第2章
01 町憲兵
今日もいい天気だ。
空の色は優しく、風は穏やか。街を行く人々は笑い合い、幸せそうに見える。
一見したところでは、世の中はとても平和だった。
だが、彼は知っている。誰しもがみな心から幸せで、街の隅々までが平和であることなど、ないのだと。
それでも、少しでも人々が幸せになれるよう、街が平和であるよう、たゆまぬ努力をする。それが彼の仕事だ。
屋内の仕事はあまり苦にならなかった。もともと
そのせいだろうか。彼は、二十歳過ぎという年齢の若者にしては線が細かった。成人をして五年以上経つし、顔つきは立派に大人だが、いわゆる「大人の男たち」の間に混ざると、まだ少年であるかのように見えるかもしれない。
細い茶色の髪は屋内に差し込む陽射しに少しきらめき、大地の色をした瞳は見るともなしに窓から見える大通りに注がれている。
「おい、ラウセア!」
呼ばれて、彼ははっとした。見れば、四十前ほどのひとりの男が戸口から彼を睨むようにしている。
「何です?」
「いつまで書類整理をやってるんだ。巡回に出るぞ」
「もうそんな時間ですか?」
ラウセアと呼ばれた若者は、慌てて立ち上がる。ガン、無様な音がした。机の脚に自分の足を引っかけた彼は、その痛みに顔をしかめるより、振動で崩れた書類の山をやはり慌てて押さえた。
「何をやってるんだ」
男は呆れた声を出した。
「ただでさえ、お前は見た目が頼りないんだ。もう少し落ち着いて行動しろ。お前みたいな
「ちょっと慌てただけですよ」
ラウセアは全く中身のない言い訳をしながら、紙束をどうにか元の位置に直した。
「だいたい、トルーディが僕に仕事をみんな押しつけるから――」
「人には向き不向きがある。俺は文字を読むのなんか好かないが、お前は大好きだ。ちょうどいいだろう」
トルーディは平然とそう言った。
「いいから、行くぞ。早くついてこい」
そのままトルーディは踵を返し、ラウセアはまたしても慌てて――今度はどこにも足をぶつけないように気をつけながら――そのあとに続き、
町憲兵隊の仕事は、主には犯罪者の捕縛、そのための捜査だ。
だが、ただ起きた事件を追い、犯人を捕まえて罰するだけでは、根本的な解決にならない。
トルーディは理想論だと言うが、ラウセアは、犯罪のない街を作ることこそが町憲兵の仕事だと思っている。
もっとも、「怪しい奴」を片っ端から捕らえるという訳にもいかない。怪しいかどうかなんて主観に過ぎないのだし、無実の人々を
ラウセア・サリーズが王城都市アーレイドの町憲兵になったのは、わずか数月ほど前のことだ。
十五歳の成人を迎えてから、ラウセアはとある商家で働いていた。
しかし、ちょっとした事件があって、彼はその職を失う羽目になる。
そのときにラウセアを町憲兵隊に誘ったのが、二十歳年上のビウェル・トルーディだった。
町憲兵という職に就くだなんてそれまで考えたこともなかった彼だったが、一念発起、入隊を志願して試験にも通った。えんじ色の制服に初めて袖を通したときは、得も言われぬ感慨を覚えたものだ。
「本気で入隊するとは、思わなかった」
――というのが、実はトルーディがラウセアに連発する言葉である。
今日も、若者の相棒はそれを口にした。
「お前ほど町憲兵に向かない奴もいないのに」
ため息混じりに言われれば、ラウセアも嘆息してしまう。
「あなたが、僕を誘ったんじゃないですか」
「本気で志願する馬鹿がいるか」
ラウセアの入隊からひと月ほどで、トルーディとのそれは決まり切ったやり取りになっていた。
「町憲兵なんざ体力勝負。お前が実技試験を通ったのは、奇跡か何かの間違いだ」
「僕に言わせれば、トルーディ。あなたが筆記試験を通ったのは、奇跡か何かの間違いじゃないですかね」
いつものやり取りから一歩を進み、ラウセアは澄まし顔でそう言った。トルーディの日に灼けた角張った顔が、むっとした表情を形作る。
「何だと」
トルーディはどちらかというと「むさ苦しい」と言われる傾向の外見をしていて、職業上、身なりには気を使っている――不潔すぎないようにしている――が、独身男の常として、積極的に身ぎれいにしようという意志はない。加えて、長年の職務で培った鋭い視線、言い換えれば目つきの悪さは隠しようがなく、結果、彼は制服を着ていなければ、とてもではないが〈裁き手の使徒〉には見えない。
年下で経験不足のラウセアを何かとからかうくせに、自分がからかわれれば怒るようなところもあり、悪い人間ではないと思うが、あまりいい町憲兵とも言えないだろうな、というのがラウセアによるトルーディの評価であった。もっともトルーディにしてみれば、ラウセアは頭でっかちのガキで、最悪の町憲兵と言うことになるのだろう。
「怖い顔しないでください。僕はもう慣れたけれど、街の人が何事かと心配するじゃないですか」
「クソガキめ」
年嵩の町憲兵はひと通りの罵り文句を口にしたが、制服姿が口にするにはあまり外聞のよくない台詞だと判っているのか、隣を歩く若者に聞こえる程度の音量にとどめた。それだけの理性が利くのならば言わなければよいのにと、ラウセアは思う。
「今日は東区でしたね」
「
口は悪いものの、トルーディは熟練だ。新米のラウセアが彼と組んでいるのにはそういった基本的な理由もある。もっとも最大の理由は、トルーディが彼を誘ったという事実を知っている
確かにと言おうか、トルーディは指導役に向きそうもない。彼に教われるのは滅多にない機会かもしれないが、果たして有難いことと言えるのかどうか、このときのラウセアにはまだ判断がつかなかった。
巡回と言っても、ただ歩いていればいいというものではない。
制服姿がふたりして歩いていれば、それは確かに犯罪の抑止力になる。だがそれだけでは怠慢だ。
制服を見かけて慌てて踵を返すような「怪しい奴」がいないか常に目を光らせているべきだし、何か相談事があるけれど声をかけようかどうしようか躊躇っている人間を見逃すことなく、こちらから「何かありましたか」と声をかけることも考えなくてはならない。
それは町憲兵の心得であるが、実際にそう巧く行くとも限らなければ、いつでもそこまで心配りができる町憲兵もいないと言うのが実情だ。彼らだって人間なのである。疲労もするし、集中力も欠くし、苛ついているときもある。
しかし、そこで横柄な態度を取れば、町憲兵の評判は下がる一方だ。街びとたちにとって町憲兵というのは「何かのときに頼りになる」存在であるが、同時に「威張りくさって腹立たしい」という印象も強いのだ。
「よう、
声をかけてきたのは、トルーディの知人であるようだった。年上の町憲兵は片手を上げてそれに答え、何か変わったことはないかと尋ねた。
「そうだなあ、向こうの広場に」
と、男は更に東の方を指差した。
「昨日、
「流れ者どもか」
トルーディは舌打ちした。
「厄介ごとばかり、持ち込む」
「
抗議するようにラウセアは言った。
「問題があるようなら、それを未然に防ぐのが僕らの――」
「お前に言われるまでもない。行くぞ」
「行くって、どこにですか」
ラウセアが聞き返せば、トルーディは呆れた顔をした。
「その一座のところに決まってるだろう。実は、もう町憲兵隊に注進がきてるんだ。おかしなのがやってきたようだとな。ただの偏見に満ちた意見かもしれんが」
トルーディは顎をかいた。「流れ者」に対して偏見を抱いているとしか思えないトルーディがそのようなことを言うのは、ラウセアには少し納得いかないような気もした。
「町憲兵にびびるような様子を見せるようなら、きっちり見張ってなきゃならん」
そう告げると年嵩の町憲兵は広場に足を向ける。責任感はある人なんだよな、と思いながらラウセアは続いた。
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