09 稀代の大魔術師
クレスはもう、すっかり夢中だった。
即席の踊り子たちの演舞はそれほど上手だとは言えなかったし、道化が演技ではなく台詞を忘れて慌てるなど、ちょっとしたご愛敬と言えるようなところもあったけれど、こういったものを初めて見るクレスにはどれもこれも衝撃的で刺激的だった。
人間と猿が本当に意思の疎通を交わしているかのような芝居には目を丸くし、笑うところでは大笑いして、驚くところでは声を上げて驚いた。
クレスだけが騒いでいた訳でもない。
芸がはじまれば、街びとたちも楽しもうと思ってやってきているのだから、驚かされれば悔しいなどという馬鹿げた意地を捨てて大笑いをし、驚きを口に出す。
これだけ顕著な反応をもらえれば、芸人たちは満足するだろう。
涙を流すほど大笑いをしたクレスは、隣のリンがやはり冷静であることにも気づかなかった。気づいても特に気にしなかったかもしれない。彼女はどうやら、そういう性格なのだ。
笛や弦の音色は時に派手派手しく陽気で、時にしっとりと穏やかに、演し物によって雰囲気を変えた。
「やあやあ、みなさん!」
帽子をかぶった、司会進行役といった雰囲気の男が、何度目になるか舞台に上がってくる。
「ずいぶんと盛り上がってるね。楽しんでる? そりゃよかった。はるばると旅をしてきた甲斐があるってもんだ」
でもね、と司会は声をひそめる。
「ここまでは、ただの前座に過ぎないんだ。本番は、これから」
いかにも気を持たせるような調子に、客席からは口笛なども上がる。司会は帽子を取って礼などした。
「――お待たせしました、ついに出番です。ビナレス地方にこの人あり、稀代の大魔術師、ジェルスの登場!」
わあっと歓声が上がった。クレスは、リンがふっと鼻で笑うのを聞き取る。これまでほとんど無反応だったようなので、少年は意外に思って隣を見ようとしたが、バアンッというとんでもない大きな音にびっくりして舞台に視線を奪われた。
見れば、色とりどりの煙が舞台を覆っている。一
普段は黒ローブと見れば胡散臭いと敬遠する人々も、このときばかりは喝采を以て魔術師を迎えた。
司会はそそくさと退散し、魔術師はゆっくり手を振った。すると、色の付いた煙が命令されたかのように客席に漂っていく。人々は少しざわついた。気味が悪いと思うのだろう。だが、煙がすうっと降りてくると、それはまた歓声に変わる。得も言われぬ、花のような甘い香りが客席を包んだのだ。
「――これは」
リンが、呟いた。
「クレス」
「え?」
「吸うな。袖口で、口と鼻を覆っておけ」
「……何で」
「言う通りにしろ。あとで、話すから」
そう言うリンは、それを実行していた。クレスは訳が判らなかったが、これを無視するとリンが怒りそうな気がして――これまでリンは怒ったことなどないのだから不思議な感覚だったが、クレスはそう思ったのだ――黙って従うことにした。疑問を投げかけている間に舞台を見逃すことをしたくない、というのも多分にあった。
次第に、曲調は派手なものから、どこかおどろおどろしい感じのするものになっていた。
魔術師ジェルスは何も口を利かず、手を動かし、指を奇妙な形に結んでは、不思議な事象を舞台に、客席に、引き起こしていく。
それには、先にリンが指摘したように、魔術師だと判っていれば「そういうこともできるだろう」というようなことも多かった。
召使いたち――という設定のようだったが、要するに一座の者たち――が用意した卓の上から物を浮かせたり、動かしたり、そういった類である。だがそこは上手な「見せ物」で、ただ何かを移動させるだけではなかった。
絵の具の中身を移動させて布地に絵を描いたり、客席に飛ばした花が大量の花弁となって人々に降り注いだり、ひと捻りがあった。なかには、移動をしたと見えた
そのあとには露出度の高い踊り子の内のひとりが舞台にやってきて、魔術師に媚びを売るように絡み出しはじめる。艶っぽい雰囲気にクレスは違う意味でどきどきし、目のやり場に困ってリンを眺めたりした。
リンはちょっと苦い顔をしていたが、クレスの視線に気づくと袖口のことを忘れるなと言うように自身の手の上を軽く叩く。少年がうなずくのを認めるようにうなずき返したときには、彼女の表情はいつも通りだった。
音楽も何だかなまめかしいものになっている。いささかわざとらしくはあったが、踊り子はあえぎ声のようなものまで出しては大人たちをにやつかせ、貞淑な女性を赤面させ、クレスをどぎまぎさせた。
当の誘惑相手、魔術師はただひたすらに苛つく一方であるようだった。
色気のある演技は、雰囲気を変えていく。
魔術師はその愛撫にほだされることなく、うるさいとばかりに女を突き放す。次の瞬間には、何も持っていなかったジェルスの右手に細い剣が現れた。
と思うが早いが、男はそれを倒れた女の身体に――突き刺したのである。
客席から悲鳴が上がった。
この手の見せ物に慣れている者は、「刺したと見えるように仕掛けをしているんだ」などと知った顔で考えたかもしれない。だが多くの者はそうではなかったし、もし本当に慣れている者――タネを知っている者であれば、もっと驚愕したはずだ。
知らぬ者にもよく知る者にも、それは本当に刺したとしか、見えなかった。
悲鳴と怒号を余所に、魔術師は黒いローブを脱ぐと動かなくなった女の上にかけた。それから、呪文のようなものを短く唱える。そして黒ローブをさっと持ち上げれば、そこには――舞台に突き刺さった剣があるだけで、女の死体などはなかった。
客席に沈黙が降りる。と、次の瞬間にはぱっと客席の一部が明るくなる。そこには、刺された踊り子が、もちろん無傷でにこにこと笑っていた。
一
クレスも目をまん丸くし、リンの忠告を忘れて両手を自由にすると、手が痛くなるほど拍手をした。
その大一番が演目の最後のもので、魔術師はまた大音響と共に姿を消し、明るい音楽が流れ始めて他の芸人たちが出てきて挨拶をし終えると、司会が催し物の終了を告げた。
人々は興奮しきって席を立つ。
クレスもリンと話をしたかったが、目を輝かせて友人に何か言おうとした瞬間、リンの顔がとても厳しいものになっていることに気づいて――舌を凍らせてしまった。
「……リン?」
「――なと、言ったのに」
「どう、したんだ?」
「やるなと言ったんだ、私は! くそっ、ジェルスの奴め!」
口汚く罵るリンなどこれまでの様子からは思いもつかず、クレスはこの天幕に入ってきたときと同じくらい口をぽかんと開けた。
「クレス。先に〈赤い柱〉に戻ってろ。私はあとで行く」
「お、おい、リン」
「――行けなかったら、すまない」
引き止めることは、できなかった。
人々が後方の出口へ向かうのに逆らって、リンは前方、舞台のある方に突進すると、人の間に紛れてしまった。
「リン!」
呼んでも返事は戻らず、どうしたものか、どうなったものかとその場に佇んでいたクレスは、終わりですからお帰りくださいと告げる係の者たちに肩を押され、入ってきた場所から天幕を出ざるを得なかった。
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