08 そっちに行き過ぎないように

「んじゃ」

 とヴァンタンは手を振ろうとし、しかしそれを途中でやめた。

「何だ?」

 リンが気づいて片眉を上げる。うーん、と唸ったあとでヴァンタンはそっと若者たちに顔を寄せた。

「催しを満喫したら、あとはまっすぐ、帰るんだぞ」

「何だそれ」

 クレスは苦笑が浮かんだ。

「『子供は早く帰んなさい』ってことか?」

「ん。まあ、バルキーも心配するだろうし」

 その言い方は「子供扱い」を肯定しているようにも聞こえた。

「まあ、とにかく、〈赤い柱〉亭で会おうな」

 ヴァンタンは強引に話を終わらせると、ぽん、ぽん、と彼らの肩を順に叩いて、先へ進むよう促した。自分は妻を待つのだろう。

 青年の様子にどことなく引っかかりを覚えたものの、改めて会場を見ればそんな曖昧な思いはクレスの内からすっ飛んでしまっていた。

 色とりどりの細い布地が旗のように地面から立てられ、風にひらひらとたなびいて人目を引いている。弦楽器フラット管楽器カラガルの演奏家たちが陽気で派手な音楽を奏でて辺りを賑やかにし、ヴァンタンの言った口上師であろう、二十歳前後の若い男がひっきりなしに何か喋っている。

 十歳になるならずの女の子たちがふたり、お揃いの衣装を身に着けて客を呼ぶ。道化の衣装を身に着けている男は面白おかしい仕草で客の笑いを呼びながら跳ね回っている。

「はじまるよ、はじまるよ! さあ、券はもう残りわずか、迷っているなら見なくちゃね。稀代の奇術師、ジェルスの一座だよ! 見逃したら、損、損」

 いかにも人を煽り立てる口上が、とてもそれらしい。リンは少し苦笑のようなものを浮かべたが、クレスは単純に煽り立てられてわくわくとした。

「奇術師って、何だろう?」

「手先の技術や目の錯覚を利用して、魔術師みたいに物を動かしたり消したり、そういったことをやる連中だ。もっとも、ここの座長は実際に魔術師で、それを隠していないから、通り一遍の技じゃ面白味がない」

 リンは皮肉めいて唇を歪めた。

「隠しておいて、あっと驚かせればいいのに」

「どういうこと?」

「魔術師だと知らなければ、魔術師みたいだと感心するだろう」

「……それって、詐欺じゃないのか」

「価値の低い品を高価であるように見せるのは、商売の手法だ」

 リンがやたらと「商売の基本」だの何だのと言うのは、いずれ隊商を持ちたいと思っているためらしい。クレスもそのことは理解しはじめていたが、いまの言葉にはちょっと納得がいかなかった。

「でも騙すのは、よくないだろ」

「騙すんじゃない。言わないだけだ」

「それは、騙すと言うと思うけど」

 少年は主張したが、彼女は肩をすくめるだけだった。子供だとか、世間知らずだとか思われているような気がしたが、仕方ないかもしれない。

 実際、彼の世間は半年前までとても狭かった。リンの言うように却ってていないところがあるが、それは奇跡的と言えたかもしれない。

 天幕の内側へと順々に客が吸い込まれていく。入った向こうで既に歓声が上がっているので、何事だろうとクレスはきょろきょろ、覗き見ようと落ち着かなくなった。隣にいるリンは冷静なものだからそれは際立ち、もしヴァンタンが彼らを見ていたらクレスをからかったかもしれない。

「ようこそ、いらっしゃい。よい時間を!」

 入り口ではひとりの女がにこにこしながら客を迎えている。

「あら、リン。きたの。こないかと思ったのに」

 リンに気づくと二十歳ほどの女は意外そうに言った。

「私は特に興味がないが。クレスに見せたかったから」

「そう、よかった。席は空いてるより埋まる方がいいものね。さあ、入って入って」

 女は送り出すように手を差し出し、そのままクレスは赤黒い布の内側へと歩を進める。

「ふ……わあ」

 少年の口から、奇妙な声が洩れた。

「何……リンっ、これっ、何っ」

 クレスは声を震わせ、リンの腕をはっしと掴んでしまった。

「落ち着け。手妻という類だ」

 ぽんぽん、と腕が叩かれる。

「ただの目眩ましに過ぎない。お前ほど驚くのも珍しいが、この手のものが初めてじゃ仕方ないか」

 そこは――夜だった。

 天幕の内側であるはずなのに、ちかちかと星が瞬いている。だと言うのに、明るい。昼間のよう。いや、実際いまはまだ昼である。天だけが夜だ。

 いや、そうではない。それもおかしい。天幕としては広いけれど、そこは「内側」であるはずだ。

 なのに、空間が拡がっている。まるで、街の外壁の向こうに広がる草原であるかのように。

「つまりは魔術だな。幻術と言うのか。何もジェルスがひとりひとりに魔法をかけてる訳じゃなく、この天幕の布に術がかかってるんだ。ちょっとした占い師ルクリードの小屋なんかでも見られるやり方だから、知ってる者も多い。ただ、この天幕ほど大きなものが珍しいのは確かだ」

 リンは解説をしながら、クレスの腕を取って歩いた。もちろんと言うか、別にこれは、リンが急に色気を出して少年と腕を組んだという訳ではない。口をあんぐりと開けて夜空のような天の布を見上げているクレスを段差ですっ転ばせずに歩くには、それしかなかったのである。

「この辺りかな」

 客席の前半分には敷物が敷かれ、後ろには簡素な椅子が並べられている。「目眩まし」のために、一見したところではずいぶんせせこましく設置されているように見えるが、実際のところは天幕の内側、舞台を除いた部分は全部きっかり、窮屈なほどに席が用意されていた。

 彼らが入ったときには、座席は半分近く埋まろうとしていた。リンは少し迷ったようだが、敷物の前の方、まだかろうじて空いている真ん中付近にふたりが座れそうな場所を見つけて入り込んだ。クレスはもとより、口を開けたままでついていくだけだ。子供のように手を引かれて座り込んでもまだ、クレスは空、いや天幕の内側を見上げていた。

 リンは何かからかおうと思ったかもしれないが、おそらくそうしてもクレスの耳には届かなかっただろう。彼女はただ黙り、クレスから手を放して、膝を抱えるようにしながら座り込む。

 がやがや、がやがやと客席は騒がしかったが、クレスほど呆然としている者はいないようだった。リンの言うように、占い師の小屋や、芸人たちが集まるような酒場では、こういった演出も見られるものだ。知っていて驚かない者もいるだろうし、初めて見たのだとしても、あまり驚けば沽券に関わるとばかりに慣れたふりをしている者もいるだろう。

 結果としてクレスは、天幕の内側にいる者たちのなかでいちばん呆然とした顔をさらしていた。

 夢を見ているかのようだ。

 それも、悪夢ではない。

 どうしてか、心を掴む――。

「クレス」

 小さく呼ばれて、少年ははっとした。

「あんまり、そっちに行き過ぎないように」

「――それって、どういう」

 横を見れば、リンが青い瞳でじっと彼を見ていた。ずっと見られていたのだと、少年は気づく。

「『魔法』。忌まわしいと思う者も多いが、魅入られてしまう者もいる。魔術は確かに、夢のような不思議なことを現実に引き起こすことができる。でも逆に言えばそれは間違いなく現実で、夢じゃない」

 クレスは目をぱちくりとさせた。言わんとするところがいまひとつぴんとこない。リンこそ不思議な、夢のような語らい方をするな、などと思った。

「これが現実だってことくらい、判ってるよ。俺はいま、る訳じゃないんだもの」

 どうにか少年はそう返した。リンは何も言わなかった。

(不思議なものに――)

(魅入られる)

 今度はクレスがリンの横顔を見ながら、考えた。

(それって、まるでリンじゃないか)

 昨夜の〈赤い柱〉亭。クレスの財布袋を手に取ったリンは、どこか熱に浮かされたような表情で、例の鏡の効用に喜んでいた。

(何て言うんだっけ)

(そうだ、〈失せ物探しの鏡〉)

 彼女は失せ物を見つけたことに喜んだのではない。鏡の力が真実であったと、そのことにこそ。

 不思議なものに魅入られてしまうと言うのならば、それはむしろクレスよりもリンではないだろうか。

(もしかして)

(自分のことを言ったのかな)

 商売にしている、などと現実的なことを言っているが、それはもしかしたら――夢に魅入られないため。

 ふっとクレスはそんなことを思った。見せかけの夜空の下で、夢と現実を追う少女の横顔は、どこか神秘的に見えた。

 不意にざわめきが小さくなった。

 どんな「魔術」によるものか、照明などはないのに客席の方が暗くなり出し、前方の舞台だけが明るくなった。催しが開始されるようだと、人々が気づいたのだ。

 と、いつの間にか天幕の内部に入っていた演奏家たちがゆっくりとした曲を奏で出す。

 不思議な世界の、はじまりだった。

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