏でも片付けはあらかた済んでおり、クレスは知らないながら、町憲兵たちがここで見たような混沌は全くなかった。芸人たちは彼らの幌馬車や、借りてある広場のすぐ脇の倉庫などに入り込んでしまっており、人影すらもなかった。
もう少しすれば、一段落して飯なり酒なり
ふと、ひとつの幌馬車のなかから怒鳴るような声がするのに気づいた。クレスはそっと近寄ってみる。リンだろうか?
「――ったって、仕方がないだろう」
「それで済ますんじゃないよ。話が、違うじゃないか」
くぐもった声が聞こえた。どうやら女が男に文句を言っているようだが――リンの声ではなさそうだった。
「久しぶりにやってきて、儲け話を寄越したと思えば、払えないなんてどういうことなんだい」
「予定なんてのは、変わるもんだ。お前も見ただろう。――あれはとても、巧くいった」
「そんなこと、どうでもいいんだよ。あたいは金が欲しいだけだ。約束のものをもらえるまでは、帰らないからね!」
それでもどこか、声には聞き覚えがあるような気がした。しかし、女はリンではない。男の方の声はどうだろうか。
(――あの、魔術師かな?)
ふと、そんなことを思った。久しぶりにやってきたという言い方は、男がアーレイドの人間ではないということを示している。
(でも)
(それだと――)
少年の考えがまとまらないままでいる内、男の声が続く。
「うるさい女だな。いまだけちょっとばかり儲けるより、あれを使えば大金が手に入る。ああやって、幻惑草の中毒者を増やすんだ。客は無自覚のまま、繰り返しやってくるようになるし、抜けられなくなった頃にちょいと話を持っていけば――」
幻惑草。
その一語にぎくりとした。
何を意味する言葉であるか、少年は知っていた。
彼が働かされていた隊商の連中がこの街で捕縛されたのは、それを扱っていたことが知られたからだった。
摂取する者に快感を与える違法の薬物。習慣性があり、それを売り買いすることはどの街でも厳罰の対象となる。だがそうであればあるだけ、幻惑草は高値で裏取引され、闇商人たちは懲りずにそれを扱い、彼らと町憲兵との戦いは〈
(幻惑草?)
少年ははっとなった。
(……まさか、さっきのあの煙)
吸うなとリンが言った、あの甘い香り。あれは、何かそういった類の特殊な薬草を焚いたものだったのだろうか?
急に不安を覚えた少年の足もとは、ぐらりとふらついた。とっさに彼は馬車に手をついてしまう。がたん、と思ったよりも大きな音がした。
「誰だ!」
拙い。これは、世間を知らない少年にだって判る。クレスはぱっとその場を離れようとした。
だが、間に合わなかった。見せ物に興奮して疲れた身体は、彼自身が考えていたほど敏捷には動かなかったのだ。
少年の姿を見つけて追いかけてきたと思しき男が、すぐに彼を捕まえた。
と思うが早いが、クレスは強烈な痛みを覚える。
腹を殴られたのだと理解する間もないまま、少年はそのまま――昏倒した。
気持ちが、悪い。
二日酔いなどというものを経験したことはクレスにはなかったが、もしもあれば、昨夜はそんなに飲んだだろうかと考えたかもしれない。
しかしもちろん、彼は酒など飲んでいなかった。
彼の偏った知識の中で判定すると、この状況は高熱を出したときに似ていた。
頭ががんがんとして、身体が重く、吐き気がする。
いや、何より、腹が痛い。
そう思うと一
(このクソガキが)
(――死ね!)
だが、違う。少年はのろのろと首を振って嫌な思い出を振り払った。あの隊商主は町憲兵に捕まって、裁きも受けて、街を離れた強制労働所で厳しい監視を受けているはずだ。過去の影に縛られる少年に店主はそう教え、怖がる必要はないと言ってくれた。
しかしこれは、殴られたあとの痛みだった。思い出したくもないが、身体がよく覚えているもの。
そこでクレスの記憶は現在に追いついた。耳にした話と逃げ損なったこと。ダタクによくされていたように腹部を殴られ、意識を失ったのだと判った。
クレスはがばっと身を起こした。だが次の瞬間には目眩を起こし、その場にまたへたり込んでしまう。
「え……あれ?」
苦痛をこらえながら、しかし彼は不審な声音で呟いた。
彼がいたのは天幕の裏、屋外であったはずだったが、こうして目を覚ましたのは板張りの床の上だ。
(ここは……)
「どこなんだ?」
答える者はいない。床にはいつくばった姿勢のままで見回せば、小さな部屋のようだった。簡素な木の扉、飾り気のない小さな卓と椅子、それから、大きめの寝台がひとつ。
宿屋などというものに泊まったことのないクレスは、そこが宿の一室であるかもしれないとは考えなかった。
もう少し時間が経てば、そのようなことに予想が行ったかもしれない。だが少年に、そんな余裕ある考えを進める時間は、なかった。
目眩を警戒して、クレスはゆっくりと立ち上がる。こういうときは休んでいるのがいちばんなのだが、いまは状況を確認することが先だと、そう思った。
そこで――少年の心臓は、大きく音を立てた。
「な……」
(何だ、これ!)
浮かび上がる悲鳴をこらえようと両手を口に持ってきたのは、反射的な行為だった。しかし、その反射もぴたりととまり、心臓は更に大きく跳ね上がる。
「何だ、これ!?」
彼の両手から、嫌な臭いがする。そしてその全体は、思いもよらぬ色に染まっていた。
あの大きな天幕のような――赤黒い、それは血の色。
それは、目前の寝台の上に横たわる全裸の女の身体から流れて固まったものと、同じ色。
少年の頭は完全な恐慌状態に陥った。
ぴくりとも動かない、死んだ女。
その血に染まった、彼の両手。
そして、床に転がる血塗れの――手に入れたばかりの、クレスの小刀。
いったい、どうなっているのか?
少年はがくがくと身を震わせ、必死で何かを考えようとした。だが何も考えられない。何も考えられない。
足から力が脱けそうだ。頭痛も腹痛も吐き気も、恐怖の前に消し飛んでしまった。
いったい、何がどうなっているのだ?
ドンドン、と戸を叩く音がして、町憲兵だ、ここを開けろ――という叫び声が聞こえても、クレスはその場に固まったまま、身動きが取れずにいた。
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